2023年11月 8日 (水)

新刊「男子系企業の失敗」が発売されます!

 11月10日に、日経プレミアシリーズから「男子系企業の失敗」が出版されます。

 購買する前にどういった内容の本か知りたいというご要望にお応えするために、「まえがき」と「目次」を紹介させていただきます。「まえがき」を読んで、面白そうかも?と思っていただければ、それだけでも嬉しいです。実際に本を手に取って読んでいただければ、もっと嬉しいですけど・・・。

        

ま え が き

  な ぜ 、 日 本 企 業 は 現 状 維 持 志 向 が 強 い の だ ろ う か 。 な ぜ 、 日 本 の 経 営 者 は 改 革 と い う 名 の も と に 改 善 型 経 営 に 徹 し て き た の だ ろ う か 。

 安 倍 晋 三 元 首 相 も 「 日 本 人 の 面 白 い と こ ろ は 、 現 状 変 更 が 嫌 い な と こ ろ で す 」 と 発 言 し て い た よ う に 、 日 本 人 は 他 国 に 比 べ て 、 現 状 維 持 バ イ ア ス が 強 い の だ ろ う か 。

 な ぜ 、「 日 本 の 経 営 者 は 無 能 だ 」 と 海 外 か ら 批 判 さ れ る の だ ろ う か 。 一 流 大 学 を 出 て 論 理 的 思 考 に も 長 け て い る は ず の 経 営 者 が 、 な ぜ 経 営 者 失 格 と ま で 言 わ れ る の だ ろ う か 。

 ソ フ ト バ ン ク グ ル ー プ の 孫 正 義 氏 は 、「 日 本 の 人 々 の 素 晴 ら し さ は 心 の 純 粋 さ に あ る と 思 い ま す 。 純 粋 さ が 単 な る 真 面 目 で 終 わ る こ と が 多 い の で す が … … 」 と 発 言 し て い る 。「 真 面 目 さ 」 と 「 無 能 さ 」 に は 何 ら か の 関 連 性 が あ る の だ ろ う か 。

 こ う い っ た 素 朴 な 疑 問 が 、 こ の 本 を 書 く き っ か け と な っ た

 疑 問 へ の 答 え を 見 つ け る た め に 行 動 経 済 学 や社会心理学 の 最 近 の 研 究 を 調 べ て い る な か で 、 日 本 人 の 現 状 維 持 バ イ ア ス の 強 さ が 日 本 の 「 男 社 会 」 と 深 い 関 係 に あ る こ と が わ か っ た 。 そ し て 、「 同 質 性 の 高 い 集 団 」 と 「 真 面 目 さ 」 や 「 無 能 な 経 営 者 」 と の 関 係 も 明 ら か に な っ て き た 。

 第 2 章 や 第 3 章 で い く つ か の 調 査 や 研 究 に も と づ い て 説 明 す る よ う に 、 日 本 企 業 の 男 性 中 心 の 同 質 性 集 団 が 、 現 状 維 持 志 向 を も た ら す 要 因 の 1 つ で あ る こ と が 明 ら か に な っ た 。 ま た 、 1 9 8 0 年 代 に 始 ま っ た と 言 わ れ る 日 本 企 業 の 組 織 の 劣 化 も 、 同 質 性 が 原 因 と な っ て い る こ と も 明 ら か に な り 、 そ の 同 質 性 こ そ が 無 能 と 言 わ れ る 経 営 者 を 育 て た こ と も わ か っ て き た 。

 現 在 、 企 業 は 、 多 様 性 を ス ロ ー ガ ン に 組 織 構 成 を 変 え よ う と し て い る 。 多 く の 経 営 者 や 男 性 社 員 は 、 機 関 投 資 家 を 含 め た 外 圧 に 対 応 す る た め に 多 様 性 を 取 り 入 れ な け れ ば い け な い と 考 え て い る 。

