2020年8月 6日 (木)

DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義はまちがっている

   最近のビジネス用語の流行キーワードはDX(digital transformation /デジタル・トランスフォーメーション)だろう。で、その流行に乗るというにはあまりに遅ればせだが、DXに関する記事を書こうと思いたった。「日本企業の雇用方針とDXとの不都合な関係」について書くことにして、「DXってなに?」という定義とか意味とかを調べていたら、ちょっと驚くミステリーに遭遇した。

  IT関連のキーワードについて記事を書くときには、まず、最初に、誰がいつその用語を造ったとか、その時どういった定義づけをしたのか・・・を書くことが常識となっている。そして、DXに関しては、日本では、どのレポートや記事を見ても、次のように記されている。

  • 多くのビジネス誌では、「スウェーデンのウメオ大学にいたエリック・ストルターマン教授が2004年に発表した論文「Information Technology and The Good Life(情報技術とよい生活)」で提唱したもので、DXを『すべての人々の暮らしをデジタル技術で変革していくこと』だと定義した」と書かれている。論文のタイトルが一緒に紹介されているので、「デジタル技術でよい生活がもたらされる」という意味合いが強調される。
  • 総務省発行の「平成30年度 情報通信白書」には、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」ことがデジタル・トランスフォーメーションの概念だと、エリック・ストルターマン教授が2004年に提唱した・・・と記されている。

   IT用語の定義とか誰が提唱したかなんて本質的にはどーでもい-ことだとはわかっていながらも、正確を期すために(といえば聞こえがよいが、筆者の私が疑り深い人間であるがために)、英語で検索してみた。つまり、英語圏の世界では、DXはどう理解されているかをチェックしてみたということだ。

  そうしたら、digital transformationの歴史とか定義に関するだけでなく、ほとんどすべての記事にストルターマン教授の名前は登場しない。唯一の例外は、digital transformationという単語と教授の名前を同時検索するときで、教授が2004年にIFIPの大会で発表した論文「Information Technology and the Good Life」が表示される(もう一つの例外は、日本の経済産業省や企業のレポートが英訳されたもので、そこには、教授が用語の提唱者として紹介されている)。

  うそぉ? なに、これ?

  ネットによるグローバル化で、昔と違って今は、日本と海外で情報内容に大きな違いがみられることはほとんどない。そういったなかで、ストルターマン教授がデジタル・トランスフォーメーションとの関連で海外でまったくといっていいほど無視されている事実は、日本の状況と比べると、その差が目立つ。

  ・・・ということで、IFIPの大会で発表された論文・・・といってもスピーチをまとめたものなので、5ページの短い小論文なので読んでみた。そして、海外で、教授とDT(理由はあとで説明するが、ここからは、DXという略語ではなくDTを使う)との関係が無視されている理由が理解できた。

  教授の小論文が発表された場は、 IFIPInternational Federation for Information Processing ) の英国での大会だ。IFIPという組織は、1960年にユネスコの援助を受けて創立された国際団体。同じ年に、日本の情報処理学会も、IFIPにおける日本としてのメンバー学会となるべく創立された。

  教授のスピーチは、大会に集まった情報システムの研究者たちに向けて、技術や、その技術によって人間の「生活世界」に今起こっている変化をより深く理解することに貢献するために、自分たちの研究はどうあるべきかを説く内容だった。

   情報技術は今やあらゆるモノに埋め込まれており、それらは(IoTと呼ばれるように)つながっている。世界は、情報技術とともに、情報技術を通して、そして情報技術によって経験される度合いがますます多くなっている(しいて言えば、これが、教授が考えるデジタルトランスフォーメーションの定義というか概念だろう。だが、DTをそう理解するのは教授が初めてというわけではないはずだ<注1>)。

  情報技術研究の目的は、人類のより良い生活、暮らし、人生に情報技術がどう貢献できるかを、探求し、実験し、分析し、調査し、説明し、考察することだ。 だから、( 情報システムの研究にはいろいろな観点があるとしながらも)、今日特に必要な観点は、従来のような科学的(ともすると、要素に分解して分析する傾向にある狭い)観点だけではなく、その技術が人間の「生活世界」にどういった影響を与えるかという全体的観点からも考えなくてはいけない・・・と教授は論じる。

  ここまでで、DTの最初の提唱者として教授を紹介することがお門違いだということは理解してもらえたと思う。まして、「DTが人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」などと、教授はまったく言っていない。そうではなくて、DTが人々の生活を悪い方向に変化させないように情報技術の研究者はチェックしていかなくてはいけないと、ある意味、警告し、そのために必要な研究方法について提案をしているのだ。

  海外で、digital transformationの提唱者ということで教授の名前をだしても、「?」って顔をされるだろう。

   グローバル化とネットで何でも調べることができる情報社会で、どうしてこんな誤解が生まれたのか? 誰もが疑いを持つことなく、先の記事とかレポートを鵜呑みにして引用するということが、なぜ、起こったのか? 

  データベース検索すれば、問題となっている論文を最初に紹介した記事とか論文を見つけることもできるだろう。でも、犯人さがしをするのは時間の無駄。

  最初に書いたように、IT用語の提唱者うんぬんは、本質的には重要情報ではないのだから。

  じゃあ、なぜ、この記事を書いたかといえば、2つのの理由がある。

  ストルターマン教授が本当に言いたかったことを紹介したかった。また、ITのことを(経営者としての観点からでいいから勉強してほしいのに)勉強しようともしない企業経営者が、DTってデジタル技術を使って消費者により良い生活を届けることなんだ。DTで生産性を上げて企業の業績を上げることなんだ・・と安易に納得してもらいたくないという理由だ。

  なぜなら、教授の論文にある、「Good Life/良い生活」という言葉には、豊かさとか便利さよりも、もっと深い意味合いがあるからだ。

  教授は情報技術が人類にグッド・ライフを提供しているかどうかをチェックするために二つの考え方を提案している。一つは、哲学者アルバート・ボーグマンが提唱した「デバイス・パラダイム」という考え方だ。

  ボーグマンはドイツ生れの米国人でテクノロジーの哲学(って、哲学の種類にはなんでもありなんだ!)を専門としている。デバイスとは装置とか機械のことだが、デバイス・パラダイムの考え方を、彼は、簡単な例を使って説明する。

  たとえば、セントラルヒーティングというデバイスは、面倒な手続きもなく簡単に、暖かさを家族に提供する。そして、家族は、薪を割って、暖炉にくべ、火の様子を見ながら新しい薪をくべたり、後で灰の掃除をするといった手間をかける必要はない。薪を割ったり灰の掃除をする当番を決める必要もない。だが、セントラルヒーティングという新しい技術が採用されることで、家族全員が暖炉のまわりに集まっておしゃべりしながら暖をとることもなくなり、一人一人が自分の個室に閉じこもるようになる。

  セントラルヒーティングというデバイスによって、家族間の相互作用は減り、互いを思いやったり助け合ったりする精神を育成してきた家族内の活動もなくなる。

  テクノロジーは、私たちが望むことを、努力とか経験によって得られる技能とか忍耐とかなしに便利に簡単に提供してくれる。その結果、私たちは、身体や知覚をフルに使って現実世界を体験するとはどういったことかまで忘れてしまう。

  コト消費とかモノ消費という言葉がよく使わる。小売業では、最近は、モノが売れないが、コトなら売れると言っている。それと似たような意味合いで、ボーグマンも、テクノロジーはデバイスをコト(thing)からモノ(commodity)にしてしまうと書いている。つまり、暖炉には家族のしきたり、思い出、エピソード、その他の歴史や物語が背景にある。だが、セントラルヒーティングはそういった物語とは無関係のたんなるモノだ。

  ストルターマン教授は、ボーグマンが提唱したデバイス・パラダイムでは、人間がグッドライフを実現するために必要なことがらや価値観が脅かされているとする。そして、DTが進むいまの社会には、このデバイス・パラダイムの例が顕著に見られるとする。

   教授が使う「good life」という言葉は、たんに豊な生活とか便利な生活を指しているのではないことは明らかだ。彼の小論文に何度も登場する「lifeworld/生活世界」はオーストリアの哲学者エトムント・フッサールが、1936年に発表した「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に登場する考え方。

  哲学のことはよくわからないので、コトバンクの解説を引用すると、フッサールの生活世界は「科学によって理念的に構成される以前に、我々が身体的実践を行いつつ直感的な仕方で日常的に存在している世界のこと」となっている。わかったようでわからない。が、ストルターマン教授がボーグマンやフッサールの考えを引用しているのは、社会のDT化について研究するとき、人間の身体性、知覚、直感、感性といったような観点を重要視していることは理解できる。

   考えてみれば、教授は情報システムデザインやインタラクションデザインを専門とする研究者だ。人間とインタラクション(相互作用)するデバイスやシステムのデザインというと、使い勝手が良いとか悪いとかいったインタフェースのデザインだけの狭い話になることが多い。が、論文の主旨は、情報技術研究は、テクノロジーが社会全体や人類の生活世界に与える影響について考えなくてはいけないということだ。

  たとえば、スマホ中毒になり社会生活が送れなくなる若者。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」でも書いたように一日中PCの前で仕事をして腰痛になるだけならまだしもバーンアウトして40歳で退職しようとする若者たち。これは、フッサールやボーグの考え方を引用する教授が考えているグッドライフではないはずだ。

   論文を最後まで読めば、教授をDTの定義とか概念を提唱した人と見るのは間違いだということがわかる。彼は、DTについて警鐘を鳴らした人なのだ。社会のDTが進むなか、人間の「生活世界」はどう変わるのか、真の意味でのグッドライフをもたらすようなDTでなくてはいけない。情報技術の研究者はそういった観点からもDTを考えていかなくてはいけないと教授はIFIPの大会で訴えたのだ。

   そして、いま・・・デジタル・トランスフォーメーションの略語をDTからDXとして、IT業界やコンサルティング業界は、関連システムやソフトウェア、そしてその利用方法について積極的に営業を展開している。経済産業省の「DXレポート」は、DXの定義としてIDC Japanの定義を紹介している。

  •  企業が外部エコシステム(顧客、市場)の破壊的な変化に対応しつつ、内部エコシステム(組織、文化、従業員)の変革を牽引しながら、第3のプラットフォーム(クラウド、モビリティ、ビッグデータ/アナリティクス、ソーシャル技術)を利用して、新しい製品やサービス、新しいビジネス・モデルを通して、ネットとリアルの両面での顧客エクスペリエンスの変革を図ることで価値を創出し、競争上の優位性を確立すること

  このように、DXとDTは元となる言葉(digital transformation)は同じでも、似て非なるものだ。上記のDXの定義は、IT業界が売ろうとしている情報システムに適した定義ではあるが、ストルターマン教授が提唱した概念とは別次元のもの・・・だと、私は思います。

<注1>:2017年発行の「情報センサー」の記事「デジタル・トランスフォーメーョンとは何か」の著者東大野恵美氏は、英語データベースで検索したところ、デジタル・トランスフォーメーションという言葉が使われた最も古い例は1990年で、CDプレーヤーの利便性を伝えるニューヨークタイムズの記事だった書いている。DTはビッグデータとかAIのような造語とか新語というわけでもなく、自然な熟語(漢字じゃなくても熟語といえるのか?!)なのだから、DTの提唱者とか定義とかを探ることに意味はないのでは?

 新刊「勤勉な国の悲しい生産性」の第五章には、テクノロジーと生活世界との関係についても書いています。

参考文献 1.Erik Stolterman and Anna Croon Fors, Information Technology and The Good Life, 2.東大野恵美 [デジタルトランスフォーメーションとは何か」情報センサーVol.124, 2017 3.「間違いだらけのDX 提唱者が語る原点」日経ビジネス3/10/2020,4.「DX レポート」経済産業省 平成30年9月7日

2020年6月27日 (土)

コロナ禍とエッセンシャルワーカーと肉体労働と賃金

 コロナウィルス関連で、よく使われるようになった言葉に「エッセンシャル・ワーカー(essential worker)」がある。日本語では「社会に必要不可欠な労働者」とか訳されているが、「人々が生きて暮らして行くためには欠くことができない職業に従事している人たち」という意味になる。

  たとえば、医療従事者を筆頭に、警察官や消防職員、電気や水道・ガスといったライフラインを担う人たち、食料品店で働く従業員、自宅まで必要なモノを運んでくれる物流サービス従事者・・・。こういった人たちは、自宅でテレワークで働くことができる人たちとは違い、感染するかもしれないリスクを冒して職場に出向き、仕事をやりとげなくてはいけない。場合によって、通常以上の長時間働くことも覚悟してなくてはいけない。

 日本の場合は、米国ニューヨークやイタリア、スペインのようなレベルの医療崩壊も起きなかった。死者数が少なかったということもあって、こういったエッセンシャルワーカーがパンデミックの中で働くことの危険性とか意義もあいまいなものになっている。だから、ありがたみを感じていない人も多い。それどころか、医療従事者の家族がイヤがらせを受けたり、観光業や外食産業といった休業せざるをえなくなった産業で解雇された従業員からは、「コロナのなかでも働けるだけマシ」とうらやましがられたりもする。

 だが、たとえば、米国では、4月初めに、米国国土安全保障省が、パンデミックのコントロールに必須とみられる職種を明らかにし、そのリストを発表している。そして、そのリストに基づき、トランプ大統領は、「国土安全保障省に指定された重要なインフラ産業で働いている人たちは、自分たちの通常業務を継続維持する特別な責任がある」と宣言している。つまり、ロックダウンで自宅から外出するのを禁止されている人たちとは異なり、あなたたちは、通常通り働き続けてくださいよと、ある意味、命令しているのだ。

 トランプ大統領を含め、多くの欧米諸国のトップは、コロナとの戦争という言葉をつかった。それでいけば、エッセシャルワーカーは、戦地で、しかも、前線に立って死を覚悟して戦ってくれと命令されているようなものだ

 だが、皮肉なことに、日本でも欧米でも、公務員や医療従事者以外の多くのエッセンシャルワーカーの平時のときの労働者としての地位は低い。低いという意味は、労働の価値が低く見られ、結果、低賃金だということだ。

 エッセンシャルワーカーに含まれている介護士や保育士の給与の低さは以前から問題になっているし、モノを自宅まで運んでくれる配達員や物流センターの従業員、それから、スーパーで働く店員にいたっては、最低賃金で働くバイトやパートも多い。

 低賃金で働く人が、緊急時になれば、命にかかわるかもしれないリスクの高い仕事をつづけることを求められる。たしかに、日本でも、企業が特別報奨金などを出してはいる。たとえば、ヤマト運輸は全従業員約22万人に一人当たり最大5万円の見舞金を5月に支給している。食料品スーパー「ライフ」も、「日々、厳しい条件で業務に取り組む人達へのお礼の意味を込めた」として、パートやアルバイトを含めた全従業員約4万人に総額約3億円の緊急特別感謝金を支給して話題になった。

 緊急時にはこういった特別手当をもらっても、エッセンシャルワーカーの多くは、平時に戻れば、感謝もされないし、賃金も低いままだ。それどころか、コロナのせいで不景気になったことを理由に解雇されたり、より一層の低賃金で我慢することをしいられるかもしれない。

 現代の経済学理論でいえば、商品やサービスの価格はユーザーが知覚する価値に基づく。そして、その価値は、その商品やサービスを使って得る満足感や快感(効用)が決めるといわれる。介護士、保育士、物流サービス従事者、スーパーの店員の価格、つまり賃金が安いのは、ユーザーである一般市民が知覚する価値が低いからだということなる。

 知覚する価値が低い理由はいくつかあげられる。たとえば・・・

 1番目の理由:誰でもできる仕事だとみなされている。スーパーの店員とか宅配便の配達は、やろうと思えば誰でもできるとみなされる。資格が必要な介護士や保育士ですらも、「忙しいから手伝ってはもらっているが、私だってやろうと思えばやれる」的な意識がある。介護士にいたっては、こういった職業に従事する人を見下す傾向すらある。私もヘルパーさんに助けられて自宅で介護をした経験があるが、多くのヘルパーが「お手伝いさん扱いする家族が多い」と嘆いていた。大阪健康福祉短大の川口教授は朝日新聞のインタビューで、「介護職に対して『簡単、単純、誰でもできる、学歴もいらないつまらない労働』という思い込みがあるように感じます。」と発言し、「介護職にリスペクトを」と訴えている。

 2番目の理由:賃金から労働価値を判断する。ユーザーである一般市民は、商品・サービスの価格を手がかりにその価値を判断するという逆方向の方法をとることが多い。だから、パートやアルバイトの仕事の価値を、その賃金から判断する。スーパーに行けば、求人募集の貼り紙に時給1000円と書かれている。それをみて、時給1000円の仕事をしている労働者だということで、店員の労働者としての価値を決める(そして、IT関連の仕事をしている人は高給をもらう。だから、IT関連の労働価値は高いと判断する)。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分け、肉体労働は単純で下等、頭脳労働は複雑で上等とみなすのは、世界的に共通する価値観であり、長い歴史がある。そして、エッセンシャルワーカーの多くは単純な肉体労働だとみなされる。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分けること自体、肉体労働をしている人は頭脳を使っていないとみなしていることになる。これは、肉体労働は奴隷にまかせ、ある程度のレベル以上の市民は高等な思索に時間をつかうという古代ギリシアの考え方と同じだ。20世紀初頭に、工場における労働作業の管理手法を考案したF.W.テイラーも同じように考えていた。

 彼は、「工場ではできるだけ多くのことを機械にまかせ、労働者には考えるということをしてもらいたくない」と繰り返し口にしたそうだ。テイラーの「科学的管理法」は、ベルトコンベア方式の動くアセンブリー工場に適した労働者を生み出すのに貢献し、自動車の大量生産を可能にした。

