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2020年9月 1日 (火)

DXと「雇用を守る」との不都合な関係

 

  日本の政府や企業は、バブル崩壊後の失われた20~30年間、「雇用を守る」と「賃金を上げる」という二つの選択肢において、「雇用を守る」を選択してきた。

  2020年6月3日に、安倍首相が「雇用を守ることが最優先課題だ」として、最低賃金の年3%引き上げを断念したのは、そのよい例だ。

  デフレ脱却を目指す安倍首相は、「最低賃金を毎年3%上げて、全国平均で時給1000円を早期に達成する」という目標を2015年に表明していた。が、コロナ禍で失業が増えることを懸念して、雇用を(この場合は、中小企業の雇用を)優先することに切り替えたということだ。

  最低賃金が上げられなかったことについて、日本労働組合連合の会長は、「雇用を守ることと、最低賃金を引き上げることは、対立概念ではない」と記者会見で述べ、ささやかな抵抗を示した。たしかに、高度成長時代においては、雇用を守ることと賃金引上げは対立概念とはならなかった。だが、低成長時代ではどうだろうか?

  企業の人件費は、賃金X従業員数ということになるわけだから、人件費の増大を抑制するためには、賃金を上げないか、あるいは、従業員数を減らすしかない。

  低成長あるいはマイナス成長の場合は、2つの選択肢の一つを選ばなくてはいけない(もちろん、両方とも選択しなくてはいけない場合もある)

  いずれにしても、企業や政府が賃金よりも雇用を選択してきた結果、1997年~2017年の20年間で、日本の賃金は9%減少している。先進国唯一のマイナス国だ。同時期に、英国は87% 米国は76%、ドイツは55%上昇しているから、その差は大きい。その後、デフレ脱却を目指す政府は「賃金が上がれば物価も上がる」という考え方から、賃金を上げることを企業側に強く要請。結果、2018年と2019年に少し上がる傾向がみられた。が、コロナ危機で、その流れも立ち消えた。

  企業経営者はこう思っているかもしれない・・・「バブル崩壊後の失われた20年~30年、賃金は上がらなかった。だが、そのぶん、日本企業は、不景気になったからといってすぐに人員削減などしなかった」。政府も、日本の失業率は低い。労働者にとって良い政策をとっているからだと思っているかもしれない。たしかに、2000年から2018年にかけての日本の失業率は、米国やEU主要国に比べて常に低かった。OECD平均と比べてだいたい3ポイント程度低い水準で推移している。たとえば、2018年の数字をみると、日本2.4%、ドイツ3.4%、アメリカ3.9%、フランス9.1%・・となっている。

  米国企業のようにすぐに社員のクビをはねることはしない。2008年の金融危機後2010年の米国の失業率は15%を超えた。金融危機とかコロナとか有事のときでも、社員の削減なんて最後の最後までしない。それが日本企業の美徳だと思っている経営者も多いようだ。

  「日本企業は社員を大切にする」と自負する経営者も多い。つまり、高度成長時代につくられた雇用システムである終身雇用制を維持することは道徳的なことであり、そのために賃金を犠牲にすることもやむを得ないと考えている経営者が多いということだ。

  だが、これは、大きな勘違いだ・・ということを明らかにするために、いま注目のDX問題を例にとって説明させていただきたいと思います。

  で、話を変えて・・・。

  デジタル・トランスフォーメーションについてはすでに前回のブログで書いたので詳細は省くとして、トランスフォーメーションというからには、タカラトミーの玩具のように、ロボットが一瞬のうちに乗り物(乗用車、トレーラー、戦車)などに変身するイメージがなくてはいけない。だから・・というわけでもないが、IT業界やコンサルティング業界が定義するDXには、新しいビジネスモデルや新しい商品やサービスといったこれまでになかった新しい価値を創出することが含まれる。

  ところが、日本の場合は、DXで変身する以前に、レガシーシステムの一掃をしなければ先には進めない・・・危機感をもって、そう訴えたのが、2018年に経済産業省が公表した「DXレポート~ITシステム『2025年の崖』の克服とDXの本格的展開」だ。

  日本企業の約8割がレガシーシステムを抱えている(日本企業の場合、2025年においても、21年以上稼働しているレガシーシステムが全体の6割を占めるといわれる)。結果、さらなるデジタル化を必要とする経営戦略や事業戦略が実行できない。

  レガシー問題は先進国の多くに共通する問題だ。アジアや欧州の新興国はレガシーがないぶん、早い段階でデジタル化が競争優位の価値を生み出すことに成功している。

  が、古い技術やシステムを使っているシステムということだけで、必ずしも、デジタル化による変身の障害となるわけではない。

  日本がレガシーシステムの刷新に他の先進国よりも手こずっている理由は、自社システムがブラックボックス化していて、自分の手で簡単には修正できない状況に陥っていることにある。結果、レガシーシステムの刷新には巨額の費用がかかっている。

  経産省のレポートには、8年間で300億円かけて30年以上利用していたシステムを刷新し共通基盤システムを構築した食品業者、4~5年かけて25年以上利用していた基幹系システムを700億円かけて刷新した保険業者の例などが紹介されている。

  そもそも、日本企業のレガシーシステムはなぜブラックボックス化してしまったのか? 二つの大きな要因があげらる。

第1の要因:ノウハウや知識がマニュアル化されておらず特定の担当者の暗黙知となっている。そして、知識やノウハウをもっている担当者が会社をやめると既存システムの内部構造や動作原理がわからなくなりブラックボックス化してしまう。

  日本企業は1970年代、基幹業務用に情報システムの開発を進めた。しかし、ある程度の大きさの企業では、会社組織全体で共通したシステムを運営するのではなく、各事業部がメインフレームを持ち、事業部ごとの業務内容に合わせたシステムが開発された。90年代から、部門ごとに管理されていた情報処理を統合管理するERPが導入されるようになったが、このときも、既存のビジネスプロセスを改革することなく、追加プログラムをアドオンすることによって、各事業部に最適なシステムが開発維持された。

  こういった一連の開発を担ってきた人材が停年退職すると、明文化されず共有化されていないノウハウや知識が失われてブラックボックス化する。(ちなみに、日本市場におけるERPのシェアではSAPが一位。そのSAPが現在のERPのサポートを25年に終了すると発表したこともあって、経産省のレポートでは「2025年の崖」と25年に危機が訪れると警告している)。

  日本で情報システムのマニュアル化が進まなかった理由はいくつかある。たとえば、企業が汎用パッケージを使わずに新規にゼロから開発するスクラッチ開発を好んだり、あるいは、汎用パッケージを利用するとしても、自社の業務に合わせて過剰にカスタマイズする傾向が強かったことがあげられる。汎用パッケージを販売するベンダーもカスタマイズした方が売上げが増大するので、クライエントの要求に合わせる。どちらにしても、開発にたずさわった担当者がいなくなれば情報システムは不可視となり、自分の手で修正できなくなる。

 だが、なんといっても明文化が進まなかった一番の理由は終身雇用制にある・・と経産省のレポートも書いている。IT担当者が転職していなくなることを想定すれば、すぐに新しい人に引き継げるように明文化しておく必要性が感じられる。だが、終身雇用制では、担当者がいなくなることは想定されていない。だから、会社としても担当者にしても、マニュアル化が業務の一つであるという認識が甘くなる。

 

