2021年1月16日 (土)

不確実性下におけるANAと黒鳥と黒い像

 コロナウィルスによるパンデミックで大きな損失をこうむった企業が多い。なかでも、航空会社、宿泊業者や飲食業者は、客が、突然、消えてしまった。需要の存在しない市場では、供給する側はなすべき手立てもなく茫然と立ちつくすのみだ。

 その一方で、「あつ森」でもりあがった任天堂や世界中の有料会員数が2億人近くまで膨れあがったネットフリックスのように、パンデミックのおかげで収益を大幅に伸ばした企業もある。景気の良い悪いが業種によってこれほど明白に分かれることは珍しい。

 世界経済が縮小するなか、欧米のビジネスメディアでは、コロナウィルスはブラックスワン(黒鳥)なのか、ホワイトスワン(白鳥)なのかという議論が目立った。ブラックスワンという言葉は、金融デリバティブ・トレーダーの経験を持つリスク分析研究者ナシーム・ニコラス・タレブの著書「ブラック・スワンー不確実性とリスクの本質」が2007年に世界的ベストセラーになることで広まった。

 もともとの言葉の由来は、1697年に、オランダの探検隊が、オーストラリアで黒鳥(ブラックスワン)を発見するまで、北半球のヨーロッパ大陸の人たちはスワンと言えば白鳥であり、すべて白いものだと信じていた。そのため、「ありえないこと」「起こりえないこと」のメタファーとしてブラックスワンという言葉が使われるようになった。

 今回のパンデミックを白鳥か黒鳥かと議論しているということは、ありえないことが起こったのだから予測できないのは当然とする黒鳥派と、起こることは予測できたとする白鳥派が、どっちが正しいかという議論をしているということだ。

 著者のタレブ自身は、新型コロナウィルスは白鳥だと語っている。なぜなら、以前から、パンデミックがいつ発生してもおかしくないと指摘する科学者は多かった。急性呼吸器系感染症をもたらすウィルスについては、2002年に中国で発生したSARSがアジアやカナダを中心に32か国に拡大しているし、2003年から2015年の間に、アジアやエジプトを中心に鳥インフルエンザのヒト感染がみられ450人近い死亡者も出ている。発生してから拡大していく経緯の研究もあり、適切な防疫方法についてもある程度の知見も得ていた。だから、中国の武漢での感染症発生が分かった時点で、中国との出入国を停止していれば、世界中に広まるパンデミックにはならなかったとタレブは主張する。

 たしかに、今回の出来事は、各国の政府高官やWHO高官にとっては明らかにホワイトスワンであり、適切な防疫体制を素早くとらなかったのは、各国政府とWHOの大きな失敗だ。つまり、過去の知見から予測できたはずであり、こんなときに首相や大統領になっていて運が悪かったという愚痴は通用しないということだ。

 だが、特定の業種の企業にとっては、コロナウィルスはブラックスワンが登場したようなものだろう。感染拡大が予測できたとしても、私企業として、これといった対策をとることはできない。だから、たまたまタイミング悪く社長の座にいた人は、「ありえないこと」が起こったのだから、「自分は運が悪い」と思ったとしても許されるだろう。

 たとえば、航空会社のトップ経営者が武漢で感染症が発生したと知り、これは世界的パンデミックになると予測したとして、損失を少なくするために、早目にとれる手段があっただろうか? パンデミックになり各国間の往来が禁止されると個人的に予測したとしても、各国政府が国境封鎖や飛行禁止の措置をとらず旅行者が国から国へと行き来しているときに、つまり、需要が存在しているときに、自社の国際線を停止することなどできない(同じことは、ホテルや飲食店にもいえる)。

 つまり、政府よりも早く危険性を感知したとしても、こういった業種の経営者にいったい何ができるのか?ということだ。

 航空業は固定費の割合が約60%で、日本の全産業平均の約20%の3倍。労働集約型サービス業だから、固定費の3割は人件費で、残りは一機200億円とか300億円する機材費(飛行機代金)とその減価償却費が占める。しかも、飛行機は維持費が高く、飛ばなくてもコストがかかる。一週間に一度、15分くらいはエンジンをかけないと使えなくなるし、一か月に一度、トーイングカーで引っ張って動かさないと、タイヤがパンクしてしまう。

 このように固定費の高い航空会社には融通性がない。飛行停止措置がとられる前にパンデミックの予測をした感度の高い経営者がいたとしても、その時に取れる対策といったら、すでに注文していた機材(飛行機)をキャンセルしたり、キャンセルできなかったら導入予定を遅らせることぐらいしか手立てがないということだ。そして、航空会社の営業利益率の世界平均は4.8%だから、営業できなくて収入が途絶えれば、とたんに人員削減とか経営破綻の話が出てくる。

 世界的に著名な投資家ウォーレン・バフェットは、2007年の「株主への手紙」で、投資家として航空産業ほど恐ろしい産業はないと書いている。「航空会社は急成長をするが、その成長を生み出すために莫大な資本を必要とし、結果、利益を稼ぐことがほとんどできない・・・だが、投資家たちは、その成長に魅了されて底なし沼に資金を投入し続けてきた」とし、「ライト兄弟が最初の飛行実験をした場に、先見の明ある投資家がいあわせていて、その飛行機を撃ち落としてくれていたら、後世の投資家たちに多大な恩恵を与えることになっただろう」なんてことまで書いている。

 航空会社の株を買って手痛い目をみた自らの経験から出た辛辣な意見だ。

 それなのに、ああ、それなのに・・・、バフェットは2016年に、米国の航空会社4社の株を購入してしまった。そして、コロナ禍の今年5月、全ての株を損失を出しながらも売却し、「買ったのは間違いだった」と自分の誤りを認めた。

 それでも、「大手航空会社4社のCEOは優秀であり、彼らのミステークが原因というわけではない、航空業はそういうふうにできているのだ」とも語っている。

 バフェットの言動は神のお告げとして世界中の投資家が参考にしている。そのバフェットが「航空会社には投資しない」という宣言を、ついひるがえしてしまったくらい、コロナ以前の10年間、世界の航空業界はグローバル化のおかげで超がつく高度成長をおう歌していた。国連世界観光機関によれば、世界中の旅行客の数は2019年には15億人に達している。国際航空運送協会IATAは、1998年に販売した航空券は14億6000万枚だったが、2019年には3倍の45億4000万枚になったと発表している。

 この高成長が今後も続くと予測して、多くの航空会社が積極的な成長戦略を採用していた。新規の路線を増やし、それにあわせて新しい飛行機を買い、それにともないサービスを提供する従業員も増員する。何百億円の機材を買うわけだから借金も多くなる。そこに、突然のパンデミックで需要が大幅に縮小する。

 外食産業のように配達とかテークアウトを増やす、場合によってテークアウト専門店を出店するというような融通性は航空業にはない。せいぜいいって、大型旅客機をモノを運ぶ輸送機に変更することぐらいだ。景気が悪くなってできることは、機材売却か人員削減しかない。それでも、ヴァージンオーストラリアのように経営破綻したり、アリタリア・イタリア航空のように再国営化される企業がでてくる。韓国では政府主導で大韓航空がアシアナ航空を買収することとなった。

 そういった意味で、そもそも、日本の規模の国で、大手航空会社が二社もあるのはおかしいという話が再燃して、ANAとJALの統合論がまたぞろ出てきたりしている。ANAとJALの財務状態を比較する記事も多く、そのほとんどが、ANAがJALより大きな赤字とより大きな負債を抱えている原因として、ANAの積極的経営をあげている。見出しをみていると、まるで、JALの消極的経営が正しかったような印象を受ける。たとえば、「ANA , 広げた翼 重荷」「ANA拡大路線 あだ」あるいは「消極戦略貫いたJALと明暗 王道歩んだANAの大誤算」などといった見出し・・・。

 これはおかしい。

 10年前のことなので忘れてしまった人もいるかもしれないが、JALは2010年に2兆円を超す負債を出し経営破綻した。そして、銀行に5215億円の債権放棄をしてもらい、政府系ファンドから3500億円の出資を受けている。TVドラマ「半沢直樹」の最新シリーズは、この実話をもとにしてストーリーがつくられた。もっとも、ドラマでは、銀行が・・というか半沢直樹が政府の意向に最後まで抵抗して債権放棄はせず、航空会社は自主再建することになっている。

 だが、現実には、官僚的組織で殿様商売をしていたと批判されたJALは5000億円もの負債をチャラにしてもらっている。だから、ANAより負債が少ないのは当然だ(ANAの有利子負債は1兆3589億円、自己資本比率は33.9%であるのに対し、JALはそれぞれ5046億円と45.9%)。

 積極的にリスクをとる戦略をとってきたANAは間違っていなかった。リスクをとらない日本企業が多いなか、健全なリスクの取り方だった(自己資本率33.9%は、世界の上場航空52社の平均である11%と比べれば、悪くない)。

 JALの消極的戦略を正しいとするようなメディアの見出しでいくと、「ほら、みろ、日本企業の内部留保が多すぎると批判されてきたけれど、こういったブラックスワンのような出来事があるから、そのために金を使わずにとっておいたんだ。よかっただろう」という意見がまかり通るようになる。実際、「石橋をたたいて、(それでも)渡らない」式の経営を続けてきた企業経営者の多くは、コロナ禍のなかで、自分の経営方針が正しかったと胸を張っている。

 戦略的に意味ある投資すらも避け、前例を継続しつづける可もなく不可もない経営手法への反論はいろいろある。

 たとえば、十分な利益剰余金があるのなら、もっと前に、デジタル化に投資していれば固定費の割合が少なくなり、想定外のことが発生しても、融通性を発揮でき被害を少なく抑えられたはずだというもの。利益剰余金を従業員の賃金を上げることにつかっていれば、不満を抱えながらも転職するリスクをとりたくないがゆえに仕方なく会社に残り続けている従業員の割合が少なくなり(日本企業のエンゲージメント率がOECD参加国の中で最低レベルなのは、こういったタイプの社員が多いからだ)、パンデミックのような非常時を意気の高い従業員とともに乗り越えることができる・・・というのもある。

 だから、「消極戦略貫いたJALと明暗 王道歩んだANAの大誤算」という見出しは間違っている。誤算は計算が間違ったという意味だが、ANAは計算されたリスクをとった。ブラックスワンの登場は不確実で予測はできない。だから、「大誤算」ではなくて「大不運」の方が正しい。

 ANAの成長戦略は、今後もグローバル化が継続する、つまり旅行需要が拡大することを前提とした世界の多くの航空会社が採用していた戦略だ。ANAは国内線よりも利幅の大きい国際線で新たな路線獲得を進め、それに合わせて機材の数を増やし、サービスを提供する従業員の数を増やしてきた。ANAの拡大戦略は成功し、連結売上高は2010年3月期の1兆2283億円から、2019年3月期は2兆583億円にまで伸び、創業以来初めて2兆円を突破した。

 JALはこういった成長戦略がとりたくてもとれなかった。それは、公的支援をうけたJALは、他の航空会社との公平をはかるために17年春まで投資や路線の開設が抑制されていたからだ。つまり、JALも好きで消極的戦略をとっていたわけではないということだ。

 ANAの戦略は間違っていなかった。21年3月期決算発表の席で、過去最高の赤字を出すことを明らかにした片野坂社長は、拡大路線について「正しい戦略だったが、(コロナ禍は)非常に予想を超える影響だ」と悔しさをにじませたそうだが、納得できる。

 コロナ前のANAの戦略は間違っていなかった・・・と強調したが、たった一つ、長期的観点にたっていれば、異なった判断をしていたのではないかと思われる決断がある。

 エアバスの超大型飛行機A380を2019年に導入したことだ。

 欧州エアバスの(一部じゃなくて)全部二階建てになっている超大型機A380は一機500億円。ドバイを拠点とするエミレーツ航空はA380を100機以上も所有していて、二階にバーラウンジ、個室、シャワー室までついているチョー豪華なファーストクラスをつくり有名になった。

 世界の航空業界では近年、中型機の航続距離が延び、コロナ以前から、中型機や小型機へのシフトが始まっていた。しかも、大量の燃料を消費する大型機は環境問題の観点から敬遠されるようになり、エミレーツ航空ですらA380の発注を止めたため、エアバスはA380の生産を中止すると2019年に発表している。

 環境問題は黒い像(Black Elephant)だといわれる。この言葉のもとをたどると、19世紀ごろから使われている「部屋の中にいる像(Elephant in the Room)」という表現に行きつく。部屋の中に象がいれば、誰もがその存在に気づくはず。そこから、大きな問題だと認識しながら、様々な理由からあえて無視したり、関わらないようにする行為を指すメタファーとなった。

 「部屋の中にいる像」に「黒」がついた「黒い像」は、長い間認識していながら見て見ぬふりをしていた問題が、ある日突然、ブラックスワンのような想定外のありえない問題に発展し、社会全体が大混乱する現象をいう。「環境問題は黒い像になる可能性がある」といったふうに、環境がらみで近年よく使われるようになっている。

 1980年から2015年にかけて、航空機からの二酸化炭素排出量は毎年2.2%増大した。燃料効率の良い機材が製造されるようにはなってきたけれど、乗客数の急激な増大により飛行機が飛ぶ数も多くなっていた。この35年間、飛行機が使う燃料は毎年2~3%少なくなってはいたが、航空輸送は毎年5.4%増加した。結果、世界の航空会社全体で排出する二酸化炭素の量がすべての排出量の12%にも及ぶようになってしまった。

 日本でも「飛び恥(Flight Shame)」という言葉がメディアをにぎわせ、ヨーロッパでは航空会社への強い批判があることを知った人も多いことだろう。2019年の国連での温暖化対策サミットで、当時16歳だったスウェーデン人のグレタ・トゥーンベリが演説し、「恥を知りなさい」という厳しい口調で大人たちを非難して有名になった。彼女は、ニューヨークで開かれた温暖化対策サミットに参加する際はヨットで大西洋を渡り、ローマ法王に拝謁した際はバチカンまで鉄道で移動することで、飛行機を使うなんて恥ずかしいことはやめようと具体的行動で示した。

 こういった環境運動の高まりを意識して、KLMオランダ航空は、創立100周年を記念して制作した動画で(ネットで見られます)、「いつも対面して話す必要がありますか? もしかして電車でも行けるのではないですか?」と問いかけ、「たしかに、飛行機でなければ行けない時もあります。ですが、飛ぶことで負うことの責任について考えてみてください」という飛行機を利用する頻度を少なくするのを促すような、航空会社としては勇気あるというか、そんなこと言っていいのとツッコミたくなるような動画を発表した。取締役会の承認を得るまでに3回会議を開かなければいけなかったそうだ。

 いずれにしても、ヨーロッパの航空会社はコロナ以前からも、環境対策として大型機を使うのを避け、より小型の燃料効率のよい機材を使うようになっていた。また、使用済みの食用の植物油からつくるバイオ燃料の利用も進めてはいる(いまのところ全燃料の0.2%にしかなっていない)。テクノロジーが進化して水素で飛ぶ飛行機がいつの日か実現することを目指してはいる。エアバスは液化水素をガスタービンで燃やして飛ぶ「ゼロe」を35年までに実用化すると宣言しているが、希望的観測に近いとみられている。いまのところ、排出量を減らす最も現実的な方法は、飛ぶ頻度を減らすことなのだ。

 たとえばKLMは500キロ以下の短距離路線については、鉄道を使うように促すことを考えている。利用者は、飛行機の乗り継ぎと同様、KLMの窓口で鉄道のチケットを買うことができる。荷物も飛行機から鉄道に移し替えてくれる。フランス政府も、パンデミックで財務状態が悪化しているエールフランスに対して、高速鉄道TGVと競合する短距離路線の再開断念と国内飛行における排出量を2024年までに半減することで経済支援するという条件を提案した。   

 北欧を除いて鉄道網がある程度発達しているヨーロッパならではのアイデアだ。日本でも東京から新幹線で3時間くらいで行けるところは飛行機利用を止めることに反対する人はそれほどいないだろう。だが、高速鉄道網がほとんどない北米は難しそうだ。

 このように航空会社による環境被害が問題になってきているというのに、ANAがエアバスA380を導入したのは誤りではないか?という話に戻ります。

 ANAは大型機を導入することを検討していたが、2008年の金融危機後の世界的不景気を理由に導入計画の凍結を発表した。だが、2016年にエアバスA380を3機導入することを決め、その1号機が2019年春より東京-ホノルル線に導入された。

 問題としているのは、いったん凍結した大型機導入を、なぜ、2016年に決めたのか? そのころには、世界の航空産業の方向性は、中型機や小型機に移りつつあったというのに・・。

 なのに、なぜ?

 経営陣が意思決定するときには、当然のことながら、メリットやデメリットをあらゆる角度から分析し論理的な意思決定をするはずだ。だが、後から考えて、その決定が間違っていたかもしれないと思われる場合、その決定が最終的には論理以外の要素に影響されていることが多い。あるいは、また、利害関係にある他の意思決定者がこちらのシナリオ通りの行動をとってくれなかったということもある。

 最初に、ANAのエアバス導入の決定に感情が影響を与えていたのではないかという疑いを紹介する。

1番目の誤り:JALへのライバル意識

 日本―ホノルル線のシェア首位はJALで30%。ANAは4位で13%。しかも、JALは2017年にハワイアン航空とコードシェアを含む包括提携で合意し、結果、両者合わせてのシェアは52%と他社を引き離す。A380はレイアウトによっては座席数が800席以上になり、一般的な航空機の2倍の席数になる。座席が多いということはシェア拡大に好都合だ。また、一席当たりの運行コストも下げられる。しかも、超大型機ということで、一度は乗ってみたいと思う旅行客も多いから話題づくりにもなり、ライバルの客を奪うのにも貢献してくれるはず。ANAとJALはライバル意識が強く、あそこだけには負けたくないという思いが強い。打倒JALの感情的思い入れがANAの冷静な判断を狂わせたといえないこともない。「ハワイといえば日本航空という概念を変えたい」と、A380のハワイ路線就航にさいして、ANAの平子社長(当時)もそう発言している。

2番目の誤り: シナリオ通りに進まなかった

 ANAは本当はエアバスを買いたくなかった。大型機から燃費性能に優れた中型機への転換を戦略的に進めていた最中に、戦略にそぐわない機材を買うことにしたのは他の理由があったからだという説もある。スカイマークの羽田発着便枠(一日36便)が欲しかったというものだ。

 スカイマークは、1986年に始まった日本の航空輸送業の規制緩和により、新規参入航空会社の第一号として誕生。このスカイマークが2015年に経営破綻した。このとき、スカイマークが持っていた羽田発着枠を得たいと考えたANAは再建支援企業に名乗り出た。支援企業と認められるためには、自社が推す再建支援策が債権者の賛同を得なくてはいけない。最大債権者だったエアバス(スカイマークはA380を6機も注文したが、途中で、業績悪化を理由に注文をキャンセル。エアバスに多額の違約金を請求され、これが経営破綻の直接の原因となった)を味方につけるために、A380の購入を引き受けたといわれる。

 その後、スカイマークは民事再生手続き申請後、わずか一年で営業黒字を達成するという驚異の復活を果たした。が、ANAとの提携、具体的にはANAとのコードシェア便については、独立性を保ちたいという理由で拒否して実現していない。ANAはスカイマークが違約金を支払わなくてもすむように自らA380を購入して肩代わりしてくれたようなものだから、スカイマークは恩義を感じてコードシェア便を承諾してもよいはずだ。わずか一年で黒字転換を達成したことから強気になったのかもしれない。

 ANAは、他社の経営者(他者)の判断や行動を推測したが、シナリオ通りには進まなかったということだ。もっとも、経営破綻した企業がわずか一年で黒字回復するという、ある意味、「ありえない」ブラックスワン的な出来事が発生したわけだから、相手の出方を読み違えたとしても仕方がなかったかもしれない。

 環境問題という「部屋の中の像」が、ヨーロッパにおいては、だんだん黒くなってきている状況があった。その一方で、世界市場において、今後、航空産業が急速に伸びるのは中国やインドをかかえるアジア市場だと予測されていた。アジア市場攻略にはスカイマークのような国内線と短距離国際線に強い航空会社と提携することは重要だ。ANAとしては、環境問題という当時はまだ切実度の低かった課題よりも、企業成長に直結するアジア市場攻略に重要なスカイマークとの提携をより重要視したのだろう。

 問題は、利害関係にある相手の出方に不確実性があったことだ。

 「不確実性下の意思決定」といったようなタイトルをみると、つい、不確実な時代とか不確実な環境における意思決定というような意味かと思ってしまう(って、そう思ったのは私だけ?)。が、厳密にいえば、意思決定する人間が持っている情報の確実さを指す。つまり、意思決定者は何らかの目的を達成するために決断をしなくてはいけないわけだが、実際には、意思決定者がコントロールできない要因(変数)が多々ある。 たとえば、コロナ感染の収束時期、飛行機の環境汚染に対する世論といった変数。投資予定あるいは買収予定先企業の経営者の思惑や行動といった変数。こういった変数を自分の思い通りにコントロールはできない。

 意思決定者は自分がコントロールできない変数をできるだけ正確に予測して決断しなくてはいけないわけだが、このとき、意思決定者が持っている情報は、多くの場合、不確実である。だから、不確実性下での意思決定となる。

 経済学者フランク・ナイトは、1921年に出版した本で、リスクと不確実性とは違うとした。リスクの場合は、同じような状況を過去に見てきているので結果を確率で計算できるが、不確実な状況の場合、一番起こりやすい結果は何かを評価するに足る経験がないためにguessするしかないと書いている。guessという英語を推測と訳せば、ある程度は正確に予測できるようなイメージを抱いてしまう。が、guessは想像とも訳すことができる。

 つまり、意思決定者は将来を想像して決断しなければいけないということだ。しかも、ナイトは、不確実性の特徴はこれまで存在しなかった「新しさ」にあるとしている。先例がないので、結果の可能性の範囲すらも正しく想定することができないとした。

 このように、不確実性とかリスクの本来の定義に戻って考えてみると、いまの経済やビジネスに携わる人たちは、自分も含めて、傲慢になりすぎているというか安易に流れているように思えてくる。

 私たちは、ナイトがリスクと不確実の分類で使っている基準を無視して、先例のない新しい出来事ですら数字で表現しようとしている。そして、不確実な出来事ですらも確率で表現し、それによって被るであろう損失を計算さえすれば、将来に発生するかもしれない出来事を管理することができたとみなしてしまっている。

 日本の大手企業の60%はリスクマネジメントを導入しているという。リスクマネジメントとは、リスクを組織的に管理し、損失などの回避または低減をはかるプロセスをいう。

 ある航空会社が自然災害、戦争、あるいは感染症といった要因でいくつかの国に飛行機を飛ばすことができなくなるリスクが発生する事態を想定し、それによる被害を算定するために確率を計算したとしよう。たとえば、アジア地域で何らかの問題が発生し運航停止が起こる確率を30%とみて、それによる財務的影響や損失低減対策リストを作成する。だが、そういった問題が世界的に拡大しグローバル規模で長期間にわたって運航停止になる事態を想像し、その発生確率を算定するだろうか? 