 日本では、米国型大量生産方式を基本とはしても、「工場労働者は頭脳を使わなくてもよい」という考え方は採用しなかった。結果、工場で働くブルーカラーと事務所でスーツを着て働くホワイトカラーとの身分格差は米国ほど明確にはならなかった。だが、ICT化が進む中、ITリタラシーの高い労働者は頭脳労働者で高報酬で上、そうでない労働者は肉体労働者で低報酬で下という価値観が定着してきた。

 しかし、今回のコロナウィルスによるパンデミックを経験するなか、そういった分け方になんとなく違和感を持つ人、疑問を持つ人が出てきたのではないかと思う。それは、パンデミックが、形のないもの(無形)を崇拝する風潮に「待った!」をかけ、形あるもの(有形)の存在意義にスポットライトをあてたからだろう。

 私たちが、PC等のIT機器を使って仕事をする労働者を高等だとみなすのは、実は、彼らがしている仕事が無形であり、その仕事の内容を見ることができないからだ。どういった仕事をしているのか、良い仕事をしているのかいないのか、そばで見ているだけでは判断できない。その点、形あるものを生み出す仕事をしている労働者の仕事は、判断しやすい。たとえば、技術がなければできない大工という仕事でも、結果としての仕上がりは、素人でも目にみえるからある程度判断でき意見も言える。介護士や保育士にしても同じことがいえる。

 人間は見ることができず、よって具体的に理解できないものを複雑で高等なものだと判断しやすい。

 だが、パンデミックによって、デジタルは複雑で高等、アナログは単純で下等という価値観が微妙に変わった。マスク、防護服、食料など、自分たちが生きていくために必要なものは形あるものばかりだ。たしかに、自粛でネットフリックスの会員やニンテンドーのゲーム「あつまれ どうぶつの森」の人気は世界的に増大した。だが、生存率を高めるためのエッセンシャル度からいったら、つまり、どちらかを選択しろといわれたら、ほとんどの人間が生きていくためにマスクや食料を選ぶだろう(ついでに言えば、「あつもり」ゲームをするためにはスイッチという有形のハードウエアが必要だ)。

 実際には、当たり前の話だが、肉体労働にも頭脳労働が必要だ。機転のきく店員のほうが客から好感度をもたれるし、いまの配達員はIT機器をこなさなかったら効率よい働き方はできない。頭脳労働を精神労働ともいうが、介護士は歩行の困難な高齢者のトイレの世話をする肉体にもきつい仕事を求められる。そのうえ、要介護者の心(精神)をポジティブな状態に維持するために自分の感情をコントロールしなければいけない。介護士のような仕事は「感情労働」とも呼ばれる。

 介護士、看護師や店員のように患者や客と接する感情的ストレスの多い職種は、エッセンシャルワーカーに多く含まれる。

 このように、肉体労働に分類される職種の多くは、感情を含めた頭脳を必要とする。だが、反対に、肉体を必要としない頭脳労働というものは存在する。

 そう思ったのは、ハーバード大学のCenter of Ethicsが4月に発表した報告書「パンデミックに強い社会をつくるロードマップ」を読んだときだ。経済と健康との兼ね合いを考慮しながら8月までに米国がある程度の通常状態に戻るための道筋を明らかにしたもので、大規模なPCRテストとエッセンシャル度による労働者の分類が基本となっている。

 5月~6月には一日500万件という大規模のPCRテストをして、これを7月末までには2000万件に増やす。最初はまず、医療、電気・水道といったライフライン、警察消防、物流サービス、食品店販売員、電気・水道といったエッセンシャル度が一番高い「全労働者の40%に当たる人たち」にテストを実施する。テストをして陰性の人たちだけを職場に戻す。陽性者は隔離し、陰性になった時点で職場に戻す。これを繰り返すことによって、エッセンシャル度が一番高い40%の労働者が働く環境を安全なものとする。

 次いで、7月からは、エッセンシャル度が次に高いと思される職業に従事する「全労働者の30%の人たち」に同じことをする。そして、7月後半には、エッセンシャルではないが、自宅でビジネスを展開することができない美容院やレストランといった接客業にたずさわる「全労働者の10%に当たる人たち」にテストを実施し、労働者にも客にも安全な労働環境をつくる。

 そして、8月には、「全労働者の最後の20%に当たる人たち」、自宅でテレワークをする労働者にテストを実施して、職場に戻す。

 こうすれば、秋までは、アメリカはパンデミックに勝利をおさめ、かつ、経済的ダメージも最小限に抑えることができるというわけだ(今の状況をみれば、米政府がこの提言を完全無視していることは明らかだが・・・)。

 在宅勤務がつづいても仕事に支障が出ない「全労働者の20%にあたる人」は、100%の頭脳労働者だといえる(もちろん、IT機器を使うのに腕とか手は使うが、声で操作する方法もあるし・・・、一応、身体は必要ないとしておこう)。

 肉体労働者の多くは機械に代替されると巷では言われているが、実は、機械に代替されやすいのは、この、100%頭脳だけの頭脳労働者のほうだ。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」に詳しく書いたが、最近は、今のアルゴリズム中心のAIの限界が指摘されるようになってきている。アルゴリズム中心のAIとそれを基本として制作されるロボットが、人間の肉体労働(感情労働を含めて)に代わることは、実際には予想以上にむずかしいことが明らかになってきたからだ。だが、頭脳労働者とAIは符号化された情報を使って仕事をしているということでは、基礎(ベース)が同じなので、互換しやすい。

 コロナ後もテレワークを継続して採用し続けると発表する日本企業が増えてきている。従業員のなかには、それを歓迎する人もいれば、やっぱり職場で同僚たちといっしょにワイワイガヤガヤ言いながら仕事する環境に戻りたいと考える人もいる。それは、職種にもよるし、通勤時間がどれだけかにもよるし、家庭の事情もあるだろうし、本人の性格にもよるだろう。ただ、企業側からみれば、週一回会議に出席すれば後は自宅でテレワークでやっていける仕事であれば、正社員である必要はない。契約社員、あるいはその他の雇用形態でよい。

 コロナ禍は、企業にすれば、組織を見直すチャンスでもある。今後もつづく、いつ想定外の出来事が起こるかもしれない時代においては、組織は必要最低限の社員からなる無駄のない融通性の高い「(嫌いなカタカナ用語をあえて使えば)リーンでアジャイル」なものでなくてはいけない。

 社員の中には、そういった考え方は、悪いことではないと考える人もいることだろう。テレワークが可能にしてくれる時間から解放された働き方を好む社員であれば、契約社員になって、余裕があれば他の会社の仕事を引き受けてもいい。コロナ禍は社員の側も今後の生き方や働き方を考える契機になる。

 つまり、テレワークで自宅で仕事を続けていいと言われた社員は、それなりの将来の覚悟をもって、そういった働き方を選択すべきだし、会社としても、テレワーク社員を増やすと考えているのなら、会社組織の構造改革の一環として実行すべきだろう。

 テレワークを実際にやってみたら効率が落ちたと答えた従業員が66%いたという日本生産性本部の調査結果が出ている。もっとも、一番大きな課題が「職場に行かないと資料が見られない(49%)」、次いで、「通信環境の整備(45%)」「机など働く環境の整備(44%)」となっているので、まだ、テレワークをする環境やシステムが整っていないということだ。

 だが、ここで問題なのは、従業員や企業が、どういったタイプの生産性を求めているかを最初に明らかにしておく・・・ということだ。

 会社という組織で社員同士がコミュニケーションすることによって生まれる創造性を大切だと考えるグーグルとかアップルとかは、自宅勤務を奨励はしていない。グーグル創業者のエリック・シュミットは、コロナ後はオフィスが必要なくなるのではなく、反対に、ソーシャルディスタンスを守るために、一人当たりのスペースをより広くしたオフィスを作る必要があると発言している(ただし、通勤時間が長い社員のためにサテライトオフィスを設ける必要があるとも言っている)。

 ここからは、ちょっとおまけの余談です・・・

 「在宅勤務をずっと続けていいよ」といわれるのは、哲学的(?)に考えると、「あなたの身体はいらない、頭脳だけでよい」と言われているみたいで、ちょっと複雑な心境にならないだろうか? シュミットの場合は、頭脳は創造性を生むが、そのためにいくつかの頭脳が集まって議論したりしなくてはいけない、そのために身体が集合しなくてはいけないと考えていることになる(新著に書いたようにAIの身体性の問題がからんでくる)。

 最後に、おまけにもならない余談です。

 身体はいらない頭脳だけでよいということで思い出すのは、イギリスのSF作家H.G. ウェルズの小説「宇宙戦争」(1898)で描かれた火星人の姿だ。頭が大きく手足の細いタコのような火星人は、1982年に映画「E.T.」が大ヒットするまでは、典型的なエイリアンの姿形として漫画やイラストにつかわれた。

 タコに似た火星人は、IT機器を仕事相手とする頭脳労働者には理想的な姿形ではないだろうか? 手が8本あればキーボードやマウスを使うのに便利だし、IT機器の前で一日15時間座って働いても、肩もこらないし腰痛からも解放されそうだ。ついでにいえば、E.T.やウェルのズ火星人の目が異様に大きいのも、LEDスクリーンを凝視して目を酷使した結果ではないだろうか?

 タコは全身が頭脳だそうだ。タコの5億個の神経細胞(ニューロン)のうち3億5000万個以上が8本の触手にあり、8本の足が独自に意思決定できる「分散型」の神経系を有している。雑誌Newsweekによると、米国ワシントン大学の行動脳科学の研究者はタコが有する分散型の神経系を「知能の代替的モデル」と称し「地球さらには宇宙における認知の多様性についての理解をすすめるものだ」と考えている。「タコは地球上で我々が出会うことのできる<エイリアン>なのかもしれない」そうだ。

 19世紀に「タイムマシン」や「透明人間」といった作品も書いたH.G.ウェルズは、さすが、SF作家。遠い人類の未来を透視して、ICT化が進む中で効率性を求めれば、人類はタコのように進化(?)していくと考えたのかもしれない。

 

参考文献 1.Department of Homeland Security: List of Essential Industries, 2 Transcript: Eric Schmidt on "Face the Nation" 、CBS News 5/10/20. 3 「介護職にリスペトを」朝日新聞6/3/20 4.「在宅、生産性向上探る」日経新聞6/21/20, 5.Roadmap to Pandemic Resilience, Center For Ethics At Harvard University 4/4/20,6.「タコは地球上で会えるエイリアン」Newsweek7/1/19

2020年6月 4日 (木)

新刊「勤勉な国の悲しい生産性」、出版しました

 

  

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 タイトルから、「また、生産性の話? もうあきたよ」と思われるかもしれませんが、第一章で「生産性向上は時代錯誤」と主張して、それで、生産性の話は基本的に終わりです。じゃあ、なぜ、生産性なんて言葉をタイトルに使ったかといえば、(良いタイトルが思い浮かばなかったということもありますが)日本経済の問題や日本企業の問題は低い生産性にある・・・とする考え方を否定したかったからです。今の日本企業は、生産性向上!の名のもとに、従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくと言っていいほどしていません。

 本書を書き終わって印刷が始まる少し前にコロナウィルスが世界を席巻するようになりました。そして、私たちは、人間を含めて形あるもの(物質的存在)の(デジタルと比較しての)意義とか価値にあらためて気づかされました。一般メディアではコロナの影響でデジタル化が一気に進むと主張しています。確かに、デジタル化は急速に進むし、進まなければいけませんが、それは、あくまで物質的存在を助けるというか補完する形でなければ期待するような結果はもたらさないはずです。本書では、身体性をもったAIとか、日本人の労働者としての特徴を歴史的かつ人類学的観点から明らかにし、日本のものづくりのグローバル市場での差別化についても書いています

 下に、本書の「はじめに」と「目次」を掲載いたしました。ご一読いただき、もし、興味をもっていただけましたら、手に取って読んでいただければ嬉しいかぎりです。

「勤勉な国の悲しい生産性」注文サイトへ

はじめに

 2019年は、いまのアルゴリズム中心のAIへの過信が挫折を味わった年です。早ければ2020年には、自動車の完全自動運転が実現するとしていた企業家や研究者の予測が修正されました。修正といっても、2020年が 30 年に延びるといったような問題では ありません。完全自動運転がどのくらい先に実現するのか予測すらできないと、研究者たちは素直に認めました。アルゴリズム中心のAI研究だけでは、人間の知能を超えることはできないということが明白になったのです。

 同じような理由で(つまり、いまのAIの限界が明らかになったことで)、機械(AIやロボット)が人間にとって代わる代替率は大幅に下方修正されました。日本では、 20 年以内に労働人口の 49 %がAIやロボットに代替されると予測され、センセーションを巻き 起こしましたが、いまでは、その数字が正しいと思っている研究者はほとんどいません。2016年にOECDが発表した7%のほうが正しいとみなされています。

 スポーツ用品メーカーのアディダスが、2016年に建設したドイツのスマートファクトリーは 19 年に閉鎖され、靴の製造は中国とベトナムに戻されました。米国のテスラのロ ボットによる100%自動工場もうまく稼働せず、イーロン・マスクCEOは「人間というものを過小評価していた」と自分の誤りを認めました

  つまり、企業は、これからも、機械ではなく人間である従業員に頼らざるをえないことが明らかになったのです。

 そういった状況において、いまの日本企業は従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくといっていいほどしていません。その結果が、日本の従業員の会社へのエンゲージメント率は世界平均の半分しかない。異常に低いレベルです。なのに、「日本人は自己肯定感が低いからそうなるんだ」などと都合よく解釈し、対策を考えない経営者が多すぎます。

 バブル崩壊後の 20 ~ 30 年、ICT化を進めることなく、非正規の安い労働力と正規社員 の長時間労働で乗り切ろうとした経営者は、従業員を「機械」代わりに使ってきたと批判されても仕方がない。働き方改革の目標を「生産性向上」としているのは、「人間」を「機械」とみているからでしょう。働き方改革に不満をもつ従業員が多いのも当然です。

 組織には「2:6:2の法則」がみられ、優秀な社員が 20 %、普通の社員が 60 %、働か ない無気力な社員 20 %といわれます。欧米では、 20 %の優秀な社員を世界中から集め、こ こに集中的に投資する傾向が強い。だが、日本の特徴は、 60 %の「普通の社員」の教養や 勤勉さ、そしてたぶん倫理観のレベルも、他国の「普通の社員」より高いことにあります。

 人間は「感情」で動きます。感情が喚起されれば倍の力だって発揮することができます。

 働き方改革において重要なことは、この 60 %の「普通の社員」の感情を喚起すること、会 社の理念や目標に「感動」し、「共感」を抱いてもらうことです。そのためには、まず、従業員の行動心理を分析しなくてはいけません。

 本書では、歴史を振り返り、日本の労働者の時間に対する意識、組織に対する意識、人間関係に対する意識、仕事に対する意識を、広範囲にわたる調査、研究、文献の助けを借りて考えてみました。そこに浮かびあがってきた日本人の働き方には、いくつかの特徴があります。たとえば、マクロよりミクロに先に注意がいってしまうとか、結果よりも過程を大事にするとか……。「日本人はおおよそのところでよい仕事でも、完璧に仕上げようとする」と生産性が低いことに関連して批判されます。でも、欠点は裏を返せば長所にもなる。そういった働き手の特徴を生かすことで、グローバル市場における差別化に成功することもできます。

 また、従業員がなぜそういった行動をとるのか、その心理を説明してくれる歴史的要因を知れば、従業員が満足してくれる働き方改革を考えることができます。日本人は神代の時代から「調和」と「均衡」を好む傾向がみられると、世界の神話を分析した心理学者は解説します。対立や混沌さ(カオス)を嫌う性向がイノベーションの妨げとなっているかもしれません。そう考えれば、イノベーションを生みやすい工夫や仕組みをつくることもできます。

 本書で展開される経営者批判はときに辛辣になりすぎているかもしれません。でも、評論家的観点からではなく、従業員目線で書いたつもりです。従業員は経営陣のことをよくみています。そして、彼らの批判は当たっていることが多いのです。経営陣は、従業員との一方通行ではなく双方向のコミュニケーションにもっと時間をさくべきです。

 第5章では、アルゴリズム中心のAIだけでなく身体性をもったAIの研究が進まなければ、機械は人間には近づくことができないことを説明します。それに関連して、身体を使う労働の重要性や、日本人の性向にあった「ものづくり」手法は、グローバル市場での差別化の中核になりうることも書きました。

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、グローバルのサプライチェーンの弱さが露呈しました。ものがなくては、人間は生きていけません。マスクから電子部品まで、ある程度国内で生産量を確保しなくてはいけないものがあることを実感できました。「ものづくり」の伝統は、そして熟練した技は、市場での差別化に貢献する貴重な日本の財産だと再確認させられました。

 新型コロナウイルスがパンデミックと認定されたのは、本書の印刷が始まる直前でした。第二次世界大戦後最大の不景気に突入するということで、すでに非正規社員を中心とする従業員の解雇が始まっています。しかし、ウイルス騒ぎの前でも後でも、日本社会の人手不足は変わりません。想定外の出来事が起こりやすい 21 世紀の不安定な社会において、景 気がよくなるのをじっと待って、その間は給料も上げず人も削減するという、戦略とは呼べない戦略をこれからもつづけるつもりなのでしょうか?