第二の要因:ITシステムをベンダー企業に丸投げしてきた歴史

  日米のITエンジニアの分布を比べてみると、日本ではエンジニアの7割がシステムインテグレーター(SIer)やベンダー側に所属している。米国はその反対で社内に7割近いエンジニアが所属している(ドイツやフランスは6割、英国では5割)。

  90年代末ごろからベンダーにIT関連の仕事を丸投げするようになった日本では、システムのノウハウどころかデータ知識もベンダー側に蓄積され、ユーザー企業側には残っていない。そして、70年代~80年代に最初のシステム開発を手掛けたエンジニアがいなくなると、ベンダーにも、情報システム全てがみえているわけではないので、ブラックボックス化したシステムの刷新に困難を極めるようになる。

   そもそも、日本企業はどうしてITシステムをベンダーに丸投げするようになったのか? 原因を調べてみると、米国でIT業務のアウトソーシングがみられるようになった80年末に、その趣旨が誤解して日本に伝えられたという経緯があるようだ。 

  1989年、 米国のイーストマン・コダックがIBMにコンピュータシステムの管理運営をまかせるという10年に及ぶ10億ドルの大型契約を発表した。従来、アウトソーシングは技術力のない中小企業が行うものと考えられていたのに、技術力の高いコダックがコア事業に経営資源を集約する構造改革の一環としてアウトソーシングした。競争力を高めるためということで、これ以降、米国において、アウトソーシング市場が急速に成長するようになる。

  この契約は、日本でも話題になったが、この時、アウトソーシングが「人員削減」や「部門の“丸投げ”」と報じられた。たしかに、コダックの情報部門から360 人がIBMに移籍したのは事実だったが、それを上回る800 人の人員がイーストマン・コダックに残った。情報戦略を作成するコアの部分はイーストマン・コダックに残されたわけである。だが、こういった点は日本では無視された。

  日本では、戦略を立てるというコアな部分まで含めたITシステムの丸投げが多くなり、92年に日本イーストマンコダックが情報処理システムを日本IBMに全面委託した時には、次のように朝日新聞(92年12月2日)に報じられた。

「日本IBMは1日、日本コダックのコンピュータシステムの運用・管理を10年間、丸ごと引き受ける契約を同社と結んだと発表した。アウトソーシングと呼ばれる事業で、日本コダックは、日本IBMに自社のコンピュータなどを売却し、情報処理を全面委託する。景気の減速で情報化投資を見直す企業は多く、経費が削減できるアウトソーシングに踏み切る動きはさらに広がりそうだ。アウトソーシングは、80年代後半、米国で登場した。89年、日本コダックの親会社、米イーストマンコダックは米IBMなど3社に、従業員もろとも情報システム部門を売却し、大幅な経費削減に成功したことから急速に広まった」

 

  さて、日本企業の情報システムがブラックボックス化してしまった大きな要因2つを上げた。が、これが、どうして「雇用を守る」に関連しているかを説明させていただきます。

  システムのマニュアル化が進まなかった背景理由として、終身雇用制の存在が指摘されたことは、すでに紹介した。同じく、誤解でひろまったITシステムの丸投げアウトソーシングが日本企業で広まったのにも、終身雇用制が関係している。

  どの会社も「雇用を守る」方針を貫けば、今の会社をやめたくても他の会社に空きがない。つまり、社員をやめさせないことが美徳だと多くの経営者が考えていれば、労働市場の流動化が進まないことになる。

  一方で、時代とともに事業の成長度は変化する。これまで会社の成長エンジンとなっていた中核事業の成長が衰えれば、これからの成長が見込める事業を始めなくてはいけない。米国では、60年代から80年代にかけて、M&Aを通じて多角化を進めより高い成長を実現することが流行した。日本の場合は、高度成長が終わった80年代に、成長の止まった事業が抱えていた余剰人員を新規事業に利用することで多角化を進めた。これは、組織内における労働移動であり、これによって、終身雇用制を維持しようとしたのだ。

  その結果として、新規事業部や子会社の乱立が進み、低成長時代になると、日本企業は、多くの赤字子会社や事業部を抱える結果となる(2009年に製造業史上最大の8000億円近い赤字を出した時の日立製作所は900を超える子会社を抱えていた)。

  労働移動といっても、人事部の人間を企画部に移したり、営業部に移したりすることはできても、情報システム部に移すことはさすがに無理がある。だからといって、余剰社員を削減しないのだから、新規のIT人材を大量に雇うことはできない。しかも、70年代のメインフレーム時代に雇った人間には、新しいITテクノロジーの知識やノウハウがない。だから、最新の知識をもったベンダーに全面的に頼るのが効率が良い方法だと考えられた。

  その後、レガシーシステムを保守運用していたIT人材が引退していく一方で、若い人材は、古いプログラミング言語や遅れた技術で構成されているレガシー・システムの保守運営にはかかわりたくないから、求人しても獲得できない。ますます、ベンダーに頼らざるをえなくなる。

  雑誌「日経クロステック」に、「技術者がやめるとIT部門はつよくなる」という記事(2008年4月25日)が掲載された。

  そこには、米国企業が優秀な人材を抱えたIT部門を作ることができる理由は労働市場の流動性があるからだと書かれている。重要なシステム開発プロジェクトが終われば、仕事の中心は保守・運用となり、優秀なエンジニアは必要なくなる。そうすれば彼らは会社をやめて、新しいチャレンジできるプロジェクトを提供する会社に移る。だから、企業も新しいプロジェクトがあれば、すぐに優秀な人材を集めることができる。反対に、日本の企業は大きなプロジェクトが終わっても労働市場が流動化していないので、エンジニアは残る。そして、やりがいを感じない保守運営の仕事をせざるをえなくなる・・・というわけだ。

  こういった話はIT人材に限ったことではない。同じようなことは、他の従業員にもいえる。今の仕事には将来性がないと思っている社員、やりがいがないと思っている社員がいても、「雇用を守る」のスローガンのもとに、「やめさせられること」はないかもしれないが、「やめること」もできない。

  人間はだれしも現状維持バイアスをもっている。現状がよほど悪くなければリスクを取りたくない。現状に不満があっても、現状を変えれば、今より悪くなる可能性もある。やりたいことがあっても、今より悪くなる可能性を考えてチャレンジしない。得るものよりも失うものの方の価値を大きく評価してしまう考え方の偏向は、人類に共通するもので、万国共通だ。

  現状がよほど悪くなければリスクは取りたくない。だから、多くの従業員は退職を迫られない場合、自分がそれほど興味がない仕事でも、これまでと同じ給与がもらえるなら、敢えて会社をやめる決断には至らない。リスクをとることを躊躇するのだ。

  拙著「勤勉な国の悲しい生産性」にも書いたように、日本企業の従業員のエンゲージメント率が、どの調査会社が調べても、異常に低いレベルにあるのは、現状維持バイアスに影響されて、不満や失望をかかえながらも同じ会社で働きつづけている従業員が多いからだ(もちろん、賃金が20年余、上がっていないという理由も大きい)。

  終身雇用制を維持することが従業員のためになると信じてきた経営者や労働組合は、この現状維持バイアスを促進・強化してきたことになる。

  人間の脳には、ある程度のリスク下にあり緊張を強いられたときに、ドーパミンやアドレナリンが放出され、気分が高揚する。転職して新しいチャンスに果敢に挑戦しようという従業員の心理だ。そういった心理は、変化の時代に新しいビジネスモデルやモノを創造しようとしている企業の従業員に必要な心理でもある。

  リスクにチャレンジする従業員を必要とする経営者が、「賃金を上げる」ことより「雇用を守る」ことを選択するのは矛盾している。

  「雇用を守る」ことが従業員にとって良いとことであり、会社の道徳だと考えるのは、経営者と労組代表どちらもの想像力の欠如にある。

  誰だって、自分が知っている人間のクビを切るのはいやだろう。自分と同期に入社した同僚、新入社員のころから知っている後輩、お世話になった先輩・・・つまり、自分が具体的なエピソードをもって顔を知っている人間に退職を迫るのがいやなのは誰でも同じだ。

  だが、想像してみてほしい。  

  たとえば、8年前に入社してきた社員。彼の希望はファッション関連の仕事をすることだった。が、会社の方針でファッション事業部は閉鎖となる。まだ若い彼なら、そしてやりたいことが明確にあるなら、会社をやめて、その道を追いかけたほうがよいかもしれない。その彼に、営業部への移動を提案する。彼がこのまま会社にい続けるとして、彼の10年後、20年後、30年後の姿を想像してみたことがあるだろうか?

