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2019年5月26日 (日)

身体性をもつAI(深層学習によるAIは古き良き時代のAI)

  いま注目を集めている機械学習によるAIは計算威力で人間を圧倒する。だが、人間の知能からは程遠い。「人間は創造的な仕事だけに従事し、その他の仕事はAIにやってもらえばよい」などと多くの有識者が語っている。が、そんな時代は、いま話題になっているディープラーニング技術がいくら発展しても(あるいは量子コンピュータの採用が進んでも)やってはこない。

  人口知能が人間の脳を超えるというシンギュラリティは2045年には到来と騒がれた。が、人間の脳だけを研究していてもシンギュラリティには到達不可能・・・ということに多くのAI研究者も気がついてきている。人間の脳だけを研究してもダメだというなら、いったい何を研究すればよいのか? 答は身体だ。感覚システムと運動システムをもつ物理的な身体、そしてそれと環境との相互作用についても研究をしなければいけない。

  身体性を有するAI、Embodied AIの登場だ。

  ディープラーニングとかニューラルネットワークといった用語を一般化した機械学習(機械学習はAIを実現するためのひとつの考え方でニューラルネットワークは機械学習のアルゴリズムのひとつ)の流れをつくった元をたどれば、1956年に米国で開催されたダートマス会議に行きつく。人工知能(Artifical Intelligence)という言葉はこの会議で初めて正式に定義された。ダートマス会議はAIという研究分野を確立した会議としてだけでなく、認知科学という学問を確立した会議としても有名だ。マービン・ミンスキー、ハーバート・サイモン、ノーム・チョムスキーといった心理学、神経科学、情報科学、言語学、哲学の分野におけるそうそうたるメンバーたちが参加していた(もっとも、言語学者、認知科学者として著名なチョムスキーはまだ28歳の若き研究者だった)。

  この会議において、人間の認知とは、外界にある対象を「知覚」し、それが何であるかを判断したり解釈したりする「記憶」「学習」「思考」を含むプロセスのことであり、外界の環境(物理的世界)の情報はシンボル(記号)に変換されルール(ロジック)に従って処理されるとした。つまり、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、認知活動は、ソフトウェアプログラムがコンピュータというハードウェアを動かすように、心(精神)が脳のなかで処理されることだと考えたのだ。こういった考えに基づいて、人間の脳の神経ネットワークを模倣するニューラルネットワーク技術のさらなる研究も促された。

  脳に知能(≒認知)が宿り、脳は人間の身体をコントロールするという考え方には長い歴史がある。古くは古代ギリシアのプラトンにさかのぼることもできるが、そこまでいかなくても17世紀の哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い出してもらえばいい。デカルトは、自分が存在しているのは自分の身体があるからではなく、自分の心があるからだと言っている。心(mind)と身体(body)は別のシステムで、心が身体をコントロールするとした二元論の考え方は、西洋、東洋を問わず現代人にも浸透している。だから、身体も心(脳)をコントロールしていると主張しても、すぐには信用してはもらえないだろう。

  1985年、米国の哲学者ジョン・ハアグランドは、70年代~80年代に進んだ新しいAI研究の流れを受けて、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、心が脳のなかで処理されるのだとしたダートマス会議の考え方を否定した。そして、外界の環境情報をシンボル(データ)に変換しルール(ロジック)に従って処理する機械学習等の手法を採用しているAIを古き良き時代(Good Old Fashioned )のAIと命名した。最近では、古典的AIと呼ぶ研究者もいる

  新しいAI研究は、人間の認知活動は脳の中だけで行われているわけではないとする。最新の神経科学、認知心理学や生理学の研究によって、脳は考えられていたほど全能ではないことがわかってきた。脳は、身体に指令を与えている以上に、身体から指令を受けている。あるいは、また、身体は脳とは無関係に自律的に行動をしていることが明らかになってきた。

  たとえば、最近TVで放映されたNHK特集「人体の神秘」で、脳が司令塔となり臓器を含む身体各所に様々な命令を出してコントロールするという通説が誤りであるという研究結果が相次いで発表されていることが紹介された。脳が内臓や筋肉、骨などに一方的に指令しているわけではなく、臓器同士がメッセージ物質を使って情報交換をしている。たとえば、腸が脳にこういった問題があるから適切な化学物質を放出するよう指令する(腸は第二の脳だとか、最近命名されるようにもなっているが、今の研究の流れでは、足や手も第二の脳と命名されるようになるだろう)。身体各所は、場合によって、脳に相談することなく自律的に行動をしていることも明らかになってきている。

  だから、本当の意味で人間の知能に近づくためには、AIにも身体性をもたせなくてはいけない

  だからといって、ホンダのアシモのようなヒューマノイド・ロボットをつくればよい・・・というわけではない。人間の身体に似せたロボットをつくっても、会話や動作、すべてが中央でプログラム化されているのでは、脳(コンピュータ)がすべてをコントロールするという古典的AIと同じ考え方になってしまう。