 青臭いといわれるかもしれませんが、私は、人間はその気になれば倍の力を出すことができると信じています。同じ夢やヴィジョンを共有する仲間といっしょなら、1・5倍も2倍も大きな力を発揮することができます。

 いま、働く日本人は自信を失っています。デジタル一辺倒の世の中で、人間が本来もっている力を信じることができなくなっています。マスクCEOの言葉を借りれば、経営陣も従業員も「人間というものを過小評価」しています。

 拙著を読んでくださったみなさまが、「感動」や「共感」の助けを借りて、パンデミック後のグローバル市場での試練を乗り越えられることを切に願っております。

      

 目次

第1章「生産性向上!」は時代錯誤

  • うんざりする「生産性向上!」のスローガン
  • 経営陣への不信感が強い従業員
  • 賃上げと値上げの決断を避けてきた経営者
  • 労働者よりも消費者であることを選んだ日本人
  • 消費者が受け入れたヤマトの値上げ
  • 労働者の心理を考えない日本企業
  • ハイデイ日高の1万円ベースアップ
  • GDPは 20 世紀の遺物
  • デジタル経済を把握できないGDP
  • 新しいGDPをつくる
  • 「デジタル」は「電気」ほど生産性に貢献していない
  • 「生産性」は主観的なもの
  • 経済学で生産性を考えるのはもうやめる

COLUMN  ヤマト創業者と労働組合  

 第2章 「時短」ではなく、「時間」からの解放感

  • 資本主義の歴史は時計の歴史
  • 江戸時代の日本人は怠け者だった!
  • 時計が時間意識を変えた
  • 時計が産業革命を準備した
  • 時計をもつ者が労働を支配する
  • 時計が神様になった
  • 時計の歴史は生産性の歴史
  • 時間からの解放が幸せ感を呼ぶ
  • 自己決定が幸福感をもたらす
  • 味の素が7時間労働を中止した理由
  • イノベーションはカオスから生まれるというのは本当か?

COLUMN  働き方改革あれこれ  

 第3章「調和」と「不公平感」がつくる会社組織

  • 日本人は「集団主義」ではない
  • 自己利益を追求するための同調
  • 神代の時代から空気を読んでいた日本人
  • 対立を避ける日本ではイノベーションは生まれにくい
  • 和をもって貴しとなす
  • 「憲法十七条」は現代のガバナンス・コード
  • 現代の若者にもみられる調和精神
  • 日本一社員が幸せな会社のアイデア創造術
  • 公平をもたらさない昇進制度
  • 日本では金持ちが嫌われる
  • ねたみがあるから格差感の低い日本
  • ねたみを気にしていたらイノベーションは生まれない

COLUMN  従業員のエンゲージメント率が低いのは「飽きるから」  

 第4章 日本人は「勤勉DNA」をもっているのか?

  • 欧米人は労働を苦役と考えるというのは本当か?
  • 日本人は労働を楽しむDNAをもっているのか?
  • 稼いだ金を消費しなければ資本はつくれる
  • プロテスタントと浄土真宗
  • 近江商人のコーポレート・ガバナンス「三方よし」
  • 世間の目を気にする(関係性を重視する)
  • 勤勉革命と産業革命の違い
  • 資本節約・労働集約型の「はやぶさ」プロジェクト
  • 「はたらく」は誰かのために働くこと
  • 米国の倫理なき資本主義
  • 宗教の代わりに税金でレシプロシティを実現する

COLUMN 「楽しく働く」前澤社長と「週100時間労働」のテスラCEO  

 第5章 AIが人間から奪う仕事は( 49 %ではなくて)わずか7%

  • 身体をもたない古きよき時代のAI
  • 古典的AIと身体性AIの違い
  • 脳無しロボットでも歩くことはできる
  • 頭脳労働は死亡リスク 40 %増
  • フィンランドの動く学校( School on the move )
  • 早期引退したがる若者たち
  • AIに代替される職業はわずか7%
  • 「ものづくり」を勧める五つの理由
  • 日本人は手先が器用というのは本当か?
  • 人間の手を模倣するロボットハンドをつくるのはむずかしい
  • 大学卒の大工が働く会社
  • マクロではなくミクロの視点から見る傾向
  • アディダスのスマートファクトリーからの撤退
  • 日本のデジタルものづくり

 最終章 経営者の仕事は社員に夢を見させること!

❶ 従業員第一主義

❷就業スタイルのパーソナライゼーション

❸ 会社の存在意義

❹自立し、自律しなければならない従業員

❺ 経営決断と功利主義

 

2020年4月30日 (木)

パンデミック後の世界で、人間の力が再認識される

 コロナウィルスが収束したわけでもないのに、パンデミック後の世界について語る人たちが増えている。死者数が、イタリアを抜いて世界一になっている米国において、Build Back Betterという言葉がスローガンのように使われ始めているようだ。

 「より良いものをつくりなおそう」。大切な人の命や、仕事、収入など、多くの人たちが多くのものを失った。でも、私たちが再建するのは元のままの社会ではない。パンデミック以前より、より良い社会、より優れた組織や制度をつくろう!という意味だ。

 現生人類の数十万年の歴史のなかで、私たちの祖先は、ホモサピエンスという動物種が絶滅するかもしれないほどの苦境に幾度となく直面してきたはずだ。窮地を耐え忍んで乗り越えてこられたのは、人類が未来を想像する能力を持っていたからだ。「いまは苦しくても、この苦しみを乗り越えれば、明るい未来がきっと開ける」と信じ、それを実現するために、自分たちは何をすべきかを具体的に想像する能力。そういった力を他の霊長類は獲得していない。

 希望は、人類が生存していくための糧であり、その希望を具体的に描くことができる想像力は、人類が存続していくため欠くことができない能力だ。

 ウィルス収束がまだ具体的に見えてこないときに、すでに、その後のことを考え、そのために自分たちは何をすべきかをかを語る・・・・人類の生存本能が活動していることの証だろう。

 ・・・ということで、私も、「より良い社会をつくりなおそう!」に関連して、再建する社会というか、再構築する組織(例えば会社)においては、人間の力が再認識されるべきだし、きっと再認識されるだろうという話を語らせていただきます!

 パンデミックを契機にテレワークやキャッシュレス決済が一気に進むとか、ネットフリックスの会員数が世界中で1600万人増えたとか、小売りで伸びているのはアマゾンのようなネット通販だけとか・・・デジタルの強さがきわだつ。パンデミック後は、社会のデジタル化がより急速に進むと語る人も多い。

 だが、その一方で、物理的な形をもったモノが欠乏することの深刻さに気づかされたことも事実だ。マスクから電子部品まで、無いと本当に困ることが実感できた。また、医療機器が足りないのも困る。そして、高度な医療機器が十分あっても、医師や看護師がいなかったら役に立たない。

 「近い将来、ロボットが高度な医療機器を使えるようになるから人間がいなくても困らない」とあなたが考えているとしたら、あなたはテクノロジーの力を過信しすぎている。

 振り返ってみれば、2019年は、いまのアルゴリズム中心のAIへの過信が挫折を味わった年だ。早ければ2020年には完全自動運転が実現するとしていた企業家や研究者の予測が修正された。修正といっても、2020年が30年に延びるといったような問題ではない。完全自動運転がどのくらい先に実現するか予測すらできないと、研究者たちがあっさり認めたのが2019年という年だ。

 トヨタの自動運転開発チームを率いるギル・プラット氏は、AIが完全自動運転するためには「認識」「予測」「判断」の3つの認知プロセスを実行しなくてはいけないが、「人の脳と同様にAIに予測させることはそれほど簡単ではないことが、最近、分かってきた」と2019年末に日経新聞のインタビューに答えている。

 事故は、他のクルマの運転手、歩道を歩いている人間、二輪車に乗っている人間などが予想外の行動に出たときに起こる。各種のセンサーや高解像度カメラを装備することで、道路上の対象物を見つけ、それが何であるかをAIで識別することはできる。だが、その対象物が次に何をするかを予測するプログラムを作成することは、現在のアルゴリズム中心のAIではむずかしいことがわかってきたのだ。

 人間は「ああなったらこうなる」という行動のイメージを頭に浮かべることができる。たとえば、前を走っているクルマの運転の仕方で、「駐車するスペースを探しているんだ」と直感し、車間距離を置かずに後をついていくのは止めようと判断する。

 こういったメンタルモデルを構築する人間の能力は、現在の機械学習型AIがデータを「学習」して獲得できるものかどうかに疑問が出てきたようだ。

 自動運転のレベルには5段階あるが、機械への代替率が100%になるためにはレベル4にならなくてはいけない。レベル3では、緊急時にドライバーが操作する手はずになっているので人間は運転席に座っていなくてはいけない。レベル4はドライバーがいなくてもよい。その代わり、自動運転できるのは特定の場所や特定の気象条件に限られる。

 つまり、レベル5にならなければ、機械は人間に代わることはできない。完全自動運転はまだSFの世界なのだ。

 AIの挫折は製造業にもみられた。

 スポーツ用品メーカー「アディダス」が、靴製造のために2016年に建設したドイツのスマートファクトリーが19年に閉鎖された。アメリカに建設したスマートファクトリーとともに年間100万足の靴を作っていたが、二つの工場は閉鎖され、靴の製造は中国とベトナムに戻された。アディダスは「経済性と融通性のため」とコメントしている以外は多くを語っていない。4D技術とロボットを利用した自動工場よりも、人間中心の工場のほうが融通性においてもコストにおいても優れているということらしい。

 米国のテスラは2016年に値段の安い普及車「モデル3」を発表。予約が殺到したのはよいが生産がまにあわない。1000台以上のロボットによる最新製造システムを採用した工場が、実際に動かしてみたら、うまく稼働しないことがわかったからだ。ロボットより人間による作業のほうが効率良い箇所がいくつか出てきた。2018年、窮余の策として、工場の駐車場に、アメフト競技場二つがすっぽり入るくらいの大きなテントを張り、そのなかにマニュアル作業用のアセンブリーラインを設置。数百人の従業員を急きょ雇い、手作業で車を完成させることになった。

 イーロン・マスクCEOは「人間というものを過小評価していた」と自分の誤りを認めている。

 アディダスもテスラも、そして、自動運転車の完成が近いと予測していた企業や研究者たちも、機械(AIとロボット)への過信、機械の方が人間より優れているという思い込みが強かったといえる。

  2015年、野村総合研究所がオックスフォード大学研究者(マイケル・オズボーンとカール・フレイ)との共同研究で、国内601種類の職業について、AIやロボットに代替される確率を試算した。そして、今後10~20年以内に、日本の労働人口の約49%がAIやロボットで代替されるであろうと発表した。2013年には、同じオックスフォード大学の研究者たちは、米国においては、労働人口の47%が機械に代替されるリスクは70%以上と発表している。 

 労働者の半分が機械に代替されるというショッキングなニュースは米国でも日本でも話題となった。だが、その後、この研究のいくつかの欠点が他の研究者から指摘され、いまでは、2016年に発表されたOECDの9%という数字が妥当であるとされる。もう少し具体的に説明すると、2016年に発表されたOECDの研究では、加盟各国の機械代替リスクでは、代替リスク70-100%の労働者の割合は、米国9%、ドイツ6%、日本で7%となっており、OECD加盟国平均で9%となっている。

 OECDの研究者は、オズボーンとフレイの米国での研究結果における問題点を3つ指摘したが、その中でも一番の問題は、職業をタスクに分解して、タスクごとに機械化されるか否かを分析しなかったことにあるとした。つまり、職業はいくつかのタスクから構成されており、その中には機械化しやすいタスクと機械化しにくいタスクが混在しているはずだ。

 たとえば、日本の例では、「AIやロボット等に代替される可能性が高い100種の職業」のなかにスーパーの店員というのがある。たしかに店員がしなければいけない多くのタスクのうち、在庫チェックや補充注文するタスク、レジのタスクとかは自動化できる。が、売り場に店員がいて対面販売することで売上が上がるという理由で、人間を使い続ける店舗は多い。アディダスのスマートファクトリーにおいても、人間が作業をしたほうが効率の良いタスクがあったのだろう。

 OECDが指摘した二番目の問題点は、フレイ&オズボーンの研究にはテクノロジーの進歩への確信が強すぎることだ。たしかに、現在の機械学習とかロボット工学の進展は過去に例をみないほど大きなもので、定型的な仕事が代替されることは確実だろう。だが、フレイ&オズボーンは、現在の技術革新がすぐに実用化に結びつくという仮定のもとに計算をした。たとえば、自動運転技術が実験室レベルで開発されていれば、世界中のすべての運転手が100%機械に代替される可能性があると仮定して計算したということだ。だが、前述したように、自動運転の可能性は、2019年には大きく後退した。クルマの完全な自動運転は非常に難しいことがわかってきて、10年20年では実現できないということは最近の大多数の関係者の見解となっており、企業の多くはこうした現実に沿ってすでに戦略を見直している。

 当然のことながら、「代替されやすい100種の職業」リストに入っていたタクシー運転手、路線バス運転者、宅急便配達員なども、リストから除外されることになる。

 三番目の問題点として指摘されたのは、各職業が機械に代替されやすいかどうかを決めるプロセスにある。米国労働省の職業分類の702の職業のうち、わずか70の職業だけを選び、それらが自動化できる可能性があるかないかをオックスフォード大学工学科学部に分類してもらった。可能性の有無を分ける要素(変数)でモデル化し、そのモデルを残りの632種に当てはめ確率計算するといういう手法をとった。このやり方が少しずさんすぎるというわけだ。

 「テクノロジーが最も高度で優れた解決策であり、人間ベースの解決策よりも優れている」という思い込みが、クルマの自動運転を目指したAI研究者にはあった。同じ傾向がフレイ&オズボーンの研究にもあるということだ。

 いまのAIの実用化はメディアやコンサルティング会社があおった期待ほどには進まない。企業は人間である従業員に今後も頼っていかなくてはいけない。だが、多くの日本企業は、バブル崩壊後の失われた数十年間をみても、従業員を大切な企業資産と考えてはいないように見受けられる。

 もともと、日本企業のICT化が遅れた原因の一つは、従業員を機械代わりにつかってきたからだ。低コストの非正規社員に頼り、また、正規社員にもルーティンワークをさせた(だから、長時間労働が常習化した)。そのうえ、人手不足が深刻になったこの数年間を除いて、1997年からの20年間、日本の賃金は9%減少している。先進国で唯一のマイナス国だ。

 安いコストで人間を長時間労働させることができたから、ICTを進める必要性がなかった。その結果が、日本企業の従業員のエンゲージメント率は、どの調査をみても、先進国で最低で、世界平均の半分に満たない。

 エンゲージメントとは、自分の会社の目標に強く共感し、その目標を達成するために自分も最善を尽くそうという気持ちだ。そういった気持ちがない従業員と、パンデミック後の世界を乗り越えていくことができると思っているのだろうか?

 パンデミック後にICT化をより一層進めることは当然のことだが、それは、人間を機械に代替させるためではなく、人間がより高い志を持って働けるようにするためだ。

 人間は感情で動く。共感や感動があれば倍の力を発揮する。変事は、志を同じくする、つまり、ビジョンや夢を共有する仲間がいて初めて乗り越えられる。

 たとえば、パンデミック後にテレワークが一気に進むという話がある。だが、前の記事で書いたように、アメリカではこの数年、テレワークの意義の見直しがされている。社員の共感を得たり、イノベーションの創造を促すためには、社員同士の対面コミュニケーションを維持しなくてはいけないとわかったからだ。機械ではなく人間だけがもつ能力を生かすためには、共通の目的をもち、それを一緒に目指すチームワークが必要だということに気がついたのだ。

 パンデミック後の会社という組織をより良いものに再構築しようというのであれば、まず、人間の力を再認識することから始めるべきではないだろうか。

 花王は社内では「人材」ではなく「人財」という言葉を使うように変えた。「材」だと社員を費用のかかるコストだとみなす印象がある。人は会社にとっての財産だから「財」にしたそうだ。

 

  

参考文献 1.Melanie Arntz,et al., The Risk of Automation for Jobs in OECD Countries: A Comparative Analysis, OECD Social, Employment and Migration Working Papers No.189, 2. 「日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」野村総合研究所 news release, 12/2/2015, 3.全自動運転 業界全体で計画遅れ」日経新聞1/11/20, 4. Neal E. Boudette, Despite High Hopes, Self-Driving Cars are Way in the Future, The New York Times, 7/19/19, 5. Christopher Mims, Self-Driving Cars Have a Problem: Safer Human -Driven Ones, The Wall Street Journal 6/18/19. 6. Addidas shift German, US smart factories to Asia, Techxphone. Com 11/11/19, 7.Steve Crowe, Addidas closing autmated speed factories in Germany, the U.S. , The Robo Report 11/13/19, 8.「良い日用品 人財のわくわく感で 沢田道隆氏」読売新聞 8/6/19

2020年3月25日 (水)

コロナウィルスを契機にテレワークは一気に伸びるのか?