 仮に、全世界的に長期にわたって運航停止になる確率を3%とし、引き起こされる財務損失を計算するとしよう。そして、これでリスク管理はできているとみなす。だが、現実には、これでリスクが管理されたわけではない。

 一番目の問題は、こういった事態は先例のない出来事であり、ナイトの定義によれば不確実性の高い出来事であり、たとえ確率が算出されていたとしても正確ではない。2番目の問題は、わずか3%という「まずありえない」出来事のために、想定される財務損失に足る手元資金を常に準備することができるだろうか? 3%の確率のために資金を使わないでとっておくよりは、10%以上の成長がもたらされる戦略に投資した方が良いと判断する経営者は多いはずだ。3%のリスクを恐れて積極的戦略への投資を怠れば、競争に負け、リスクが発生したときとは異なる意味で致命傷になるかもしれない。

 何が言いたいかといえば・・・、

 企業は、いま、リスクではなく不確実なことまでも数値化し確率で表現しようとしている。その結果として、数字で表現できればリスクと同じく不確実性をも管理することができたと勘違いするようになってはいないだろうか?

 発生確率3%の出来事でも起こるときには起こる。ブラックスワンだ。つまり、不確実性の高い出来事を想像して、それに確率という数字をつけて、そこから生まれるリスクを管理したような気分になっていても、今回のパンデミックが明らかにしたように、現実には管理することなどできないということだ。

 「ブラック・スワン」や、それ以前の「まぐれ(原題はFooled by Randomnessで『ランダム性にだまされて』と直訳できる)」という本において、著者のタレブがくり返し述べているのは、人生(世の中)の出来事の多くは偶然だ。それでも、人間はそこに理屈をつけたがる。因果関係で説明したがる。だが、実際には、投資した株で大儲けをしたり、ある商品が大ヒットするのは偶然のできごとであり、運・不運と呼ぶことができる。

 これを、最近の日本の例でいえば、映画「鬼滅の刃」が観客動員数歴代一位になったのは、漫画単行本やTVアニメで築かれたファン層の存在とか、いろいろ講釈をたれることはできるが、それだけではあれだけ観客を集めた理由にはならない。コロナ禍で他に見るべきこれといった大作がなかったというタイミングの問題が大きい。運がよかったから大ヒットしたということになる。

 たしかに・・・。タレブの言う通り。人生や世の中は偶然で成功・不成功や幸せ・不幸せが決まることが多い。反論はできない。

 だが、寅さんのセリフじゃないが、「それを言っちゃあおしまいよ」とも言いたい。

 世の中が、あるいは自分の人生が、偶然によって左右されると信じてしまったら、私たちは生きていくことができないし、人類はここまで発展することはなかった。世の中のことはすべてあらかじめ定められた運命によって支配されていて人間の力ではそれを変えることができないとする運命論だけでは、人類はここまでやってこられなかった。

 私たちは偶然を信じたくないと考える。だから、理屈をつける。「あの人は他の誰よりも努力していたから成功したのだ」と因果関係を見つけようとする。私たちは、不幸が訪れたときに、それに理由がつけられない場合には、なかなか納得できない。自分に不幸が訪れたのは、単なる偶然で不運だったのだとは思いたくない。そう思ってしまったら、次に、新しい一歩を踏み出すことはできなくなってしまう。

 だが、残念ながら、人間にも会社にも幸運が訪れることもあれば不運が訪れるときもある。ときに、ブラックスワンが登場して、それまでやってきた努力がすべて消えてしまうことがある。第二次大戦後の60年間の安定した社会と安定した経済成長に、先進国に住む人間はすっかり慣れてしまった。だが、グローバル化が進み、社会システムの相互依存が進み複雑化することにより、ブラックスワンが発生しやすくなっているし、発生したときの影響は深刻なものになる。また、経済格差が広がり、ソーシャルメディアで不正確な情報が拡散しやすい社会でも、ブラックスワンは発生しやすい。

 偶然やってくるブラックスワンを予測して対応することはむつかしい。だから、発生したときの被害を最小限に抑えて早く元に戻る回復力や再生力のある組織(社会や会社)を築くことがベストな防御策だ。

 最近、よく耳にするレジリエンス(resilience)の考え方が重要になってくる。

 組織にとってレジリエンスとは、失ったものを取り戻し立ち直ろうとする力だ。そのためには、変化した新しい状況に素早く適応し目的に向かって前進する融通性がなくてはいけない。

 レジリエンスで重要な要素の一つは、当然ながら、お金だ。ある程度の手元資金はもっていなくてはいけない。だが、先に書いたように、それにも限度というものがある。それに、お金で難局を一時的に乗り越えることができたとしても、変化した新しい状況のなかで本来の目的に向かって前進する力や能力がなければ、結局は、途中で挫折する。

 重要なのはレジリエンスをもった従業員だ。

 レジリエンスをもった社員は、自律して、融通性があり、ストレスにも耐えることができる。そういった能力に、前向きな感情、一致団結して目的を達成しようという感情が結びつけば頑強な組織が生まれる。たとえば、打倒JALという感情がANAのA380購入に関しての判断をあやまらせたかもしれないが、「JALに負けてたまるか」という感情を社員全員が共有していれば、それは、コロナ後にANAが再び成長路線に戻る原動力になってくれるはずだ。

 ANAは大規模な希望退職募集はせず、他企業への出向や、勤務日数を従来の半分に減らす条件で社員の副業や地方在住も認めるといった方策で、人件費を抑えながらも、社員を維持していく方針だ。JPモルガン証券のアナリストは「皆で痛みを分かち難局を切り抜けたい考えなのだろう」とコメントしている。

 ブラックスワンがいつ登場するか予測できない社会において、会社のレジリエンスを高めるためには、企業同士の協力や協同も必要だ。今回、ANAの出向を受け入れているのは、航空会社の接客ノウハウに目をつけたスーパーとか家電量販店。どちらも、パンデミックのなかでも売上を維持している産業だ。だが、明日は我が身。次には、航空会社に助けてもらうときもあるかもしれない。中小企業同士が業種の垣根を越えて助け合ういくつかのプロジェクトも今回のコロナ禍の中で始まっている。

 さて・・・、うんざりするほど長い記事を書いたのは、航空産業や外食産業といった、ブラックスワンが運んできた偶然に大きなダメージを受けた産業で働く人々に、エールを送りたいと思ったからです。でも、元気づけにはあまりならない内容になってしまいました。だから、最後に付け加えさせてください。

 誰かといっしょに食事をすること、そして、遠くの知らない土地に行ってみたいという好奇心を実行に移すこと、この二つの行為は、私たち人類が文明を築く基盤となった活動です。現生人類の歴史だけを見ても20万年以上続けられてきた営みです。緊急事態宣言での自粛生活のなか、私たちは外食や会食できるようになることを待ち望んでいます。そして、飛行機にのってあそこに行きたいここに飛んでいきたいと夢見ています。早く実現することを心より切に願っています!

参考文献:1.「ANA拡大路線 あだ コロナ後へ改革」読売新聞10/28/20、2.「航空2社、相次ぎ資本増強」日経新聞 11/28/20, 3.「王道歩んだANAの大誤算」週刊東洋経済10/3/20、4.「ANAhd、広げた翼重荷」日経新聞10/27/20, 5. Warren Buffett Sells Airline Stocks Amid Coronavirus: “I Made A Mistake”, Forbes 5/4/20、6.「航空を取り巻く社会情勢について(補足資料)」国土交通省 平成24年12月、7.「ANA,コロナ後へ雇用維持」産経新聞 10/28/20 8.「ANA. 客室乗務員に地方居住や副業を容認へ…勤務日数は最大で半減も」 読売新聞11/28/20 9.「コロナ後へ手探りのJAL, ANA 異業種派遣やロボ開発も」日経電子版9/22/20, 10. 「特集 激震!エアライン・鉄道」週刊東洋経済10/3/10、11. Lucy Budd, et al., European airline response to the Covid-19 pandemic-Contraction, consolidation and future considerations for airline business and management, Research in Transportation Business & Management, 12. Samanth Subramanian, Inside the Airline Industry’s Meltdown, The Guardian 9/29/20, 13 Bernard Avishai, The Pandemic isn’t a black swan but a portent of a more fragile global system, Newyorker com. 4/21.20, 14. Joseph Nocera, A Skeptic Who Merits Skepticism, The New York Times, 10/1/05, 15. 「ハワイの空に巨大旅客機、ANAに勝算はあるか」東洋経済オンライン5/3/18, 16.「企業リポート ANA, 超大型機導入の成否」、週刊東洋経済6/15/19, 17.「共同運航先送り ANAスカイマーク支援の大誤算」エキサイトニュース2/10/16 18.ナシール・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」ダイヤモンド社 2016年、19.ナシール・ニコラス・タレブ「まぐれ」ダイヤモンド社 2008年

最近、やっと、「生産性向上が日本経済を再生する」という考え方への反対意見も注目されるようになってきました。そういった意見にご興味ある方は、拙著「勤勉な国の悲しい生産性」を読んでいただければ嬉しいです

2020年11月 3日 (火)

フーテンの寅さんとベーシックインカム

  コロナ禍で失業者や、仕事はあっても収入が大幅に減った人が増えた。家賃が払えないからホームレスになるしかない、子供に我慢をしいて食費を切り詰めている・・・こういった声が多く聞かれるようになり、ベーシックインカムに注目が集まるようになっている。一律10万円の国民給付金が支払われたこともあり、ベーシックインカム導入のきっかけになるのではないかと期待する声もある。

  ベーシックインカムについては賛否両論あり、学者や研究者が書いた本や論文が数多く発表されている。私が同じような観点から書いても役には立たないし、読む人もいないだろう。

  ・・・ということで、ベーシックインカムと「怠け者」について書いてみたいと思います。なぜなら、ベーシックインカム(Basic Income/BI)を批判する人が、必ず口にするのが、「働かざる者食うべからず」という考え方に基づく反対意見だからです。

  BIとは、全ての個人に対して無条件かつ定期的に支払われる所得のこと。国民給付金と同じように、世帯ではなく個人に支払われる。無条件だから、大金持ちであっても支払われるし、働けるのに働かない人にも支払われる。

  「BIは人々の働くことへの意欲を失わせ、怠け者を増やすことになる」。「BIの資金源は国民の税金だから、一生懸命働いた人の税金を、働く意欲のない怠け者に支給するというのは不公平だ」等々。BIは、経済用語でいうフリーライダー(ただのり、つまり、必要なコストを負担せず利益だけを受ける人)をふやすことになるというわけだ。

  そこで、「怠け者」にも存在意義がある。「怠け者」も社会に貢献しているのでBIを受け取るべきだという話を進めるために、「フーテンの寅さん」に登場してもらうことにします。

  怠け者の代表として寅さんを引き合いに出すのはおかしいと反論する人もいるかもしれない。 寅さんは「テキ屋」という仕事をしている。たしかに、毎日働いているというわけではないし、仕事が無いときには柴又に戻ってくる。おいちゃんとおばちゃんのだんご屋に居候しているときは食住の心配がないからぶらぶらしている。だが、旅先では自分の稼いだ金で暮らしているようだから、怠け者とは言えないだろう・・・という意見だ。

  いや、寅さんは妹のさくらから金銭的援助を受けて暮らしている。立派な怠け者だ・・・と考えたかどうかは知らないが、さくらが兄の寅さんにどれだけの金銭援助をしたかを、映画全作を検証して発表している「さんたつ」というサイトがある。援助は、1.現金供与、2.立て替え、3.旅費負担の3パターンに分けられ、合計援助総額34万2980円。ただし、寅さんも少しは返済している。甥の満男にええかっこしいで小遣いとして渡しているお金などを返済とみなすと、計3万5200円。よって、さくらから寅さんへの援助金額は差し引き30万7780円となる・・そうだ。

  いずれにしても、寅さんは、家族の金銭的あるいは非金銭的援助がなかったら暮らしていくことはむつかしかっただろう。それに、おいちゃんやおばちゃんも「世間さまに恥ずかしい。きちんとした職についてお嫁さんをもらって一人前になってほしい」とよく愚痴っていた。柴又商店街では、定職についておらずぶらぶらしている怠け者だとみなされていたと考えてもよいだろう。

  だが、寅さんは日本国民に愛された怠け者だ。

  映画「男はつらいよ」は1969年から1995年までに48作が公開され、映画シリーズ48作の配給収入は464億3000万円、観客動員数は7957万3000人を記録した。日本の高度成長期終了からバブル期、バブル崩壊の時代の国民的映画だったといえる。

 「怠け者」はフリーライダーであり、一生懸命働く人たちからかすめ取っているわけだから、みんなから毛嫌いされてもよい。なのに、なぜか、昔から一般庶民に愛されてつづけてきた。その証拠に、「寝太郎民話」なるものが日本各地に昔話として伝えられている。話の内容は似たりよったりで、寝太郎という名前通り、食っちゃ寝、くっちゃねをしていた怠け者が、突然、何らかの理由で変身して、村の長者になる。あるいは長者の婿になって成功するというストーリーだ。寝太郎民話の原型といわれる御伽草子(室町時代から江戸時代初期にかけて作られた物語集)の「ものぐさ太郎」は、なんと京都に上って貴族にまで出世している。

  怠け者を愛するのは日本だけではない。日本と同じく勤勉を道徳的だとするドイツに生まれたグリム童話でも、「ものぐさの糸繰り娘」「ものぐさハインツ」とか、三人の王子が怠け度を競い合い、一番怠け者の王子が王様になるという「ものぐさ三人息子」・・・と怠け者が得をする話、勤勉さより怠けることを肯定するような話がいっぱいある。

  怠け者がたんなるフリーライダーであるなら、どうして、怠け者のサクセスストーリーが、日本でもドイツでも中世の昔から長く語り継がれてきたのだろうか? 

  人間の深層心理を分析するユング心理学者の河合隼雄は、「昔話を民衆の心の深層から生まれたものと考えると、それは民衆の願望充足の機能をもっているといえる」と分析した。民衆が生きていくために朝から晩まで必死に働かなくてはいけなかった時代に、人々の無意識の中から、怠けることへの強い願望が生じてくる。怠け者が王様になったり村の金持ちの娘婿になったりするサクセスストーリーは、「実世界に不満の多い凡人たちを楽しませるための空想」だと、民族学者の柳田国男は説明した。

  「貧乏神に取りつかれて日夜あくせく働かなければいけない人間にとって、ごろりと寝ころんでみたいという欲望に勝る切実な要求はない・・・(だから)いつの時代にも、『大衆のあこがれの象徴』として、愛すべき寝太郎がゴロリと寝そべっている」と、戦後の九州の炭鉱で働き、炭鉱労働者の文学運動を組織した作家上野英信は書いている。

  がむしゃらに働く時代を経験した日本の勤労者が、寅さんの映画を見て、「ばかやってんなあ」と笑い、最後に喝采を送ったのも同じ心理だろう(寅さんの場合は金持ちにもならなかったし、恋もみのらなかったけど・・・)。

  でも、こういった心理は、心理学者や民族学者の説を聞かなくても、素人の私でもある程度推測できる。

  それに、「怠け者の存在意義」が心のいやしを提供するとか、現実逃避のための空想を呼び起こすといった理由だけでは、BI給付を正当化することはできない。

 「怠け者の社会における存在意義」の2番目は、怠惰から生まれる創造性とエネルギーだ。

  最初にエネルギーの話をします。

 「三年寝太郎」という昔話では、三年三か月の間、寝ぼうけていた若い男が、村人が干ばつで苦しんでいるのを見て、急に起き上がり、大川から水を引くための通水路を作ろうと一人で溝を掘り始める。最初は馬鹿にしていた村人も寝太郎の熱心さにうたれ協力するようになる。そして、灌漑用水が完成して村は豊かになったとさ・・・という話だ。こういったタイプの民話は日本各地に江戸時代のころから伝わっており、いずれも、何の役にも立たない怠け者が突然エネルギッシュに変身し、村の繁栄をもたらしたというものだ。

  もう少し現代に近いところでは、九州の炭鉱労働者にも似たような話が語り継がれていた。

  先に紹介した上野英信は、九州の炭鉱に伝わる「寝太郎伝説」を書いている。筑豊の炭鉱労働者は、彼らを「スカブラ」と呼んだ。「仕事がスカんで、いつもブラブラしちょるけんたい」というのが、名前の由来らしい。ついでにいえば、映画「男はつらいよ」の山田監督は、「寅さんはスカブラだ」と語っている。

  どの炭鉱にもスカブラはいた。仕事をさぼりながらも面白い冗談を言っては周囲を笑わせていたところは、寅さんに似ている。スカブラはフリーライダーなのに不思議なことに、誰一人いやがる者はいない。「それどころか、その男が休んだ日には仕事がさっぱりはかどらない。8時間が倍にも三倍にも感じられたと皆が思った」と上野は書いている。

  このスカブラが、たった一度だけ、気が狂ったたように働いた時があった。それは、落盤事故で、仲間が坑道の奥に閉じ込められた時だ。幸い一名の負傷者もなく無事に救出されたが、その緊急時の一番の働き手がスカブラだった。皆を救い出すまで、一度も休むことなく、救援隊を手足のように指揮し動かした・・・という。

  そういえば、寅さんも、48作品目に阪神淡路大震災に襲われた神戸を訪れ、ボランティアとして大活躍していたなあ・・・。 疲れ切った被災者に代わって区や市の担当者に掛け合ったり、みんなを元気づけて力をくれた。そういった被災者の話を後で聞いた博(さくらの夫)は「世の中の秩序とか価値観とは関係ないところにいる寅さんみたいな人間が、あーゆー非常時には意外な力を発揮する」とコメントしていた。

  ベーシックインカムをどういった人たちに給付すべきではない・・・という話になれば、ひきこもりの人たちも「怠け者」として給付すべきではない人たちのグループに入れられてしまうかもしれない。だが、元ひきこもりで、和歌山県の限界集落でニート数十人との共同生活をつづった本「『山奥ニート』やってます」の著者でもある石井新氏が、日経ビジネスの編集者に興味深いエピソードを紹介している。

  石井氏は、子供の頃から「男はつらいよ」の映画を見て車寅次郎のような自由な生き方に強い憧れを持つが、「世間の圧力に負けて」、関東にある大学の教育学部に進学。教育実習で徹底的にダメ押しされ精神的に参ってしまい、大学を中退。地元の名古屋に戻り「ひきこもり」となった。

  2011年3月11日、22歳の時に東日本大震災が起きた。ひきこもりの最中で、「時間だけはあったので、僕もボランティアにかけつけると驚いたことに、まわりでボランティアをしている人がニートばっかりだったんですよね。でもよく考えると、それは当然なんです。毎日多忙な勤め人の方々は、大震災が起きたからといってすぐに会社を休んでボランティアはできないですから。動けるのはニートくらいで」。

  そんな経験もあり、いざという時のために「労働力の余剰が、社会には必要なのではないか」「ニートのような人間も社会には必要なのではないか」という思いに至った・・・と語っている。

  江戸時代の「三年寝太郎」、戦後の炭鉱労働者のスカブラ、ニートの震災時のボランティア・・・と、怠け者がエネルギッシュに変身する「寝太郎伝説」は継続される。ここには、何か一つの真実があるのではないだろうか?