  身体性の意味をはっきりさせるために、古典的AIと身体性AI研究の歴史を簡単に説明してみる。

  知能が宿る脳が身体をコントロールするとした考え方は、長い歴史を通じて肯定されてきた。外界の環境情報は符号化されルール(ロジック)に従って処理されるというのは、正しい考え方に思える。機械学習のアルゴリズムは、人間の脳の無意識のプロセスを模倣していると説明されれば、さもありなんと納得してしまう。実際、こういった考え方に基づき開発されたAIは、明瞭なルールに基づく問題を解決する限りにおいて成功を収めた。音声認識、画像認識、将棋や囲碁といったゲームにおいて、データというシンボルからパターンを抽出するための統計計算処理速度においても、(古典的)AIは素晴らしい進歩を遂げた。符号化できる情報をロジックに基づいて処理することにおいては、これからも威力を増していくことだろう。

  だが、コンピュテーション(計算)はあくまで計算だ

  認知は脳の中だけにあるのではなく、人間が物理的世界を経験(感覚システムや運動システムを通じての経験)することに影響され決定されるという考えは20世紀初めからあった。が、それが実験的に裏付けられるようになったのは過去数十年のことだ。70年代になって、言語の多くは身体的経験(物理的環境との相互作用)から生まれている。言語は意味のないシンボルのつながりだというチョムスキーの言語学理論は、脳をコンピュータとみなすパラダイムには適しているかもしれない。が、実際とは違うのではないかと考える言語学者が出てきた。

  たとえば、「薬がのみこめない」と「意味がよくのみこめない」。身体的経験と認知的経験に同じ「呑む swallow」という言葉をつかっている。また、愛情の主観的判断は暖かさの感覚と一致する。だから、「赤ちゃんは母親のぬくもりを求める」とか「あの人は冷たい人だ」という表現がある。しかも、こういった言葉の使い方は多くの言語において、つまり多くの文化圏において共通している。ということは、人類の歴史からいってもかなり大昔にさかのぼることであり、それは、人類共通の同じ身体形態がもたらす同じ経験に基づいているからだと考えたのだ。

  考えたり感じたりすることは身体の状態に影響を受ける。たとえば、人間は嬉しいときには体を上向きにするし、悲しいときには下向き加減になる。だから、「気分が高揚する」「ハイな気分」「嬉しくて舞い上がった」「幸せで天にも昇る気持ち」とか、反対に、「気分が落ち込む」「気分が沈む」「ショックで浮かび上がれない」という表現が生まれるのだ。人間の身体が今の形態でなければ、幸福や不幸を表現する言葉は違うものになっていたと考える研究者もいる。

  身体的経験が認知の元になっている。つまり身体とその経験が知能に影響を与えていると考える研究者たちが認知言語学という新しい学問分野をつくりあげた。認知言語学のパイオニアとして著名なジョージ・レイコフは数学のような高次の認知を必要とするようなものでも身体の経験に基づいているとして、「Where mathematics comes from/数学はどこから来たのか(邦訳なし)」を2000年に出版した。そこには、実数や集合のような抽象的数学の概念でさえ身体性にその起源があると説明されている。

  やっと、ここから、Embodied AIの話になる

  チューリッヒ大学のAI研究室所長だったロルフ・ファイファーはAIの身体性の重要性を主張したパイオニアである。

  ファイファーによれば、身体性とは、「知能は常に身体を必要とするという考え方であり、正確に言えば、環境と相互作用することによって生じる振舞が観察できるような物理的実体をもつシステムだけが知能的である・・という考え方」だそうだ。どんなシステムでも、その行動は、たんに、たとえば脳の神経ネットワークのようなものが生み出すのではなく、そのシステムが存在する生態的ニッチ(たとえば生物が生息している特別な環境)や、自身の形態(身体の形、センサーやアクチュエータのタイプや設置場所)や材料特性の影響を受ける。

  たとえば、形態でいえば、人間の足は股関節で体につながっているために、歩くときには振り子のような行動をとる。その結果、安定性やエネルギーの効率を達成することができる。だから、歩くという課題には中枢神経によるコントロールはほとんど必要がない。また、人間の筋肉や腱は弾力性や柔軟性がある。なので、たとえば、右手でコップをつかむときには、通常、手のひらは左を向いている。だが、やろうと思えば、右手をねじって手のひらを右にしてコップをつかむこともできる。この無理な体制は、筋肉を弛緩させれば、自動的に自然な状態に戻る。この作業は神経にコントロールされているのではなく、筋腱システムの材料特性によってもたらされている。だが、固い材質からつくられているロボットの場合は、このような作業をするためには、複雑なプログラムによるコントロールを必要とする

  生物の身体は中枢神経によってのみ動いているわけではない、そして、身体性はAIの認知機能を向上させる。ファイファーは、この2点を証明するために、メカニカルシステムが歩行という低レベルの運動を重力とメカニカル構造だけで自律的に達成したいくつかの実験に注目した。