 コロナウィルス対策の一つとして、テレワークを採用する企業が増えた。これがきっかけになってテレワークが日本でも一気に広がるかもしれないと期待されている。働き方改革において、長時間労働を是正する対策として、あるいは、育児や介護をしながらも働ける環境をつくる方法としても、テレワークに期待する声は高い。

 が、テレワークを企業が導入する場合には、考えなければいけない大きな問題もあるようだ。テレワークを率先して導入した米国企業の経験を紹介してみます。

 総務省「平成29年通信利用動向調査」によると、自宅でテレワークする制度を導入している日本企業の割合は29.9%で、導入率はゆるやかに上昇している。一方米国では、合衆国労働統計局の調査によると、自宅で働く従業員の割合は2018年に24%で、2016年の22%より少し上昇している(この数字には、100%在宅勤務の従業員と部分的に在宅勤務している従業員と両方含まれている)。だが、2016年の数字は前年の2015年より2ポイント減少しており、伸びが止まっている感がある。

 えっ? ICT導入に積極的な米国で、そんなに低い数字? 驚く人も多いと思う。民間の調査では40%前後の高い数字が出ていることがあるが、自宅で働くフリーランスが含まれていることもある。ここでは、あくまで、企業の従業員の在宅勤務の話に的を絞っている。(ちなみに、アメリカでは在宅勤務はリモートワークと呼ばれることが一般的なようだ)。

 米国では、この数年、リモートワークの見直しがされている。他社に先駆けて在宅勤務制度を始めていた企業が、最近になって中止するのが目立っている。IBM、HP,ハネウェルといったちょっと古めのテクノロジー会社の他にも新興ネット企業のレディットもいったん採用したリモートワーク制度を中止している。

 たとえば、1979年に他社に先駆けて在宅勤務のリモートワークを始めたIBMが、2017年には、この制度を利用していた数千人の従業員にオフィスに戻って勤務するようにと指令を出した。2009年には、173か国の386000人の従業員の40%が在宅勤務をしていると誇らしげに発表していたのに・・・。

 IBMに関しては、収益が落ち続けているので、人員削減のための新たな手段ではないかとか(在宅勤務を続けたい人は会社を辞める可能性がある)、あるいは、アップルとかグーグルとか人気のハイテック企業のマネをしているのではないかとか勘繰られている。

  一方で、急成長しているハイテック企業がリモートワークの価値を認めていないのは本当だ。その理由というのが、従業員同士のコミュニケーションが質量ともに落ちるという問題にあるらしい。ICTの利用に積極的であるはずだと思われている米ハイテック企業が、ICTを使ってのコミュニケーションより対面のコミュニケーションに価値を置いているという矛盾が興味深い。

 在宅勤務のメリットは生産性が上がることだと通常はいわれるが、その反対の説もある。どういったタイプの生産性を目標としているかの違いによるのだが、アップルやグーグル、アマゾンといった企業は、企業文化を強化し、イノベーションを生み出すためには、従業員が同じ経験を共有し、チームワークを強化しアイデアを分かち合うことが必要であり、そのためには対面コミュニケーションが重要だという結論らしい。 

  こういった企業が基本としている理論は、米国マサチューセッツ工科大学のトーマス・アレン教授が、1977年に発表した「アレン曲線」と呼ばれる理論だ。コミュニケーションの頻度と物理的な距離には強い負の相関関係があるというもので、座っている机の距離が離れていればいるほどコミュニケーション頻度が少なくなる。彼の調査では、自分から6フィート離れた席の相手と60フィート離れた席の相手とでは、前者と定期的にコミュニケーションする確率は4倍高い。30メートル離れると、コミュニケーションはゼロとなる。

 1977年なんてICT技術は未熟で現在のものとは大違い。そんな古い理論はもう通用しないと反論したくなる。が、「職場の人間科学: ビッグデータで考える『理想の働き方』」の著者ベン・ウェイバーの研究によると、対面のコミュニケーションとデジタル・コミュニケーションのどちらもアレン曲線に従うことが明らかになっている。つまり、同じオフィスで働いているエンジニア同士は、離れている同僚同士よりも、デジタルでも20%多くコミュニケーションしているそうだ。

   だから、グーグルの元CEOのエリック・シュミットが創造性は相互作用から生まれるからデスクはなるべく離さないで近くに並べたほうがよいと、著作に書いているのかもしれない。もっとも、地価の高い日本の狭いオフィス内でデスクをくっつけてしまうと、人間関係に疲れてしまうストレスのほうが多くなるかもしれないけど・・・。

  世界の2000人の従業員と経営陣へのインタビュー調査によると、リモートワーカーの三分の二の会社へのエンゲージメントは低い。リモートワーカーは会社に長く働く傾向も低い。同僚に長い間会わないと、チームや組織へのコミットメントが低くなるからだろう。

  日本でも米国でも、リモートワークをしている本人は、「融通性に満足している」とか「集中できて生産性が上がる」と答えてはいるが、それを鵜呑みにしていると失うものが多いということらしい。

 日本企業の方向性としては、育児、介護、病気、あるいは今回のパンデミックのようなやむをえない理由で在宅勤務を提供する必要があるとしても、一定の日数はオフィスで他のメンバーと過ごすことが必要だ・・・という常識的な結論に落ち着くのではないだろうか・・・。

参考文献 1.Jerry Useem, When Working From Home Doesn’t Work, Harvard Business Review Nov.2017 2.Dan Schawbel, Survey: Remote Workers Are More Disengaged and More Likely to Quit, Harvard Business Review Nov.2018 3. Nicole Spector, Why Are Big Companies Calling Their Remote Workders Back to the Office?, NBC News, 7/27/17 4.Ben Waber et al., Workspaces That Move People, Harvard Business Review Oct. 2014

2019年5月26日 (日)

身体性をもつAI(深層学習によるAIは古き良き時代のAI)

  いま注目を集めている機械学習によるAIは計算威力で人間を圧倒する。だが、人間の知能からは程遠い。「人間は創造的な仕事だけに従事し、その他の仕事はAIにやってもらえばよい」などと多くの有識者が語っている。が、そんな時代は、いま話題になっているディープラーニング技術がいくら発展しても(あるいは量子コンピュータの採用が進んでも)やってはこない。

  人口知能が人間の脳を超えるというシンギュラリティは2045年には到来と騒がれた。が、人間の脳だけを研究していてもシンギュラリティには到達不可能・・・ということに多くのAI研究者も気がついてきている。人間の脳だけを研究してもダメだというなら、いったい何を研究すればよいのか? 答は身体だ。感覚システムと運動システムをもつ物理的な身体、そしてそれと環境との相互作用についても研究をしなければいけない。

  身体性を有するAI、Embodied AIの登場だ。

  ディープラーニングとかニューラルネットワークといった用語を一般化した機械学習(機械学習はAIを実現するためのひとつの考え方でニューラルネットワークは機械学習のアルゴリズムのひとつ)の流れをつくった元をたどれば、1956年に米国で開催されたダートマス会議に行きつく。人工知能(Artifical Intelligence)という言葉はこの会議で初めて正式に定義された。ダートマス会議はAIという研究分野を確立した会議としてだけでなく、認知科学という学問を確立した会議としても有名だ。マービン・ミンスキー、ハーバート・サイモン、ノーム・チョムスキーといった心理学、神経科学、情報科学、言語学、哲学の分野におけるそうそうたるメンバーたちが参加していた(もっとも、言語学者、認知科学者として著名なチョムスキーはまだ28歳の若き研究者だった)。

  この会議において、人間の認知とは、外界にある対象を「知覚」し、それが何であるかを判断したり解釈したりする「記憶」「学習」「思考」を含むプロセスのことであり、外界の環境(物理的世界)の情報はシンボル(記号)に変換されルール(ロジック)に従って処理されるとした。つまり、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、認知活動は、ソフトウェアプログラムがコンピュータというハードウェアを動かすように、心(精神)が脳のなかで処理されることだと考えたのだ。こういった考えに基づいて、人間の脳の神経ネットワークを模倣するニューラルネットワーク技術のさらなる研究も促された。

  脳に知能(≒認知)が宿り、脳は人間の身体をコントロールするという考え方には長い歴史がある。古くは古代ギリシアのプラトンにさかのぼることもできるが、そこまでいかなくても17世紀の哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い出してもらえばいい。デカルトは、自分が存在しているのは自分の身体があるからではなく、自分の心があるからだと言っている。心(mind)と身体(body)は別のシステムで、心が身体をコントロールするとした二元論の考え方は、西洋、東洋を問わず現代人にも浸透している。だから、身体も心(脳)をコントロールしていると主張しても、すぐには信用してはもらえないだろう。

  1985年、米国の哲学者ジョン・ハアグランドは、70年代~80年代に進んだ新しいAI研究の流れを受けて、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、心が脳のなかで処理されるのだとしたダートマス会議の考え方を否定した。そして、外界の環境情報をシンボル(データ)に変換しルール(ロジック)に従って処理する機械学習等の手法を採用しているAIを古き良き時代(Good Old Fashioned )のAIと命名した。最近では、古典的AIと呼ぶ研究者もいる

  新しいAI研究は、人間の認知活動は脳の中だけで行われているわけではないとする。最新の神経科学、認知心理学や生理学の研究によって、脳は考えられていたほど全能ではないことがわかってきた。脳は、身体に指令を与えている以上に、身体から指令を受けている。あるいは、また、身体は脳とは無関係に自律的に行動をしていることが明らかになってきた。

  たとえば、最近TVで放映されたNHK特集「人体の神秘」で、脳が司令塔となり臓器を含む身体各所に様々な命令を出してコントロールするという通説が誤りであるという研究結果が相次いで発表されていることが紹介された。脳が内臓や筋肉、骨などに一方的に指令しているわけではなく、臓器同士がメッセージ物質を使って情報交換をしている。たとえば、腸が脳にこういった問題があるから適切な化学物質を放出するよう指令する(腸は第二の脳だとか、最近命名されるようにもなっているが、今の研究の流れでは、足や手も第二の脳と命名されるようになるだろう)。身体各所は、場合によって、脳に相談することなく自律的に行動をしていることも明らかになってきている。

  だから、本当の意味で人間の知能に近づくためには、AIにも身体性をもたせなくてはいけない

  だからといって、ホンダのアシモのようなヒューマノイド・ロボットをつくればよい・・・というわけではない。人間の身体に似せたロボットをつくっても、会話や動作、すべてが中央でプログラム化されているのでは、脳(コンピュータ)がすべてをコントロールするという古典的AIと同じ考え方になってしまう。

  身体性の意味をはっきりさせるために、古典的AIと身体性AI研究の歴史を簡単に説明してみる。

  知能が宿る脳が身体をコントロールするとした考え方は、長い歴史を通じて肯定されてきた。外界の環境情報は符号化されルール(ロジック)に従って処理されるというのは、正しい考え方に思える。機械学習のアルゴリズムは、人間の脳の無意識のプロセスを模倣していると説明されれば、さもありなんと納得してしまう。実際、こういった考え方に基づき開発されたAIは、明瞭なルールに基づく問題を解決する限りにおいて成功を収めた。音声認識、画像認識、将棋や囲碁といったゲームにおいて、データというシンボルからパターンを抽出するための統計計算処理速度においても、(古典的)AIは素晴らしい進歩を遂げた。符号化できる情報をロジックに基づいて処理することにおいては、これからも威力を増していくことだろう。

  だが、コンピュテーション(計算)はあくまで計算だ

  認知は脳の中だけにあるのではなく、人間が物理的世界を経験(感覚システムや運動システムを通じての経験)することに影響され決定されるという考えは20世紀初めからあった。が、それが実験的に裏付けられるようになったのは過去数十年のことだ。70年代になって、言語の多くは身体的経験(物理的環境との相互作用)から生まれている。言語は意味のないシンボルのつながりだというチョムスキーの言語学理論は、脳をコンピュータとみなすパラダイムには適しているかもしれない。が、実際とは違うのではないかと考える言語学者が出てきた。

  たとえば、「薬がのみこめない」と「意味がよくのみこめない」。身体的経験と認知的経験に同じ「呑む swallow」という言葉をつかっている。また、愛情の主観的判断は暖かさの感覚と一致する。だから、「赤ちゃんは母親のぬくもりを求める」とか「あの人は冷たい人だ」という表現がある。しかも、こういった言葉の使い方は多くの言語において、つまり多くの文化圏において共通している。ということは、人類の歴史からいってもかなり大昔にさかのぼることであり、それは、人類共通の同じ身体形態がもたらす同じ経験に基づいているからだと考えたのだ。

  考えたり感じたりすることは身体の状態に影響を受ける。たとえば、人間は嬉しいときには体を上向きにするし、悲しいときには下向き加減になる。だから、「気分が高揚する」「ハイな気分」「嬉しくて舞い上がった」「幸せで天にも昇る気持ち」とか、反対に、「気分が落ち込む」「気分が沈む」「ショックで浮かび上がれない」という表現が生まれるのだ。人間の身体が今の形態でなければ、幸福や不幸を表現する言葉は違うものになっていたと考える研究者もいる。

  身体的経験が認知の元になっている。つまり身体とその経験が知能に影響を与えていると考える研究者たちが認知言語学という新しい学問分野をつくりあげた。認知言語学のパイオニアとして著名なジョージ・レイコフは数学のような高次の認知を必要とするようなものでも身体の経験に基づいているとして、「Where mathematics comes from/数学はどこから来たのか(邦訳なし)」を2000年に出版した。そこには、実数や集合のような抽象的数学の概念でさえ身体性にその起源があると説明されている。

  やっと、ここから、Embodied AIの話になる

  チューリッヒ大学のAI研究室所長だったロルフ・ファイファーはAIの身体性の重要性を主張したパイオニアである。

  ファイファーによれば、身体性とは、「知能は常に身体を必要とするという考え方であり、正確に言えば、環境と相互作用することによって生じる振舞が観察できるような物理的実体をもつシステムだけが知能的である・・という考え方」だそうだ。どんなシステムでも、その行動は、たんに、たとえば脳の神経ネットワークのようなものが生み出すのではなく、そのシステムが存在する生態的ニッチ(たとえば生物が生息している特別な環境)や、自身の形態(身体の形、センサーやアクチュエータのタイプや設置場所)や材料特性の影響を受ける。

  たとえば、形態でいえば、人間の足は股関節で体につながっているために、歩くときには振り子のような行動をとる。その結果、安定性やエネルギーの効率を達成することができる。だから、歩くという課題には中枢神経によるコントロールはほとんど必要がない。また、人間の筋肉や腱は弾力性や柔軟性がある。なので、たとえば、右手でコップをつかむときには、通常、手のひらは左を向いている。だが、やろうと思えば、右手をねじって手のひらを右にしてコップをつかむこともできる。この無理な体制は、筋肉を弛緩させれば、自動的に自然な状態に戻る。この作業は神経にコントロールされているのではなく、筋腱システムの材料特性によってもたらされている。だが、固い材質からつくられているロボットの場合は、このような作業をするためには、複雑なプログラムによるコントロールを必要とする

  生物の身体は中枢神経によってのみ動いているわけではない、そして、身体性はAIの認知機能を向上させる。ファイファーは、この2点を証明するために、メカニカルシステムが歩行という低レベルの運動を重力とメカニカル構造だけで自律的に達成したいくつかの実験に注目した。

  そういった初期の実験のなかには、二本足のメカニカルシステム(脳無しロボット)が、モーター、センサー、そしてマイクロプロセッサーの助けもなく、斜面を歩く実験もある。傾斜があるということで重力だけがエネルギー源となる。足の長さ、足底の形、質量の配分といった数値の設定、また、バランスよく歩けるように足とは逆に振る腕の取り付け方といったメカニカル構造だけで課題を達成した。これは身体が環境との相互作用によって機能する良い例である。ただし、生態学的ニッチ、つまり、システムが機能できる環境は、特定の角度をもった斜面だけということで非常に狭いものだ。

  だが、このメカニカルシステムの腰関節をモーターが駆動することにより平地歩行が可能になる。脳なしロボットが平地を歩くことができたということだ。

  このように、身体性の基本は、ロボットに、環境と相互作用ができるように、センサーやアクチュエータ(たとえばモーター)をつけることだ。

  6本の足をもったゴキブリの動きを角度センサーとメカニカル構造で実現したロボットもある

  もともと、ゴキブリのような昆虫の場合、歩行する足の動きは中央の神経システムから独立していて、足にある神経回路だけで制御されている。地面に立っているゴキブリが一本の足を後ろへと押し出すと、地面についているすべての足の関節角度が瞬時に変化して胴体は前に押し出され、結果的にほかの足は前方に引っ張られて、その関節は曲がったり伸びたりする。昆虫の関節には、変化を図るための角度センサーがついていて、それが足の神経回路に足の詳細な位置情報を伝達し、地面のどこを足場とすべきかを教えてくれるのだ。

  ゴキブリを模倣したロボットの足には電気回路とセンサーが配線され、1本の足が動くと、他の足は曲げるか伸ばすかの信号を受け取る。それぞれの足の位置を計算し指令を送るような中央コンピュータの制御なしに、ゴキブリロボットは環境との相互作用と自律的なサブシステムによって歩行する。

 メカニカルシステムが、このような低レベルの課題を自律的に達成できることを実験で証明してから、次に挑戦したのは、身体性あるAIが、より高度な認知を必要とする「分類」という課題を果たすことができるかどうかだ。この場合は、触覚や視覚といったセンサーをもつシステムが動きながら環境と相互作用をすることで、写真を使った画像認識より優れた分類ができることを証明した。

  たとえば、サイズが違う木の円柱(大と小)を画像認識で区別することは、つまり視覚だけで識別することはむずかしい。だが、身体性ロボットが円柱の周りを動くことで、角速度(ある点をまわる回転運動の速度)の数値を得ることができる。これが古典的AIだと、センサーから画像データを受け取り、蓄積保存していた画像情報と比較しパターン認識をする。だが、グーグルにしてもフェイスブックにしても、画像データベースにアップロードされている写真の多くは不完全な状況(距離とか照明、角度、その他)で撮影されたものだ。結果、誤った判断がなされることがある。身体性をもったAIの場合では分類化はより正確になされることを、この実験は証明した。

  以上紹介した実験からみてもわかるように、身体性AIが人間の知能に近づくにはまだまだ長い道のりを進まなくてはいけないようだ。

  いずれにしても、シンギュラリティの問題とは、AIが人間の知能を超えて人間にとって危険なものになる可能性がある・・・という意味にとるべきではないだろう。そうではなくて、計算能力が非常に高くなったAIに恣意的に、あるいはうっかりして誤ったデータを入力する。あるいは、恣意的に問題あるプログラムを組み込んだりする。こういった人間が存在することにより、古典的AIが社会を大きな危機に陥れる可能性がでてくる・・・という意味に理解したほうがよい。結局は、人間が恐れるべきは、AIではなく人間なのだ。