  経済産業研究所発行の論文「労働市場の改革」において、八代尚宏教授は、雇用保障の代償として拘束性の強い働き方をしている正社員を「良い働き方をしている人」とみなし、それ以外の派遣労働者等を不安定な「悪い働き方をしている人」とみなす前提自体が間違っているとして、「ひたすら労働者を企業の中に閉じ込めるだけではなくて、むしろ労働者の企業からの独立を支援することが重要となる。いわば企業内で労働条件の改善を目指すだけではなく、労働者が転職による圧力をかけられること、即ち、労働者を大事にしない企業から大事にする企業に自由に移れるような仕組みをいっそう作っていく必要がある。これにより、特定の企業に依存するのではない『労働市場全体を通じた雇用保障』が、より重要になってくる」と書いている。

  この「労働市場全体を通じた雇用保障」という考え方からいえば、「自社の社員の雇用を守る」というのは、まさに経営者や組合代表の内(ウチ)と外(ソト)を区別する狭い考え方だといわざるをえない。

  たとえば、バブル崩壊後の低成長のなか、企業は過剰雇用をかかえこんだ。その結果、いわゆる就職氷河期をもたらし、新規社員の採用が6年以上抑えられた。その結果が、いま、100万人くらいの40歳前後の人たちが無職、あるいは定職がないという状況下にある。また、非正規社員の採用が進んだのもこのころだ。

  つまり、当時の経営者や労組代表は、ウチの人たちの雇用を守るために、ソトの人たちはどうでもよい・・・と考えたということだ。具体的にイメージを描ける人達をクビにするのはいやだけれど、外の知らない人たちがその犠牲になることに関しては、抽象的にしか想像できないので心理的に許容することができる。

  これは、やっぱり、おかしい。

  とはいえ、企業経営者にソトの労働者のことも考えろと言っているわけではない。それは、国の仕事だ。「労働市場全体を通じた雇用保障」は政府がきちんとした政策を考えるべきだ。そうすれば、企業は、安心して、賃金を上げ人員を削減することができる。経営者が注力すべきは、やりがいを感じ、ワクワクとして(アドレナリンやドーパミンが放出されている気持ちを表現している)仕事ができる環境を従業員に提供することだ。 

  コロナ禍で失業者が増えるときには、雇用を守る日本企業はありがたいじゃないかと思うかもしれない。だが、危機のときだからこそ、数十年つづいてきた考え方(雇用を守ることが美徳だという考え方)を改めることができる。今、荒波を乗り越えなければいけない企業にとって必要なのは、不満があっても現状を維持することをよしとする従業員ではなく、リスクに敢えて挑むことができる従業員だということを忘れてはいけない。

  こういったテーマに興味をもっていただけましたら、新刊「勤勉な国の悲しい生産性」を読んでいただければうれしいです

 

参考文献: 1.八代尚宏「労働市場の改善」経済産業研究所、2「技術者がやめると.IT部門は強くなる」日経XTECH 4/25/08, 3.「サービス産業競争力強化研究」アウトソーシング協議会 平成12年3月、3.「アウトソーシング事業増加 情報処理を全面委託 日本コダックなど」朝日新聞12/2/92 4. 「最低賃金議論 コロナの影」朝日新聞 6/27/20, 5.「DXレポート」デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会、経済産業省 平成30年9月7日

 

  

  

 

 

2020年8月 6日 (木)

DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義はまちがっている

   最近のビジネス用語の流行キーワードはDX(digital transformation /デジタル・トランスフォーメーション)だろう。で、その流行に乗るというにはあまりに遅ればせだが、DXに関する記事を書こうと思いたった。「日本企業の雇用方針とDXとの不都合な関係」について書くことにして、「DXってなに?」という定義とか意味とかを調べていたら、ちょっと驚くミステリーに遭遇した。

  IT関連のキーワードについて記事を書くときには、まず、最初に、誰がいつその用語を造ったとか、その時どういった定義づけをしたのか・・・を書くことが常識となっている。そして、DXに関しては、日本では、どのレポートや記事を見ても、次のように記されている。

  • 多くのビジネス誌では、「スウェーデンのウメオ大学にいたエリック・ストルターマン教授が2004年に発表した論文「Information Technology and The Good Life(情報技術とよい生活)」で提唱したもので、DXを『すべての人々の暮らしをデジタル技術で変革していくこと』だと定義した」と書かれている。論文のタイトルが一緒に紹介されているので、「デジタル技術でよい生活がもたらされる」という意味合いが強調される。
  • 総務省発行の「平成30年度 情報通信白書」には、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」ことがデジタル・トランスフォーメーションの概念だと、エリック・ストルターマン教授が2004年に提唱した・・・と記されている。

   IT用語の定義とか誰が提唱したかなんて本質的にはどーでもい-ことだとはわかっていながらも、正確を期すために(といえば聞こえがよいが、筆者の私が疑り深い人間であるがために)、英語で検索してみた。つまり、英語圏の世界では、DXはどう理解されているかをチェックしてみたということだ。

  そうしたら、digital transformationの歴史とか定義に関するだけでなく、ほとんどすべての記事にストルターマン教授の名前は登場しない。唯一の例外は、digital transformationという単語と教授の名前を同時検索するときで、教授が2004年にIFIPの大会で発表した論文「Information Technology and the Good Life」が表示される(もう一つの例外は、日本の経済産業省や企業のレポートが英訳されたもので、そこには、教授が用語の提唱者として紹介されている)。

  うそぉ? なに、これ?