  ここまでくると、アリの社会のルールについて思い出す読者も多いことと思う。

  働きアリの中には一定の割合で働かないアリが存在する・・・というルールだ。これについては、世界中で研究成果が発表されているが、ここでは2016年に発表された北海道大学の研究を紹介する。一匹の女王バチと150匹の働きアリを一組として計4組を2年にわたって行動調査した。

  結果、次のような事実を発見した。約2割のアリは労働とみなせる行動を5%以下しかしていない。また、よく働くアリの上位30匹、あるいは、働かないアリ30匹を取り出して新しいグループをつくり観察を続けると、各グループともに2割程度のアリが働かなくなるということもわかった。つまり、アリのコロニーには常に一定の働かないアリが存在するということだ。

  なぜ、そうなるのか?

  その謎を解くためにシミュレーションモデルを作成。結果、分かったことは、働き者と見なされているアリでも、筋肉で動く以上、働き続けていれば必ず疲れて動けなくなるときが来る。「皆が一斉に働きだすシステムでは、疲れるのも一斉になりやすい。一方でアリの世界には、一時でも休んでしまうと、コロニーに致命的なダメージを与えてしまう仕事が存在する。シロアリで確認されているのだが、卵を常になめ続けるという作業がそれだ。ものの30分も中断すると、卵にカビが生えて死んでしまう。皆が一斉に働きだすシステムでは皆が一斉に仕事ができなくなり、コロニーに致命的なダメージを与えるリスクが高まってしまう」

  つまり、働かないアリが一定の割合あるコロニーのほうが、存続する確率が高くなる。働き者が疲れたら、普段働いていないアリが仕事を肩代わりすることで、アリのコロニーはリスクをヘッジしているのだ。

  アリの社会では、「怠け者」の存在意義は明らかにある。人間社会においても、元ひきこもりの石井氏がいうように「労働力の余剰」としての「怠け者」が、社会には必要なのではないか? だが、この考え方では、「昔はよかった。そういった怠け者の存在を認めるだけの余裕が社会にはあった」とか、「高度成長時代の会社には、これといった仕事をしていない社員っていたよね。宴会とか社員旅行とかになるとやけに目立った活動してさ・・・」という、たんに昔をなつかしむ話で終わってしまう。存在意義を納得させるだけの説得力がない。

  そこで、もうひとつの怠け者の存在意義となる創造性について紹介します。

  これも、民話を題材として、ユング心理学者の河合隼雄の説からはじめてみる。

  河合氏は「怠け者には天啓の声が聞こえる」とし、怠け者が動物の声を聞いたり、偶然のことをうまく利用して成功する民話として「水木の言葉」という昔ばなしを紹介している。

  ・・・昔あるところに無精な若者がいた。毎日ぶらぶらしていた。ある日、柿が食べたくなったが、木に登って取るのも面倒くさい。柿の木の下に寝ていたら落ちてくるかもしれないと思い、ムシロを敷いて仰向いて口を開けていた。すると、鳥が二羽飛んできて世間話を始めた。「町の長者は大病だ。庭に植えてある大きな水木が血を吸っているためだ。あれさえ切り倒せば病気はすぐ直る」。それを聞いた怠け者は長者のところに行き、長者の命を助けることで大成功したとさ・・・という話だ。

  鳥の話声は常識の世界で忙しく働いている人には聞こえない.天の声が聞こえないのだ。だが、怠け者の耳は天啓に対して開かれている。だから幸運を授かった・・・と、まとめてしまったら、ただのおとぎ話だ。

  だが、天啓の声とは自分の内面の声でもある・・・という河合氏の説明を聞けば納得がいく。

  毎日時間に追われて働く私たちには自分の内面の声を聞くだけの余裕がない。今回、コロナ禍で、テレワークで自宅で仕事をすることになって時間の余裕、そして心の余裕ができ、自然と、これまでの、そしてこれからの自分の人生に思いをめぐらした人も多いことだろう。そして、通勤地獄の都会から離れ、会社組織から離れ、個人事業主になって働き方を変えようと考えた人も多いことだろう。

  数か月でも「怠け」の状態がつくれたから、聞こえてきた天啓(自分の内面の声)だといえる。

  そういう風に自分の内面の声を聞くことができたのは、あなたが正規社員で、テレワークを自宅でしていても、一定額の収入が保証されていたからだ。非正規社員でクビになった人たちは、家賃が払えない、食費さえなくなってくる、これからどうやって生きていこうかと焦って考えることしかできない。ベーシックインカムがあって、5万あるいは7万円という収入が確保されていれば、ある程度の安心感をもって仕事探しができる。場合によって、次により良い仕事を得るための準備として資格をとる勉強もできるかもしれない。

  ベーシックインカムは、現代資本主義の欠陥を是正するための「分配」の問題として議論されることが多い。

  資本主義の基本は富の生産と分配にあるわけだが、グローバル化のなか、経済格差が各段とひろまり、分配の問題に真剣に取り組むべきだという声が大きくなっている。オリックスの宮内義彦シニアチェアマンも、「これからの経済はいかに成果を伸ばしていくかよりも、その成果をどう分け合うか、いわゆる分配が焦点になるだろう」と2019年のインタビュー(日経ビジネス)で答えている。

  このように、最低賃金にしてもベーシックインカムにしても、低額所得者への富の再分配という観点から議論される。そうなると、どうしても、「働かざる者食うべからず」という意見が出てくる。だが、BIを人的資本の問題として提案する論文があるので紹介しよう。この論文では、「怠け者議論」を排除して、人的資本の増大ということでベーシックインカムを考えようとしている。

  その根拠はというと・・・

  日本を含めた先進国は第三次産業にシフトしている。つまり、生きていくのに必要な財を生産している人よりも、様々な形で生活を豊かにすることを生業としている人の方が多いということになる。それは、つまり、昔は職業として成り立たなかったものが、職業として成り立つことを意味している(たとえば、ウーバーイーツとか出前館の配達員、ユーチューバー、コロナ禍で個性的なマスクを手作りしてネット販売、等々)。

  雇用の絶対量が不足しているのであれば、職に就いて働ける人が自分が得た収入を仕事がなく働けない人と分かち合うべきだという「分配」論になる。だが、新しい職業が今後も創造できる可能性が大きいのであれば、そういった流れを加速する方法に投資するべきではないか。

  人的資本(human capital/ヒューマン・キャピタル)とは、個人がもつ、知識、経験、技能、能力などを資本としてみなして使う言葉。社会のメンバーである個人が、何らかの方法で自分の人的資本を向上させれば、個人やひいては社会が得る所得が増大するという見返りを得ることができる(何らかの方法で…と書いたが、たとえば、BIがあるから今の仕事をやめ資格を取るための勉強をする、また、BIと貯金をもとに、新しいビジネスをたちあげるための準備をするというのもありだ。BIを当てにして、自分が将来も続けていけるような仕事は何かを見つけるために、一年間、日本中を旅行してみるというのも人的資本の向上に役立つかもしれない)。

  ベーシックインカムは再分配の促進にあるのではない。そうではなくて、新しいことに挑戦するだけの自由度とゆとりを社会全体に提供することを目的とする。論文の著者遅澤秀一氏(ニッセイ基礎研究所)は、BIの狙いは「社会全体のリスク回避度を低下させ、リスクを伴う人的資本投資を促す点にある」と書いている。「社会を活性化するには、現在の成功者の意欲だけではなく、将来の成功を志す人達がリスクをとることを後押しすることも重要なのである。それには成功した場合のインセンティブと失敗した場合のセーフティネットが必要となる」。

  つまり、人的資本としてのBIの意義は、失敗した場合のリスク低減にある。「働かざる者くうべからず」という批判に対しては、現時点の職業・仕事だけで働いているかどうかを問題とすべきではない。BIによって、現在の生活や職業とは違う新しいことにチャレンジする人間が増えることを目指しているというわけだ。

  誰もが、時々(それが数か月なのか数年なのかはわからないが)、怠け者になることが必要だ。それが、エネルギーを蓄え、創造性を生むことにつながる。

  1880年、「怠ける権利」というエッセイがフランスで発表され、問題作だとして世間を騒がせた。マルクスの娘婿だったポール・ラファルグが書いたもので、「労働者は働くことは美徳であるという妄想にとらわれている」「一日3時間以上の労働は、人間から考える自由も感じる自由さえも奪ってしまう」とし、「人間が持つ創造性と怠けることが一緒になることで、長期的には人類の発展につながるだろう」と主張している。

  最後のだめ押しで、河合隼雄氏の意見をもう一つ紹介したいと思います。

  「怠け者は天啓を聞くことができる」とした河合隼雄氏は、こうもいっている。「天啓という言い方が嫌いな人には自己実現という言葉を使ってもいい」。ユング心理学において、自己実現とは自分らしい生き方をすることを意味する。

  河合氏の主張を私流に翻訳すると・・・自分らしい生き方をするといっても、いったいどの方向にどのように実現していってよいのかわからないことが多い。方向性とかいまははっきりしないけれども、それがわかれば、ただちにそれに従っていこうという決意をもって模索している状態、この状態がなまけものであるということができる。

  それでいくと、寅さんは怠け者じゃあないかも。

  寅さんは、すでに自己実現を達成して、自分らしく生きているみたいだ。寅さんシリーズが多くの人に愛されたのは、寅さんが愛すべき怠け者だったからではなく、自分らしく生きていたからかもしれない。ぶらぶらしているとか世間様に恥ずかしいとか言われても、自分らしく生きることを徹底した車寅次郎の生き方に、「自分もああなれたらなあ」と思った人が多かったということだろう。

 

  このブログの内容は、もともとは、この夏に出版した拙著「勤勉な国の悲しい生産性」の二章「時短ではなく時間からの解放」に入れるつもりでした。が、ただでさえあちこちに話が飛びすぎる本がますますまとまりがつかなくなるということで断念したといういきさつがあります。ご興味ありましたら、合わせて読んでいただればうれしいです。

 

 考文献:1.「さくらは寅さんに総額いくら金銭援助したのか? その収支を計算してみた」、雑誌「散歩の殺人」のウェブサイト「さんたつ」より引用、2.遅澤秀一、「人的資本投資としてのベーシック・インカム」November 2010、ニッセイ基礎研究所、3.河合隼雄「昔話の深層」福音館書店1993、4.河合隼雄「昔話のユング的解釈・その一 怠け者の話」天理大学における講演、5.長谷川英佑、その他「働かないワーカーは社会性昆虫のコロニーの長期的存在に必須である」Scientific Reports, 2016年2月、6.「視界良考 滝口悠生さんと」 朝日新聞12/30/18、7.「保立道久の研究雑記、ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」10/28/18、8.「寅さんは死して何を残す?」日経ビジネス9/2/96、9.「15人のニートが超限界集落の廃校に集う理由」日経ビジネス1/16/18、10.「人生はつらいか 対話山田洋次」 旬報社 1999年、 11.Marina van Zuylen, The Importance of Being Lazy. Cabinet Summer 2003, 12.The Right to be Lazy, Processedworld. com Issue25

2020年9月24日 (木)

コロナ後の「ニューノーマル」のなかで「変わらないこと」を見つける

  「ニューノーマル」という言葉は、金融危機のときにも使われ、いまのコロナ危機にも使われている。この言葉を、コロナ禍での社会の変化と理解して使うこともあるし、コロナ後も続く新しい社会の普通の状態と理解して「新常態」と訳して使うこともある。

  コロナ禍では、マスクをつけるとか、ソーシャルディスタンスを保つとか、握手やハグのような身体的接触を避けるといった、それまでとは異なる行動が求められている。

  こういった人間の行動に関してのニューノーマルの多くは、コロナ感染が収束すれば元にもどるだろう。たとえば、握手。握手の習慣は紀元前9世紀のギリシアにさかのぼることができる。武器をもっていないことを示すために右手を差し出し手を握り合う。握手は、戦う意図がないことを相手に明らかにするために始まったという説がある。ビジネスのグローバル化が進むなか、友好を象徴する握手もグローバル化されていった。

  こういった長い歴史と世界的に普及した習慣は、コロナが収束すれば復活するだろう。だが、コロナ前とコロナ後では、大きく変化することがらもある。

  ニューノーマルが一時期だけのものか、あるいは、継続するものかはいろいろなケースがあるだろう。だが、「新しい」とか「変化する」という言葉に人間の脳は敏感に反応するようにつくられている。なぜなら、人類の数百万年におよぶ進化の歴史において、まわりの変化を敏感に察知できる者の生存確率は高くなり、そのDNAを現代を生きる私たちも受け継いでいるからだ。

  だから、メディアとかコンサルティング会社は「新しい」とか「変化する」という言葉を強調して、企業も変化して新しい状況に適応しなければ危機をのりこえることができないと不安をあおる。それによって、注目度や売上を上げるためだ。  

  そういった風潮にのせられて、企業の多くが、「新しい」社会の「変化」に合ったサービスとか製品とかビジネスモデルを開発しようとあせる。だが、実際には、そういった目新しい変化の多くは長続きしない。 

  人間の心理とか行動に関しては、表面的な変化はあっても、変わらない本質というものが存在しつづけることを忘れてはいけない。危機的状況を乗り越えて存続しづづけることができるのは、本質を見定めたうえで変化の意味を理解した企業だけだろう。

  「新しい」とか「変化」といった言葉を耳にするとき、いつも思い出す名言がある。アマゾンのジェフ・ベゾスCEOが、2007年に雑誌「ハーバード・ビジネスレビュー」とのインタビューで語った言葉だ。

  「(アマゾンは巨額の投資をしつづけているが赤字続き。それでも)投資が最終的には成果をもたらすという確信はどこから生まれるのですか?」と記者が質問した。それに対して、ベゾスは「変わらないこと」に基づいた戦略を立てているからだと答え、次いで、「あるあるネタ」ビジネス編に入れたくなるようなエピソードを紹介した。「人と話をしていてよく聞かれるのは、『5年から10年後に変化することは何ですか?』という質問です。でも、『5年後10年後にも変化しないことは何ですか?』という質問をする人はほとんどいない」。

  HBRの記者がつづけて、「あなたが信じている『変化しないこと』とは何ですか?」と質問すると、「顧客インサイトです。(customer insightで、ここでは顧客が感じたり考えたりすることと訳す)。顧客は10年たって社会がどう変化しようとも、『もっと遅く配達してくれたほうがいい』とか『もっと値段が高いほうがいい』とは言わないでしょう」と答えている。

  たしかに・・。

  いまから10年どころか100年たった後でも、消費者は価格は安いほうがいいし、便利にショッピングできることを欲求しており、それは絶対に変わらないだろう。

  ベゾスが言うところの消費者インサイトを、コロナで大打撃をうけた外食産業で考えてみよう。緊急事態宣言のときは、店舗閉鎖をよぎなくされた。宣言解除後も客数はなかなか元に戻らない。だが、安全なワクチンがいきわたるようになれば、回復が期待できる。

  しかし、外食産業は、コロナ以前から続いている大きな基本的な流れを忘れてはいけない。働く女性と一人暮らしの世帯が増えたことだ。共稼ぎ世帯は今や1000万世帯を越している。2000年ごろには、共稼ぎ世帯と専業主婦世帯の数は同じくらいだったが、共稼ぎ世帯数が18年の間に30%近く増え、2018年には専業主婦世帯の2倍の規模になった。また、一人暮らしの単独世帯も増加している。単独世帯の全世帯における割合は1980年には19.8%だったのが2000年には27.6%となり、これが、2025年には1996万世帯になり、全世帯における割合は36.9%と予測されている。

  こういった大きな基本的流れが、外食産業にどういった影響を与えてきているか?

  共働き世帯や単独世帯の増加で中食や内食用商品は着実に売上をあげてきた。中食は「調理された食品を購入して家で食べること」。一日の仕事を終えた女性(妻や母)は疲れており、家に戻って料理を作る元気はない。帰宅途中で総菜を買ってみんなで食べる。一人暮らしの人は、仕事帰りに一人で外食するのもためらわれ、総菜を買って家で食べる。日本惣菜協会発行の「惣菜白書2019年版」によると、2017年の中食市場規模は2008年比で22.3%増の10兆555億円。外食は同4.6%増の25兆6,561億円、内食は14.9%増の35兆3,281億円で、伸び率は中食が最も大きい。

  内食は「素材を買って家で調理する」と定義されるが、この分野で伸びているのが冷凍食品。家で調理といっても電子レンジでチンするだけ。冷凍食品はメーカーだけでなく、外食店舗チェーンも、少し値段が高いがおいしい冷凍食品を作って販売するようになっている。たとえば、ファミレスの「ロイヤルホスト」は、コロナ以前に、ペンネやドリアなど25品目の冷凍食品をつくり店舗やネットで販売を始めていた。

  基本的な大きな流れを感知していた外食業者なら、コロナ以前から、内食や中食への需要にこたえるために、冷凍食品の製造、テークアウトや配達という選択肢を提供していたはずだ。そういった事業者ならコロナになってあわててテークアウトや配達用のメニューを開発したり、容器をそろえることもなかったはずだ。

  一人暮らし世帯が増加していることを感知していた外食事業者は、一人焼肉とか一人鍋のメニューや、一人でも他人の目を気にしなくてもすむ一人用のテーブル席を提供していた。ファミレスのガストは、「顧客のニーズに迅速に対応するために一人用ボックス席を増加する」と、2019年の決算説明資料に明記している。そういった店舗なら、コロナになっても、3密への安全対策をスピーディに準備することができただろう。

  コロナで来店客減に悩むイタリアンファミレスチェーン「サイゼリヤ」は、今後は、従来店舗の6割くらいの広さの小型店舗を展開すると9月に発表している。この小型店では、隣同士を板で仕切る一人客の専用席を多く設ける予定だという。これは、コロナ感染がつづく社会のニューノーマルに合わせる意図もあるのだろうが、また、一人世帯が今後も増大していく新常態への対応であるともいえる。

  いずれにしても、配達、テークアウト、総菜、冷凍食品、一人用の席などへの需要は、コロナがきっかけで急増するとしても、デモグラフィック・データをみていれば、基本的な流れとして以前から存在していた需要だということがわかる。だから、ワクチンができても、テークアウトや配達、一人用テーブルへの要望が減ることはない。

  いまでも日本人経営者に人気のあるピーター・ドラッカーは、著書「イノベーションと企業家精神」のなかで、未来予測で一番確実な方法は、人口構造の変化を知ることだと書いている。人口の規模、年齢構成、そして雇用、教育、所得などによる分類といったいわゆる人口統計データ(デモグラフィックデータ/demographic data)ほど、予測能力の高い変数はない。そのうえ、リードタイムも十分あるから対策は立てやすいと書いている。

  ドラッカーがそう書いた本は1985年に発刊されている。が、35年前のドラッカーの考え方は、いまでも通用する。

  世界最大の資産運用会社ブラックロックは、2019年に発表したレポートで、政府の政策、投資戦略、革新的なビジネスモデルといったものに影響を与える5つのメガトレンドを明らかにした。そして、1.急激な都市化、2.新興国における新しい富裕層の増大、3テクノロジーの進化、4.気候変動、5.高齢化といったデモグラフィックスの変化・・・といった5つのメガトレンドのなかで、世界経済への影響力が最も高いのはデモグラフィックスの変化だと報告している。

  デモグラフィック・データに基づく変化は長期間にわたるものであり、それについて考え対策を練るリードタイムは十分あるはずだ。日本でも、少子高齢化の問題は、50年前にはわかっていた。日本経済新聞1967年4月27日の記事には、厚生大臣が人口問題審議会で、出生率の減少、老齢人口の増加、生産年齢人口の先行きについて詰問したと報じている。だが、少子化現象が一般の人たちの注目を集めるようになったのは90年代からであり、「少子化社会」という言葉も、92年に刊行された「平成4年度国民生活白書」で初めて使われた。

  危機には突然やってくる自然災害のような予期せぬ危機もあるし、少子高齢化のように、50年以上も前からデータで分かっていて徐々に迫ってくる危機もある。予期せぬ危機にあわてふためきその被害の大きさを嘆くのは仕方がないとしても、50年前からわかっているような人口構造の変化に、なぜ、対処できないのか?