   雇用の問題においても、身体性のない古典的AIが人間から奪える仕事には限りがある。

   最後につけ加えると、身体性を持ったAI研究ではロボティックス(ロボット工学)が中核となる。この分野は、日本もまだ先端を走っているし、「ものづくり」のノウハウが生かせる分野だ。古典的AIでは米国企業に追いつくことは無理でも、身体性AIならまだ頑張れるかもしれない。

参考文献: 1.R・ファイファー、J.ボンガード「知能の原理」共立出版、2.Katrin Weigmann, Does intelligence require a body?, EMBO reports 11/12/2012 3. Samuel McNerney, A Brief Guide to Embodied Cognition:Why You Are Not Your Brain, Scientific American, 11/4/2011, 4. 特集AIの身体性、日経サイエンス2018年8月号 5.Luc Steels, Fifty Years of AI: From Symbols to Embodiment-and Back,LNAI 2007 6.楠見孝、心のメタファと身体性:認知心理学の立場から、理論心理学研究2015、7. George Lakoff, Mappping the brain's metaphor circuitry: metaphorical thought in everyday reason, Frontiers in Human  Neuroscience , December 2014、8.Fred Delcomyn, Marke E. Nelson, Architectures for a biomimetic hexapod robot, Robotics and Autonomous System 30, 2005

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2018年12月22日 (土)

意外とアナログなAIとビッグデータの実際

  AIとビッグデータとプラットフォーム・・・・この3つの用語を組み合わせれば、ビジネスパーソン向けのそれなりの記事は作成できる。だが、注目を集めるために連発される最新用語からなる文章は、現場における実際を教えてはくれない。

  たとえば、マイクロソフトのクラウド事業の成長をとりあげた日経新聞の記事は、「AIを使った解析サービスなどのプラットフォームとなるクラウドサービス『アジュール』が中心のインテリジェント・クラウド部門が29億円の営業利益をあげた」と報告している。

  「AIを使った解析サービス」と「コンピュータを使った解析サービス」と、どこが違うのか? AIという言葉が使われていると、以前よりもっと高度なデータ分析をしているのだろうと思ってしまう。だが、「AIを使った解析サービス」と宣伝されているデータ分析サービスで、フツーの会社が実際に使うのは、以前からある統計解析手法がほとんどだ。AIクラウドサービスの提供内容をみれば、機械学習として、ニューラルネットワーク以外にもこういった以前からある統計解析手法もふくまれている。機械学習について教えますと宣伝されているeラーニングのコース内容をみてみると、統計解析のアルゴリズムに関する訓練がほとんどだったりする。

  「AIを使った解析サービス」では、すべてが自動化されていて人手はいらないという印象を受ける人も多いだろうが、実際には人手がけっこうかかっている。

  たとえば、「機械学習」にしても、コンピュータが自分で学習して自分で考えて実行すると思ってしまうかもしれないが、実際には、データの事前調整に結構時間がかかる。全行程にかかる時間の80%程度がデータ調整で、そのほとんどは人間の手によるものだ。

  コンピュータのパワーが格段と大きくなり、データ処理のスピードが上がっても、データから価値を生み出す作業、たとえば分析のようなプロセスでは、いまのところ、やっぱり、人間の考えが加えられることによってより良い結果が得られるようになっている。そして、こういったマニュアル作業をする人たちがデータサイエンティストとか高度なデータ分析者とか呼ばれる人たちだ。データ調整がうまくできるかどうかで(「うまく」という意味は、その結果、分類や予測能力が上がることを意味する)、データサイエンティストの優劣がきまる。

  企業にとってデータは金銭と同じように資産となるという意味で「データ資本」という言葉が使われるようになった。だが、データは生のままでは利益を生み出さない。データサイエンティストは、データから価値を引き出す知見やノウハウを持っている人たちだと定義してもいい。

  データがデータサイエンティストの手によって価値を生み出すように、いまのAIは人間の助けを得て、初めて、機能することができる。その具体例としてAIスピーカー(スマートスピーカー)をとりあげてみる。(データ分析には人手がかかるという話は、また、後で・・・)

  スマートスピーカーというと、ユーザーの言葉を認識するのも、それに応じて、例えばアマゾン・エコーのアレクサ(Alexa)が返答するのもすべてAIでなされていると誤解している人も多いようだ。が、言葉を認識するのはAI(厳密にいえば、現在利用されているのは機械学習のアルゴリズムのひとつであるニューラルネットワーク)でも、返答には人間が深くかかわっている。グーグルアシスタント、アマゾンのアレクサ、そしてアップルのSiriなど、対話型AIの多くにおいては、人間が書いたシナリオに沿ってチャットボットが返答している。

  ユーザーとの対話をAIだけですることが、今の段階では、いかに難しいかを知るにはアマゾンが主催した「アレクサ・プライズ」コンテストに参加した学生たちの試行錯誤ぶりをみればよくわかる。

  2016年9月に、アマゾンは対話型AIの開発推進をめざし、大学チームを対象とするコンテスト「アレクサ・プライズ」を開催すると発表した。優勝チームには50万ドル、またその大学に研究助成金として100万ドルが贈与されるという魅力的な内容だ。

  コンテストの目的は、スモールトーク(small talk)を人間と20分話すことができるチャットボット(社交性のあるチャットボットということでソーシャルボットsocialbotと命名されている)を、アレクサ上に構築することだ。スモールトークというのは世間話とか軽いお喋りとか、パーティなどで初めて会った人間がする社交的な話で、天気から、最近話題になっていること、趣味など、とりとめのない会話だ。こういった会話は、相手にあわせてとか自分の気分とか、あるいはたんに沈黙を避けるために、テーマはころころ変わるものだ。それでいて、会話の流れに沿ったものでなくてはいけない。そういった会話が苦手な人もいるだろうが、それでも、極端な人間嫌いとか内気な人でもなければ(まあ、そういったタイプの人は懇親会とか交流会には出席しないだろうが・・)、ある程度の時間はつづけられる。

  だが、いまのAI、とくに実用化がすすんでいるニューラルネットワークによる機械学習にとって、目的のない会話を習得することは至難の業だ。データから学んでいき、その結果を一般化(モデル化)する機械学習は、ゲームで勝つとかいった明確な目標があるときに力を発揮することができる。目標があるということは、何が正しい答かがわかっているということだ。質問(条件)と答(目的)のセットを学習することによって、自分で判断することができるようになる。明確な答があって、初めて、学習できる。世間話には「これが正しい」と断言できる答はない。正しい答の選択肢はいくつもある

  アレクサ・プライズでは、この目的のない会話を20分続けられるかどうかが目標となっている。審査員は開発されたソフトウェア(ソーシャルボット)と人間がする会話を聞いて、その結果で1~5の点数をつける。

  コンテストが発表されると22か国から100の大学チームが応募し、最終審査には15チームが残った。

  勝ち残ったチームを悩ませた問題は、ソーシャルボットの頭脳のどの部分に機械学習(コンテストで使われたのは、より複雑なニューラルネットワーク構造をもったディープラーニングを利用した手法)を使い、どの部分を人間の手作りにするかだった。手作りとは、「もし、これこれこういった話が出たら、こう答える」といったif-thenのルールを人間が作成することを意味する。ルールベース手法(Rule-based Approach)ではAIのために膨大な数のルールやテンプレートをつくらなければいけない。労働集約型手法だ。

  ルールベースもAIに含まれると考える人は多い。その意見に賛成するかどうかは、AIをどう定義するかによる。自分で考えて判断するのをAIとする人は、ルールベース手法はAIではないと断言するだろう。

  アレクサプライズコンテストに残った15チームにとっては、機械学習とルールベースの2つの手法のバランスをどう取るべきかが悩みとなった。実際問題として今のレベルのニューラルネットワーク手法だけでは、たとえ、深層学習と訳されるDeep Learningを採用しても、スムーズな会話を継続することは無理だ。

  たとえば、あるチームは、ソーシャルニュースサイト「レディットReddit 」におけるユーザーのメッセージとレスポンス300万件のペアをニューラルネットワークで訓練した。そして、2017年の数か月、他のチームのチャットボットと同様に、アマゾンエコーを通して全国のユーザーと対話をする機会を提供されたときにテストしてみた。結果はひどいものだった。チームは、途中から、ルールを作成する手法に変えた。そして、どういった答え方をするかはテンプレートに従い、その内容は、それぞれのテーマに関するデータベースから検索するretrieve方式を採用した。

  最終審査の結果はというと、1位の優勝者は機械学習とルールベースを組み合わせたハイブリッド手法を使ったチーム、2位がルールベースの手作り、3位が機械学習のみをつかったチームだった。

  このように、AIスピーカーと命名されてはいても、人間の要素は非常に大きい部分を占める。その点を強調するために、スピーカー以外の例もあげてみよう。

 たとえば、Facebook のAIアシスタントと呼ばれたM。音声ではなくテキストベースでユーザーと対話をするもので、カリフォルニア州の2000人のユーザーに絞って2015年からテストをしていた。この例でも、常に尋ねられる多頻度の質問の答え以外は人間が返事を書いていた。このテストは今年1月に終了している。

  Facebook はAIが十分学習をしたのでテストを終了したと発表しているが、実際のところは、いまのAI技術では、ユーザーと人間並みのスムーズな対話をする(この場合は文章を書く)ことがいかに大変かわかったので(つまり、いかに労働集約型で人件費がかかるかわかったので)、テストを終了したのだろう。その証拠に、テスト終了後は、Mは、メッセンジャーのなかでキーワード検索で適切なアドバイスをするM suggestionとして残されたが、できることは非常に限られている。(たとえば、ウーバーを予約したり、アポをカレンダーに記載したり・・・)

  人件費がかかることを意に介さず、反対に、AIアシスタントの個性(性格)をきわだたせようとする企業もある。グーグルには、グーグルアシスタントの返答に個性をもたせるための「デザイナー」なるものが存在する。台本作り(ルールやテンプレートづくり)に個性を発揮する人のことだ。デザイナーとして採用されるのは、それまでの従業員とは違うタイプの社員、たとえば、フィクションライター、ビデオゲームデザイナー、共感専門家、コメディアンといった左脳のクリエイティブな人間を雇用するようにしているそうだ。

  先に書いたように、ルールベースもAIに入るという主張もある。これは、AIとはなんぞやという定義の違いであり、自分で考えなくちゃAIではないとする人たちも多い。その考え方に従えば、いま、実際に機能している多くのAIはAIではない。

  問題は、AIという言葉が過剰利用されることで、すべて自動で人手が必要ないと思い違いをしている人が多いことだ。経営者がそう思い込んで、自社内にデータに強い人材は必要ないと考えると、話がややこしくなる。実際には、たとえ、AIクラウドと名付けられたクラウドサービスを使い、データ分析自体もアウトソーシングしている企業であろうとも、自社のデータを資産としたいのならデータのことをよく理解している担当者は必要だ。

  ・・・ということで、データ分析の話にもどります。

  まず最初に、ビッグデータ分析に関連する誤解を解いておきたい。

  ビッグデータの例として、(たぶん面白いストーリーになっているからだろうが)日本でもよく紹介されるエピソードがある。米国の小売業「ターゲット」が自社の顧客データを分析して、妊娠していると推定した顧客に妊婦が必要と思われる商品のダイレクトメールを送った。その一つが娘に届いたと怒った父親が店舗に怒鳴り込んできた。「うちの娘はまだ高校生だ。なのに、DMには、赤ちゃん用衣料とかベビーベッドのクーポン券が入っていた。おまえの店は、娘に妊娠しろと勧めているのか?!」。

  店長は平身低頭あやまった。そして、数日たって、また、謝罪の電話を入れた。そしたら、電話口に出た父親の様子がおかしい。そして、きまり悪そうに、「自分は知らなかったが、娘が実は妊娠していた」と反対に怒鳴り込んだことをあやまった・・という。

  このエピソードのオチは、娘が店舗から買っていた商品を分析するだけで、親すらも気づかなかった妊娠を判別した。これがビッグデータ分析の威力だというわけだ。

  この出来事が起こったのは、ビッグデータなどとメディアが騒ぎ始めた2010年よりずっと前のことだ。

  消費者の購買習慣を変えることはどんなに巧妙な販促活動を駆使してもむずかしい。だが、結婚、就職といった人生のイベントと同様に(・・というか、それ以上に)、赤ちゃん誕生前後の両親の購買パターンやブランドロイヤルティを変えることは比較的簡単にできる。そういった事実を知ったうえで、ターゲットは、2002年頃に、顧客が妊娠したかどうかを購買データから知ることはできないかと模索し始めた。そして、2005年ごろまでには、25種類の商品を分析することにより、顧客の妊娠予測スコアをつけるモデルを完成させた(らしい)。そして、そのスコアに従って、DMが送付された。結果として、怒った父親が店に怒鳴り込んできた。(「らしい」としたのは、プライバシー問題になるのを恐れたターゲットは、妊娠予測スコアモデルの作成を正式には認めていないからだ)。

  このエピソードを2012年に報道したニューヨークタイムズも、記事の中では、まだ、ビッグデータなんて言葉は使っていない。2000年代初めのターゲットの顧客ベースは(会社は発表してはいないが)たぶん多く見積もっても数千万人くらいだろう。しかも、Facebookの創業が2004年ということからわかるように、ネット上のアクセスログデータやソーシャルメディアのテキストデータといった非構造化データはまだ含まれていない。顧客プロフィールデータや購買データは構造化データ。分析手法も、以前からある回帰分析とかマーケットバスケット分析とかいった統計解析手法が使われただけだ。

  だから、このエピソードをデータ規模やデータ内容からいってもビッグデータ分析の具体例として挙げるのはおかしい・・・といちゃもんをつけることもできる。が、逆に、ビッグデータ分析とはいっても実際にやっていることの多くは、2000年以前からある伝統的統計解析による分析手法と変わっていませんよ。あるいは、また、AIクラウドサービスを利用しているからといって、実際のデータ分析は2000年以前の統計解析による分析とあまり変わっていませんよ・・・ということもできる。

  AIを、そして、アルゴリズムのひとつのニューラルネットのディープラーニングを有名にしたのは、将棋とか囲碁といったゲームで人間に勝ったことだ。また、フェイスブックやグーグル、アマゾンが顔認識や音声認識で誤差率を数%台まで低くすることに成功し実績を上げたことだ。こういった例においては、結果がすべてであり、そのプロセスがブラックボックスであっても、つまりどうしてそういった結果が出るのかわからなくても問題ない。だが、ビジネスにおいては因果関係を知ることが結果と同じくらい重要になることが多い。統計解析の場合は、変数間の関係性(因果関係や相関関係など)や関係の強弱を知ることができる。だから、どうしてそういった結果を得ることになったかの説明がつく。そういった説明を得ることによって、次にはより優れた仮説を立てることができるようになる。自社ビジネスにとってより良い意思決定をすることができるようになる。

  だから、フツーの企業が売上・利益を上げるためにデータ分析するときは、統計解析手法を使うことがいまでも多いのだ。そして、そのときに、アウトソーシング先の外の会社にすべてをまかせていては、肝心の知見やノウハウを獲得蓄積していくことができない。データサイエンティストとまでいかなくても、データのことをよく理解している担当者は必要だ。自らデータ分析をすることはできなくても、データ分析とはなんぞやということを理解していて、自社データの特徴とかもわかっていて、アウトソーシング先の分析者がどういった手法を使ってどういったデータの調整をして分析をするのかといった説明がわかる人は必要だ。

  顧客データや購買データを含む行動データの傾向は各企業に特有なものだ。各企業における「データの特徴」は、その企業の戦略や方針を決定づける基本となる。

 コンピュータのキャパに制限がなくったビッグデータ時代にはデータ規模がどれだけ大きくなっても生データのまま保存される。だが、分析には生データのまま使わないほうが良い結果を生むことが多い。たとえば、購買予測を分析するときに、顧客一人一人の某商品カテゴリーの累計購買金額を変数として使うよりは、全購買金額に占める某商品カテゴリーの割合を変数として使ったほうがより予測精度が上がるかもしれない。こういった調整とか加工をするところに、データサイエンティストの経験にもとづいた洞察力が必要となる。そして、こういったデータの準備に、データ分析者は全プロセスの80%の時間を費やしている。仮説を立ててモデルをつくる。その仮説が正しいかどうかを実行の後検証する。それがデータサイエンティストにとっての知見やノウハウになる。

  クライエント側企業にアウトソーシング先のデータ分析者とコミュニケーションする能力をもった担当者がいなければ、何か不都合が起こっても、自社データに精通したデータ分析者をかかえているアウトソーシング先を変えることもできなくなる。

  自社データの特質をよく知っていて、どういったアルゴリズムをつかって、どういったデータ調整をしたらよいかという知見を持っているのはアウトソーシング先のサービス会社・・・これでは、クライエント企業はデータを所有してはいても「データ資産」を所有しているとはいえない。

  最近、メタデータという考え方をよく耳にする。メタデータ=データに関する情報で、さまざまな形式の大規模データを取り扱うビッグデータの時代に必要なものとされる。各データの保管場所、保管形態、アクセス履歴、、特徴、過去にどのように操作され変換されてきたかの履歴等々が明らかになり、会社のデータ資産を明確に定義してくれる。

 メタデータは、データの構造を教えてくれるものでデータを管理し、必要な情報を素早く見つけるツールとなる。だが、それだけではない、データが最初に獲得されて以降、どのように変換され操作され利用されてきたかといったデータ履歴はデータの意味や重要度をデータサイエンティストに教えてくれる。それが、データサイエンティストのノウハウ・知見の源となり、会社がもっているデータを資産とする源となる。メタデータはアウトソーシング先のサービス会社だけに所有させるのではなく、クライエント企業も共有するものでなくてはいけない。

 

 参考文献: 1.Inside the Alexa Prize, Wired, 2/27/18, 2.Ashwin Ram, et al, Conversational AI: The Science Behind the Alexa Prize, 3. Facebook is shutting down M, its personal assistant wervice that combined humans and AI, 1/8/18, 4. How Companies Learn Your Secrets, The New York Times Magazines, 2/29/12、5.Google wants to give your computer a personality, Time, 10/16/17

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2018年7月 7日 (土)

新刊「経済の不都合な話」発売されます!