  ネットによるグローバル化で、昔と違って今は、日本と海外で情報内容に大きな違いがみられることはほとんどない。そういったなかで、ストルターマン教授がデジタル・トランスフォーメーションとの関連で海外でまったくといっていいほど無視されている事実は、日本の状況と比べると、その差が目立つ。

  ・・・ということで、IFIPの大会で発表された論文・・・といってもスピーチをまとめたものなので、5ページの短い小論文なので読んでみた。そして、海外で、教授とDT(理由はあとで説明するが、ここからは、DXという略語ではなくDTを使う)との関係が無視されている理由が理解できた。

  教授の小論文が発表された場は、 IFIPInternational Federation for Information Processing ) の英国での大会だ。IFIPという組織は、1960年にユネスコの援助を受けて創立された国際団体。同じ年に、日本の情報処理学会も、IFIPにおける日本としてのメンバー学会となるべく創立された。

  教授のスピーチは、大会に集まった情報システムの研究者たちに向けて、技術や、その技術によって人間の「生活世界」に今起こっている変化をより深く理解することに貢献するために、自分たちの研究はどうあるべきかを説く内容だった。

   情報技術は今やあらゆるモノに埋め込まれており、それらは(IoTと呼ばれるように)つながっている。世界は、情報技術とともに、情報技術を通して、そして情報技術によって経験される度合いがますます多くなっている(しいて言えば、これが、教授が考えるデジタルトランスフォーメーションの定義というか概念だろう。だが、DTをそう理解するのは教授が初めてというわけではないはずだ<注1>)。

  情報技術研究の目的は、人類のより良い生活、暮らし、人生に情報技術がどう貢献できるかを、探求し、実験し、分析し、調査し、説明し、考察することだ。 だから、( 情報システムの研究にはいろいろな観点があるとしながらも)、今日特に必要な観点は、従来のような科学的(ともすると、要素に分解して分析する傾向にある狭い)観点だけではなく、その技術が人間の「生活世界」にどういった影響を与えるかという全体的観点からも考えなくてはいけない・・・と教授は論じる。

  ここまでで、DTの最初の提唱者として教授を紹介することがお門違いだということは理解してもらえたと思う。まして、「DTが人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」などと、教授はまったく言っていない。そうではなくて、DTが人々の生活を悪い方向に変化させないように情報技術の研究者はチェックしていかなくてはいけないと、ある意味、警告し、そのために必要な研究方法について提案をしているのだ。

  海外で、digital transformationの提唱者ということで教授の名前をだしても、「?」って顔をされるだろう。

   グローバル化とネットで何でも調べることができる情報社会で、どうしてこんな誤解が生まれたのか? 誰もが疑いを持つことなく、先の記事とかレポートを鵜呑みにして引用するということが、なぜ、起こったのか? 

  データベース検索すれば、問題となっている論文を最初に紹介した記事とか論文を見つけることもできるだろう。でも、犯人さがしをするのは時間の無駄。

  最初に書いたように、IT用語の提唱者うんぬんは、本質的には重要情報ではないのだから。

  じゃあ、なぜ、この記事を書いたかといえば、2つのの理由がある。

  ストルターマン教授が本当に言いたかったことを紹介したかった。また、ITのことを(経営者としての観点からでいいから勉強してほしいのに)勉強しようともしない企業経営者が、DTってデジタル技術を使って消費者により良い生活を届けることなんだ。DTで生産性を上げて企業の業績を上げることなんだ・・と安易に納得してもらいたくないという理由だ。

  なぜなら、教授の論文にある、「Good Life/良い生活」という言葉には、豊かさとか便利さよりも、もっと深い意味合いがあるからだ。

  教授は情報技術が人類にグッド・ライフを提供しているかどうかをチェックするために二つの考え方を提案している。一つは、哲学者アルバート・ボーグマンが提唱した「デバイス・パラダイム」という考え方だ。

  ボーグマンはドイツ生れの米国人でテクノロジーの哲学(って、哲学の種類にはなんでもありなんだ!)を専門としている。デバイスとは装置とか機械のことだが、デバイス・パラダイムの考え方を、彼は、簡単な例を使って説明する。

  たとえば、セントラルヒーティングというデバイスは、面倒な手続きもなく簡単に、暖かさを家族に提供する。そして、家族は、薪を割って、暖炉にくべ、火の様子を見ながら新しい薪をくべたり、後で灰の掃除をするといった手間をかける必要はない。薪を割ったり灰の掃除をする当番を決める必要もない。だが、セントラルヒーティングという新しい技術が採用されることで、家族全員が暖炉のまわりに集まっておしゃべりしながら暖をとることもなくなり、一人一人が自分の個室に閉じこもるようになる。

  セントラルヒーティングというデバイスによって、家族間の相互作用は減り、互いを思いやったり助け合ったりする精神を育成してきた家族内の活動もなくなる。

  テクノロジーは、私たちが望むことを、努力とか経験によって得られる技能とか忍耐とかなしに便利に簡単に提供してくれる。その結果、私たちは、身体や知覚をフルに使って現実世界を体験するとはどういったことかまで忘れてしまう。

  コト消費とかモノ消費という言葉がよく使わる。小売業では、最近は、モノが売れないが、コトなら売れると言っている。それと似たような意味合いで、ボーグマンも、テクノロジーはデバイスをコト(thing)からモノ(commodity)にしてしまうと書いている。つまり、暖炉には家族のしきたり、思い出、エピソード、その他の歴史や物語が背景にある。だが、セントラルヒーティングはそういった物語とは無関係のたんなるモノだ。

  ストルターマン教授は、ボーグマンが提唱したデバイス・パラダイムでは、人間がグッドライフを実現するために必要なことがらや価値観が脅かされているとする。そして、DTが進むいまの社会には、このデバイス・パラダイムの例が顕著に見られるとする。

   教授が使う「good life」という言葉は、たんに豊な生活とか便利な生活を指しているのではないことは明らかだ。彼の小論文に何度も登場する「lifeworld/生活世界」はオーストリアの哲学者エトムント・フッサールが、1936年に発表した「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に登場する考え方。

  哲学のことはよくわからないので、コトバンクの解説を引用すると、フッサールの生活世界は「科学によって理念的に構成される以前に、我々が身体的実践を行いつつ直感的な仕方で日常的に存在している世界のこと」となっている。わかったようでわからない。が、ストルターマン教授がボーグマンやフッサールの考えを引用しているのは、社会のDT化について研究するとき、人間の身体性、知覚、直感、感性といったような観点を重要視していることは理解できる。

   考えてみれば、教授は情報システムデザインやインタラクションデザインを専門とする研究者だ。人間とインタラクション(相互作用)するデバイスやシステムのデザインというと、使い勝手が良いとか悪いとかいったインタフェースのデザインだけの狭い話になることが多い。が、論文の主旨は、情報技術研究は、テクノロジーが社会全体や人類の生活世界に与える影響について考えなくてはいけないということだ。

  たとえば、スマホ中毒になり社会生活が送れなくなる若者。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」でも書いたように一日中PCの前で仕事をして腰痛になるだけならまだしもバーンアウトして40歳で退職しようとする若者たち。これは、フッサールやボーグの考え方を引用する教授が考えているグッドライフではないはずだ。

   論文を最後まで読めば、教授をDTの定義とか概念を提唱した人と見るのは間違いだということがわかる。彼は、DTについて警鐘を鳴らした人なのだ。社会のDTが進むなか、人間の「生活世界」はどう変わるのか、真の意味でのグッドライフをもたらすようなDTでなくてはいけない。情報技術の研究者はそういった観点からもDTを考えていかなくてはいけないと教授はIFIPの大会で訴えたのだ。

   そして、いま・・・デジタル・トランスフォーメーションの略語をDTからDXとして、IT業界やコンサルティング業界は、関連システムやソフトウェア、そしてその利用方法について積極的に営業を展開している。経済産業省の「DXレポート」は、DXの定義としてIDC Japanの定義を紹介している。

  •  企業が外部エコシステム(顧客、市場)の破壊的な変化に対応しつつ、内部エコシステム(組織、文化、従業員)の変革を牽引しながら、第3のプラットフォーム(クラウド、モビリティ、ビッグデータ/アナリティクス、ソーシャル技術)を利用して、新しい製品やサービス、新しいビジネス・モデルを通して、ネットとリアルの両面での顧客エクスペリエンスの変革を図ることで価値を創出し、競争上の優位性を確立すること

  このように、DXとDTは元となる言葉(digital transformation)は同じでも、似て非なるものだ。上記のDXの定義は、IT業界が売ろうとしている情報システムに適した定義ではあるが、ストルターマン教授が提唱した概念とは別次元のもの・・・だと、私は思います。

<注1>:2017年発行の「情報センサー」の記事「デジタル・トランスフォーメーョンとは何か」の著者東大野恵美氏は、英語データベースで検索したところ、デジタル・トランスフォーメーションという言葉が使われた最も古い例は1990年で、CDプレーヤーの利便性を伝えるニューヨークタイムズの記事だった書いている。DTはビッグデータとかAIのような造語とか新語というわけでもなく、自然な熟語(漢字じゃなくても熟語といえるのか?!)なのだから、DTの提唱者とか定義とかを探ることに意味はないのでは?