 そ し て 表 向 き に は 、「 多 様 性 は イ ノ ベ ー シ ョ ン を も た ら す 」 と 言 っ て い る 。 だ が 、 イ ノ ベ ー シ ョ ン は そ う 簡 単 に も た ら さ れ る も の で は な い 。 第 3 章 で も 紹 介 し て い る が 、 多 様 性 の あ る組 織 を 経 営 す る の は 面 倒 な も の だ し 、 多 様 性 の あ る 職 場 で 働 く こ と も 面 倒 な 一 面 が あ る 。

 多 様 性 を う ん ぬ ん す る 前 に 、 日 本 企 業 は 、 こ れ ま で の 男 性 中 心 の 同 質 性 集 団 が ど う い っ た 弊 害 を も た ら し て き た か を 、 ま ず 理 解 し な く て は な ら な い 。 同 質 性 集 団 は 日 本 の 戦 後 の 雇 用 制 度 の 産 物 だ 。

 な か で も 、 1 9 6 0 年 代 か ら の 、 新 卒 大 量 一 括 採 用 が 組 織 の 同 質 度 を 急 激 に 高 め た 。 そ の 結 果 、 現 状 維 持 バ イ ア ス の 高 い 経 営 者 が 数 多 く 生 ま れ て し ま っ た 。 そ し て 1 9 8 0 年 代 前 半 に は 、 企 業 組 織 の 不 活 性 化 が 始 ま っ た 。   

 第 4 章 に は 「 男 性 中 心 の 同 質 性 集 団 」 が も た ら し た 弊 害 を い く つ か 挙 げ た 。 そ の ほ と ん ど が 、 日 本 企 業 で 働 く 誰 も が 「 う ち に も あ る 」 と 納 得 す る も の ば か り の は ず だ 。 が 、 な か に は 、「 想 定 外 の 弊 害 」 も あ る 。 た と え ば 、 日 本 女 性 の 社 会 進 出 が 遅 れ た の は 「 家 庭 内 で の 主 婦 の 力 が 強 い か ら 」 と い う 説 が あ る 。 ち ょ っ と 驚 く 意 見 か も し れ な い が 、 企 業 の 「 男 社 会 」 が 家 庭 で の 女 性 の 地 位 を 高 め た と 指 摘 す る 学 者 や 有 識 者 が い る こ と は 事 実 だ 。

 最 終 章 で は 、 日 米 に ま た が る 調 査 や 研 究 に も と づ い て 、「 真 面 目 」 に つ い て 考 え て み た 。 そ し て 、 日 本 の ビ ジ ネ ス パ ー ソ ン が 陥 り や す い 認 知 能 力 一 辺 倒 の 考 え 方 が 、 真 面 目 な だ け で 終わ っ て し ま う 会 社 員 や 経 営 者 を 生 む の で は な い か と 結 論 づ け た 。

 「 失 わ れ た 30 年 」 を も た ら し た 原 因 は 同 質 性 男 性 集 団 に あ る と 、 女 性 の 私 が 指 摘 す る こ と は 、 あ る 意 味 、 当 然 の こ と か も し れ ま せ ん 。 な ぜ な ら 、 集 団 に 関 す る 認 知 バ イ ア ス の せ い で 、 集 団 の メ ン バ ー は 、 自 分 の 集 団 が 同 質 性 が 高 い こ と や 、 そ れ が も た ら す 弊 害 に は 気 づ か な い 傾 向 が 強 い か ら で す 。

  女 性 の 観 点 か ら の 「 日 本 企 業 の 組 織 や 経 営 」 批 判 だ と 思 っ て 、「 怖 い も の 見 た さ 」、 あ る い は 、「 珍 し い も の 見 た さ 」 と い っ た 好 奇 心 を も っ て 楽 し ん で 読 ん で い た だ け れ ば と 願 っ て お り ま す 。 そ し て 、 仕 事 上 で 役 立 つ ア イ デ ア と か ヒ ン ト を 少 し で も 得 て い た だ く こ と が で き た と し た ら 、 著 者 に と っ て は こ れ 以 上 な い 喜 び と な り ま す 。       

                               ルディー和子

 