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7月10日ごろ、新しく書き下ろした本「経済の不都合な話」が日経プレミアシリーズ(日本経済新聞出版社)より出版されます。

 タイトルから経済の話?と思われるかもしれませんが、オビのコピーは過激で「社長と経済学者は、読まないでください・・・・・偽善、タテマエ、机上の空論ばかり。現実をあらわさない経済・ビジネス論を排し、人間の本性に基づく『言いづらい真実』を示す」となっています。

 裏表紙には「経済やビジネスをめぐる議論が現実離れするのは、偽善や机上の空論による『お約束』に支配されているからだ。会社存続の動機は『経営者のエゴ』、顧客なんて『不実な愛人』、日銀の約束を誰も信用しない理由・・・。感情が理性より優位に立つ時代、人間の本性に基づいて展開する、少し言い出しにく世の中の真実」となっています。

 興味そそられる宣伝コピーを編集の方が書いてくださいました。内容もご期待に添えるものになっているとよいのですが・・・。富士フイルム、ミクシィー、楽天、ダイエー、パナソニック、シアーズ、テスコ、大塚家具、東芝、ノリタケカンパニー、ユニクロ、マクドナルド、アマゾン、資生堂などの企業が登場します。

 ネットでご購入される皆様方のために、一応、「まえがき」と「目次」を書いておきます。価格は税抜き850円です(アマゾンでの購入用リンク

 まえがき

  変化 の時代と言われるように、経済やビジネスの世界でも、これまで「常識」とされてきたことが次々に覆されている。

 たとえば、経営者なら肝に銘ずべきとされた「企業の目的は顧客を創造することだ」というドラッカーの金言はもはや通用しない。富士フイルムはアナログ写真フィルムの購買者が激減し、新しい顧客を求めて新市場を開拓せざるを得なくなった。ネットの世界に住む企業は有形固定資産が少ない分、変身も比較的簡単だ。既存市場での競争を避けて事業内容を大幅に変える例は多くみられる。

 創造した既存顧客を捨て(あるいは顧客が消滅したために、やむをえず)、新しい顧客を対象に新しい事業を始める企業はもう珍しくない。

 だが、顧客を捨て、既存市場から撤退してまで会社は生存し続けなくてはいけないのか。会社が存在し続けなくてはいけない正当な理由などあるのだろうか――。

 マーケティングや経済学の教科書に書かれている「顧客が知覚する価値が価格を決める」という考え方も、実際には共通認識とは言えなくなっている。価格は価値のひとつだと言い切る小売業の名経営者もいるくらいだ。アマゾンや楽天といったeコマースのサイトをみれば、価格が価値の一要素になってしまっていることは歴然としている。

 変化の時代は、感情優位で意思決定がなされる。米国大統領選挙やヨーロッパにおけるEU離脱の流れを受けて、いわゆる知識層は感情的に動く世情を憂えるコメントを出す。人間は理性的に意思決定すべきだと言う。

 以前から不思議に思っていた。

 なぜ政治家・官僚や知識人は、人間が理性的であることを前提として法律や組織をつくろうとするのだろう――。

 デフレに悩む各国において金融政策を指揮する経済学者にしても、「合理的経済人」を前提とする政策を実行している。それが、理論どおりにインフレ目標が達成できない理由だ。

 金融危機以降、危機を予測できなかった主流派経済学への風当たりは強い。批判の大部分は、人間の感情を含めた心理を無視して数式モデルを構築したことに向けられている。経済学者は人間の感情を無視してもよいと考えているわけではないが、感情すらも数式化しなければいけないと考えている。数式化できなければ科学とは言えないからだ。

 本書では、「人間の感情さえも数式化できる」と経済学者に思わせるほどの影響を与えた2人の知識人にスポットライトを当ててみた。17~18世紀の知識人の多くは優れた数学者でもあった。そして、彼らは感情は悪しきものだとみなし、人間は感情に左右されず論理的に意思決定をすべきだと考えた。数学に長けた先人がつくりあげた合理的意思決定手法と数式を採用したことが、現代の経済学が抱える矛盾につながっている。

 人間の認知プロセスは、情報をありのままに受け入れ処理する仕組みにはなっていない。これは行動経済学や神経科学で、またAIとの比較で明らかにできる。認知プロセスにおけるバイアスは人類が環境に適応するために生まれたものだ。感情は、合理的意思決定の妨げになることもあるかもしれない。だが、感情と論理的思考とが協力しあわなければ、「何を食べるか」といった簡単なことさえ決められないことは科学的にも証明されている。

 それにもかかわらず、知識人や政治家・官僚といったエリートは「人間は理性的で論理的かつ合理的に意思決定すべきだ」と考え、その前提のもとに社会システム(制度、体系、体制)を構築してきた。そして、いま私たちは、「感情」の本来の役割を知らず、「理性」に反する動物的側面とみなしたことによって、手痛いしっぺ返しを受けている。

 人間は、経済的レベルがある程度以上で、自分だけ損をしているという不公平感が少ないときには理性的でいられる。戦後、先進国の多くがそういった社会状況にあり理性が保たれた。感情が席巻する社会は異常ではない。理性的でいられた時代が60年以上続いたことのほうがアブノーマルなのだ。 

 感情が理性より優位に立つ時代において、企業はそして経営者はどう対処するべきかの筆者なりのアイデアも本書で提案した。ここでは「世界観」と「共感」がキーワードになるが、この世界観や共感は通常使われる意味合いとは少し異なる。

 企業とは、あるいは経営とはこうあるべきだと長い間信じられてきた考え方に反論し、経済学という権威ある学問に疑問を投げかけるのには、少なからず勇気を必要としました。この時代に生き働く読者の皆様方に、なんらかのアイデアやヒントを少しでも得ていただくことができたとしたら、筆者にとってはこれ以上ない喜びとなります。

 

 

目次

第1章  「会社は存続すべきもの」という欺瞞

・会社は必ずいつかは消える存在 ・顧客に見放されても生き残る方法 ・コダックに多角化を断念させた圧力 ・株主は特定の会社の存続など望まない ・顧客を捨てて変身する企業 ・顧客データをもつ企業は金融に走る ・ピークを極めたときが衰退の始まり ・金融業を始めると本業がばからしくなる? ・コア事業をおろそかにした末路 ・会社存続の動機は経営者のエゴ? ・「従業員のため」という建前

第2章 価格と価値に翻弄される人々

・価値と価格の逆転―「流通の神様」の選択 ・アマゾンでは価格は価値の一つに過ぎない ・スーパーが見下されたいた時代 ・化粧品業界が固執した価格 ・メーカーと小売りの30年戦争 ・小売業が住む「弱肉強食」の戦場 ・顧客なんて「不実な愛人」みたいなもの ・マクドナルドの挫折 ・ユニクロの心理はメーカーか小売りか 

第3章 科学になりたかった経済学

・経営学やマーケティングに理論などない ・教科書どおりにインフレにならない理由 ・「日銀の約束」など誰も信用しない ・経済学者はおろかなのか、それとも… ・物理学への憧憬 ・定職につけなかった経済学の祖 ・経済学は厳正科学になりたかった ・「合理的経済人」が感情の産物という皮肉 ・ノーベル経済学賞が逃れられない後ろめたさ ・「美しい数式」と絵画や音楽の不思議な共通点 ・数式に魅せられ人間社会を誤認する

第4章 ギャンブルが生んだ机上の論理

・経済学の矛盾をもたらした元凶 ・数学とギャンブルの不可分な関係 ・どこか腑に落ちない確率論 ・神の存在を賭けるということ ・なぜ「神を信じる」のは合理的なのか ・父親の嫉妬と画期的理論 ・客観的価値と主観的価値 ・「主観的価値判断の数式化」の罪と罰 

第5章 人類とAIの超えられない壁

・なぜホモサピエンスは「アバウト」なのか ・社会科学のレノンとマッカートニー ・行動経済学の正しさは実社会が証明する ・人間の脳は欠陥品だが優れもの ・「過去の自分が今の自分をつくる」 ・「安かろう悪かろう」という認知バイアス ・1割くらい重くないと、重量の付加に気づかない ・客観的価値は正確に認知できない ・対数に変換された感覚刺激 ・損失を過大評価する人間の性 ・現状維持バイアスの恐るべき威力 ・「変えなくては」と思ったら、もはや手遅れ ・脳の自動意思決定装置―ヒューリスティクス ・パターン認識で失敗する社長 ・顧問・相談役として遇される無用の人 ・大塚家具のお家騒動と人間の本能的感情 ・誰も知らない「感情」の真の役割 ・本能的感情がなければ行動は起こせない

第6章 大企業が機能しない神経学的理由

・理性の時代から感情の時代へ ・道徳は善でも徳でもない ・理性的であることに疲弊する現代人 ・平等だった年功序列制度 ・内部統制で不祥事は防げるのか ・大企業病をもたらす「大きな群れ」のルール ・社員150人説を信奉するハイテック企業 ・「世界観」と「共感」、そして官僚的組織 ・トランプ大統領の「世界観」に熱狂する人々 ・強制される世界観か心酔する世界観か ・「創業の理念」をどこまでのこすべきか ・「やってみなはれ」と重なるアマゾンの「反対だがコミットする」 ・「チャレンジ」を変容させてしまった東芝 ・大企業は変化の時代にそぐわない ・「一業一社」の原則で会社を分離する ・「人は感激に生き保守に死す」 ・人間は「ある程度の理性をもったサル」と自覚せよ

 

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2017年6月13日 (火)

AIにも直感があるのか?(人間の脳もGoogleのAIも中身はブラックボックス)

  AI(Artificial Intelligence)は日本語にすれば人工知能。これに対して、人間の知能はNI(Natural Intelligence、直訳で自然脳)というそうだ。人間の脳をまねて人工的な知能を創ろうという研究は、1950年代に、現在のコンピュータの原型といえる機械の開発製造が始まるとともにスタートしている。ここで興味深いことは、AIの研究が始まるとともに、人間の認知の仕組みを研究する認知心理学も誕生していることだ。

  それまでの心理学では、脳の仕組みはブラックボックスだとして、どういった刺激を受けたら、どういった反応をとるかといった観察可能な研究をすることが科学的だとされた。行動主義心理学とよばれ、創始者のジョン・ワトソンは、「パブロフの犬」の実験に影響を受けたといわれる(ロシアの生理学者パブロフは、ベルを鳴らしてから犬にエサを与えることを繰り返すと、犬はベルが鳴る音を聞くだけで唾液を出すようになるという実験をした。刺激(ベルの音)への反応(唾液)・・・という条件反射の理論を1903年に発表している)。

  ジョン・ワトソンは一流大学で心理学を教えていたのだが妻がありながら教え子との恋愛沙汰が問題になり辞職せざるをえなくなった。だが、けっこうしたたかな人だったようで、その後、広告代理店J.W. トンプソンの重役として理論を実践に移した。つまり、広告という刺激を与えれば、消費者はどう反応して購買行動を起こすか・・・といった分野で才能を発揮したのだ。彼が手がけたインスタントコーヒーや練り歯磨きの広告はスポンサーの売上増大に貢献し、大学教授のころとは比べものにならないくらいの収入を得て、富を築いたといわれる。

  行動主義は1910年代に注目を集め、その後、40年もの間、心理学の主流となった。

  だが、人間の脳のなかで何が起こっているかを無視した行動主義の考え方に反対する心理学者もいた。彼らは、1950年代に始まったコンピュータや情報科学の考え方の影響を受け、人間の脳も情報システムとみなし、その情報処理過程を明らかにしようとした。これが認知心理学(cognitive psychology)の始まりだ。(ちなみに、囲碁の世界的名人に勝って一躍有名になったAlphaGo/アルファ碁を開発したDeepMind 創立者の一人は認知神経科学で博士号をとっている)

  それ以降、AIと認知心理学の研究は互いに影響を受け合いながら発展してきた。90年代にはfMRI(機能的磁気共鳴映像装置)といった技術の利用が進み、人間が本を読んだり購買決定したりするときの脳内の変化を観察できるようになり、脳への理解はそれ以前とは比べられないくらい深まった。・・・とはいえ、人間の脳の仕組みについては、まだまだ、わからないことばかりだ。

  そういった意味で、AIがNI(Natural Intelligence)を超えるかどうかという最近の議論は、議論すること自体がおかしな話。模倣する対象が未知なのだ。まだわかっていないものを模倣することは無理だろう。大体において、NIは模倣に値する価値があるのだろうか? 後から説明するが、人間の情報処理過程には欠陥が多々ある。欠陥が多々あるゆえに「人間は面白い」とコメントすることもできる。だが、わざわざ欠陥がある情報処理プロセスをAIに備えつける必要もないだろう。

  そういった意味で、AIはNIとは異なる知能として発展していく可能性のほうが高いし、そうすべきだろう。

  たとえば、もっとも複雑なゲームとされる囲碁において、AIが人間に勝ったということで話題になっている。が、人間の情報処理プロセスにある欠陥や弱点を考えると、そういった弱点の少ない機械が勝つのは当前だともいえる。

  ・・・ということで、まず、最初に高次情報処理システムといわれる人間の脳の「認知」の仕組みを説明してみる。そうすれば、いまのコンピュータにはないいくつかの制約がNIにはあることがわかる。

  人間は5つの感覚を通して外界から情報をとりいれる。視覚(目)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(口)、皮膚感覚(触覚、圧覚、温覚、冷覚、痛覚を含む)がなければ、外界の情報(刺激)はまったく入ってこない。これは、改めて考えてみると不思議なことだなあ・・・と、私は感慨深く思ってしまうのだが、読者の皆様はどう感じられるのだろうか?  

  いずれにしても、今のところ視覚と聴覚中心のAIに比べると人間には多様なセンサーが備わっている(センサーに関しては、AIのほうに制限があることになる)。

  知覚(perception)というのは、心理学では3つのプロセスに分解される。

  1. <接触>5つの感覚を通して外界からの情報を受け取る
  2. <注意>人間の脳には容量の限界があるために、外界刺激すべてを取り入れてすべての情報を処理をすることは物理的に無理。そのために、どの刺激を情報処理するか選択したり、どのくらいの容量を割り当てるかを決める。無視して脳内に取り入れない情報もあれば、かなり注力する情報もある。
  3. <解釈>刺激の意味をくみ取るために情報を解釈して符号化する(そして記憶する)

  この知覚の3つの段階それぞれにおいて、過去の記憶(経験の記憶+蓄積された知識)が大きな影響を与えている。たとえば、どの刺激に注意を払うかは、過去の記憶情報に基づいて選択する。つまり、自分にとって意味あるものを選択するということだ。無意味だと判断すれば、選択しない。

  ソーシャルメディアはパーソナライゼーション・サービスとして、ユーザーが過去読んだカテゴリーの記事や関連記事だけを選んで送る。結果、ユーザーは自分の好みの記事とか意見にしか接触しないことになる。こういったやり方は、異なる意見を無視し幅広い視野で物事を判断する可能性を狭めることになる。ポピュリズムの風潮を促すことになる、ゆゆしき問題だという議論がある。

  たしかにその通り。だが、上に説明したように、人間の脳もソーシャルメディアがしているような情報操作をしている。知覚過程における情報操作 + ソーシャルメディアのパーソナライゼーション・サービス = 実際には、二重にバイアスがかけられることになる。たしかに、ゆゆしき問題だなあ・・。

  このように、人間の知覚過程における欠陥や弱点は、脳の記憶容量や情報処理のやり方から生まれる (ただし注釈をつければ、自分にとって意味あるものだけを選択することは欠陥といえば欠陥だが、それが、人間一人ひとりの個性をつくっているということもできる。だから「人間は面白い」・・・となる)。

  外界の出来事を五感を通して情報として取り入れ(知覚)、脳の中で情報処理する(考え、学習し、記憶する)。この情報処理過程を「認知 cognition」という。

  この認知の段階で事実をゆがめて把握したり、非論理的な解釈をしたりすることを認知バイアスという。

   認知バイアスのなかには、

  1. 事実をゆがめて把握(脳の容量の問題から、自分に意味あるものだけを取り入れたり、自分独自の解釈をしたりする)
  2. 認知の近道といわれるヒューリスティクス(脳への負荷が少なく意思決定も早くできる)
  3. 感情に影響されて事実をありのままに把握できない・・・などがある。

  二番目のヒューリスティクスについて少し説明をつけ加える。人間の情報処理能力には限界があるため、意思決定に関しては、複雑でなく簡単なヒューリスティクス決定方法を使うことが多い。進化の歴史のなかで、獲得した知識というか要領であり常識と呼ばれることもある。ヒューリスティクスを利用することで、どの選択肢がよいかいちいち比較検討する時間の節約ができる。たとえば、「安かろう悪かろう」や「希少なものは価値がある」「よく知っている企業やブランドは信頼できる」などのように、大方の場合、この判断は正しい。だが、残りわずか100個とか言われて、希少価値を感じてしまい買ってはみたが、使ってみたら、それほどのものではなかったという例も多い。新聞広告を出している会社だから大丈夫だろうと思って投資をしたら、詐欺だったという例もよくある。

  それでも、私たちは無意識のうちにヒューリスティクスな判断をしている。初対面の人を着ている洋服で判断したり、会計士なら生真面目だろうとか職業で性格を判断する。なぜなら、ヒューリスティクスな決定方式なしには、一日24時間あっても足りない。脳は情報処理の多さに機能不全となってしまう。