 新刊「勤勉な国の悲しい生産性」の第五章には、テクノロジーと生活世界との関係についても書いています。

参考文献 1.Erik Stolterman and Anna Croon Fors, Information Technology and The Good Life, 2.東大野恵美 [デジタルトランスフォーメーションとは何か」情報センサーVol.124, 2017 3.「間違いだらけのDX 提唱者が語る原点」日経ビジネス3/10/2020,4.「DX レポート」経済産業省 平成30年9月7日

2020年6月27日 (土)

コロナ禍とエッセンシャルワーカーと肉体労働と賃金

 コロナウィルス関連で、よく使われるようになった言葉に「エッセンシャル・ワーカー(essential worker)」がある。日本語では「社会に必要不可欠な労働者」とか訳されているが、「人々が生きて暮らして行くためには欠くことができない職業に従事している人たち」という意味になる。

  たとえば、医療従事者を筆頭に、警察官や消防職員、電気や水道・ガスといったライフラインを担う人たち、食料品店で働く従業員、自宅まで必要なモノを運んでくれる物流サービス従事者・・・。こういった人たちは、自宅でテレワークで働くことができる人たちとは違い、感染するかもしれないリスクを冒して職場に出向き、仕事をやりとげなくてはいけない。場合によって、通常以上の長時間働くことも覚悟してなくてはいけない。

 日本の場合は、米国ニューヨークやイタリア、スペインのようなレベルの医療崩壊も起きなかった。死者数が少なかったということもあって、こういったエッセンシャルワーカーがパンデミックの中で働くことの危険性とか意義もあいまいなものになっている。だから、ありがたみを感じていない人も多い。それどころか、医療従事者の家族がイヤがらせを受けたり、観光業や外食産業といった休業せざるをえなくなった産業で解雇された従業員からは、「コロナのなかでも働けるだけマシ」とうらやましがられたりもする。

 だが、たとえば、米国では、4月初めに、米国国土安全保障省が、パンデミックのコントロールに必須とみられる職種を明らかにし、そのリストを発表している。そして、そのリストに基づき、トランプ大統領は、「国土安全保障省に指定された重要なインフラ産業で働いている人たちは、自分たちの通常業務を継続維持する特別な責任がある」と宣言している。つまり、ロックダウンで自宅から外出するのを禁止されている人たちとは異なり、あなたたちは、通常通り働き続けてくださいよと、ある意味、命令しているのだ。

 トランプ大統領を含め、多くの欧米諸国のトップは、コロナとの戦争という言葉をつかった。それでいけば、エッセシャルワーカーは、戦地で、しかも、前線に立って死を覚悟して戦ってくれと命令されているようなものだ

 だが、皮肉なことに、日本でも欧米でも、公務員や医療従事者以外の多くのエッセンシャルワーカーの平時のときの労働者としての地位は低い。低いという意味は、労働の価値が低く見られ、結果、低賃金だということだ。

 エッセンシャルワーカーに含まれている介護士や保育士の給与の低さは以前から問題になっているし、モノを自宅まで運んでくれる配達員や物流センターの従業員、それから、スーパーで働く店員にいたっては、最低賃金で働くバイトやパートも多い。

 低賃金で働く人が、緊急時になれば、命にかかわるかもしれないリスクの高い仕事をつづけることを求められる。たしかに、日本でも、企業が特別報奨金などを出してはいる。たとえば、ヤマト運輸は全従業員約22万人に一人当たり最大5万円の見舞金を5月に支給している。食料品スーパー「ライフ」も、「日々、厳しい条件で業務に取り組む人達へのお礼の意味を込めた」として、パートやアルバイトを含めた全従業員約4万人に総額約3億円の緊急特別感謝金を支給して話題になった。

 緊急時にはこういった特別手当をもらっても、エッセンシャルワーカーの多くは、平時に戻れば、感謝もされないし、賃金も低いままだ。それどころか、コロナのせいで不景気になったことを理由に解雇されたり、より一層の低賃金で我慢することをしいられるかもしれない。

 現代の経済学理論でいえば、商品やサービスの価格はユーザーが知覚する価値に基づく。そして、その価値は、その商品やサービスを使って得る満足感や快感(効用)が決めるといわれる。介護士、保育士、物流サービス従事者、スーパーの店員の価格、つまり賃金が安いのは、ユーザーである一般市民が知覚する価値が低いからだということなる。

 知覚する価値が低い理由はいくつかあげられる。たとえば・・・

 1番目の理由:誰でもできる仕事だとみなされている。スーパーの店員とか宅配便の配達は、やろうと思えば誰でもできるとみなされる。資格が必要な介護士や保育士ですらも、「忙しいから手伝ってはもらっているが、私だってやろうと思えばやれる」的な意識がある。介護士にいたっては、こういった職業に従事する人を見下す傾向すらある。私もヘルパーさんに助けられて自宅で介護をした経験があるが、多くのヘルパーが「お手伝いさん扱いする家族が多い」と嘆いていた。大阪健康福祉短大の川口教授は朝日新聞のインタビューで、「介護職に対して『簡単、単純、誰でもできる、学歴もいらないつまらない労働』という思い込みがあるように感じます。」と発言し、「介護職にリスペクトを」と訴えている。

 2番目の理由:賃金から労働価値を判断する。ユーザーである一般市民は、商品・サービスの価格を手がかりにその価値を判断するという逆方向の方法をとることが多い。だから、パートやアルバイトの仕事の価値を、その賃金から判断する。スーパーに行けば、求人募集の貼り紙に時給1000円と書かれている。それをみて、時給1000円の仕事をしている労働者だということで、店員の労働者としての価値を決める(そして、IT関連の仕事をしている人は高給をもらう。だから、IT関連の労働価値は高いと判断する)。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分け、肉体労働は単純で下等、頭脳労働は複雑で上等とみなすのは、世界的に共通する価値観であり、長い歴史がある。そして、エッセンシャルワーカーの多くは単純な肉体労働だとみなされる。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分けること自体、肉体労働をしている人は頭脳を使っていないとみなしていることになる。これは、肉体労働は奴隷にまかせ、ある程度のレベル以上の市民は高等な思索に時間をつかうという古代ギリシアの考え方と同じだ。20世紀初頭に、工場における労働作業の管理手法を考案したF.W.テイラーも同じように考えていた。