  日本の場合は二つの要因を上げることができる。

  ひとつは、少子化が進んでいるとはいえ、日本は人口が1億人を超える世界にわずか13か国しかない国のひとつであること。OECD加盟国の中で日本より人口が多いのは米国だけだ。2020年の国別ランキングでは、日本は1億2700万人で10位、ドイツは8300万人、英国は6700万人だ。韓国は28位で5100万人。日本の半分だ。よくいわれるように、人口が少ないから国内消費だけではやっていけない。だから韓国は真剣に外需の開拓に取り組んできた。

  つまり、日本人は、危機が迫っているとわかっていても、他国と比較してまだ余裕がある・・・と、心の片隅で感じているというわけだ。

  徐々に迫りくる危機を実感できない理由がもう一つある。これは、日本人だけでなく人類一般に共通する理由だ。

  出生率とか高齢者の割合とか数字や表で示されても抽象的でピンとこない。人間の脳は、たとえば目でみえるといった具体的情報でないとピンとこない。

  ピンとこないということは直感的に把握できないということ。そして、人間は、感情に訴えるものがなければなかなか行動に移さない。

  良い例が、気候変動がもたらす危機だ。温暖化が実際に進んでいて、その原因は人間の活動が生み出す二酸化炭素にあることも、多くの人たちは理性ではわかっている。だが、そういった情報が私たちの行動を変えることができないのは、私たちの脳の仕組みにある。

  我々の数百万年前の祖先が生存するためにつくられた脳の仕組み、危険を察知する認知の仕方が障害となっているのだ。

  私たちが農耕生活を始める一万年くらい前まで、「危険」は単純なものだった。サーベルタイガーに襲われて食べられてしまうとか、毒ヘビにかまれて死ぬとか、今そこにある脅威に人間は注意を払うように進化した。だから、いまでも、飛行機事故とかテロとか映像で見た「目に見える」具体性ある脅威を過大評価し、気候変動とか少子化といった数字で表現される抽象的で複雑な脅威を過小評価する。

  心理学者や行動経済学者は、「私たちの祖先の数百万年の存続を可能にした認知バイアスは、現在私たちの生存をおびやかしている複雑で長期的な脅威に対処するには不向きなのです」と説明する。

  それなのに、有識者といわれる人たちのコメント、メディアの記事、政府の広報・・・こういった情報は、数字と論理で迫ってくるだけ。行動に直結する感情を刺激しない。

   古い話になるが、1990年の湾岸戦争は、アメリカがコンピュータ兵器を本格的に使ったハイテック戦争であり、人間が人間を殺すといった実感が薄れた戦争だといわれた。遠隔地でコンピュータ操作してターゲットを爆撃する。そういった爆撃シーンをTVで見ている一般人にしても、映画やゲームを見ている感覚で死亡者100人という抽象的情報が流れても、戦争で人が死んでいるという実感がわかない。

  そんな中、ただ一つ、多くの人たちの感情を動かした映像があった。タンカーが攻撃され海に大量の石油が流れ出た。その油にまみれ多くの海鳥がすべもなく死んでいく。戦争で死亡した人間の数ではなく、いたいけな鳥たちが油まみれになっている姿に、世界の多くの人々が心を動かされた。その結果として、油を流すきっかけを作ったとされた国を非難する声が高まったという。

  この鳥の映像ついては、敵国を侵略するのを正当化するための情報操作の一環だとする批判もあった。が、いずれにしても、人間の認知の仕組みを知っていれば、影響力を高めたいなら、数字とか統計といった抽象的な情報ではなく、映像のような、しかも、か弱い鳥が苦しんでいる姿といった具体的情報を提供した方が効果的であることが証明されたといえる。

  話を戻して、コロナ後もつづくニューノーマルは他に何があるだろうか?

  テレワークはどうだろう?

  テレワークをアフターコロナも続けると言っている企業の多くは、テレワーク関係の製品(ハードやソフト)を販売している会社だ(たとえば日立や日本IBMは緊急事態宣言解除後も在宅勤務を継続するとすばやく発表している)。テレワークの問題点は、それが、創造性を生まないことだ。米国のハイテク企業は、クリエイティビティは社員同士の共同作業の中から生まれると確信している。だから、アップル、アマゾン、グーグルは、ソーシャルディスタンスが保てるくらいの大きなオフィス、あるいは、通勤時間を短くできるサテライト・オフィスをつくると言っている。

  そこまで投資ができない他の多くの企業は、ワクチンが普及すれば、テレワークの採用は、育児、介護、病気、その他の特別な理由をもった社員に限ることになるだろう。1週間に1回しか来なくてもよい従業員は社員である必要はない。

  だが、テレワークは増える。それは、働き方が働き手一人ひとりにパーソナライズされるという大きな基本的な流れがあるからだ。体脂肪計で有名な「タニタ」は、2017年から、社員が独立して個人事業主になる制度を進めている。個人自業主になった元社員は他の会社の仕事も引き受けることができる。

  コロナ禍で、「通勤しなくてもよい、自分で働く時間を決めることができる」といった自由さを味わって、「もう、元には戻りたくない、独立しよう!」と考える社員もいることだろう。そういった社員なら契約社員になるチャンスを提供されれば喜んで承諾することだろう。

  会社にしても、コロナ禍で、1週間に1回しか会社にこなくてもやっていける業務がたくさんあることに気がついた。そういった業務を担当する社員には契約社員になってもらい副業も積極的に進める。働き方が各社員ごとにパーソナライズされたものになっていくことは、社員にも会社にとってもよいことだ。

   コロナ禍で星野リゾートが積極的に推進している「マイクロツーリズム―小さな旅」。自宅から30分から一時間くらい、クルマで行ける地元を楽しむ旅。これは、コロナをきっかけに生まれたアイデアかもしれないが、コロナ後も続く可能性がある。なぜなら、高齢化率の増大といった基本的な大きな流れにそっているからだ。

  年老いた親に親孝行しようと思って旅行に誘って断られた経験のある子供も多いのではないか? 高齢になると肉体的疲労もあるが、自宅を離れることに不安を感じるようになる。軽い認知症でもその傾向は強くなる。外泊することも嫌うようになる。マイクロツーリズムなら、親も喜び、子供も感謝の気持ちを伝えることができる。

  このように、ニューノーマルが一時期だけのものか、あるいは、継続するものかは様々なケースがあることだろう。いずれにしても、変化の時代だとしても、変わらない大きな流れを見逃さないようにすることが重要だ。

  人間は、危機に見舞われて(危機が自分ごとになって)、初めて、それまで問題意識としては持っていながらも先伸ばしにしていた課題に真剣にとりくむようになる。そういった意味で、コロナ危機を問題解決を進める機会とみなすことができれば、2020年もそれほど悪い年ではなかったと考えることができるようになるかもしれない

  きっとそうなると思っています。

  

新しい働き方については、新刊「勤勉な国の悲しい生産性」

読んでいただければうれしいです

 

参考文献:1.藤本健太「ガストの一人席はなぜ最高に仕事がはかどるのか」President Online 11/18/19 2.藤森克彦「2025年 単身世帯が1996万世帯 加速するソロ社会化」みずほ情報総研 3.「激化する中食・内食競争、家庭での喫食は拡大傾向に」食品産業新聞社ニュース 2/13/20 4.「サイゼリヤが小型店を出す狙いは?」日経新聞9/16/20 5.How Brain Biases Prevent Climate Action, BBC Future, March 2019 6. Julia Kirby and Thomas A Stewart, The Institutional Yes, HBR October 2007 7. Dominic Johnson and Simon Levin, The tragedy of cognition: Psychological biases and environmentl inaction, Current Science Vol 97, December 2009, 8.「外食各社、中食に活路」日経MJ 9/21/20

2020年9月 1日 (火)

DXと「雇用を守る」との不都合な関係

 

  日本の政府や企業は、バブル崩壊後の失われた20~30年間、「雇用を守る」と「賃金を上げる」という二つの選択肢において、「雇用を守る」を選択してきた。

  2020年6月3日に、安倍首相が「雇用を守ることが最優先課題だ」として、最低賃金の年3%引き上げを断念したのは、そのよい例だ。

  デフレ脱却を目指す安倍首相は、「最低賃金を毎年3%上げて、全国平均で時給1000円を早期に達成する」という目標を2015年に表明していた。が、コロナ禍で失業が増えることを懸念して、雇用を(この場合は、中小企業の雇用を)優先することに切り替えたということだ。

  最低賃金が上げられなかったことについて、日本労働組合連合の会長は、「雇用を守ることと、最低賃金を引き上げることは、対立概念ではない」と記者会見で述べ、ささやかな抵抗を示した。たしかに、高度成長時代においては、雇用を守ることと賃金引上げは対立概念とはならなかった。だが、低成長時代ではどうだろうか?

  企業の人件費は、賃金X従業員数ということになるわけだから、人件費の増大を抑制するためには、賃金を上げないか、あるいは、従業員数を減らすしかない。

  低成長あるいはマイナス成長の場合は、2つの選択肢の一つを選ばなくてはいけない(もちろん、両方とも選択しなくてはいけない場合もある)

  いずれにしても、企業や政府が賃金よりも雇用を選択してきた結果、1997年~2017年の20年間で、日本の賃金は9%減少している。先進国唯一のマイナス国だ。同時期に、英国は87% 米国は76%、ドイツは55%上昇しているから、その差は大きい。その後、デフレ脱却を目指す政府は「賃金が上がれば物価も上がる」という考え方から、賃金を上げることを企業側に強く要請。結果、2018年と2019年に少し上がる傾向がみられた。が、コロナ危機で、その流れも立ち消えた。

  企業経営者はこう思っているかもしれない・・・「バブル崩壊後の失われた20年~30年、賃金は上がらなかった。だが、そのぶん、日本企業は、不景気になったからといってすぐに人員削減などしなかった」。政府も、日本の失業率は低い。労働者にとって良い政策をとっているからだと思っているかもしれない。たしかに、2000年から2018年にかけての日本の失業率は、米国やEU主要国に比べて常に低かった。OECD平均と比べてだいたい3ポイント程度低い水準で推移している。たとえば、2018年の数字をみると、日本2.4%、ドイツ3.4%、アメリカ3.9%、フランス9.1%・・となっている。

  米国企業のようにすぐに社員のクビをはねることはしない。2008年の金融危機後2010年の米国の失業率は15%を超えた。金融危機とかコロナとか有事のときでも、社員の削減なんて最後の最後までしない。それが日本企業の美徳だと思っている経営者も多いようだ。

  「日本企業は社員を大切にする」と自負する経営者も多い。つまり、高度成長時代につくられた雇用システムである終身雇用制を維持することは道徳的なことであり、そのために賃金を犠牲にすることもやむを得ないと考えている経営者が多いということだ。

  だが、これは、大きな勘違いだ・・ということを明らかにするために、いま注目のDX問題を例にとって説明させていただきたいと思います。

  で、話を変えて・・・。

  デジタル・トランスフォーメーションについてはすでに前回のブログで書いたので詳細は省くとして、トランスフォーメーションというからには、タカラトミーの玩具のように、ロボットが一瞬のうちに乗り物(乗用車、トレーラー、戦車)などに変身するイメージがなくてはいけない。だから・・というわけでもないが、IT業界やコンサルティング業界が定義するDXには、新しいビジネスモデルや新しい商品やサービスといったこれまでになかった新しい価値を創出することが含まれる。

  ところが、日本の場合は、DXで変身する以前に、レガシーシステムの一掃をしなければ先には進めない・・・危機感をもって、そう訴えたのが、2018年に経済産業省が公表した「DXレポート~ITシステム『2025年の崖』の克服とDXの本格的展開」だ。

  日本企業の約8割がレガシーシステムを抱えている(日本企業の場合、2025年においても、21年以上稼働しているレガシーシステムが全体の6割を占めるといわれる)。結果、さらなるデジタル化を必要とする経営戦略や事業戦略が実行できない。

  レガシー問題は先進国の多くに共通する問題だ。アジアや欧州の新興国はレガシーがないぶん、早い段階でデジタル化が競争優位の価値を生み出すことに成功している。

  が、古い技術やシステムを使っているシステムということだけで、必ずしも、デジタル化による変身の障害となるわけではない。

  日本がレガシーシステムの刷新に他の先進国よりも手こずっている理由は、自社システムがブラックボックス化していて、自分の手で簡単には修正できない状況に陥っていることにある。結果、レガシーシステムの刷新には巨額の費用がかかっている。

  経産省のレポートには、8年間で300億円かけて30年以上利用していたシステムを刷新し共通基盤システムを構築した食品業者、4~5年かけて25年以上利用していた基幹系システムを700億円かけて刷新した保険業者の例などが紹介されている。

  そもそも、日本企業のレガシーシステムはなぜブラックボックス化してしまったのか? 二つの大きな要因があげらる。

第1の要因:ノウハウや知識がマニュアル化されておらず特定の担当者の暗黙知となっている。そして、知識やノウハウをもっている担当者が会社をやめると既存システムの内部構造や動作原理がわからなくなりブラックボックス化してしまう。

  日本企業は1970年代、基幹業務用に情報システムの開発を進めた。しかし、ある程度の大きさの企業では、会社組織全体で共通したシステムを運営するのではなく、各事業部がメインフレームを持ち、事業部ごとの業務内容に合わせたシステムが開発された。90年代から、部門ごとに管理されていた情報処理を統合管理するERPが導入されるようになったが、このときも、既存のビジネスプロセスを改革することなく、追加プログラムをアドオンすることによって、各事業部に最適なシステムが開発維持された。

  こういった一連の開発を担ってきた人材が停年退職すると、明文化されず共有化されていないノウハウや知識が失われてブラックボックス化する。(ちなみに、日本市場におけるERPのシェアではSAPが一位。そのSAPが現在のERPのサポートを25年に終了すると発表したこともあって、経産省のレポートでは「2025年の崖」と25年に危機が訪れると警告している)。

  日本で情報システムのマニュアル化が進まなかった理由はいくつかある。たとえば、企業が汎用パッケージを使わずに新規にゼロから開発するスクラッチ開発を好んだり、あるいは、汎用パッケージを利用するとしても、自社の業務に合わせて過剰にカスタマイズする傾向が強かったことがあげられる。汎用パッケージを販売するベンダーもカスタマイズした方が売上げが増大するので、クライエントの要求に合わせる。どちらにしても、開発にたずさわった担当者がいなくなれば情報システムは不可視となり、自分の手で修正できなくなる。

 だが、なんといっても明文化が進まなかった一番の理由は終身雇用制にある・・と経産省のレポートも書いている。IT担当者が転職していなくなることを想定すれば、すぐに新しい人に引き継げるように明文化しておく必要性が感じられる。だが、終身雇用制では、担当者がいなくなることは想定されていない。だから、会社としても担当者にしても、マニュアル化が業務の一つであるという認識が甘くなる。

 

第二の要因:ITシステムをベンダー企業に丸投げしてきた歴史

  日米のITエンジニアの分布を比べてみると、日本ではエンジニアの7割がシステムインテグレーター(SIer)やベンダー側に所属している。米国はその反対で社内に7割近いエンジニアが所属している(ドイツやフランスは6割、英国では5割)。

  90年代末ごろからベンダーにIT関連の仕事を丸投げするようになった日本では、システムのノウハウどころかデータ知識もベンダー側に蓄積され、ユーザー企業側には残っていない。そして、70年代~80年代に最初のシステム開発を手掛けたエンジニアがいなくなると、ベンダーにも、情報システム全てがみえているわけではないので、ブラックボックス化したシステムの刷新に困難を極めるようになる。

   そもそも、日本企業はどうしてITシステムをベンダーに丸投げするようになったのか? 原因を調べてみると、米国でIT業務のアウトソーシングがみられるようになった80年末に、その趣旨が誤解して日本に伝えられたという経緯があるようだ。 

  1989年、 米国のイーストマン・コダックがIBMにコンピュータシステムの管理運営をまかせるという10年に及ぶ10億ドルの大型契約を発表した。従来、アウトソーシングは技術力のない中小企業が行うものと考えられていたのに、技術力の高いコダックがコア事業に経営資源を集約する構造改革の一環としてアウトソーシングした。競争力を高めるためということで、これ以降、米国において、アウトソーシング市場が急速に成長するようになる。

  この契約は、日本でも話題になったが、この時、アウトソーシングが「人員削減」や「部門の“丸投げ”」と報じられた。たしかに、コダックの情報部門から360 人がIBMに移籍したのは事実だったが、それを上回る800 人の人員がイーストマン・コダックに残った。情報戦略を作成するコアの部分はイーストマン・コダックに残されたわけである。だが、こういった点は日本では無視された。

  日本では、戦略を立てるというコアな部分まで含めたITシステムの丸投げが多くなり、92年に日本イーストマンコダックが情報処理システムを日本IBMに全面委託した時には、次のように朝日新聞(92年12月2日)に報じられた。

「日本IBMは1日、日本コダックのコンピュータシステムの運用・管理を10年間、丸ごと引き受ける契約を同社と結んだと発表した。アウトソーシングと呼ばれる事業で、日本コダックは、日本IBMに自社のコンピュータなどを売却し、情報処理を全面委託する。景気の減速で情報化投資を見直す企業は多く、経費が削減できるアウトソーシングに踏み切る動きはさらに広がりそうだ。アウトソーシングは、80年代後半、米国で登場した。89年、日本コダックの親会社、米イーストマンコダックは米IBMなど3社に、従業員もろとも情報システム部門を売却し、大幅な経費削減に成功したことから急速に広まった」

 

  さて、日本企業の情報システムがブラックボックス化してしまった大きな要因2つを上げた。が、これが、どうして「雇用を守る」に関連しているかを説明させていただきます。

  システムのマニュアル化が進まなかった背景理由として、終身雇用制の存在が指摘されたことは、すでに紹介した。同じく、誤解でひろまったITシステムの丸投げアウトソーシングが日本企業で広まったのにも、終身雇用制が関係している。

  どの会社も「雇用を守る」方針を貫けば、今の会社をやめたくても他の会社に空きがない。つまり、社員をやめさせないことが美徳だと多くの経営者が考えていれば、労働市場の流動化が進まないことになる。