  ヒューリスティクスな決定のなかには、AIの深層学習で有名になったパターン認識も含まれる。

  人間のパターン認識とは直感や勘ともいわれ、20世紀の名経営者といわれたジャック・ウェルチ(GEの元CEO)は、「私は直感や勘に依存して経営判断を下す」と発言し、ついで、「直感というのはパターン認識をしていることだ。パターン認識というのは、自分の過去の経験を思い出し、その時の経験に基づいて意思決定をする仕組みだ」とも言っている。

  パターン認識というのは記憶から検索された情報と外界からの刺激情報とをマッチングさせるプロセスであり、知覚の対象が特定のパターン(類似性によって抽出された観念)に当てはまるかどうかを認識すること。おおよそあたっていることが多いが、あくまで、記憶の中に存在するテンプレートで最も適合するものを見つけるとか、特徴が似ているということで見つけるわけだから、間違っていることもある。たとえば、経営者が高度成長時代に成功した体験に基づく直感や勘を採用するとして、その場合、過去とは異なった事情や環境にあることを無視しているわけだから、判断ミスを招くことがある。

  パターン認識は「認知プロセスの近道」で、進化の過程で発達した脳の仕組みであり、パターン認識の能力が人類を他の動物種から大きく進歩するのを促したといわれる。だが、自動的、かつ自発的、無意識のうちに実行されるので、自分自身でもどうしてそう判断するのかは説明できない。また、複雑な査定には向かない。ジャック・ウェルチも、パターン認識で判断をするといいながらも次のように付け加えている・・・「直感は非常に重要なデータで、このデータと現在の状況に関するデータを組み合わせればすぐれた判断ができる」。

 人間のパターン認識と機械のパターン認識とを比較するために、将棋の例を考えてみる。

  将棋士たちは幼いころから数えきれない対局を通してコマを盤に並べる膨大な数のパターンを記憶しているはずだ。無意識のうちに、記憶しているパターンと比較して、形勢の不利有利を判断し、羽生善治名人がいうところの「(妙手)をなんとなく思いつく」。

 これが、将棋士の直感というものであろうと考えた理化学研究所は、日本将棋連盟の協力を得て、富士通、富士通研究所と共同で2007年から、将棋士の直感について研究している。最近では、脳のどの部分が活性化しているかをチェックできるfMRI(機能的磁気共鳴映像装置)を使った実験で、大脳基底核が直感の創出に大きく関与していることがわかったと、神経科学のジャーナルに発表している。

  記事によると、アマチュアとプロが次の一手を考えているときに、脳のどの部位が活性化するかをチェックしたところ、アマチュアが考えているときには考えていることを意識しており大脳皮質が活性化したが、プロの場合は無意識で大脳基底核の尾状核が活性化していたという。

  大脳基底核は進化的にはもっとも古い脳に属し、3億年前には地球上に登場したとされる爬虫類の脳にはすでに存在していた。1億年前に登場した小型哺乳類になって発達した大脳皮質と比べれば、かなり古い。だが、この大脳基底核と大脳皮質とはさまざまな神経経路でつながっており、最近では、尾状核が記憶や学習に深い関係があるらしいと推測されている。

  直感を養うためには長期間にわたる訓練と経験が必要だといわれる。プロ棋士の多くは子供のころから将棋のトレーニングを毎日3~4時間、約10年間にわたって受けている。その結果、論理的思考をつかさどる大脳皮質の部位と尾状核との神経経路が構築され強化され、それが、プロの将棋士の直感力につながっているのではと考えられている。

  だからといって、人間の脳の直感の仕組みがわかったわけでもない。仮説があるだけだ。だから、これから説明するAIの直感とNIの直感とはどう違うのか?という話などできるわけでもない。

  でも、してみる。

  AIにもいろいろあって、eコマースやソーシャルメディアに使われている対話型のチャットボットはAI搭載と銘打っていても、ルールデータベースシステムが使われていることが多い。これは、あくまで人間が考えたシナリオに従って、もしこういうような質問をされたら、こう返事しろと・・・とプログラムしているだけだ。機械自らが考えて判断しているという意味では、本当のAIではない。

  AmazonのAIスピーカーAlexaやAppleのIPhoneのSiriなどは、音声認識に機械学習の深層学習をつかっているので、質問を判別する比率は高くなっている(判別するだけで意味を理解しているわけではない)。答えも、クラウドデータベースが後ろにあるため、言葉のやりとりの組み合わせの種類が膨大になっても取り扱える。会話が不自然さを感じさせないようになる。まるで、本当にAlexaやSiriが考えて判断しているように思える。だから、表面的にはIntelligentであるように(知性があるように)思える・・・だけだ。

  機械が自分で考え判断しているという意味では、やっぱり、Googleの子会社DeepMindの囲碁に特化したAI「AlphaGo」の例を挙げなくてはいけないだろう。世界のトップクラスの囲碁名人に勝利して話題になり、ニューラルネットワークの機械学習、そのなかでも深層学習(Deep Learning)が一般的にも使われる言葉となった。

 ニューラルネットワークの機械学習は新しいものではない。研究は、1940年代ごろから始まっている。

 人間の脳の中には多数のニューロン(neuron 神経細胞)が存在しており、各ニューロンは,多数の他のニューロンから信号を受け取り,また,他の多数のニューロンへ信号を受け渡している。信号の受け渡しが常に行われる場合、神経同士の結合が強化され神経経路が構築される。脳は,この信号の流れによって,様々な情報処理を行っているわけだが、この仕組みをコンピュータ内に実現しようとしたものがニューラルネットワーク(neural network)だ。ただ、研究が始まった年代にはコンピュータの性能が低すぎた。

  機械学習(machine learning)とAIとは、ほとんど同義語のように使われているが、あくまでAIというかニューラルネットワークの考え方やアルゴリズムのひとつ。子供が体験や教科書から学んでいくように、コンピュータがデータから学習していき、その結果を一般化(モデル化)する。たとえば、不動産の価格を予測したい場合、過去10年とか5年の物件に関するデータ(大きさ、部屋の数、トイレの数、その他詳細なデータ)とその物件の売価を入力して学習させる。学習の結果、ある物件の詳細データを入力すれば、その物件の価格を予測して出力してくれる。これを「教師つき学習」という。

 ディープラーニング(deep learning 深層学習)は、従来の機械学習よりも、より多くの神経細胞や神経細胞結合を実現したものだ(たとえばAlphaGoのニューラルネットワークは13層になっている)。

 人間の認知活動におけるパターン認識を模倣実現することが可能になったのは、

  1. コンピュータのパワーの発展・・・90年代半ばから2010年ごろにかけ、並列処理コンピューティングや分散処理コンピューティングの登場により、膨大なデータを従来よりもコスト安にかつ迅速に分析できるようになった。とはいえ・・・人間の脳は分散並列処理で、1000億のニューロンの一つ一つが1000から10000個のニューロンとつながっている。そして、fMRIで観察すると、脳内の多くのニューロンや神経経路が同時に活性化してタスクを実行している。そのせいで、どの部位がどういった役割をしているのか判断するのがむづかしいくらいだ。大規模なニューラルネットワークは、数十あるいは数百の複雑に相互につながっている層に配置された数千の疑似ニューロンをもつとはいえ、人間の脳とはまだまだ次元が違う。
  2. ビッグデータの登場・・・膨大なデータで学習できる。その点において、GoogleやFacebookのような継続的に新しいデータが収集できるビジネスをしている企業は、IBMのようなビッグデータを収集する仕組みのない企業に対して、AIの研究・育成において大きく優位に立つことができる。
  3. もちろん、テクノロジーの進歩もある。ニューラルネットワークにおいてニューロン(神経細胞)の層や数を増やすことによって深層学習が可能になったことや、また、機械学習に強化学習を採用するようになったことも重要な進歩だ。強化学習ではコンピュータがあるタスクを繰り返し実行し、どの決定が最大の報酬をもたらしたかを記憶することで、どの決定が優れているかを自ら学習していくことが可能になる。強化学習は、最初に書いた行動心理学からアイデアを得ている。犬はご褒美がもらえるから芸をする。どの芸がより大きなご褒美をもたらすか学習するから、よりむずかしい芸をマスターするようになる。機械も同じで、どの選択判断が最大の報酬をもたらすかを学習すれば、行動の選択肢と報酬をチェックすることで、みずから意思決定(選択)することができるようになる。

  ここで、世界でトップクラスの囲碁名人に勝ったAlphaGoの仕組みをチェックしながら、深層学習とか強化学習がどう活用されたかまとめてみる。

  AlphaGoはGoogleが2014年に買収した英国のDeepMindが開発した。2016年3月に世界一の囲碁棋士といわれる韓国の李 世乭(イ・セドル)9段に4対1で勝っている。そして、つい最近、2017年5月25日に世界最強とされる中国の柯潔(カ・ケツ)9段にも勝利を収めた(で、イ・セドルとカ・ケツと、どっちが世界最強なの?)

  最初にAlphaGoの学習の仕方を説明する。

  1. まず、プロの棋士が実際に試合した16万件の囲碁データベースからの3000万種類の手が、AlphaGoのニューラルネットワークに入力され、教師つき学習をする。
  2. その後、AlphaGoは自分とは少し異なるバージョンのニューラルネットワークと繰り返し数百万回の試合をした。そのさい、AlphaGoは、強化学習手法によって、各試合ごとに自分にとって最大の報酬(この場合は、盤上で最大の陣地を獲得することができた手、つまり勝利をもたらした手)を記憶していった。それによって、AlphaGoは自分独自のレパートリーを獲得することができるようになった。
  3. 次いで、AlphaGo対AlphaGoの試合で使われた手をもう一つのニューラルネットワークに入力し、一手一手が最終的に勝利をもたらすかどうか、その確率を予測するように訓練させた。この時使われた手法はモンテカルロ木探索で、勝利する確率を計算した。人間ではない機械による数百万の手を二番目のニューラルネットワークに入力して、結果を予測するように訓練したわけで、これが直感を可能にしたと開発者は考えている。
  4. つまり、二つのニューラルネットワークがいっしょになって、局面ごとに手の最適化をする。一つのニューラルは、その局面でベストな選択肢の数を狭める。ついで、もう一つのニューラルが、各選択肢がもたらす終局での勝率を計算をする。このとき、使うのがモンテカルロ木探索手法だ。各選択肢が最終的にどのような結果をもたらすかを、すべの枝(可能性)をたどって計算することはコンピュータでも天文学的な時間がかかるので無理(打つ手の選択肢の多い囲碁のゲームの木の枝の総数は10の360乗、将棋は10の220乗、チェスは10の120乗。だから、AIは最初にチェスで人間に勝利をおさめ、次いで将棋、最後に囲碁で勝利した)。それで、可能性が高い枝をいくつかほとんど無作為に選んで、最終的結果の勝率を計算。その結果で、各選択肢に重みをつけ、ベストな選択肢(打つ手)を決定する。

  この学習の仕方をみても、AlphaGoが人間のプロの名人に勝利を収めることは当然であることがわかるだろう。いくら幼いころから将棋をうち、多くの経験をしているといっても(そして、むろん、過去の名勝負の手についても勉強して知識としてもっていても)、16万件の試合のなかの3000万種の手を記憶することはできないだろう。人間の脳はそこまで容量がない。

  AlphaGoにしても、名人に勝ったとされる他のAIにしても、碁に特化したAIだ。そのうえ、、コンピュータは24時間寝ないでご飯もたべないで勉強できる。プロの名人になる条件に、子供のころからなるべく多くの経験を積むことがあるとしたら、それだけでAIに負けてしまう。

  次に、AlphaGoに直感があるかどうかの話に移ろう。

  AlphaGoがイ・セドルに勝利を収めたとき、AIが直感を獲得したかどうかが話題になった。問題になったのは、第二局の黒の37手だ。イ・セドルだけではなく、AIと対決して負けた囲碁や将棋の名人の多くは、「(AIは)人間が気がつかない手をうつ」とコメントする。あるいは、また、「囲碁と違う競技をみているようだ」というコメントもあった。黒の37手もそのひとつで、常識からかけ離れた手だったらしい。実際、最初に学習させた3000万種の手のなかには存在していないものだった。

  AlphaGoの開発責任者で強化学習の専門家のデビッド・シルバーは、黒の37手は、明らかにAIが人間でいうところの直感を発揮したと考えている。試合のあと、シルバーが調べてみると、AlphaGoは、この手をプロ棋士が打つ確率は一万分の一だという計算をしていた。その手を確率が非常に低いにもかかわらず打ったということは、AlphaGoの直感が働いたからだとシルバーはいう。

  シルバーは、AlphaGoはプロの棋士が使う確率は1万分の一と非常に低いことを打つ前に知っていた。だが、また、報酬が多いことも知っていた・・・と語る。「AlphaGoは内省(introspection)と分析の結果、自分でそれを発見したんです」と語っている。

  うーん・・・。

  • AIと将棋や囲碁をして負けた名人の幾人かが、「人間が打たない手を打つ」とコメントしている。これは、人間の認知バイアスで説明がつくのではなかろうか? プロは、従来、プロが打ってきたパターンを勉強する。それが代々続いているわけだ。時々、まったく新しい手が発見されることがあるようだが、それでも、各名人の脳の中の記憶にあるのは、ある程度似通った内容だろう。だが、ゲームに特化したAIのなかには数千万件のデータがあり、そのデータをつかってAI同士で数百万回の試合をしている。新しい手を発見する確率はより高くなる。
  • 最終的勝利の確率をするモンテカルロ木探索手法は、モンテカルロ木探索ヒューリスティクスとも呼ばれる。なぜなら、すべての枝を最後まで追跡することは天文学的時間が必要になるので、コンピュータでも無理。ほとんど無作為に最終的勝利をもたらすような枝だけを追跡するようにする。「ほとんど無作為に」という言葉に、直感が含まれているかもしれない。完全な無作為ではなくて、過去に勝利に導いた手とか、いまの試合でよかった手とかのデータに基づいて重みを変えて選択している。これを直感と呼べるのかも? この場合、「無作為 random」という言葉を人間的に「無意識」に変えてもよいかもしれない。

  以上のような推測はできるけれども、なんともいえない。人間の直感や勘についての仕組みもわかってないのだから。

  どちらもブラックボックスなのだから。

  ニューラルネットワークの深層学習+強化学習をつかって、結果として、ゲームでは人間に勝てるようになったとか、Google検索でより正確なマッチングができるようになったとか、Facebookが写真から人間の顔を認識できるようになったとかいっても、中身がブラックボックスでは・・・・。人間の脳の意思決定プロセスが明らかになっていないのと同じではないか。

  AlphaGoを開発したDeepMindという会社の創立者の一人でCEOのデミス・ハサビスは、computational neuroscience(計算論的神経科学と訳すそうだ。これは人類の知性がどのようなものかを学ぶことで、どうやって知的コンピュータを創るか研究する学問だそうだ)や認知神経科学を学んでいる。だから、人間の脳の仕組みについてはよくわかっているはずだ。

  DeepMindは、大脳皮質をリバースエンジニアリングするといっている。同じように、AIをリバースエンジニアリングすることで、ブラックボックスを明らかにしようという試みも始まっている。AIが、どうやって、そういった結論に達したのか、所有者が知らなければ、法律的問題になる可能性もある。EUは2018年には、AIが下した結論について(融資の可否、病状診断、その他)、AI責任者はユーザーに答えることができなければいけないという規則をつくるかもしれないのだ。

  最後に、囲碁や将棋の話にもどります(といっても、私は、囲碁も将棋もできません)。AlphaGoに負けたイ・セドルは、試合後に、コンピュータと対決することで「もう前より強くなりました・・・コンピュータから新しいアイデアをもらったんです」と語っている。日本の将棋界でも、昨年デビュー以来現在(6月27日)25連勝中の中学生将棋士は、一年前から将棋ソフトを活用している。それが強い要因の一つではないかといわれている。読売新聞の記事によると、ソフトは1手ごとに、先手後手のどちらがどのくらい有利かを数値で示す。これを参考にしているそうだ。「ソフトを繰り返し使うことで、特定の局面がどちらがいいかを判断する力は磨かれていったと思う」と藤井四段はコメントしている。これって、AlphaGoの強化学習に似てるよね。

  人間には様々な認知バイアスがある。このブログでは脳の記憶容量の制限から生まれるバイアスが中心になったが、感情に影響される認知バイアスもある。感情がないコンピュータは、その弱点をカバーして正しい判断に導いてくれるだろう。人間もAIと、スタートレックのカーク艦長とミスター・スポックのような関係になれれば、これまでの何十万年の進化の歴史でしてきたように、また、大きな困難を乗り越えることができるようになるのでは・・・。

 

参考文献: 1.What the AI behind AlphaGo can teach us about being human, Wired, 5/19/16, 2. How the computer Beat the Go Master, Scientific American 3/19/16, 3. Intuition May Reveal where Expertise Resides in the Brain , Scientific American 5/1/20015,4.直観をつかさどる脳の神秘、RIKEN NEWS 4/11、5.将棋プロ棋士の脳から直感の謎を探る、RIKEN NEWS 9/09,6. Can we open the black box of AI? Nature 10/5/16、7.「終盤、驚異の逆転劇」読売新聞、6/3/17、8. With Siri, Apple could eventually build a real AI, WIRED、8. Language:Fiding a Voice, Economist、9.棋界、AIに完敗の衝撃、朝日新聞、6/9/17

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2016年11月 6日 (日)

メーカーと小売業、2つのメンタリティの矛盾にゆれるユニクロ

  セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文名誉顧問は、以前から、価格は価値のひとつだと発言している。たとえば、2008年発行の「朝令暮改の発想(新潮社)」でも、「低価格は価値の一要素にすぎない」と書いている。このときは、深く考えもせず読み進めてしまった。が、2015年10月発行の「セブン&アイ+ (グループ内広報誌だが7万人に配布されているので、読みたい人は簡単に手に入る)」での発言には驚いた。

  インタビュー記事で、「価値と価格の関係、どうなっているのでしょうか?」という質問に、「まず、皆さんに理解してほしいことは、価格は価値のひとつだということです」と答えている。

  記事の見出しも、「価格も価値の一つの要素」となっている。

  えっ、えっ、え~?!