 彼は、「工場ではできるだけ多くのことを機械にまかせ、労働者には考えるということをしてもらいたくない」と繰り返し口にしたそうだ。テイラーの「科学的管理法」は、ベルトコンベア方式の動くアセンブリー工場に適した労働者を生み出すのに貢献し、自動車の大量生産を可能にした。

 日本では、米国型大量生産方式を基本とはしても、「工場労働者は頭脳を使わなくてもよい」という考え方は採用しなかった。結果、工場で働くブルーカラーと事務所でスーツを着て働くホワイトカラーとの身分格差は米国ほど明確にはならなかった。だが、ICT化が進む中、ITリタラシーの高い労働者は頭脳労働者で高報酬で上、そうでない労働者は肉体労働者で低報酬で下という価値観が定着してきた。

 しかし、今回のコロナウィルスによるパンデミックを経験するなか、そういった分け方になんとなく違和感を持つ人、疑問を持つ人が出てきたのではないかと思う。それは、パンデミックが、形のないもの(無形)を崇拝する風潮に「待った!」をかけ、形あるもの(有形)の存在意義にスポットライトをあてたからだろう。

 私たちが、PC等のIT機器を使って仕事をする労働者を高等だとみなすのは、実は、彼らがしている仕事が無形であり、その仕事の内容を見ることができないからだ。どういった仕事をしているのか、良い仕事をしているのかいないのか、そばで見ているだけでは判断できない。その点、形あるものを生み出す仕事をしている労働者の仕事は、判断しやすい。たとえば、技術がなければできない大工という仕事でも、結果としての仕上がりは、素人でも目にみえるからある程度判断でき意見も言える。介護士や保育士にしても同じことがいえる。

 人間は見ることができず、よって具体的に理解できないものを複雑で高等なものだと判断しやすい。

 だが、パンデミックによって、デジタルは複雑で高等、アナログは単純で下等という価値観が微妙に変わった。マスク、防護服、食料など、自分たちが生きていくために必要なものは形あるものばかりだ。たしかに、自粛でネットフリックスの会員やニンテンドーのゲーム「あつまれ どうぶつの森」の人気は世界的に増大した。だが、生存率を高めるためのエッセンシャル度からいったら、つまり、どちらかを選択しろといわれたら、ほとんどの人間が生きていくためにマスクや食料を選ぶだろう(ついでに言えば、「あつもり」ゲームをするためにはスイッチという有形のハードウエアが必要だ)。

 実際には、当たり前の話だが、肉体労働にも頭脳労働が必要だ。機転のきく店員のほうが客から好感度をもたれるし、いまの配達員はIT機器をこなさなかったら効率よい働き方はできない。頭脳労働を精神労働ともいうが、介護士は歩行の困難な高齢者のトイレの世話をする肉体にもきつい仕事を求められる。そのうえ、要介護者の心(精神)をポジティブな状態に維持するために自分の感情をコントロールしなければいけない。介護士のような仕事は「感情労働」とも呼ばれる。

 介護士、看護師や店員のように患者や客と接する感情的ストレスの多い職種は、エッセンシャルワーカーに多く含まれる。

 このように、肉体労働に分類される職種の多くは、感情を含めた頭脳を必要とする。だが、反対に、肉体を必要としない頭脳労働というものは存在する。

 そう思ったのは、ハーバード大学のCenter of Ethicsが4月に発表した報告書「パンデミックに強い社会をつくるロードマップ」を読んだときだ。経済と健康との兼ね合いを考慮しながら8月までに米国がある程度の通常状態に戻るための道筋を明らかにしたもので、大規模なPCRテストとエッセンシャル度による労働者の分類が基本となっている。

 5月~6月には一日500万件という大規模のPCRテストをして、これを7月末までには2000万件に増やす。最初はまず、医療、電気・水道といったライフライン、警察消防、物流サービス、食品店販売員、電気・水道といったエッセンシャル度が一番高い「全労働者の40%に当たる人たち」にテストを実施する。テストをして陰性の人たちだけを職場に戻す。陽性者は隔離し、陰性になった時点で職場に戻す。これを繰り返すことによって、エッセンシャル度が一番高い40%の労働者が働く環境を安全なものとする。

 次いで、7月からは、エッセンシャル度が次に高いと思される職業に従事する「全労働者の30%の人たち」に同じことをする。そして、7月後半には、エッセンシャルではないが、自宅でビジネスを展開することができない美容院やレストランといった接客業にたずさわる「全労働者の10%に当たる人たち」にテストを実施し、労働者にも客にも安全な労働環境をつくる。

 そして、8月には、「全労働者の最後の20%に当たる人たち」、自宅でテレワークをする労働者にテストを実施して、職場に戻す。

 こうすれば、秋までは、アメリカはパンデミックに勝利をおさめ、かつ、経済的ダメージも最小限に抑えることができるというわけだ(今の状況をみれば、米政府がこの提言を完全無視していることは明らかだが・・・)。

 在宅勤務がつづいても仕事に支障が出ない「全労働者の20%にあたる人」は、100%の頭脳労働者だといえる(もちろん、IT機器を使うのに腕とか手は使うが、声で操作する方法もあるし・・・、一応、身体は必要ないとしておこう)。

 肉体労働者の多くは機械に代替されると巷では言われているが、実は、機械に代替されやすいのは、この、100%頭脳だけの頭脳労働者のほうだ。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」に詳しく書いたが、最近は、今のアルゴリズム中心のAIの限界が指摘されるようになってきている。アルゴリズム中心のAIとそれを基本として制作されるロボットが、人間の肉体労働(感情労働を含めて)に代わることは、実際には予想以上にむずかしいことが明らかになってきたからだ。だが、頭脳労働者とAIは符号化された情報を使って仕事をしているということでは、基礎(ベース)が同じなので、互換しやすい。

 コロナ後もテレワークを継続して採用し続けると発表する日本企業が増えてきている。従業員のなかには、それを歓迎する人もいれば、やっぱり職場で同僚たちといっしょにワイワイガヤガヤ言いながら仕事する環境に戻りたいと考える人もいる。それは、職種にもよるし、通勤時間がどれだけかにもよるし、家庭の事情もあるだろうし、本人の性格にもよるだろう。ただ、企業側からみれば、週一回会議に出席すれば後は自宅でテレワークでやっていける仕事であれば、正社員である必要はない。契約社員、あるいはその他の雇用形態でよい。

 コロナ禍は、企業にすれば、組織を見直すチャンスでもある。今後もつづく、いつ想定外の出来事が起こるかもしれない時代においては、組織は必要最低限の社員からなる無駄のない融通性の高い「(嫌いなカタカナ用語をあえて使えば)リーンでアジャイル」なものでなくてはいけない。

 社員の中には、そういった考え方は、悪いことではないと考える人もいることだろう。テレワークが可能にしてくれる時間から解放された働き方を好む社員であれば、契約社員になって、余裕があれば他の会社の仕事を引き受けてもいい。コロナ禍は社員の側も今後の生き方や働き方を考える契機になる。

 つまり、テレワークで自宅で仕事を続けていいと言われた社員は、それなりの将来の覚悟をもって、そういった働き方を選択すべきだし、会社としても、テレワーク社員を増やすと考えているのなら、会社組織の構造改革の一環として実行すべきだろう。

 テレワークを実際にやってみたら効率が落ちたと答えた従業員が66%いたという日本生産性本部の調査結果が出ている。もっとも、一番大きな課題が「職場に行かないと資料が見られない(49%)」、次いで、「通信環境の整備(45%)」「机など働く環境の整備(44%)」となっているので、まだ、テレワークをする環境やシステムが整っていないということだ。