  一方で、時代とともに事業の成長度は変化する。これまで会社の成長エンジンとなっていた中核事業の成長が衰えれば、これからの成長が見込める事業を始めなくてはいけない。米国では、60年代から80年代にかけて、M&Aを通じて多角化を進めより高い成長を実現することが流行した。日本の場合は、高度成長が終わった80年代に、成長の止まった事業が抱えていた余剰人員を新規事業に利用することで多角化を進めた。これは、組織内における労働移動であり、これによって、終身雇用制を維持しようとしたのだ。

  その結果として、新規事業部や子会社の乱立が進み、低成長時代になると、日本企業は、多くの赤字子会社や事業部を抱える結果となる(2009年に製造業史上最大の8000億円近い赤字を出した時の日立製作所は900を超える子会社を抱えていた)。

  労働移動といっても、人事部の人間を企画部に移したり、営業部に移したりすることはできても、情報システム部に移すことはさすがに無理がある。だからといって、余剰社員を削減しないのだから、新規のIT人材を大量に雇うことはできない。しかも、70年代のメインフレーム時代に雇った人間には、新しいITテクノロジーの知識やノウハウがない。だから、最新の知識をもったベンダーに全面的に頼るのが効率が良い方法だと考えられた。

  その後、レガシーシステムを保守運用していたIT人材が引退していく一方で、若い人材は、古いプログラミング言語や遅れた技術で構成されているレガシー・システムの保守運営にはかかわりたくないから、求人しても獲得できない。ますます、ベンダーに頼らざるをえなくなる。

  雑誌「日経クロステック」に、「技術者がやめるとIT部門はつよくなる」という記事(2008年4月25日)が掲載された。

  そこには、米国企業が優秀な人材を抱えたIT部門を作ることができる理由は労働市場の流動性があるからだと書かれている。重要なシステム開発プロジェクトが終われば、仕事の中心は保守・運用となり、優秀なエンジニアは必要なくなる。そうすれば彼らは会社をやめて、新しいチャレンジできるプロジェクトを提供する会社に移る。だから、企業も新しいプロジェクトがあれば、すぐに優秀な人材を集めることができる。反対に、日本の企業は大きなプロジェクトが終わっても労働市場が流動化していないので、エンジニアは残る。そして、やりがいを感じない保守運営の仕事をせざるをえなくなる・・・というわけだ。

  こういった話はIT人材に限ったことではない。同じようなことは、他の従業員にもいえる。今の仕事には将来性がないと思っている社員、やりがいがないと思っている社員がいても、「雇用を守る」のスローガンのもとに、「やめさせられること」はないかもしれないが、「やめること」もできない。

  人間はだれしも現状維持バイアスをもっている。現状がよほど悪くなければリスクを取りたくない。現状に不満があっても、現状を変えれば、今より悪くなる可能性もある。やりたいことがあっても、今より悪くなる可能性を考えてチャレンジしない。得るものよりも失うものの方の価値を大きく評価してしまう考え方の偏向は、人類に共通するもので、万国共通だ。

  現状がよほど悪くなければリスクは取りたくない。だから、多くの従業員は退職を迫られない場合、自分がそれほど興味がない仕事でも、これまでと同じ給与がもらえるなら、敢えて会社をやめる決断には至らない。リスクをとることを躊躇するのだ。

  拙著「勤勉な国の悲しい生産性」にも書いたように、日本企業の従業員のエンゲージメント率が、どの調査会社が調べても、異常に低いレベルにあるのは、現状維持バイアスに影響されて、不満や失望をかかえながらも同じ会社で働きつづけている従業員が多いからだ(もちろん、賃金が20年余、上がっていないという理由も大きい)。

  終身雇用制を維持することが従業員のためになると信じてきた経営者や労働組合は、この現状維持バイアスを促進・強化してきたことになる。

  人間の脳には、ある程度のリスク下にあり緊張を強いられたときに、ドーパミンやアドレナリンが放出され、気分が高揚する。転職して新しいチャンスに果敢に挑戦しようという従業員の心理だ。そういった心理は、変化の時代に新しいビジネスモデルやモノを創造しようとしている企業の従業員に必要な心理でもある。

  リスクにチャレンジする従業員を必要とする経営者が、「賃金を上げる」ことより「雇用を守る」ことを選択するのは矛盾している。

  「雇用を守る」ことが従業員にとって良いとことであり、会社の道徳だと考えるのは、経営者と労組代表どちらもの想像力の欠如にある。

  誰だって、自分が知っている人間のクビを切るのはいやだろう。自分と同期に入社した同僚、新入社員のころから知っている後輩、お世話になった先輩・・・つまり、自分が具体的なエピソードをもって顔を知っている人間に退職を迫るのがいやなのは誰でも同じだ。

  だが、想像してみてほしい。  

  たとえば、8年前に入社してきた社員。彼の希望はファッション関連の仕事をすることだった。が、会社の方針でファッション事業部は閉鎖となる。まだ若い彼なら、そしてやりたいことが明確にあるなら、会社をやめて、その道を追いかけたほうがよいかもしれない。その彼に、営業部への移動を提案する。彼がこのまま会社にい続けるとして、彼の10年後、20年後、30年後の姿を想像してみたことがあるだろうか?

  経済産業研究所発行の論文「労働市場の改革」において、八代尚宏教授は、雇用保障の代償として拘束性の強い働き方をしている正社員を「良い働き方をしている人」とみなし、それ以外の派遣労働者等を不安定な「悪い働き方をしている人」とみなす前提自体が間違っているとして、「ひたすら労働者を企業の中に閉じ込めるだけではなくて、むしろ労働者の企業からの独立を支援することが重要となる。いわば企業内で労働条件の改善を目指すだけではなく、労働者が転職による圧力をかけられること、即ち、労働者を大事にしない企業から大事にする企業に自由に移れるような仕組みをいっそう作っていく必要がある。これにより、特定の企業に依存するのではない『労働市場全体を通じた雇用保障』が、より重要になってくる」と書いている。

  この「労働市場全体を通じた雇用保障」という考え方からいえば、「自社の社員の雇用を守る」というのは、まさに経営者や組合代表の内(ウチ)と外(ソト)を区別する狭い考え方だといわざるをえない。

  たとえば、バブル崩壊後の低成長のなか、企業は過剰雇用をかかえこんだ。その結果、いわゆる就職氷河期をもたらし、新規社員の採用が6年以上抑えられた。その結果が、いま、100万人くらいの40歳前後の人たちが無職、あるいは定職がないという状況下にある。また、非正規社員の採用が進んだのもこのころだ。

  つまり、当時の経営者や労組代表は、ウチの人たちの雇用を守るために、ソトの人たちはどうでもよい・・・と考えたということだ。具体的にイメージを描ける人達をクビにするのはいやだけれど、外の知らない人たちがその犠牲になることに関しては、抽象的にしか想像できないので心理的に許容することができる。

  これは、やっぱり、おかしい。

  とはいえ、企業経営者にソトの労働者のことも考えろと言っているわけではない。それは、国の仕事だ。「労働市場全体を通じた雇用保障」は政府がきちんとした政策を考えるべきだ。そうすれば、企業は、安心して、賃金を上げ人員を削減することができる。経営者が注力すべきは、やりがいを感じ、ワクワクとして(アドレナリンやドーパミンが放出されている気持ちを表現している)仕事ができる環境を従業員に提供することだ。 

  コロナ禍で失業者が増えるときには、雇用を守る日本企業はありがたいじゃないかと思うかもしれない。だが、危機のときだからこそ、数十年つづいてきた考え方(雇用を守ることが美徳だという考え方)を改めることができる。今、荒波を乗り越えなければいけない企業にとって必要なのは、不満があっても現状を維持することをよしとする従業員ではなく、リスクに敢えて挑むことができる従業員だということを忘れてはいけない。

  こういったテーマに興味をもっていただけましたら、新刊「勤勉な国の悲しい生産性」を読んでいただければうれしいです

 

参考文献: 1.八代尚宏「労働市場の改善」経済産業研究所、2「技術者がやめると.IT部門は強くなる」日経XTECH 4/25/08, 3.「サービス産業競争力強化研究」アウトソーシング協議会 平成12年3月、3.「アウトソーシング事業増加 情報処理を全面委託 日本コダックなど」朝日新聞12/2/92 4. 「最低賃金議論 コロナの影」朝日新聞 6/27/20, 5.「DXレポート」デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会、経済産業省 平成30年9月7日

 

  

  

 

 

2020年8月 6日 (木)

DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義はまちがっている

   最近のビジネス用語の流行キーワードはDX(digital transformation /デジタル・トランスフォーメーション)だろう。で、その流行に乗るというにはあまりに遅ればせだが、DXに関する記事を書こうと思いたった。「日本企業の雇用方針とDXとの不都合な関係」について書くことにして、「DXってなに?」という定義とか意味とかを調べていたら、ちょっと驚くミステリーに遭遇した。

  IT関連のキーワードについて記事を書くときには、まず、最初に、誰がいつその用語を造ったとか、その時どういった定義づけをしたのか・・・を書くことが常識となっている。そして、DXに関しては、日本では、どのレポートや記事を見ても、次のように記されている。

  • 多くのビジネス誌では、「スウェーデンのウメオ大学にいたエリック・ストルターマン教授が2004年に発表した論文「Information Technology and The Good Life(情報技術とよい生活)」で提唱したもので、DXを『すべての人々の暮らしをデジタル技術で変革していくこと』だと定義した」と書かれている。論文のタイトルが一緒に紹介されているので、「デジタル技術でよい生活がもたらされる」という意味合いが強調される。
  • 総務省発行の「平成30年度 情報通信白書」には、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」ことがデジタル・トランスフォーメーションの概念だと、エリック・ストルターマン教授が2004年に提唱した・・・と記されている。

   IT用語の定義とか誰が提唱したかなんて本質的にはどーでもい-ことだとはわかっていながらも、正確を期すために(といえば聞こえがよいが、筆者の私が疑り深い人間であるがために)、英語で検索してみた。つまり、英語圏の世界では、DXはどう理解されているかをチェックしてみたということだ。

  そうしたら、digital transformationの歴史とか定義に関するだけでなく、ほとんどすべての記事にストルターマン教授の名前は登場しない。唯一の例外は、digital transformationという単語と教授の名前を同時検索するときで、教授が2004年にIFIPの大会で発表した論文「Information Technology and the Good Life」が表示される(もう一つの例外は、日本の経済産業省や企業のレポートが英訳されたもので、そこには、教授が用語の提唱者として紹介されている)。

  うそぉ? なに、これ?

  ネットによるグローバル化で、昔と違って今は、日本と海外で情報内容に大きな違いがみられることはほとんどない。そういったなかで、ストルターマン教授がデジタル・トランスフォーメーションとの関連で海外でまったくといっていいほど無視されている事実は、日本の状況と比べると、その差が目立つ。

  ・・・ということで、IFIPの大会で発表された論文・・・といってもスピーチをまとめたものなので、5ページの短い小論文なので読んでみた。そして、海外で、教授とDT(理由はあとで説明するが、ここからは、DXという略語ではなくDTを使う)との関係が無視されている理由が理解できた。

  教授の小論文が発表された場は、 IFIPInternational Federation for Information Processing ) の英国での大会だ。IFIPという組織は、1960年にユネスコの援助を受けて創立された国際団体。同じ年に、日本の情報処理学会も、IFIPにおける日本としてのメンバー学会となるべく創立された。

  教授のスピーチは、大会に集まった情報システムの研究者たちに向けて、技術や、その技術によって人間の「生活世界」に今起こっている変化をより深く理解することに貢献するために、自分たちの研究はどうあるべきかを説く内容だった。

   情報技術は今やあらゆるモノに埋め込まれており、それらは(IoTと呼ばれるように)つながっている。世界は、情報技術とともに、情報技術を通して、そして情報技術によって経験される度合いがますます多くなっている(しいて言えば、これが、教授が考えるデジタルトランスフォーメーションの定義というか概念だろう。だが、DTをそう理解するのは教授が初めてというわけではないはずだ<注1>)。

  情報技術研究の目的は、人類のより良い生活、暮らし、人生に情報技術がどう貢献できるかを、探求し、実験し、分析し、調査し、説明し、考察することだ。 だから、( 情報システムの研究にはいろいろな観点があるとしながらも)、今日特に必要な観点は、従来のような科学的(ともすると、要素に分解して分析する傾向にある狭い)観点だけではなく、その技術が人間の「生活世界」にどういった影響を与えるかという全体的観点からも考えなくてはいけない・・・と教授は論じる。

  ここまでで、DTの最初の提唱者として教授を紹介することがお門違いだということは理解してもらえたと思う。まして、「DTが人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」などと、教授はまったく言っていない。そうではなくて、DTが人々の生活を悪い方向に変化させないように情報技術の研究者はチェックしていかなくてはいけないと、ある意味、警告し、そのために必要な研究方法について提案をしているのだ。

  海外で、digital transformationの提唱者ということで教授の名前をだしても、「?」って顔をされるだろう。

   グローバル化とネットで何でも調べることができる情報社会で、どうしてこんな誤解が生まれたのか? 誰もが疑いを持つことなく、先の記事とかレポートを鵜呑みにして引用するということが、なぜ、起こったのか? 

  データベース検索すれば、問題となっている論文を最初に紹介した記事とか論文を見つけることもできるだろう。でも、犯人さがしをするのは時間の無駄。

  最初に書いたように、IT用語の提唱者うんぬんは、本質的には重要情報ではないのだから。

  じゃあ、なぜ、この記事を書いたかといえば、2つのの理由がある。

  ストルターマン教授が本当に言いたかったことを紹介したかった。また、ITのことを(経営者としての観点からでいいから勉強してほしいのに)勉強しようともしない企業経営者が、DTってデジタル技術を使って消費者により良い生活を届けることなんだ。DTで生産性を上げて企業の業績を上げることなんだ・・と安易に納得してもらいたくないという理由だ。

  なぜなら、教授の論文にある、「Good Life/良い生活」という言葉には、豊かさとか便利さよりも、もっと深い意味合いがあるからだ。

  教授は情報技術が人類にグッド・ライフを提供しているかどうかをチェックするために二つの考え方を提案している。一つは、哲学者アルバート・ボーグマンが提唱した「デバイス・パラダイム」という考え方だ。

  ボーグマンはドイツ生れの米国人でテクノロジーの哲学(って、哲学の種類にはなんでもありなんだ!)を専門としている。デバイスとは装置とか機械のことだが、デバイス・パラダイムの考え方を、彼は、簡単な例を使って説明する。

  たとえば、セントラルヒーティングというデバイスは、面倒な手続きもなく簡単に、暖かさを家族に提供する。そして、家族は、薪を割って、暖炉にくべ、火の様子を見ながら新しい薪をくべたり、後で灰の掃除をするといった手間をかける必要はない。薪を割ったり灰の掃除をする当番を決める必要もない。だが、セントラルヒーティングという新しい技術が採用されることで、家族全員が暖炉のまわりに集まっておしゃべりしながら暖をとることもなくなり、一人一人が自分の個室に閉じこもるようになる。

  セントラルヒーティングというデバイスによって、家族間の相互作用は減り、互いを思いやったり助け合ったりする精神を育成してきた家族内の活動もなくなる。

  テクノロジーは、私たちが望むことを、努力とか経験によって得られる技能とか忍耐とかなしに便利に簡単に提供してくれる。その結果、私たちは、身体や知覚をフルに使って現実世界を体験するとはどういったことかまで忘れてしまう。

  コト消費とかモノ消費という言葉がよく使わる。小売業では、最近は、モノが売れないが、コトなら売れると言っている。それと似たような意味合いで、ボーグマンも、テクノロジーはデバイスをコト(thing)からモノ(commodity)にしてしまうと書いている。つまり、暖炉には家族のしきたり、思い出、エピソード、その他の歴史や物語が背景にある。だが、セントラルヒーティングはそういった物語とは無関係のたんなるモノだ。

  ストルターマン教授は、ボーグマンが提唱したデバイス・パラダイムでは、人間がグッドライフを実現するために必要なことがらや価値観が脅かされているとする。そして、DTが進むいまの社会には、このデバイス・パラダイムの例が顕著に見られるとする。

   教授が使う「good life」という言葉は、たんに豊な生活とか便利な生活を指しているのではないことは明らかだ。彼の小論文に何度も登場する「lifeworld/生活世界」はオーストリアの哲学者エトムント・フッサールが、1936年に発表した「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に登場する考え方。

  哲学のことはよくわからないので、コトバンクの解説を引用すると、フッサールの生活世界は「科学によって理念的に構成される以前に、我々が身体的実践を行いつつ直感的な仕方で日常的に存在している世界のこと」となっている。わかったようでわからない。が、ストルターマン教授がボーグマンやフッサールの考えを引用しているのは、社会のDT化について研究するとき、人間の身体性、知覚、直感、感性といったような観点を重要視していることは理解できる。

   考えてみれば、教授は情報システムデザインやインタラクションデザインを専門とする研究者だ。人間とインタラクション(相互作用)するデバイスやシステムのデザインというと、使い勝手が良いとか悪いとかいったインタフェースのデザインだけの狭い話になることが多い。が、論文の主旨は、情報技術研究は、テクノロジーが社会全体や人類の生活世界に与える影響について考えなくてはいけないということだ。

  たとえば、スマホ中毒になり社会生活が送れなくなる若者。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」でも書いたように一日中PCの前で仕事をして腰痛になるだけならまだしもバーンアウトして40歳で退職しようとする若者たち。これは、フッサールやボーグの考え方を引用する教授が考えているグッドライフではないはずだ。

   論文を最後まで読めば、教授をDTの定義とか概念を提唱した人と見るのは間違いだということがわかる。彼は、DTについて警鐘を鳴らした人なのだ。社会のDTが進むなか、人間の「生活世界」はどう変わるのか、真の意味でのグッドライフをもたらすようなDTでなくてはいけない。情報技術の研究者はそういった観点からもDTを考えていかなくてはいけないと教授はIFIPの大会で訴えたのだ。

   そして、いま・・・デジタル・トランスフォーメーションの略語をDTからDXとして、IT業界やコンサルティング業界は、関連システムやソフトウェア、そしてその利用方法について積極的に営業を展開している。経済産業省の「DXレポート」は、DXの定義としてIDC Japanの定義を紹介している。

  •  企業が外部エコシステム(顧客、市場)の破壊的な変化に対応しつつ、内部エコシステム(組織、文化、従業員)の変革を牽引しながら、第3のプラットフォーム(クラウド、モビリティ、ビッグデータ/アナリティクス、ソーシャル技術)を利用して、新しい製品やサービス、新しいビジネス・モデルを通して、ネットとリアルの両面での顧客エクスペリエンスの変革を図ることで価値を創出し、競争上の優位性を確立すること

  このように、DXとDTは元となる言葉(digital transformation)は同じでも、似て非なるものだ。上記のDXの定義は、IT業界が売ろうとしている情報システムに適した定義ではあるが、ストルターマン教授が提唱した概念とは別次元のもの・・・だと、私は思います。

<注1>:2017年発行の「情報センサー」の記事「デジタル・トランスフォーメーョンとは何か」の著者東大野恵美氏は、英語データベースで検索したところ、デジタル・トランスフォーメーションという言葉が使われた最も古い例は1990年で、CDプレーヤーの利便性を伝えるニューヨークタイムズの記事だった書いている。DTはビッグデータとかAIのような造語とか新語というわけでもなく、自然な熟語(漢字じゃなくても熟語といえるのか?!)なのだから、DTの提唱者とか定義とかを探ることに意味はないのでは?