  そういった初期の実験のなかには、二本足のメカニカルシステム(脳無しロボット)が、モーター、センサー、そしてマイクロプロセッサーの助けもなく、斜面を歩く実験もある。傾斜があるということで重力だけがエネルギー源となる。足の長さ、足底の形、質量の配分といった数値の設定、また、バランスよく歩けるように足とは逆に振る腕の取り付け方といったメカニカル構造だけで課題を達成した。これは身体が環境との相互作用によって機能する良い例である。ただし、生態学的ニッチ、つまり、システムが機能できる環境は、特定の角度をもった斜面だけということで非常に狭いものだ。

  だが、このメカニカルシステムの腰関節をモーターが駆動することにより平地歩行が可能になる。脳なしロボットが平地を歩くことができたということだ。

  このように、身体性の基本は、ロボットに、環境と相互作用ができるように、センサーやアクチュエータ(たとえばモーター)をつけることだ。

  6本の足をもったゴキブリの動きを角度センサーとメカニカル構造で実現したロボットもある

  もともと、ゴキブリのような昆虫の場合、歩行する足の動きは中央の神経システムから独立していて、足にある神経回路だけで制御されている。地面に立っているゴキブリが一本の足を後ろへと押し出すと、地面についているすべての足の関節角度が瞬時に変化して胴体は前に押し出され、結果的にほかの足は前方に引っ張られて、その関節は曲がったり伸びたりする。昆虫の関節には、変化を図るための角度センサーがついていて、それが足の神経回路に足の詳細な位置情報を伝達し、地面のどこを足場とすべきかを教えてくれるのだ。

  ゴキブリを模倣したロボットの足には電気回路とセンサーが配線され、1本の足が動くと、他の足は曲げるか伸ばすかの信号を受け取る。それぞれの足の位置を計算し指令を送るような中央コンピュータの制御なしに、ゴキブリロボットは環境との相互作用と自律的なサブシステムによって歩行する。

 メカニカルシステムが、このような低レベルの課題を自律的に達成できることを実験で証明してから、次に挑戦したのは、身体性あるAIが、より高度な認知を必要とする「分類」という課題を果たすことができるかどうかだ。この場合は、触覚や視覚といったセンサーをもつシステムが動きながら環境と相互作用をすることで、写真を使った画像認識より優れた分類ができることを証明した。

  たとえば、サイズが違う木の円柱(大と小)を画像認識で区別することは、つまり視覚だけで識別することはむずかしい。だが、身体性ロボットが円柱の周りを動くことで、角速度(ある点をまわる回転運動の速度)の数値を得ることができる。これが古典的AIだと、センサーから画像データを受け取り、蓄積保存していた画像情報と比較しパターン認識をする。だが、グーグルにしてもフェイスブックにしても、画像データベースにアップロードされている写真の多くは不完全な状況(距離とか照明、角度、その他)で撮影されたものだ。結果、誤った判断がなされることがある。身体性をもったAIの場合では分類化はより正確になされることを、この実験は証明した。

  以上紹介した実験からみてもわかるように、身体性AIが人間の知能に近づくにはまだまだ長い道のりを進まなくてはいけないようだ。

  いずれにしても、シンギュラリティの問題とは、AIが人間の知能を超えて人間にとって危険なものになる可能性がある・・・という意味にとるべきではないだろう。そうではなくて、計算能力が非常に高くなったAIに恣意的に、あるいはうっかりして誤ったデータを入力する。あるいは、恣意的に問題あるプログラムを組み込んだりする。こういった人間が存在することにより、古典的AIが社会を大きな危機に陥れる可能性がでてくる・・・という意味に理解したほうがよい。結局は、人間が恐れるべきは、AIではなく人間なのだ。

   雇用の問題においても、身体性のない古典的AIが人間から奪える仕事には限りがある。

   最後につけ加えると、身体性を持ったAI研究ではロボティックス(ロボット工学)が中核となる。この分野は、日本もまだ先端を走っているし、「ものづくり」のノウハウが生かせる分野だ。古典的AIでは米国企業に追いつくことは無理でも、身体性AIならまだ頑張れるかもしれない。

参考文献: 1.R・ファイファー、J.ボンガード「知能の原理」共立出版、2.Katrin Weigmann, Does intelligence require a body?, EMBO reports 11/12/2012 3. Samuel McNerney, A Brief Guide to Embodied Cognition:Why You Are Not Your Brain, Scientific American, 11/4/2011, 4. 特集AIの身体性、日経サイエンス2018年8月号 5.Luc Steels, Fifty Years of AI: From Symbols to Embodiment-and Back,LNAI 2007 6.楠見孝、心のメタファと身体性:認知心理学の立場から、理論心理学研究2015、7. George Lakoff, Mappping the brain's metaphor circuitry: metaphorical thought in everyday reason, Frontiers in Human  Neuroscience , December 2014、8.Fred Delcomyn, Marke E. Nelson, Architectures for a biomimetic hexapod robot, Robotics and Autonomous System 30, 2005

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