  「価格戦略」系の本には、基本的プライシング手法として、コストに基づいた価格決定、競争関係に基づいた価格決定、買い手が感じる価値に基づいた価格決定などが紹介されている。そのなかでも、継続的利益をもたらす手法として価値にもとづくプライシングがいまの常識とされ、「マッキンゼープライシング(ダイヤモンド社)」の第二章にのタイトルは「価格を決めるな、価値を決めろ」という勇ましいものなっているくらいだ。

  「値ごろ感」の意味を問われれば、経営者の多くは、「提供している商品(サービス)の価値にみあった価格、あるいは、それよりはちょっとお得感があると消費者が感じるような価格」と答えるだろう。価値に基づくプライシングの考え方が浸透しているからだ。

  なのに、どうして、「価格は価値のひとつです」なんて言えるのか?

  ずっと疑問に思っていたのだが、最近になって、ハタと納得できた。

  小売業の人だから言えるコメントなんだ。メーカーの人は、こうは言わない(って、こんな当たり前なこと、すぐに思いつかなかったのか!ってケチつけられそうだけど)

  一番わかりやすい例がアマゾンだ。

  アマゾンでショッピングする理由には、「配達が早い」とか「サイトの使い勝手がよい」とか「品揃えが豊富」に加えて、「価格が安い」・・というのもあるはずだ。同じ商品でも、値段の異なるいくつかの出品者をずらっと並べて比較できる。たとえば、パナソニックのナノヘアードライヤー(型番も同じもの)を例にとれば、出品者によって5つくらい異なる価格で提供されている。条件を比較してみると、安いものは配送に一週間くらいかかる。そして、配送日数が短いほど価格は高くなる。型番も同じまったくの同一製品が価格を含む異なる条件で販売され、買い手は比較対照して選ぶ。

  このように、アマゾンでは、明らかに、価格は価値の一要素となっている。

  メーカーから商品を仕入れて販売する小売業の立場からいえば、他の小売店でも同じ商品を販売しているのだから、価格は提供する価値の一部だ。だが、メーカーにとって、自分達が提供するブランド(商品)の価格は買い手が知覚する価値に基づいたものでなくてはいけない。

  メーカー(作り手)と小売業(売り手)の価格に対するメンタリティ(心理構造)は大きく異なる。

  メーカーと小売業の関係の歴史は、ある意味、価格をめぐる戦いの歴史だ。

  戦前、独占禁止法がなかった時代、メーカーは自社商品が安売りされないように、流通チャネル内の卸売業者や小売店を系列化し、リベートやその他の特典を提供するかわりに、「決められた小売価格を守る」とか「類似商品を取り扱わない」等々の取り決めを厳守させた。

  このやり方を、戦後、独占禁止法が1953年に成立してからも続けたのが化粧品業界だ。

  資生堂の系列小売店制度(チェーンストア制度)は、1923年にさかのぼる。20年代は、第一次世界大戦後の不況に関東大震災による震災恐慌が重なり、乱売が盛んに行われ、小売店や問屋でもつぶれるところが多かった。過度な安売りを防ぐために、全国で売られる資生堂商品の値段が同一になるような流通の仕組みとして、資生堂はチェーンストア制度を構築した。

  第二次大戦後、1953年に独禁法が成立。これによって安売りが横行するようになるのを恐れた化粧品業界は強力なロビー活動を展開し、メーカーが小売店に定価を守らせることができる再販制度(再販売価格維持制度)を成立させるのに成功した。再販制度を推進した趣旨は、おとり販売や乱売からブランドを守るため・・・となっている。(再販制度は97年に撤廃されている)。

  小売り価格の維持に固執したのは化粧品メーカーだけではない。家電メーカーも同じで、安売りをする小売店、とくに、1960年代になって台頭してきた大規模小売店とのあつれきは大きかった。有名なのが、松下電器産業(現パナソニック)とダイエーとの大ゲンカだ。

  1964年から1994年の和解まで30年近くつづいたケンカで、当時は「ダイエー・松下戦争」とか「松下・ダイエー戦争」とかいわれた(どっちの名前が先に出るかを気にしたのは両社の社員だけだと思うけど・・・)。

  ケンカの発端は、「価格破壊」を掲げたダイエーが、松下電器の商品をメーカー小売希望価格からの値引き許容範囲の15%を超える20%引きで販売しようとしたことにある。松下電器は、それを阻止するため、ダイエーへの商品出荷を停止。ダイエーは、そういったやり方は独占禁止法違反に抵触するとして告訴した。この戦争は、松下幸之助が亡くなった1994年に終わった。もっとも、そのときには、家電販売の主要チャネルは家電量販店に移っていたわけで、両社にとって和解が売上に影響を与える時代ではなくなっていた。

  量販店やネットでの安売りが当たり前の今からみると信じられないかもしれないが、メーカーにとって、どこか一つが価格を下げれば、追随する店舗が出てくるわけで、安売り合戦になる。安売りは、ブランド価値の低下につながりやすく、断固受け入れられないことだった。

  話を戻します。

  定価より安く買うことが当然のようになっている現状について、いくつかの理由があげられている。ハイテク製品に限られるが、テクノロジーの進化でコストが下がったという理由がひとつ。デフレ慣れという説もある。バブル崩壊後、20年続いたデフレのなか、消費者は値段が下がることはあっても上がることに慣れていない。値段が上がることへの抵抗感が強いというわけだ。企業自身もデフレ慣れしているから、売上が下がるとすぐに値段を下げるという最も知恵のない戦略をとるという説もある。

  もうひとつ、市場における力関係において、メーカーの力が衰え、小売の力が相対的に大きくなったからだという理由もあるのではないか。

  価格を価値の一部だと考えている小売の力が市場の支配権をにぎった。ブランドを大切にし安売りに大きな抵抗感を感じるメーカーの力が衰えた。ネット通販が安売り志向を促進しているという説もあるが、それは、ネットというツールを効果的に利用できているのが小売業だからだという言い方に変えることもできる。

  で、いよいよ、本題のユニクロの話に移ります。

  ユニクロが2014年に5%、2015年に10%と2年連続で価格を上げたところ、客数が減った。それで、今年になって一部商品の値下げをした・・・というニュースはちょっと驚きだった。ユニクロは・・・会社名でいえば、ファーストリテイリングは、そんな企業ではないと思っていたから。

  ファーストリテイリングはSPAということでメーカー(作り手)でもあるし小売業(売り手)でもある。だが、こと商品(ブランド)に関してはメーカーのメンタリティをもち、自社ブランドの価値を大切にし、価値に基づいたプライシングをする企業だと思っていた。

  アマゾンとかスーパーや家電量販店が、同じメーカーの商品、たとえば、パソナニックの洗濯機を異なる価格で売ることは、今の時代、メーカーにとって、それほど大きな問題ではない。小売価格が下がることが、そのブランドへの消費者の知覚価値が下がることに、すぐにつながるわけではないからだ。

  「パナソニックのナノヘアードライヤーは優れものだよ。買うならアマゾンだね。あそこなら安いから」・・・という消費者のコメントからわかるように、パナソニックといった企業ブランドやナノヘアードライヤーという商品ブランドの評価が下がるわけではない

  問題は、ユニクロのような小売とメーカーが一体化している企業が、同一商品の価格を上げ下げすることだ。

  牛丼の吉野家やマクドナルドのようなファストフード・チェーンも、作り手でもあるし売り手でもある。そして、両社ともに、同一商品の価格を上げたり下げたりすることを繰り返した結果、ブランドのイメージが損なわれ、消費者が知覚する価値が下がったという経験をもつ。

  たとえば、日本マクドナルド・・・。2000年に、ハンバーガーの平日半額セール(¥130⇒¥65)を実施。これが、ファストフードだけでなく他の業界での値下げの流れをつくったとされ、マクドナルドは「デフレの元凶」呼ばわりされた。そのマクドナルドは、2002年には低価格販売の効果が薄れたとして、ハンバーガーの平日の価格を値上げ(¥65⇒¥80)した。だが、既存店の売上が下がり、半年後には¥80から¥59の値下げに追い込まれた。

  同一商品の価格を下げたり上げたりすることにより、、消費者のマック商品の知覚価値も下がり、「ファミリーが食事するハッピーな場所」というブランドイメージが損なわれたことが指摘されている。

  メーカーでもあるし小売でもある製造販売業者は、自分の決断で価格を上げ下げできる自由があるぶん、商品(ブランド)価値への責任を負っていることも強く自覚する必要がある。

  (製造販売業者は価格を変える自由があるどころか、値下げすることで利益が下がるリスクを避けるため、コストを下げる工夫をする自由度も高い。だがコストを下げる努力が悪い方にむかうと、日本マクドナルドのように「安かろう悪かろう」タイプの仕入れ先を使い、期限切れの材料をつかった商品(チキンナゲット)を提供するという最悪の結果を招くこともある。この事実が2014年に発覚して売上は大きく落ちこんだ。最近になってやっと上向き傾向が出てきたとはいえ、マクドナルドは、2年近くもの間、ブランドイメージの改善に多大な努力を強いられてきた)

  製造販売業者は、価格は価値の一要素だという従来の小売業の考え方を採用するのか、あるいは、価格は価値に基づいてつけられるものだというメーカーの考え方を採用するのか?

  ユニクロは、昔は、メーカーのように考えていたように思われる。が、最近は、小売業の考え方をするようになっているのでは? 

  もう、覚えている人も少ないと思うが、2004年9月に、「ユニクロは低価格をやめます。」という宣言みたいな広告が新聞に掲載された。当時、「安売り」、「誰もが着ているからダサい」、「ユニクロを着ているとバレたくない」というような言葉で代表されるように、ユニクロのイメージが下がってきていた。広告は、そういった損なわれそうになったブランドイメージを払拭するための明確な価値宣言だった。

  22行の文章だけからなる広告は、「ユニクロはこれまでずっと、より上質なカジュアルを市場最低価格で提供しようと努力してきました。それはこれからも変わることのない、私たちの基本的な姿勢です。しかし、その低価格であることが、一部のお客様の『ユニクロは安物』という誤解につながっているのかもしれません」で始まり、「私たちは安さだけが特長となるような商品は決してつくりません・・・これからはさらに(品質を上げる)努力を続け、すべての商品を本当に価値のあるものにしていきます・・・ユニクロは・・・さまざまなコストを抑えることで販売価格を下げてきました。・・・ですから低価格をやめるからといっても、価格を下げる努力をやめるわけではありません。まずなによりも質があり、そして価格がある・・・・」とつづく。

  この宣言には作り手としての自負がある。矜持が感じられる。

  だが、最近のユニクロには作り手としての自負もプライドもないように思える。二度の値上げをしたときに柳井会長は、原料高や急激な円安を受け、「品質を維持するためには必要」と発言した。だが、既存店客数が減少したために今度は値下げ。

  品質を維持するために値上げするはずだったのでは? 値下げするってことは、品質も落とすってこと?・・・なんて、多くの消費者がそんな風に考えるわけではないだろう。だが、価格を上げ下げすると、消費者の商品への知覚価値もぶれてくる。そのせいかどうかわからないが、最近、ユニクロの品質が悪くなったという声も多い。実際、私自身、いつも黒と白の定番のTシャツを毎年買っているが、今年夏に買ったものは明らかに品質が落ちていた。以前は、数回洗濯をしてもそれほど変わらなかったのに、今年買ったものは一回の洗濯で、えりぐりがだらけてしまった。

  ユニクロはこれまでしていた週末の値引きセールの規模を縮小して、そのかわり、毎日安いEDLP(Every Day Low Price)戦略を採用するという。このやり方も、2000年代初めのマクドナルドの価格戦略を思い起こさせる。前述したように、マクドナルドは平日のハンバーガーを¥130⇒¥65に下げ、それを2年後に¥80に上げ、そのかわり、週末に¥130だったハンバーガーの値段を¥80にした。つまり、週末、平日にかかわりなく毎日¥80にしたわけだ。キャンペーン名も、それまでは、「ウィークデイ・スマイル」だったのを、ELDPならぬ「エブリデー・スマイル」に変えた。

  なんだか、やっていることは・・・というか、発想は同じだ。

  価格(単価)X客数=売上。小売りは価格を上げたために客数が減っても、結果として売上が上がれば問題ない。だが、価格を下げても客数が期待ほど伸びなくて売上が下がるのは大問題だ。

  価格を下げても客数が伸びないということは、多くの場合、成長が止まった市場のなかで似たような商品を販売する競合同士が客の奪い合いをしていることを意味する。

  1998年にフリースの大人気で、ユニクロは低価格だが品質・ファッション性もそこそこの新しいアパレル市場を創造した。だが、人気の市場には競合他社の参入があいついだ。ヒートテックが創造した新しい(機能性衣料品という)ミクロセグメント市場にしても、微妙に差別化された競合商品の参入がつづいている。

  ファーストリティリングの2016年8月期の連結売上高は1兆7864億円。伸び率は6%と前年の22%を大幅に下回った。10月になって、2020年度で5兆円という売上目標を3兆円に引き下げた。柳井会長も競合他社を意識して、「1990円、2990円といった、単純で買いやすい価格に戻したい。プライスリーダーは本来われわれだ。それを取り戻していく」と語っている。

  こういった数字や発言からも、ユニクロがターゲットとする市場セグメントが日本においては、これ以上伸びないところにおいて、競合他社との競争が激しくなっていることが推測できる。

  だからといって、ここで価格競争をしたら、ユニクロがターゲットとする市場セグメントは大きくなるのか? これ以上大きな成長が期待できない市場でシェア争いをすることは、業界の平均利益率を低下させるだけでなくブランド価値の失墜を招く。

  世界の先進国において、企業がターゲットとする消費者市場セグメントの規模は小さくなっている。少子化と価値観の多様化により、各市場セグメントが、多くのミクロセグメントに分割されるようになっている。少子化が他の先進国よりも進んでいる日本では、この現象はどこよりも著しい。

  こういった市場セグメントの小規模化に対処するためには、価格競争ではなくて、ターゲットとするセグメント(あるいはミクロセグメント)の中核となる消費者により強くアピールしてファンづくりをするほうが得策だ。

  たとえば、日本のマクドナルドは、ヘルシー志向の消費者をも取り込むために野菜中心のメニューをそろえたこともあった。だが、最近は、そういった中途半端なターゲットの設定をやめ、本来のマックファンのセグメントにアピールするために、肉食好きのためのヘビーなハンバーガーを新発売することで、一時の低迷から抜け出している。むろん、昔の(市場が成長していたころの)売上を達成することは無理だ。が、利益を増やすことはできる。

  市場シェアを奪回するために価格競争に走り、ユニクロの日本でのブランド価値がそこなわれれば、アジア市場にも悪影響を及ぼす。日本で一定のブランド・ポジションを築いているからこそ、ユニクロブランドはアジアの人達にも魅力的にうつる。が、日本でのイメージが「安かろう、悪かろう」になれば、アジア市場でもイメージが落ち売上も落ちることだろう。

  経営者、とくに創業者が会社を大きくしたいと強く願うのは当然のことだ。だが、今の時代、一つのブランドだけで、企業が大きくなることはむつかしい。いまは、小さな市場セグメントをターゲットとしたいくつかの個性的ブランドを抱えることで・・・、各ブランドの売上合計でグループ全体として大きくなる方法を採用している企業が多い。

  たとえば、米国の化粧品メーカー、エスティローダ。グループのなかに30くらいのブランド(主要なものは子会社になっている)をかかえ、それぞれが独立した個性的ブランドとして、化粧品市場のミクロセグメント内で大きなシェアを獲得している。2012年から15年までの間の業界平均年間売上成長率が1.5%なのに、エスティローダはそれをはるかに上回る5.6%を達成していることで、最近、その経営管理手法に注目が集まっている。 日本の花王も、メリット、ビオレ、ソフィーナといった各ブランドを花王とは無関係な独立したブランドのように取り扱うことで、全体として大きな売上を上げるブランドポートフォリオ戦略をとっている。

  ユニクロというひとつのブランドに依存しているだけでは、5兆円はむろん3兆円を達成しようというのも、いまの消費者市場においてはむつかしい。だいたいにおいて、ファーストリテイリングはユニクロよりも低価格で流行を追うGUというブランドをもっているのだから、「しまむら」と価格を競うならGUとやらせればいい。

  メーカーと小売りとを統合した形となっている製造販売業は、価格を変えることに極度に慎重なメーカーの考え方を再度、見習うべきだろう。そして、ユニクロにはもう一度、2004年の「ユニクロは低価格をやめます」宣言を思い出してもらいたい。あのとき、見せた自社ブランドへの矜持は、モノを作る人がもつべきプライドだ。それがなくなったら、ブランド価値は存在しなくなる。

参考文献: 1.Why Millennials Drive Estee Lauder's Market Share, Forbes 5/11/15, 2.迷走するユニクロ、値上げ後に早くも値下げ、東洋経済ONLINE 4/23/16, 3.ユニクロ、値上げ路線撤回で原点回帰、日経ビジネスONLINE 4/18/16, 4.ユニクロ値下げも客離れ、日経新聞4/5/16, 5.「SPAxデジタル」で進化、日経MJ 10/17/16, 6. 10歳GU柳井氏が叱咤、日経MJ 10/3/16

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