 新刊「勤勉な国の悲しい生産性」の第五章には、テクノロジーと生活世界との関係についても書いています。

参考文献 1.Erik Stolterman and Anna Croon Fors, Information Technology and The Good Life, 2.東大野恵美 [デジタルトランスフォーメーションとは何か」情報センサーVol.124, 2017 3.「間違いだらけのDX 提唱者が語る原点」日経ビジネス3/10/2020,4.「DX レポート」経済産業省 平成30年9月7日

2020年6月27日 (土)

コロナ禍とエッセンシャルワーカーと肉体労働と賃金

 コロナウィルス関連で、よく使われるようになった言葉に「エッセンシャル・ワーカー(essential worker)」がある。日本語では「社会に必要不可欠な労働者」とか訳されているが、「人々が生きて暮らして行くためには欠くことができない職業に従事している人たち」という意味になる。

  たとえば、医療従事者を筆頭に、警察官や消防職員、電気や水道・ガスといったライフラインを担う人たち、食料品店で働く従業員、自宅まで必要なモノを運んでくれる物流サービス従事者・・・。こういった人たちは、自宅でテレワークで働くことができる人たちとは違い、感染するかもしれないリスクを冒して職場に出向き、仕事をやりとげなくてはいけない。場合によって、通常以上の長時間働くことも覚悟してなくてはいけない。

 日本の場合は、米国ニューヨークやイタリア、スペインのようなレベルの医療崩壊も起きなかった。死者数が少なかったということもあって、こういったエッセンシャルワーカーがパンデミックの中で働くことの危険性とか意義もあいまいなものになっている。だから、ありがたみを感じていない人も多い。それどころか、医療従事者の家族がイヤがらせを受けたり、観光業や外食産業といった休業せざるをえなくなった産業で解雇された従業員からは、「コロナのなかでも働けるだけマシ」とうらやましがられたりもする。

 だが、たとえば、米国では、4月初めに、米国国土安全保障省が、パンデミックのコントロールに必須とみられる職種を明らかにし、そのリストを発表している。そして、そのリストに基づき、トランプ大統領は、「国土安全保障省に指定された重要なインフラ産業で働いている人たちは、自分たちの通常業務を継続維持する特別な責任がある」と宣言している。つまり、ロックダウンで自宅から外出するのを禁止されている人たちとは異なり、あなたたちは、通常通り働き続けてくださいよと、ある意味、命令しているのだ。

 トランプ大統領を含め、多くの欧米諸国のトップは、コロナとの戦争という言葉をつかった。それでいけば、エッセシャルワーカーは、戦地で、しかも、前線に立って死を覚悟して戦ってくれと命令されているようなものだ

 だが、皮肉なことに、日本でも欧米でも、公務員や医療従事者以外の多くのエッセンシャルワーカーの平時のときの労働者としての地位は低い。低いという意味は、労働の価値が低く見られ、結果、低賃金だということだ。

 エッセンシャルワーカーに含まれている介護士や保育士の給与の低さは以前から問題になっているし、モノを自宅まで運んでくれる配達員や物流センターの従業員、それから、スーパーで働く店員にいたっては、最低賃金で働くバイトやパートも多い。

 低賃金で働く人が、緊急時になれば、命にかかわるかもしれないリスクの高い仕事をつづけることを求められる。たしかに、日本でも、企業が特別報奨金などを出してはいる。たとえば、ヤマト運輸は全従業員約22万人に一人当たり最大5万円の見舞金を5月に支給している。食料品スーパー「ライフ」も、「日々、厳しい条件で業務に取り組む人達へのお礼の意味を込めた」として、パートやアルバイトを含めた全従業員約4万人に総額約3億円の緊急特別感謝金を支給して話題になった。

 緊急時にはこういった特別手当をもらっても、エッセンシャルワーカーの多くは、平時に戻れば、感謝もされないし、賃金も低いままだ。それどころか、コロナのせいで不景気になったことを理由に解雇されたり、より一層の低賃金で我慢することをしいられるかもしれない。

 現代の経済学理論でいえば、商品やサービスの価格はユーザーが知覚する価値に基づく。そして、その価値は、その商品やサービスを使って得る満足感や快感(効用)が決めるといわれる。介護士、保育士、物流サービス従事者、スーパーの店員の価格、つまり賃金が安いのは、ユーザーである一般市民が知覚する価値が低いからだということなる。

 知覚する価値が低い理由はいくつかあげられる。たとえば・・・

 1番目の理由:誰でもできる仕事だとみなされている。スーパーの店員とか宅配便の配達は、やろうと思えば誰でもできるとみなされる。資格が必要な介護士や保育士ですらも、「忙しいから手伝ってはもらっているが、私だってやろうと思えばやれる」的な意識がある。介護士にいたっては、こういった職業に従事する人を見下す傾向すらある。私もヘルパーさんに助けられて自宅で介護をした経験があるが、多くのヘルパーが「お手伝いさん扱いする家族が多い」と嘆いていた。大阪健康福祉短大の川口教授は朝日新聞のインタビューで、「介護職に対して『簡単、単純、誰でもできる、学歴もいらないつまらない労働』という思い込みがあるように感じます。」と発言し、「介護職にリスペクトを」と訴えている。

 2番目の理由:賃金から労働価値を判断する。ユーザーである一般市民は、商品・サービスの価格を手がかりにその価値を判断するという逆方向の方法をとることが多い。だから、パートやアルバイトの仕事の価値を、その賃金から判断する。スーパーに行けば、求人募集の貼り紙に時給1000円と書かれている。それをみて、時給1000円の仕事をしている労働者だということで、店員の労働者としての価値を決める(そして、IT関連の仕事をしている人は高給をもらう。だから、IT関連の労働価値は高いと判断する)。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分け、肉体労働は単純で下等、頭脳労働は複雑で上等とみなすのは、世界的に共通する価値観であり、長い歴史がある。そして、エッセンシャルワーカーの多くは単純な肉体労働だとみなされる。

 労働を肉体労働と頭脳労働に分けること自体、肉体労働をしている人は頭脳を使っていないとみなしていることになる。これは、肉体労働は奴隷にまかせ、ある程度のレベル以上の市民は高等な思索に時間をつかうという古代ギリシアの考え方と同じだ。20世紀初頭に、工場における労働作業の管理手法を考案したF.W.テイラーも同じように考えていた。

 彼は、「工場ではできるだけ多くのことを機械にまかせ、労働者には考えるということをしてもらいたくない」と繰り返し口にしたそうだ。テイラーの「科学的管理法」は、ベルトコンベア方式の動くアセンブリー工場に適した労働者を生み出すのに貢献し、自動車の大量生産を可能にした。

 日本では、米国型大量生産方式を基本とはしても、「工場労働者は頭脳を使わなくてもよい」という考え方は採用しなかった。結果、工場で働くブルーカラーと事務所でスーツを着て働くホワイトカラーとの身分格差は米国ほど明確にはならなかった。だが、ICT化が進む中、ITリタラシーの高い労働者は頭脳労働者で高報酬で上、そうでない労働者は肉体労働者で低報酬で下という価値観が定着してきた。

 しかし、今回のコロナウィルスによるパンデミックを経験するなか、そういった分け方になんとなく違和感を持つ人、疑問を持つ人が出てきたのではないかと思う。それは、パンデミックが、形のないもの(無形)を崇拝する風潮に「待った!」をかけ、形あるもの(有形)の存在意義にスポットライトをあてたからだろう。

 私たちが、PC等のIT機器を使って仕事をする労働者を高等だとみなすのは、実は、彼らがしている仕事が無形であり、その仕事の内容を見ることができないからだ。どういった仕事をしているのか、良い仕事をしているのかいないのか、そばで見ているだけでは判断できない。その点、形あるものを生み出す仕事をしている労働者の仕事は、判断しやすい。たとえば、技術がなければできない大工という仕事でも、結果としての仕上がりは、素人でも目にみえるからある程度判断でき意見も言える。介護士や保育士にしても同じことがいえる。

 人間は見ることができず、よって具体的に理解できないものを複雑で高等なものだと判断しやすい。

 だが、パンデミックによって、デジタルは複雑で高等、アナログは単純で下等という価値観が微妙に変わった。マスク、防護服、食料など、自分たちが生きていくために必要なものは形あるものばかりだ。たしかに、自粛でネットフリックスの会員やニンテンドーのゲーム「あつまれ どうぶつの森」の人気は世界的に増大した。だが、生存率を高めるためのエッセンシャル度からいったら、つまり、どちらかを選択しろといわれたら、ほとんどの人間が生きていくためにマスクや食料を選ぶだろう(ついでに言えば、「あつもり」ゲームをするためにはスイッチという有形のハードウエアが必要だ)。

 実際には、当たり前の話だが、肉体労働にも頭脳労働が必要だ。機転のきく店員のほうが客から好感度をもたれるし、いまの配達員はIT機器をこなさなかったら効率よい働き方はできない。頭脳労働を精神労働ともいうが、介護士は歩行の困難な高齢者のトイレの世話をする肉体にもきつい仕事を求められる。そのうえ、要介護者の心(精神)をポジティブな状態に維持するために自分の感情をコントロールしなければいけない。介護士のような仕事は「感情労働」とも呼ばれる。

 介護士、看護師や店員のように患者や客と接する感情的ストレスの多い職種は、エッセンシャルワーカーに多く含まれる。

 このように、肉体労働に分類される職種の多くは、感情を含めた頭脳を必要とする。だが、反対に、肉体を必要としない頭脳労働というものは存在する。

 そう思ったのは、ハーバード大学のCenter of Ethicsが4月に発表した報告書「パンデミックに強い社会をつくるロードマップ」を読んだときだ。経済と健康との兼ね合いを考慮しながら8月までに米国がある程度の通常状態に戻るための道筋を明らかにしたもので、大規模なPCRテストとエッセンシャル度による労働者の分類が基本となっている。

 5月~6月には一日500万件という大規模のPCRテストをして、これを7月末までには2000万件に増やす。最初はまず、医療、電気・水道といったライフライン、警察消防、物流サービス、食品店販売員、電気・水道といったエッセンシャル度が一番高い「全労働者の40%に当たる人たち」にテストを実施する。テストをして陰性の人たちだけを職場に戻す。陽性者は隔離し、陰性になった時点で職場に戻す。これを繰り返すことによって、エッセンシャル度が一番高い40%の労働者が働く環境を安全なものとする。

 次いで、7月からは、エッセンシャル度が次に高いと思される職業に従事する「全労働者の30%の人たち」に同じことをする。そして、7月後半には、エッセンシャルではないが、自宅でビジネスを展開することができない美容院やレストランといった接客業にたずさわる「全労働者の10%に当たる人たち」にテストを実施し、労働者にも客にも安全な労働環境をつくる。

 そして、8月には、「全労働者の最後の20%に当たる人たち」、自宅でテレワークをする労働者にテストを実施して、職場に戻す。

 こうすれば、秋までは、アメリカはパンデミックに勝利をおさめ、かつ、経済的ダメージも最小限に抑えることができるというわけだ(今の状況をみれば、米政府がこの提言を完全無視していることは明らかだが・・・)。

 在宅勤務がつづいても仕事に支障が出ない「全労働者の20%にあたる人」は、100%の頭脳労働者だといえる(もちろん、IT機器を使うのに腕とか手は使うが、声で操作する方法もあるし・・・、一応、身体は必要ないとしておこう)。

 肉体労働者の多くは機械に代替されると巷では言われているが、実は、機械に代替されやすいのは、この、100%頭脳だけの頭脳労働者のほうだ。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」に詳しく書いたが、最近は、今のアルゴリズム中心のAIの限界が指摘されるようになってきている。アルゴリズム中心のAIとそれを基本として制作されるロボットが、人間の肉体労働(感情労働を含めて)に代わることは、実際には予想以上にむずかしいことが明らかになってきたからだ。だが、頭脳労働者とAIは符号化された情報を使って仕事をしているということでは、基礎(ベース)が同じなので、互換しやすい。

 コロナ後もテレワークを継続して採用し続けると発表する日本企業が増えてきている。従業員のなかには、それを歓迎する人もいれば、やっぱり職場で同僚たちといっしょにワイワイガヤガヤ言いながら仕事する環境に戻りたいと考える人もいる。それは、職種にもよるし、通勤時間がどれだけかにもよるし、家庭の事情もあるだろうし、本人の性格にもよるだろう。ただ、企業側からみれば、週一回会議に出席すれば後は自宅でテレワークでやっていける仕事であれば、正社員である必要はない。契約社員、あるいはその他の雇用形態でよい。

 コロナ禍は、企業にすれば、組織を見直すチャンスでもある。今後もつづく、いつ想定外の出来事が起こるかもしれない時代においては、組織は必要最低限の社員からなる無駄のない融通性の高い「(嫌いなカタカナ用語をあえて使えば)リーンでアジャイル」なものでなくてはいけない。

 社員の中には、そういった考え方は、悪いことではないと考える人もいることだろう。テレワークが可能にしてくれる時間から解放された働き方を好む社員であれば、契約社員になって、余裕があれば他の会社の仕事を引き受けてもいい。コロナ禍は社員の側も今後の生き方や働き方を考える契機になる。

 つまり、テレワークで自宅で仕事を続けていいと言われた社員は、それなりの将来の覚悟をもって、そういった働き方を選択すべきだし、会社としても、テレワーク社員を増やすと考えているのなら、会社組織の構造改革の一環として実行すべきだろう。

 テレワークを実際にやってみたら効率が落ちたと答えた従業員が66%いたという日本生産性本部の調査結果が出ている。もっとも、一番大きな課題が「職場に行かないと資料が見られない(49%)」、次いで、「通信環境の整備(45%)」「机など働く環境の整備(44%)」となっているので、まだ、テレワークをする環境やシステムが整っていないということだ。

 だが、ここで問題なのは、従業員や企業が、どういったタイプの生産性を求めているかを最初に明らかにしておく・・・ということだ。

 会社という組織で社員同士がコミュニケーションすることによって生まれる創造性を大切だと考えるグーグルとかアップルとかは、自宅勤務を奨励はしていない。グーグル創業者のエリック・シュミットは、コロナ後はオフィスが必要なくなるのではなく、反対に、ソーシャルディスタンスを守るために、一人当たりのスペースをより広くしたオフィスを作る必要があると発言している(ただし、通勤時間が長い社員のためにサテライトオフィスを設ける必要があるとも言っている)。

 ここからは、ちょっとおまけの余談です・・・

 「在宅勤務をずっと続けていいよ」といわれるのは、哲学的(?)に考えると、「あなたの身体はいらない、頭脳だけでよい」と言われているみたいで、ちょっと複雑な心境にならないだろうか? シュミットの場合は、頭脳は創造性を生むが、そのためにいくつかの頭脳が集まって議論したりしなくてはいけない、そのために身体が集合しなくてはいけないと考えていることになる(新著に書いたようにAIの身体性の問題がからんでくる)。

 最後に、おまけにもならない余談です。

 身体はいらない頭脳だけでよいということで思い出すのは、イギリスのSF作家H.G. ウェルズの小説「宇宙戦争」(1898)で描かれた火星人の姿だ。頭が大きく手足の細いタコのような火星人は、1982年に映画「E.T.」が大ヒットするまでは、典型的なエイリアンの姿形として漫画やイラストにつかわれた。

 タコに似た火星人は、IT機器を仕事相手とする頭脳労働者には理想的な姿形ではないだろうか? 手が8本あればキーボードやマウスを使うのに便利だし、IT機器の前で一日15時間座って働いても、肩もこらないし腰痛からも解放されそうだ。ついでにいえば、E.T.やウェルのズ火星人の目が異様に大きいのも、LEDスクリーンを凝視して目を酷使した結果ではないだろうか?

 タコは全身が頭脳だそうだ。タコの5億個の神経細胞(ニューロン)のうち3億5000万個以上が8本の触手にあり、8本の足が独自に意思決定できる「分散型」の神経系を有している。雑誌Newsweekによると、米国ワシントン大学の行動脳科学の研究者はタコが有する分散型の神経系を「知能の代替的モデル」と称し「地球さらには宇宙における認知の多様性についての理解をすすめるものだ」と考えている。「タコは地球上で我々が出会うことのできる<エイリアン>なのかもしれない」そうだ。

 19世紀に「タイムマシン」や「透明人間」といった作品も書いたH.G.ウェルズは、さすが、SF作家。遠い人類の未来を透視して、ICT化が進む中で効率性を求めれば、人類はタコのように進化(?)していくと考えたのかもしれない。

 

参考文献 1.Department of Homeland Security: List of Essential Industries, 2 Transcript: Eric Schmidt on "Face the Nation" 、CBS News 5/10/20. 3 「介護職にリスペトを」朝日新聞6/3/20 4.「在宅、生産性向上探る」日経新聞6/21/20, 5.Roadmap to Pandemic Resilience, Center For Ethics At Harvard University 4/4/20,6.「タコは地球上で会えるエイリアン」Newsweek7/1/19

2020年6月 4日 (木)

新刊「勤勉な国の悲しい生産性」、出版しました

 

  

814knqkohl__ac_ul640_ql65__2

 タイトルから、「また、生産性の話? もうあきたよ」と思われるかもしれませんが、第一章で「生産性向上は時代錯誤」と主張して、それで、生産性の話は基本的に終わりです。じゃあ、なぜ、生産性なんて言葉をタイトルに使ったかといえば、(良いタイトルが思い浮かばなかったということもありますが)日本経済の問題や日本企業の問題は低い生産性にある・・・とする考え方を否定したかったからです。今の日本企業は、生産性向上!の名のもとに、従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくと言っていいほどしていません。

 本書を書き終わって印刷が始まる少し前にコロナウィルスが世界を席巻するようになりました。そして、私たちは、人間を含めて形あるもの(物質的存在)の(デジタルと比較しての)意義とか価値にあらためて気づかされました。一般メディアではコロナの影響でデジタル化が一気に進むと主張しています。確かに、デジタル化は急速に進むし、進まなければいけませんが、それは、あくまで物質的存在を助けるというか補完する形でなければ期待するような結果はもたらさないはずです。本書では、身体性をもったAIとか、日本人の労働者としての特徴を歴史的かつ人類学的観点から明らかにし、日本のものづくりのグローバル市場での差別化についても書いています

 下に、本書の「はじめに」と「目次」を掲載いたしました。ご一読いただき、もし、興味をもっていただけましたら、手に取って読んでいただければ嬉しいかぎりです。

「勤勉な国の悲しい生産性」注文サイトへ

はじめに

 2019年は、いまのアルゴリズム中心のAIへの過信が挫折を味わった年です。早ければ2020年には、自動車の完全自動運転が実現するとしていた企業家や研究者の予測が修正されました。修正といっても、2020年が 30 年に延びるといったような問題では ありません。完全自動運転がどのくらい先に実現するのか予測すらできないと、研究者たちは素直に認めました。アルゴリズム中心のAI研究だけでは、人間の知能を超えることはできないということが明白になったのです。

 同じような理由で(つまり、いまのAIの限界が明らかになったことで)、機械(AIやロボット)が人間にとって代わる代替率は大幅に下方修正されました。日本では、 20 年以内に労働人口の 49 %がAIやロボットに代替されると予測され、センセーションを巻き 起こしましたが、いまでは、その数字が正しいと思っている研究者はほとんどいません。2016年にOECDが発表した7%のほうが正しいとみなされています。

 スポーツ用品メーカーのアディダスが、2016年に建設したドイツのスマートファクトリーは 19 年に閉鎖され、靴の製造は中国とベトナムに戻されました。米国のテスラのロ ボットによる100%自動工場もうまく稼働せず、イーロン・マスクCEOは「人間というものを過小評価していた」と自分の誤りを認めました

  つまり、企業は、これからも、機械ではなく人間である従業員に頼らざるをえないことが明らかになったのです。

 そういった状況において、いまの日本企業は従業員という最も重要な企業資産の価値を上げる努力をまったくといっていいほどしていません。その結果が、日本の従業員の会社へのエンゲージメント率は世界平均の半分しかない。異常に低いレベルです。なのに、「日本人は自己肯定感が低いからそうなるんだ」などと都合よく解釈し、対策を考えない経営者が多すぎます。

 バブル崩壊後の 20 ~ 30 年、ICT化を進めることなく、非正規の安い労働力と正規社員 の長時間労働で乗り切ろうとした経営者は、従業員を「機械」代わりに使ってきたと批判されても仕方がない。働き方改革の目標を「生産性向上」としているのは、「人間」を「機械」とみているからでしょう。働き方改革に不満をもつ従業員が多いのも当然です。