 だが、ここで問題なのは、従業員や企業が、どういったタイプの生産性を求めているかを最初に明らかにしておく・・・ということだ。

 会社という組織で社員同士がコミュニケーションすることによって生まれる創造性を大切だと考えるグーグルとかアップルとかは、自宅勤務を奨励はしていない。グーグル創業者のエリック・シュミットは、コロナ後はオフィスが必要なくなるのではなく、反対に、ソーシャルディスタンスを守るために、一人当たりのスペースをより広くしたオフィスを作る必要があると発言している(ただし、通勤時間が長い社員のためにサテライトオフィスを設ける必要があるとも言っている)。

 ここからは、ちょっとおまけの余談です・・・

 「在宅勤務をずっと続けていいよ」といわれるのは、哲学的(?)に考えると、「あなたの身体はいらない、頭脳だけでよい」と言われているみたいで、ちょっと複雑な心境にならないだろうか? シュミットの場合は、頭脳は創造性を生むが、そのためにいくつかの頭脳が集まって議論したりしなくてはいけない、そのために身体が集合しなくてはいけないと考えていることになる(新著に書いたようにAIの身体性の問題がからんでくる)。

 最後に、おまけにもならない余談です。

 身体はいらない頭脳だけでよいということで思い出すのは、イギリスのSF作家H.G. ウェルズの小説「宇宙戦争」(1898)で描かれた火星人の姿だ。頭が大きく手足の細いタコのような火星人は、1982年に映画「E.T.」が大ヒットするまでは、典型的なエイリアンの姿形として漫画やイラストにつかわれた。

 タコに似た火星人は、IT機器を仕事相手とする頭脳労働者には理想的な姿形ではないだろうか? 手が8本あればキーボードやマウスを使うのに便利だし、IT機器の前で一日15時間座って働いても、肩もこらないし腰痛からも解放されそうだ。ついでにいえば、E.T.やウェルのズ火星人の目が異様に大きいのも、LEDスクリーンを凝視して目を酷使した結果ではないだろうか?

 タコは全身が頭脳だそうだ。タコの5億個の神経細胞(ニューロン)のうち3億5000万個以上が8本の触手にあり、8本の足が独自に意思決定できる「分散型」の神経系を有している。雑誌Newsweekによると、米国ワシントン大学の行動脳科学の研究者はタコが有する分散型の神経系を「知能の代替的モデル」と称し「地球さらには宇宙における認知の多様性についての理解をすすめるものだ」と考えている。「タコは地球上で我々が出会うことのできる<エイリアン>なのかもしれない」そうだ。

 19世紀に「タイムマシン」や「透明人間」といった作品も書いたH.G.ウェルズは、さすが、SF作家。遠い人類の未来を透視して、ICT化が進む中で効率性を求めれば、人類はタコのように進化(?)していくと考えたのかもしれない。

 

参考文献 1.Department of Homeland Security: List of Essential Industries, 2 Transcript: Eric Schmidt on "Face the Nation" 、CBS News 5/10/20. 3 「介護職にリスペトを」朝日新聞6/3/20 4.「在宅、生産性向上探る」日経新聞6/21/20, 5.Roadmap to Pandemic Resilience, Center For Ethics At Harvard University 4/4/20,6.「タコは地球上で会えるエイリアン」Newsweek7/1/19

2020年6月 4日 (木)

新刊「勤勉な国の悲しい生産性」、出版しました

 

  

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 タイトルから、「また、生産性の話? もうあきたよ」と思われるかもしれませんが、第一章で「生産性向上は時代錯誤」と主張して、それで、生産性の話は基本的に終わりです。じゃあ、なぜ、生産性なんて言葉をタイトルに使ったかといえば、(良いタイトルが思い浮かばなかったということもありますが)日本経済の問題や日本企業の問題は低い生産性にある・・・とする考え方を否定したかったからです。今の日本企業は、生産性向上!の名のもとに、従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくと言っていいほどしていません。

 本書を書き終わって印刷が始まる少し前にコロナウィルスが世界を席巻するようになりました。そして、私たちは、人間を含めて形あるもの(物質的存在)の(デジタルと比較しての)意義とか価値にあらためて気づかされました。一般メディアではコロナの影響でデジタル化が一気に進むと主張しています。確かに、デジタル化は急速に進むし、進まなければいけませんが、それは、あくまで物質的存在を助けるというか補完する形でなければ期待するような結果はもたらさないはずです。本書では、身体性をもったAIとか、日本人の労働者としての特徴を歴史的かつ人類学的観点から明らかにし、日本のものづくりのグローバル市場での差別化についても書いています

 下に、本書の「はじめに」と「目次」を掲載いたしました。ご一読いただき、もし、興味をもっていただけましたら、手に取って読んでいただければ嬉しいかぎりです。

「勤勉な国の悲しい生産性」注文サイトへ

はじめに

 2019年は、いまのアルゴリズム中心のAIへの過信が挫折を味わった年です。早ければ2020年には、自動車の完全自動運転が実現するとしていた企業家や研究者の予測が修正されました。修正といっても、2020年が 30 年に延びるといったような問題では ありません。完全自動運転がどのくらい先に実現するのか予測すらできないと、研究者たちは素直に認めました。アルゴリズム中心のAI研究だけでは、人間の知能を超えることはできないということが明白になったのです。

 同じような理由で(つまり、いまのAIの限界が明らかになったことで)、機械(AIやロボット)が人間にとって代わる代替率は大幅に下方修正されました。日本では、 20 年以内に労働人口の 49 %がAIやロボットに代替されると予測され、センセーションを巻き 起こしましたが、いまでは、その数字が正しいと思っている研究者はほとんどいません。2016年にOECDが発表した7%のほうが正しいとみなされています。

 スポーツ用品メーカーのアディダスが、2016年に建設したドイツのスマートファクトリーは 19 年に閉鎖され、靴の製造は中国とベトナムに戻されました。米国のテスラのロ ボットによる100%自動工場もうまく稼働せず、イーロン・マスクCEOは「人間というものを過小評価していた」と自分の誤りを認めました

  つまり、企業は、これからも、機械ではなく人間である従業員に頼らざるをえないことが明らかになったのです。

 そういった状況において、いまの日本企業は従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくといっていいほどしていません。その結果が、日本の従業員の会社へのエンゲージメント率は世界平均の半分しかない。異常に低いレベルです。なのに、「日本人は自己肯定感が低いからそうなるんだ」などと都合よく解釈し、対策を考えない経営者が多すぎます。

 バブル崩壊後の 20 ~ 30 年、ICT化を進めることなく、非正規の安い労働力と正規社員 の長時間労働で乗り切ろうとした経営者は、従業員を「機械」代わりに使ってきたと批判されても仕方がない。働き方改革の目標を「生産性向上」としているのは、「人間」を「機械」とみているからでしょう。働き方改革に不満をもつ従業員が多いのも当然です。

 組織には「2:6:2の法則」がみられ、優秀な社員が 20 %、普通の社員が 60 %、働か ない無気力な社員 20 %といわれます。欧米では、 20 %の優秀な社員を世界中から集め、こ こに集中的に投資する傾向が強い。だが、日本の特徴は、 60 %の「普通の社員」の教養や 勤勉さ、そしてたぶん倫理観のレベルも、他国の「普通の社員」より高いことにあります。