 組織には「2:6:2の法則」がみられ、優秀な社員が 20 %、普通の社員が 60 %、働か ない無気力な社員 20 %といわれます。欧米では、 20 %の優秀な社員を世界中から集め、こ こに集中的に投資する傾向が強い。だが、日本の特徴は、 60 %の「普通の社員」の教養や 勤勉さ、そしてたぶん倫理観のレベルも、他国の「普通の社員」より高いことにあります。

 人間は「感情」で動きます。感情が喚起されれば倍の力だって発揮することができます。

 働き方改革において重要なことは、この 60 %の「普通の社員」の感情を喚起すること、会 社の理念や目標に「感動」し、「共感」を抱いてもらうことです。そのためには、まず、従業員の行動心理を分析しなくてはいけません。

 本書では、歴史を振り返り、日本の労働者の時間に対する意識、組織に対する意識、人間関係に対する意識、仕事に対する意識を、広範囲にわたる調査、研究、文献の助けを借りて考えてみました。そこに浮かびあがってきた日本人の働き方には、いくつかの特徴があります。たとえば、マクロよりミクロに先に注意がいってしまうとか、結果よりも過程を大事にするとか……。「日本人はおおよそのところでよい仕事でも、完璧に仕上げようとする」と生産性が低いことに関連して批判されます。でも、欠点は裏を返せば長所にもなる。そういった働き手の特徴を生かすことで、グローバル市場における差別化に成功することもできます。

 また、従業員がなぜそういった行動をとるのか、その心理を説明してくれる歴史的要因を知れば、従業員が満足してくれる働き方改革を考えることができます。日本人は神代の時代から「調和」と「均衡」を好む傾向がみられると、世界の神話を分析した心理学者は解説します。対立や混沌さ(カオス)を嫌う性向がイノベーションの妨げとなっているかもしれません。そう考えれば、イノベーションを生みやすい工夫や仕組みをつくることもできます。

 本書で展開される経営者批判はときに辛辣になりすぎているかもしれません。でも、評論家的観点からではなく、従業員目線で書いたつもりです。従業員は経営陣のことをよくみています。そして、彼らの批判は当たっていることが多いのです。経営陣は、従業員との一方通行ではなく双方向のコミュニケーションにもっと時間をさくべきです。

 第5章では、アルゴリズム中心のAIだけでなく身体性をもったAIの研究が進まなければ、機械は人間には近づくことができないことを説明します。それに関連して、身体を使う労働の重要性や、日本人の性向にあった「ものづくり」手法は、グローバル市場での差別化の中核になりうることも書きました。

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、グローバルのサプライチェーンの弱さが露呈しました。ものがなくては、人間は生きていけません。マスクから電子部品まで、ある程度国内で生産量を確保しなくてはいけないものがあることを実感できました。「ものづくり」の伝統は、そして熟練した技は、市場での差別化に貢献する貴重な日本の財産だと再確認させられました。

 新型コロナウイルスがパンデミックと認定されたのは、本書の印刷が始まる直前でした。第二次世界大戦後最大の不景気に突入するということで、すでに非正規社員を中心とする従業員の解雇が始まっています。しかし、ウイルス騒ぎの前でも後でも、日本社会の人手不足は変わりません。想定外の出来事が起こりやすい 21 世紀の不安定な社会において、景 気がよくなるのをじっと待って、その間は給料も上げず人も削減するという、戦略とは呼べない戦略をこれからもつづけるつもりなのでしょうか?

 青臭いといわれるかもしれませんが、私は、人間はその気になれば倍の力を出すことができると信じています。同じ夢やヴィジョンを共有する仲間といっしょなら、1・5倍も2倍も大きな力を発揮することができます。

 いま、働く日本人は自信を失っています。デジタル一辺倒の世の中で、人間が本来もっている力を信じることができなくなっています。マスクCEOの言葉を借りれば、経営陣も従業員も「人間というものを過小評価」しています。

 拙著を読んでくださったみなさまが、「感動」や「共感」の助けを借りて、パンデミック後のグローバル市場での試練を乗り越えられることを切に願っております。

      

 目次

第1章「生産性向上!」は時代錯誤

  • うんざりする「生産性向上!」のスローガン
  • 経営陣への不信感が強い従業員
  • 賃上げと値上げの決断を避けてきた経営者
  • 労働者よりも消費者であることを選んだ日本人
  • 消費者が受け入れたヤマトの値上げ
  • 労働者の心理を考えない日本企業
  • ハイデイ日高の1万円ベースアップ
  • GDPは 20 世紀の遺物
  • デジタル経済を把握できないGDP
  • 新しいGDPをつくる
  • 「デジタル」は「電気」ほど生産性に貢献していない
  • 「生産性」は主観的なもの
  • 経済学で生産性を考えるのはもうやめる

COLUMN  ヤマト創業者と労働組合  

 第2章 「時短」ではなく、「時間」からの解放感

  • 資本主義の歴史は時計の歴史
  • 江戸時代の日本人は怠け者だった!
  • 時計が時間意識を変えた
  • 時計が産業革命を準備した
  • 時計をもつ者が労働を支配する
  • 時計が神様になった
  • 時計の歴史は生産性の歴史
  • 時間からの解放が幸せ感を呼ぶ
  • 自己決定が幸福感をもたらす
  • 味の素が7時間労働を中止した理由
  • イノベーションはカオスから生まれるというのは本当か?

COLUMN  働き方改革あれこれ  

 第3章「調和」と「不公平感」がつくる会社組織

  • 日本人は「集団主義」ではない
  • 自己利益を追求するための同調
  • 神代の時代から空気を読んでいた日本人
  • 対立を避ける日本ではイノベーションは生まれにくい
  • 和をもって貴しとなす
  • 「憲法十七条」は現代のガバナンス・コード
  • 現代の若者にもみられる調和精神
  • 日本一社員が幸せな会社のアイデア創造術
  • 公平をもたらさない昇進制度
  • 日本では金持ちが嫌われる
  • ねたみがあるから格差感の低い日本
  • ねたみを気にしていたらイノベーションは生まれない

COLUMN  従業員のエンゲージメント率が低いのは「飽きるから」  

 第4章 日本人は「勤勉DNA」をもっているのか?

  • 欧米人は労働を苦役と考えるというのは本当か?
  • 日本人は労働を楽しむDNAをもっているのか?
  • 稼いだ金を消費しなければ資本はつくれる
  • プロテスタントと浄土真宗
  • 近江商人のコーポレート・ガバナンス「三方よし」
  • 世間の目を気にする(関係性を重視する)
  • 勤勉革命と産業革命の違い
  • 資本節約・労働集約型の「はやぶさ」プロジェクト
  • 「はたらく」は誰かのために働くこと
  • 米国の倫理なき資本主義
  • 宗教の代わりに税金でレシプロシティを実現する

COLUMN 「楽しく働く」前澤社長と「週100時間労働」のテスラCEO  

 第5章 AIが人間から奪う仕事は( 49 %ではなくて)わずか7%

  • 身体をもたない古きよき時代のAI
  • 古典的AIと身体性AIの違い
  • 脳無しロボットでも歩くことはできる
  • 頭脳労働は死亡リスク 40 %増
  • フィンランドの動く学校( School on the move )
  • 早期引退したがる若者たち
  • AIに代替される職業はわずか7%
  • 「ものづくり」を勧める五つの理由
  • 日本人は手先が器用というのは本当か?
  • 人間の手を模倣するロボットハンドをつくるのはむずかしい
  • 大学卒の大工が働く会社
  • マクロではなくミクロの視点から見る傾向
  • アディダスのスマートファクトリーからの撤退
  • 日本のデジタルものづくり

 最終章 経営者の仕事は社員に夢を見させること!

❶ 従業員第一主義

❷就業スタイルのパーソナライゼーション

❸ 会社の存在意義

❹自立し、自律しなければならない従業員

❺ 経営決断と功利主義

 

2020年4月30日 (木)

パンデミック後の世界で、人間の力が再認識される

 コロナウィルスが収束したわけでもないのに、パンデミック後の世界について語る人たちが増えている。死者数が、イタリアを抜いて世界一になっている米国において、Build Back Betterという言葉がスローガンのように使われ始めているようだ。

 「より良いものをつくりなおそう」。大切な人の命や、仕事、収入など、多くの人たちが多くのものを失った。でも、私たちが再建するのは元のままの社会ではない。パンデミック以前より、より良い社会、より優れた組織や制度をつくろう!という意味だ。

 現生人類の数十万年の歴史のなかで、私たちの祖先は、ホモサピエンスという動物種が絶滅するかもしれないほどの苦境に幾度となく直面してきたはずだ。窮地を耐え忍んで乗り越えてこられたのは、人類が未来を想像する能力を持っていたからだ。「いまは苦しくても、この苦しみを乗り越えれば、明るい未来がきっと開ける」と信じ、それを実現するために、自分たちは何をすべきかを具体的に想像する能力。そういった力を他の霊長類は獲得していない。

 希望は、人類が生存していくための糧であり、その希望を具体的に描くことができる想像力は、人類が存続していくため欠くことができない能力だ。

 ウィルス収束がまだ具体的に見えてこないときに、すでに、その後のことを考え、そのために自分たちは何をすべきかをかを語る・・・・人類の生存本能が活動していることの証だろう。

 ・・・ということで、私も、「より良い社会をつくりなおそう!」に関連して、再建する社会というか、再構築する組織(例えば会社)においては、人間の力が再認識されるべきだし、きっと再認識されるだろうという話を語らせていただきます!

 パンデミックを契機にテレワークやキャッシュレス決済が一気に進むとか、ネットフリックスの会員数が世界中で1600万人増えたとか、小売りで伸びているのはアマゾンのようなネット通販だけとか・・・デジタルの強さがきわだつ。パンデミック後は、社会のデジタル化がより急速に進むと語る人も多い。

 だが、その一方で、物理的な形をもったモノが欠乏することの深刻さに気づかされたことも事実だ。マスクから電子部品まで、無いと本当に困ることが実感できた。また、医療機器が足りないのも困る。そして、高度な医療機器が十分あっても、医師や看護師がいなかったら役に立たない。

 「近い将来、ロボットが高度な医療機器を使えるようになるから人間がいなくても困らない」とあなたが考えているとしたら、あなたはテクノロジーの力を過信しすぎている。

 振り返ってみれば、2019年は、いまのアルゴリズム中心のAIへの過信が挫折を味わった年だ。早ければ2020年には完全自動運転が実現するとしていた企業家や研究者の予測が修正された。修正といっても、2020年が30年に延びるといったような問題ではない。完全自動運転がどのくらい先に実現するか予測すらできないと、研究者たちがあっさり認めたのが2019年という年だ。

 トヨタの自動運転開発チームを率いるギル・プラット氏は、AIが完全自動運転するためには「認識」「予測」「判断」の3つの認知プロセスを実行しなくてはいけないが、「人の脳と同様にAIに予測させることはそれほど簡単ではないことが、最近、分かってきた」と2019年末に日経新聞のインタビューに答えている。

 事故は、他のクルマの運転手、歩道を歩いている人間、二輪車に乗っている人間などが予想外の行動に出たときに起こる。各種のセンサーや高解像度カメラを装備することで、道路上の対象物を見つけ、それが何であるかをAIで識別することはできる。だが、その対象物が次に何をするかを予測するプログラムを作成することは、現在のアルゴリズム中心のAIではむずかしいことがわかってきたのだ。

 人間は「ああなったらこうなる」という行動のイメージを頭に浮かべることができる。たとえば、前を走っているクルマの運転の仕方で、「駐車するスペースを探しているんだ」と直感し、車間距離を置かずに後をついていくのは止めようと判断する。

 こういったメンタルモデルを構築する人間の能力は、現在の機械学習型AIがデータを「学習」して獲得できるものかどうかに疑問が出てきたようだ。

 自動運転のレベルには5段階あるが、機械への代替率が100%になるためにはレベル4にならなくてはいけない。レベル3では、緊急時にドライバーが操作する手はずになっているので人間は運転席に座っていなくてはいけない。レベル4はドライバーがいなくてもよい。その代わり、自動運転できるのは特定の場所や特定の気象条件に限られる。

 つまり、レベル5にならなければ、機械は人間に代わることはできない。完全自動運転はまだSFの世界なのだ。

 AIの挫折は製造業にもみられた。

 スポーツ用品メーカー「アディダス」が、靴製造のために2016年に建設したドイツのスマートファクトリーが19年に閉鎖された。アメリカに建設したスマートファクトリーとともに年間100万足の靴を作っていたが、二つの工場は閉鎖され、靴の製造は中国とベトナムに戻された。アディダスは「経済性と融通性のため」とコメントしている以外は多くを語っていない。4D技術とロボットを利用した自動工場よりも、人間中心の工場のほうが融通性においてもコストにおいても優れているということらしい。

 米国のテスラは2016年に値段の安い普及車「モデル3」を発表。予約が殺到したのはよいが生産がまにあわない。1000台以上のロボットによる最新製造システムを採用した工場が、実際に動かしてみたら、うまく稼働しないことがわかったからだ。ロボットより人間による作業のほうが効率良い箇所がいくつか出てきた。2018年、窮余の策として、工場の駐車場に、アメフト競技場二つがすっぽり入るくらいの大きなテントを張り、そのなかにマニュアル作業用のアセンブリーラインを設置。数百人の従業員を急きょ雇い、手作業で車を完成させることになった。

 イーロン・マスクCEOは「人間というものを過小評価していた」と自分の誤りを認めている。

 アディダスもテスラも、そして、自動運転車の完成が近いと予測していた企業や研究者たちも、機械(AIとロボット)への過信、機械の方が人間より優れているという思い込みが強かったといえる。

  2015年、野村総合研究所がオックスフォード大学研究者(マイケル・オズボーンとカール・フレイ)との共同研究で、国内601種類の職業について、AIやロボットに代替される確率を試算した。そして、今後10~20年以内に、日本の労働人口の約49%がAIやロボットで代替されるであろうと発表した。2013年には、同じオックスフォード大学の研究者たちは、米国においては、労働人口の47%が機械に代替されるリスクは70%以上と発表している。 

 労働者の半分が機械に代替されるというショッキングなニュースは米国でも日本でも話題となった。だが、その後、この研究のいくつかの欠点が他の研究者から指摘され、いまでは、2016年に発表されたOECDの9%という数字が妥当であるとされる。もう少し具体的に説明すると、2016年に発表されたOECDの研究では、加盟各国の機械代替リスクでは、代替リスク70-100%の労働者の割合は、米国9%、ドイツ6%、日本で7%となっており、OECD加盟国平均で9%となっている。

 OECDの研究者は、オズボーンとフレイの米国での研究結果における問題点を3つ指摘したが、その中でも一番の問題は、職業をタスクに分解して、タスクごとに機械化されるか否かを分析しなかったことにあるとした。つまり、職業はいくつかのタスクから構成されており、その中には機械化しやすいタスクと機械化しにくいタスクが混在しているはずだ。

 たとえば、日本の例では、「AIやロボット等に代替される可能性が高い100種の職業」のなかにスーパーの店員というのがある。たしかに店員がしなければいけない多くのタスクのうち、在庫チェックや補充注文するタスク、レジのタスクとかは自動化できる。が、売り場に店員がいて対面販売することで売上が上がるという理由で、人間を使い続ける店舗は多い。アディダスのスマートファクトリーにおいても、人間が作業をしたほうが効率の良いタスクがあったのだろう。

 OECDが指摘した二番目の問題点は、フレイ&オズボーンの研究にはテクノロジーの進歩への確信が強すぎることだ。たしかに、現在の機械学習とかロボット工学の進展は過去に例をみないほど大きなもので、定型的な仕事が代替されることは確実だろう。だが、フレイ&オズボーンは、現在の技術革新がすぐに実用化に結びつくという仮定のもとに計算をした。たとえば、自動運転技術が実験室レベルで開発されていれば、世界中のすべての運転手が100%機械に代替される可能性があると仮定して計算したということだ。だが、前述したように、自動運転の可能性は、2019年には大きく後退した。クルマの完全な自動運転は非常に難しいことがわかってきて、10年20年では実現できないということは最近の大多数の関係者の見解となっており、企業の多くはこうした現実に沿ってすでに戦略を見直している。

 当然のことながら、「代替されやすい100種の職業」リストに入っていたタクシー運転手、路線バス運転者、宅急便配達員なども、リストから除外されることになる。

 三番目の問題点として指摘されたのは、各職業が機械に代替されやすいかどうかを決めるプロセスにある。米国労働省の職業分類の702の職業のうち、わずか70の職業だけを選び、それらが自動化できる可能性があるかないかをオックスフォード大学工学科学部に分類してもらった。可能性の有無を分ける要素(変数)でモデル化し、そのモデルを残りの632種に当てはめ確率計算するといういう手法をとった。このやり方が少しずさんすぎるというわけだ。

 「テクノロジーが最も高度で優れた解決策であり、人間ベースの解決策よりも優れている」という思い込みが、クルマの自動運転を目指したAI研究者にはあった。同じ傾向がフレイ&オズボーンの研究にもあるということだ。

 いまのAIの実用化はメディアやコンサルティング会社があおった期待ほどには進まない。企業は人間である従業員に今後も頼っていかなくてはいけない。だが、多くの日本企業は、バブル崩壊後の失われた数十年間をみても、従業員を大切な企業資産と考えてはいないように見受けられる。

 もともと、日本企業のICT化が遅れた原因の一つは、従業員を機械代わりにつかってきたからだ。低コストの非正規社員に頼り、また、正規社員にもルーティンワークをさせた(だから、長時間労働が常習化した)。そのうえ、人手不足が深刻になったこの数年間を除いて、1997年からの20年間、日本の賃金は9%減少している。先進国で唯一のマイナス国だ。

 安いコストで人間を長時間労働させることができたから、ICTを進める必要性がなかった。その結果が、日本企業の従業員のエンゲージメント率は、どの調査をみても、先進国で最低で、世界平均の半分に満たない。

 エンゲージメントとは、自分の会社の目標に強く共感し、その目標を達成するために自分も最善を尽くそうという気持ちだ。そういった気持ちがない従業員と、パンデミック後の世界を乗り越えていくことができると思っているのだろうか?

 パンデミック後にICT化をより一層進めることは当然のことだが、それは、人間を機械に代替させるためではなく、人間がより高い志を持って働けるようにするためだ。

 人間は感情で動く。共感や感動があれば倍の力を発揮する。変事は、志を同じくする、つまり、ビジョンや夢を共有する仲間がいて初めて乗り越えられる。

 たとえば、パンデミック後にテレワークが一気に進むという話がある。だが、前の記事で書いたように、アメリカではこの数年、テレワークの意義の見直しがされている。社員の共感を得たり、イノベーションの創造を促すためには、社員同士の対面コミュニケーションを維持しなくてはいけないとわかったからだ。機械ではなく人間だけがもつ能力を生かすためには、共通の目的をもち、それを一緒に目指すチームワークが必要だということに気がついたのだ。

 パンデミック後の会社という組織をより良いものに再構築しようというのであれば、まず、人間の力を再認識することから始めるべきではないだろうか。

 花王は社内では「人材」ではなく「人財」という言葉を使うように変えた。「材」だと社員を費用のかかるコストだとみなす印象がある。人は会社にとっての財産だから「財」にしたそうだ。

 

  

参考文献 1.Melanie Arntz,et al., The Risk of Automation for Jobs in OECD Countries: A Comparative Analysis, OECD Social, Employment and Migration Working Papers No.189, 2. 「日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」野村総合研究所 news release, 12/2/2015, 3.全自動運転 業界全体で計画遅れ」日経新聞1/11/20, 4. Neal E. Boudette, Despite High Hopes, Self-Driving Cars are Way in the Future, The New York Times, 7/19/19, 5. Christopher Mims, Self-Driving Cars Have a Problem: Safer Human -Driven Ones, The Wall Street Journal 6/18/19. 6. Addidas shift German, US smart factories to Asia, Techxphone. Com 11/11/19, 7.Steve Crowe, Addidas closing autmated speed factories in Germany, the U.S. , The Robo Report 11/13/19, 8.「良い日用品 人財のわくわく感で 沢田道隆氏」読売新聞 8/6/19

2020年3月25日 (水)

コロナウィルスを契機にテレワークは一気に伸びるのか?