 人間は「感情」で動きます。感情が喚起されれば倍の力だって発揮することができます。

 働き方改革において重要なことは、この 60 %の「普通の社員」の感情を喚起すること、会 社の理念や目標に「感動」し、「共感」を抱いてもらうことです。そのためには、まず、従業員の行動心理を分析しなくてはいけません。

 本書では、歴史を振り返り、日本の労働者の時間に対する意識、組織に対する意識、人間関係に対する意識、仕事に対する意識を、広範囲にわたる調査、研究、文献の助けを借りて考えてみました。そこに浮かびあがってきた日本人の働き方には、いくつかの特徴があります。たとえば、マクロよりミクロに先に注意がいってしまうとか、結果よりも過程を大事にするとか……。「日本人はおおよそのところでよい仕事でも、完璧に仕上げようとする」と生産性が低いことに関連して批判されます。でも、欠点は裏を返せば長所にもなる。そういった働き手の特徴を生かすことで、グローバル市場における差別化に成功することもできます。

 また、従業員がなぜそういった行動をとるのか、その心理を説明してくれる歴史的要因を知れば、従業員が満足してくれる働き方改革を考えることができます。日本人は神代の時代から「調和」と「均衡」を好む傾向がみられると、世界の神話を分析した心理学者は解説します。対立や混沌さ(カオス)を嫌う性向がイノベーションの妨げとなっているかもしれません。そう考えれば、イノベーションを生みやすい工夫や仕組みをつくることもできます。

 本書で展開される経営者批判はときに辛辣になりすぎているかもしれません。でも、評論家的観点からではなく、従業員目線で書いたつもりです。従業員は経営陣のことをよくみています。そして、彼らの批判は当たっていることが多いのです。経営陣は、従業員との一方通行ではなく双方向のコミュニケーションにもっと時間をさくべきです。

 第5章では、アルゴリズム中心のAIだけでなく身体性をもったAIの研究が進まなければ、機械は人間には近づくことができないことを説明します。それに関連して、身体を使う労働の重要性や、日本人の性向にあった「ものづくり」手法は、グローバル市場での差別化の中核になりうることも書きました。

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、グローバルのサプライチェーンの弱さが露呈しました。ものがなくては、人間は生きていけません。マスクから電子部品まで、ある程度国内で生産量を確保しなくてはいけないものがあることを実感できました。「ものづくり」の伝統は、そして熟練した技は、市場での差別化に貢献する貴重な日本の財産だと再確認させられました。

 新型コロナウイルスがパンデミックと認定されたのは、本書の印刷が始まる直前でした。第二次世界大戦後最大の不景気に突入するということで、すでに非正規社員を中心とする従業員の解雇が始まっています。しかし、ウイルス騒ぎの前でも後でも、日本社会の人手不足は変わりません。想定外の出来事が起こりやすい 21 世紀の不安定な社会において、景 気がよくなるのをじっと待って、その間は給料も上げず人も削減するという、戦略とは呼べない戦略をこれからもつづけるつもりなのでしょうか?

 青臭いといわれるかもしれませんが、私は、人間はその気になれば倍の力を出すことができると信じています。同じ夢やヴィジョンを共有する仲間といっしょなら、1・5倍も2倍も大きな力を発揮することができます。

 いま、働く日本人は自信を失っています。デジタル一辺倒の世の中で、人間が本来もっている力を信じることができなくなっています。マスクCEOの言葉を借りれば、経営陣も従業員も「人間というものを過小評価」しています。

 拙著を読んでくださったみなさまが、「感動」や「共感」の助けを借りて、パンデミック後のグローバル市場での試練を乗り越えられることを切に願っております。

      

 目次

第1章「生産性向上!」は時代錯誤

  • うんざりする「生産性向上!」のスローガン
  • 経営陣への不信感が強い従業員
  • 賃上げと値上げの決断を避けてきた経営者
  • 労働者よりも消費者であることを選んだ日本人
  • 消費者が受け入れたヤマトの値上げ
  • 労働者の心理を考えない日本企業
  • ハイデイ日高の1万円ベースアップ
  • GDPは 20 世紀の遺物
  • デジタル経済を把握できないGDP
  • 新しいGDPをつくる
  • 「デジタル」は「電気」ほど生産性に貢献していない
  • 「生産性」は主観的なもの
  • 経済学で生産性を考えるのはもうやめる

COLUMN  ヤマト創業者と労働組合  

 第2章 「時短」ではなく、「時間」からの解放感

  • 資本主義の歴史は時計の歴史
  • 江戸時代の日本人は怠け者だった!
  • 時計が時間意識を変えた
  • 時計が産業革命を準備した
  • 時計をもつ者が労働を支配する
  • 時計が神様になった
  • 時計の歴史は生産性の歴史
  • 時間からの解放が幸せ感を呼ぶ
  • 自己決定が幸福感をもたらす
  • 味の素が7時間労働を中止した理由
  • イノベーションはカオスから生まれるというのは本当か?

COLUMN  働き方改革あれこれ  

 第3章「調和」と「不公平感」がつくる会社組織

  • 日本人は「集団主義」ではない
  • 自己利益を追求するための同調
  • 神代の時代から空気を読んでいた日本人
  • 対立を避ける日本ではイノベーションは生まれにくい
  • 和をもって貴しとなす
  • 「憲法十七条」は現代のガバナンス・コード
  • 現代の若者にもみられる調和精神
  • 日本一社員が幸せな会社のアイデア創造術
  • 公平をもたらさない昇進制度
  • 日本では金持ちが嫌われる
  • ねたみがあるから格差感の低い日本
  • ねたみを気にしていたらイノベーションは生まれない

COLUMN  従業員のエンゲージメント率が低いのは「飽きるから」  

 第4章 日本人は「勤勉DNA」をもっているのか?

  • 欧米人は労働を苦役と考えるというのは本当か?
  • 日本人は労働を楽しむDNAをもっているのか?
  • 稼いだ金を消費しなければ資本はつくれる
  • プロテスタントと浄土真宗
  • 近江商人のコーポレート・ガバナンス「三方よし」
  • 世間の目を気にする(関係性を重視する)
  • 勤勉革命と産業革命の違い
  • 資本節約・労働集約型の「はやぶさ」プロジェクト
  • 「はたらく」は誰かのために働くこと
  • 米国の倫理なき資本主義
  • 宗教の代わりに税金でレシプロシティを実現する

COLUMN 「楽しく働く」前澤社長と「週100時間労働」のテスラCEO  

 第5章 AIが人間から奪う仕事は( 49 %ではなくて)わずか7%

  • 身体をもたない古きよき時代のAI
  • 古典的AIと身体性AIの違い
  • 脳無しロボットでも歩くことはできる
  • 頭脳労働は死亡リスク 40 %増
  • フィンランドの動く学校( School on the move )
  • 早期引退したがる若者たち
  • AIに代替される職業はわずか7%
  • 「ものづくり」を勧める五つの理由
  • 日本人は手先が器用というのは本当か?
  • 人間の手を模倣するロボットハンドをつくるのはむずかしい
  • 大学卒の大工が働く会社
  • マクロではなくミクロの視点から見る傾向
  • アディダスのスマートファクトリーからの撤退
  • 日本のデジタルものづくり

 最終章 経営者の仕事は社員に夢を見させること!

❶ 従業員第一主義

❷就業スタイルのパーソナライゼーション

❸ 会社の存在意義

❹自立し、自律しなければならない従業員

❺ 経営決断と功利主義