 コロナウィルス対策の一つとして、テレワークを採用する企業が増えた。これがきっかけになってテレワークが日本でも一気に広がるかもしれないと期待されている。働き方改革において、長時間労働を是正する対策として、あるいは、育児や介護をしながらも働ける環境をつくる方法としても、テレワークに期待する声は高い。

 が、テレワークを企業が導入する場合には、考えなければいけない大きな問題もあるようだ。テレワークを率先して導入した米国企業の経験を紹介してみます。

 総務省「平成29年通信利用動向調査」によると、自宅でテレワークする制度を導入している日本企業の割合は29.9%で、導入率はゆるやかに上昇している。一方米国では、合衆国労働統計局の調査によると、自宅で働く従業員の割合は2018年に24%で、2016年の22%より少し上昇している(この数字には、100%在宅勤務の従業員と部分的に在宅勤務している従業員と両方含まれている)。だが、2016年の数字は前年の2015年より2ポイント減少しており、伸びが止まっている感がある。

 えっ? ICT導入に積極的な米国で、そんなに低い数字? 驚く人も多いと思う。民間の調査では40%前後の高い数字が出ていることがあるが、自宅で働くフリーランスが含まれていることもある。ここでは、あくまで、企業の従業員の在宅勤務の話に的を絞っている。(ちなみに、アメリカでは在宅勤務はリモートワークと呼ばれることが一般的なようだ)。

 米国では、この数年、リモートワークの見直しがされている。他社に先駆けて在宅勤務制度を始めていた企業が、最近になって中止するのが目立っている。IBM、HP,ハネウェルといったちょっと古めのテクノロジー会社の他にも新興ネット企業のレディットもいったん採用したリモートワーク制度を中止している。

 たとえば、1979年に他社に先駆けて在宅勤務のリモートワークを始めたIBMが、2017年には、この制度を利用していた数千人の従業員にオフィスに戻って勤務するようにと指令を出した。2009年には、173か国の386000人の従業員の40%が在宅勤務をしていると誇らしげに発表していたのに・・・。

 IBMに関しては、収益が落ち続けているので、人員削減のための新たな手段ではないかとか(在宅勤務を続けたい人は会社を辞める可能性がある)、あるいは、アップルとかグーグルとか人気のハイテック企業のマネをしているのではないかとか勘繰られている。

  一方で、急成長しているハイテック企業がリモートワークの価値を認めていないのは本当だ。その理由というのが、従業員同士のコミュニケーションが質量ともに落ちるという問題にあるらしい。ICTの利用に積極的であるはずだと思われている米ハイテック企業が、ICTを使ってのコミュニケーションより対面のコミュニケーションに価値を置いているという矛盾が興味深い。

 在宅勤務のメリットは生産性が上がることだと通常はいわれるが、その反対の説もある。どういったタイプの生産性を目標としているかの違いによるのだが、アップルやグーグル、アマゾンといった企業は、企業文化を強化し、イノベーションを生み出すためには、従業員が同じ経験を共有し、チームワークを強化しアイデアを分かち合うことが必要であり、そのためには対面コミュニケーションが重要だという結論らしい。 

  こういった企業が基本としている理論は、米国マサチューセッツ工科大学のトーマス・アレン教授が、1977年に発表した「アレン曲線」と呼ばれる理論だ。コミュニケーションの頻度と物理的な距離には強い負の相関関係があるというもので、座っている机の距離が離れていればいるほどコミュニケーション頻度が少なくなる。彼の調査では、自分から6フィート離れた席の相手と60フィート離れた席の相手とでは、前者と定期的にコミュニケーションする確率は4倍高い。30メートル離れると、コミュニケーションはゼロとなる。

 1977年なんてICT技術は未熟で現在のものとは大違い。そんな古い理論はもう通用しないと反論したくなる。が、「職場の人間科学: ビッグデータで考える『理想の働き方』」の著者ベン・ウェイバーの研究によると、対面のコミュニケーションとデジタル・コミュニケーションのどちらもアレン曲線に従うことが明らかになっている。つまり、同じオフィスで働いているエンジニア同士は、離れている同僚同士よりも、デジタルでも20%多くコミュニケーションしているそうだ。

   だから、グーグルの元CEOのエリック・シュミットが創造性は相互作用から生まれるからデスクはなるべく離さないで近くに並べたほうがよいと、著作に書いているのかもしれない。もっとも、地価の高い日本の狭いオフィス内でデスクをくっつけてしまうと、人間関係に疲れてしまうストレスのほうが多くなるかもしれないけど・・・。

  世界の2000人の従業員と経営陣へのインタビュー調査によると、リモートワーカーの三分の二の会社へのエンゲージメントは低い。リモートワーカーは会社に長く働く傾向も低い。同僚に長い間会わないと、チームや組織へのコミットメントが低くなるからだろう。

  日本でも米国でも、リモートワークをしている本人は、「融通性に満足している」とか「集中できて生産性が上がる」と答えてはいるが、それを鵜呑みにしていると失うものが多いということらしい。

 日本企業の方向性としては、育児、介護、病気、あるいは今回のパンデミックのようなやむをえない理由で在宅勤務を提供する必要があるとしても、一定の日数はオフィスで他のメンバーと過ごすことが必要だ・・・という常識的な結論に落ち着くのではないだろうか・・・。

参考文献 1.Jerry Useem, When Working From Home Doesn’t Work, Harvard Business Review Nov.2017 2.Dan Schawbel, Survey: Remote Workers Are More Disengaged and More Likely to Quit, Harvard Business Review Nov.2018 3. Nicole Spector, Why Are Big Companies Calling Their Remote Workders Back to the Office?, NBC News, 7/27/17 4.Ben Waber et al., Workspaces That Move People, Harvard Business Review Oct. 2014

2019年5月26日 (日)

身体性をもつAI(深層学習によるAIは古き良き時代のAI)

  いま注目を集めている機械学習によるAIは計算威力で人間を圧倒する。だが、人間の知能からは程遠い。「人間は創造的な仕事だけに従事し、その他の仕事はAIにやってもらえばよい」などと多くの有識者が語っている。が、そんな時代は、いま話題になっているディープラーニング技術がいくら発展しても(あるいは量子コンピュータの採用が進んでも)やってはこない。

  人口知能が人間の脳を超えるというシンギュラリティは2045年には到来と騒がれた。が、人間の脳だけを研究していてもシンギュラリティには到達不可能・・・ということに多くのAI研究者も気がついてきている。人間の脳だけを研究してもダメだというなら、いったい何を研究すればよいのか? 答は身体だ。感覚システムと運動システムをもつ物理的な身体、そしてそれと環境との相互作用についても研究をしなければいけない。

  身体性を有するAI、Embodied AIの登場だ。

  ディープラーニングとかニューラルネットワークといった用語を一般化した機械学習(機械学習はAIを実現するためのひとつの考え方でニューラルネットワークは機械学習のアルゴリズムのひとつ)の流れをつくった元をたどれば、1956年に米国で開催されたダートマス会議に行きつく。人工知能(Artifical Intelligence)という言葉はこの会議で初めて正式に定義された。ダートマス会議はAIという研究分野を確立した会議としてだけでなく、認知科学という学問を確立した会議としても有名だ。マービン・ミンスキー、ハーバート・サイモン、ノーム・チョムスキーといった心理学、神経科学、情報科学、言語学、哲学の分野におけるそうそうたるメンバーたちが参加していた(もっとも、言語学者、認知科学者として著名なチョムスキーはまだ28歳の若き研究者だった)。

  この会議において、人間の認知とは、外界にある対象を「知覚」し、それが何であるかを判断したり解釈したりする「記憶」「学習」「思考」を含むプロセスのことであり、外界の環境(物理的世界)の情報はシンボル(記号)に変換されルール(ロジック)に従って処理されるとした。つまり、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、認知活動は、ソフトウェアプログラムがコンピュータというハードウェアを動かすように、心(精神)が脳のなかで処理されることだと考えたのだ。こういった考えに基づいて、人間の脳の神経ネットワークを模倣するニューラルネットワーク技術のさらなる研究も促された。

  脳に知能(≒認知)が宿り、脳は人間の身体をコントロールするという考え方には長い歴史がある。古くは古代ギリシアのプラトンにさかのぼることもできるが、そこまでいかなくても17世紀の哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い出してもらえばいい。デカルトは、自分が存在しているのは自分の身体があるからではなく、自分の心があるからだと言っている。心(mind)と身体(body)は別のシステムで、心が身体をコントロールするとした二元論の考え方は、西洋、東洋を問わず現代人にも浸透している。だから、身体も心(脳)をコントロールしていると主張しても、すぐには信用してはもらえないだろう。

  1985年、米国の哲学者ジョン・ハアグランドは、70年代~80年代に進んだ新しいAI研究の流れを受けて、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、心が脳のなかで処理されるのだとしたダートマス会議の考え方を否定した。そして、外界の環境情報をシンボル(データ)に変換しルール(ロジック)に従って処理する機械学習等の手法を採用しているAIを古き良き時代(Good Old Fashioned )のAIと命名した。最近では、古典的AIと呼ぶ研究者もいる

  新しいAI研究は、人間の認知活動は脳の中だけで行われているわけではないとする。最新の神経科学、認知心理学や生理学の研究によって、脳は考えられていたほど全能ではないことがわかってきた。脳は、身体に指令を与えている以上に、身体から指令を受けている。あるいは、また、身体は脳とは無関係に自律的に行動をしていることが明らかになってきた。

  たとえば、最近TVで放映されたNHK特集「人体の神秘」で、脳が司令塔となり臓器を含む身体各所に様々な命令を出してコントロールするという通説が誤りであるという研究結果が相次いで発表されていることが紹介された。脳が内臓や筋肉、骨などに一方的に指令しているわけではなく、臓器同士がメッセージ物質を使って情報交換をしている。たとえば、腸が脳にこういった問題があるから適切な化学物質を放出するよう指令する(腸は第二の脳だとか、最近命名されるようにもなっているが、今の研究の流れでは、足や手も第二の脳と命名されるようになるだろう)。身体各所は、場合によって、脳に相談することなく自律的に行動をしていることも明らかになってきている。

  だから、本当の意味で人間の知能に近づくためには、AIにも身体性をもたせなくてはいけない

  だからといって、ホンダのアシモのようなヒューマノイド・ロボットをつくればよい・・・というわけではない。人間の身体に似せたロボットをつくっても、会話や動作、すべてが中央でプログラム化されているのでは、脳(コンピュータ)がすべてをコントロールするという古典的AIと同じ考え方になってしまう。

  身体性の意味をはっきりさせるために、古典的AIと身体性AI研究の歴史を簡単に説明してみる。

  知能が宿る脳が身体をコントロールするとした考え方は、長い歴史を通じて肯定されてきた。外界の環境情報は符号化されルール(ロジック)に従って処理されるというのは、正しい考え方に思える。機械学習のアルゴリズムは、人間の脳の無意識のプロセスを模倣していると説明されれば、さもありなんと納得してしまう。実際、こういった考え方に基づき開発されたAIは、明瞭なルールに基づく問題を解決する限りにおいて成功を収めた。音声認識、画像認識、将棋や囲碁といったゲームにおいて、データというシンボルからパターンを抽出するための統計計算処理速度においても、(古典的)AIは素晴らしい進歩を遂げた。符号化できる情報をロジックに基づいて処理することにおいては、これからも威力を増していくことだろう。

  だが、コンピュテーション(計算)はあくまで計算だ

  認知は脳の中だけにあるのではなく、人間が物理的世界を経験(感覚システムや運動システムを通じての経験)することに影響され決定されるという考えは20世紀初めからあった。が、それが実験的に裏付けられるようになったのは過去数十年のことだ。70年代になって、言語の多くは身体的経験(物理的環境との相互作用)から生まれている。言語は意味のないシンボルのつながりだというチョムスキーの言語学理論は、脳をコンピュータとみなすパラダイムには適しているかもしれない。が、実際とは違うのではないかと考える言語学者が出てきた。

  たとえば、「薬がのみこめない」と「意味がよくのみこめない」。身体的経験と認知的経験に同じ「呑む swallow」という言葉をつかっている。また、愛情の主観的判断は暖かさの感覚と一致する。だから、「赤ちゃんは母親のぬくもりを求める」とか「あの人は冷たい人だ」という表現がある。しかも、こういった言葉の使い方は多くの言語において、つまり多くの文化圏において共通している。ということは、人類の歴史からいってもかなり大昔にさかのぼることであり、それは、人類共通の同じ身体形態がもたらす同じ経験に基づいているからだと考えたのだ。

  考えたり感じたりすることは身体の状態に影響を受ける。たとえば、人間は嬉しいときには体を上向きにするし、悲しいときには下向き加減になる。だから、「気分が高揚する」「ハイな気分」「嬉しくて舞い上がった」「幸せで天にも昇る気持ち」とか、反対に、「気分が落ち込む」「気分が沈む」「ショックで浮かび上がれない」という表現が生まれるのだ。人間の身体が今の形態でなければ、幸福や不幸を表現する言葉は違うものになっていたと考える研究者もいる。

  身体的経験が認知の元になっている。つまり身体とその経験が知能に影響を与えていると考える研究者たちが認知言語学という新しい学問分野をつくりあげた。認知言語学のパイオニアとして著名なジョージ・レイコフは数学のような高次の認知を必要とするようなものでも身体の経験に基づいているとして、「Where mathematics comes from/数学はどこから来たのか(邦訳なし)」を2000年に出版した。そこには、実数や集合のような抽象的数学の概念でさえ身体性にその起源があると説明されている。

  やっと、ここから、Embodied AIの話になる

  チューリッヒ大学のAI研究室所長だったロルフ・ファイファーはAIの身体性の重要性を主張したパイオニアである。

  ファイファーによれば、身体性とは、「知能は常に身体を必要とするという考え方であり、正確に言えば、環境と相互作用することによって生じる振舞が観察できるような物理的実体をもつシステムだけが知能的である・・という考え方」だそうだ。どんなシステムでも、その行動は、たんに、たとえば脳の神経ネットワークのようなものが生み出すのではなく、そのシステムが存在する生態的ニッチ(たとえば生物が生息している特別な環境)や、自身の形態(身体の形、センサーやアクチュエータのタイプや設置場所)や材料特性の影響を受ける。

  たとえば、形態でいえば、人間の足は股関節で体につながっているために、歩くときには振り子のような行動をとる。その結果、安定性やエネルギーの効率を達成することができる。だから、歩くという課題には中枢神経によるコントロールはほとんど必要がない。また、人間の筋肉や腱は弾力性や柔軟性がある。なので、たとえば、右手でコップをつかむときには、通常、手のひらは左を向いている。だが、やろうと思えば、右手をねじって手のひらを右にしてコップをつかむこともできる。この無理な体制は、筋肉を弛緩させれば、自動的に自然な状態に戻る。この作業は神経にコントロールされているのではなく、筋腱システムの材料特性によってもたらされている。だが、固い材質からつくられているロボットの場合は、このような作業をするためには、複雑なプログラムによるコントロールを必要とする

  生物の身体は中枢神経によってのみ動いているわけではない、そして、身体性はAIの認知機能を向上させる。ファイファーは、この2点を証明するために、メカニカルシステムが歩行という低レベルの運動を重力とメカニカル構造だけで自律的に達成したいくつかの実験に注目した。

  そういった初期の実験のなかには、二本足のメカニカルシステム(脳無しロボット)が、モーター、センサー、そしてマイクロプロセッサーの助けもなく、斜面を歩く実験もある。傾斜があるということで重力だけがエネルギー源となる。足の長さ、足底の形、質量の配分といった数値の設定、また、バランスよく歩けるように足とは逆に振る腕の取り付け方といったメカニカル構造だけで課題を達成した。これは身体が環境との相互作用によって機能する良い例である。ただし、生態学的ニッチ、つまり、システムが機能できる環境は、特定の角度をもった斜面だけということで非常に狭いものだ。

  だが、このメカニカルシステムの腰関節をモーターが駆動することにより平地歩行が可能になる。脳なしロボットが平地を歩くことができたということだ。

  このように、身体性の基本は、ロボットに、環境と相互作用ができるように、センサーやアクチュエータ(たとえばモーター)をつけることだ。

  6本の足をもったゴキブリの動きを角度センサーとメカニカル構造で実現したロボットもある

  もともと、ゴキブリのような昆虫の場合、歩行する足の動きは中央の神経システムから独立していて、足にある神経回路だけで制御されている。地面に立っているゴキブリが一本の足を後ろへと押し出すと、地面についているすべての足の関節角度が瞬時に変化して胴体は前に押し出され、結果的にほかの足は前方に引っ張られて、その関節は曲がったり伸びたりする。昆虫の関節には、変化を図るための角度センサーがついていて、それが足の神経回路に足の詳細な位置情報を伝達し、地面のどこを足場とすべきかを教えてくれるのだ。

  ゴキブリを模倣したロボットの足には電気回路とセンサーが配線され、1本の足が動くと、他の足は曲げるか伸ばすかの信号を受け取る。それぞれの足の位置を計算し指令を送るような中央コンピュータの制御なしに、ゴキブリロボットは環境との相互作用と自律的なサブシステムによって歩行する。

 メカニカルシステムが、このような低レベルの課題を自律的に達成できることを実験で証明してから、次に挑戦したのは、身体性あるAIが、より高度な認知を必要とする「分類」という課題を果たすことができるかどうかだ。この場合は、触覚や視覚といったセンサーをもつシステムが動きながら環境と相互作用をすることで、写真を使った画像認識より優れた分類ができることを証明した。

  たとえば、サイズが違う木の円柱(大と小)を画像認識で区別することは、つまり視覚だけで識別することはむずかしい。だが、身体性ロボットが円柱の周りを動くことで、角速度(ある点をまわる回転運動の速度)の数値を得ることができる。これが古典的AIだと、センサーから画像データを受け取り、蓄積保存していた画像情報と比較しパターン認識をする。だが、グーグルにしてもフェイスブックにしても、画像データベースにアップロードされている写真の多くは不完全な状況(距離とか照明、角度、その他)で撮影されたものだ。結果、誤った判断がなされることがある。身体性をもったAIの場合では分類化はより正確になされることを、この実験は証明した。

  以上紹介した実験からみてもわかるように、身体性AIが人間の知能に近づくにはまだまだ長い道のりを進まなくてはいけないようだ。

  いずれにしても、シンギュラリティの問題とは、AIが人間の知能を超えて人間にとって危険なものになる可能性がある・・・という意味にとるべきではないだろう。そうではなくて、計算能力が非常に高くなったAIに恣意的に、あるいはうっかりして誤ったデータを入力する。あるいは、恣意的に問題あるプログラムを組み込んだりする。こういった人間が存在することにより、古典的AIが社会を大きな危機に陥れる可能性がでてくる・・・という意味に理解したほうがよい。結局は、人間が恐れるべきは、AIではなく人間なのだ。

   雇用の問題においても、身体性のない古典的AIが人間から奪える仕事には限りがある。

   最後につけ加えると、身体性を持ったAI研究ではロボティックス(ロボット工学)が中核となる。この分野は、日本もまだ先端を走っているし、「ものづくり」のノウハウが生かせる分野だ。古典的AIでは米国企業に追いつくことは無理でも、身体性AIならまだ頑張れるかもしれない。

参考文献: 1.R・ファイファー、J.ボンガード「知能の原理」共立出版、2.Katrin Weigmann, Does intelligence require a body?, EMBO reports 11/12/2012 3. Samuel McNerney, A Brief Guide to Embodied Cognition:Why You Are Not Your Brain, Scientific American, 11/4/2011, 4. 特集AIの身体性、日経サイエンス2018年8月号 5.Luc Steels, Fifty Years of AI: From Symbols to Embodiment-and Back,LNAI 2007 6.楠見孝、心のメタファと身体性:認知心理学の立場から、理論心理学研究2015、7. George Lakoff, Mappping the brain's metaphor circuitry: metaphorical thought in everyday reason, Frontiers in Human  Neuroscience , December 2014、8.Fred Delcomyn, Marke E. Nelson, Architectures for a biomimetic hexapod robot, Robotics and Autonomous System 30, 2005

Copyright 2019 by Kazuko Rudy.All rights reserved