目 次

第1章 日 本 企 業 、30 年 不 変 のシステ ム

  • 「 サ ラ リ ー マ ン 社 長 」は 日 本 の 誇 り か
  • 男 性 中 心 集 団 の 現 状 維 持 バ イ ア ス
  • 自 社 シ ス テ ム は 、誰 も 知 ら な い ブ ラ ッ ク ボ ッ ク ス
  • 「 昭 和 お じ さ ん の 暗 黙 知 」に 関 す る 考 察
  • 強 い 現 場 と 弱 い シ ス テ ム 部 門 が 生 む ゆ が み
  • そ の 業 務 プ ロ セ ス 、固 執 す る ほ ど 有 効 で す か ?
  • 改 革 で コ ス ト の 大 幅 削 減 … … で き な い 理 由
  • 外 者 排 除 の 心 理 が「 丸 投 げ 」に つ な が る
  • IT 化 と 終 身 雇 用 は 相 性 が 悪 い
  • 無 意 識 の う ち に 内 集 団 の 同 質 性 を 守 る

第2章 男らしく、リスク回避的は宿命か

  • 経 営 者 も 従 業 員 も 変 わ り た く な い 日 本 企 業
  • 明 晰 な エ リ ー ト ほ ど 無 自 覚 な 認 知 バ イ ア ス
  • 社 長 の 周 囲 に 、イ エ ス マ ン が 集 ま る 科 学 的 必 然
  • 損 失 回 避 性 と い う 最 大 級 の バ イ ア ス
  • 経 営 者 の 本 能 的 感 情 が 新 規 投 資 を 妨 げ る
  • 恐 れ を 感 じ た 脳 に よ る 瞬 時 の 指 令
  • 生 存 率 を 高 め る た め の 霊 長 類 の 共 通 記 憶
  • 投 資 家 も 経 営 者 も オ マ キ ザ ル も 、損 失 回 避 性 に 影 響 さ れ る
  • な ぜ 戦 後 の 日 本 人 は チ ャ レ ン ジ で き た か
  • 国 民 文 化 と 損 失 回 避 係 数 と の 相 関 性
  • 「 男 ら し い 国 」ほ ど 損 失 回 避 性 が 高 い
  • 競 争 心 と 攻 撃 性 が 出 世 欲 に 向 け ら れ る
  • 現 状 維 持 バ イ ア ス を 生 む 脳 の 仕 組 み
  • 日 本 人 に 埋 め 込 ま れ た 危 険 回 避 の 遺 伝 子
  • 男 性 ホ ル モ ン ・ レ ベ ル で 投 資 行 動 が 変 わ る
  • 不 安 を 強 く 感 じ さ せ る 遺 伝 子 の 存 在
  • S 型 遺 伝 子 で 投 資 行 動 が 変 わ る
  • 感 染 症 か ら 自 ら を 守 る 特 質 を 獲 得 し た 祖 先 たち

第3章「 し が ら み 」とい う 戦 略 的 互 恵 関 係

  • リ ー マ ン ・ ブ ラ ザ ー ズ & シ ス タ ー ズ だ っ た ら …
  • 「 私 の 組 織 の メ ン バ ー は 個 性 豊 か 」の 誤 謬
  • 新 卒 大 量 一 括 採 用 が 決 定 的 ブ ロ ー
  • 80 年 代 か ら 日 本 企 業 が 劣 化 し た 原 因
  • 高 度 成 長 期 に は 同 質 性 組 織 が 有 効
  • 「 女 性 が 入 る 会 議 は 長 い 」発 言 と 男 性 内 集 団 の 規範
  • 従 業 員 の 満 足 度 は 多 様 性 集 団 で は 低 く な る
  • サ ラ リ ー マ ン 社 長 に は 重 す ぎ た 課 題
  • お 約 束 の 謝 罪 会 見 、経 営 者 の 本 音
  • 「 し が ら み 」と い う 戦 略 的 互 恵 関 係
  • 会 社 の し が ら み 構 造 を 破 壊 で き る の は 誰 か
  • 嫌 い な 上 司 、同 僚 が い て も 会 社 を や め ら れ な い
  • 男 性 社 員 に は 本 音 で 同 情 す る
  • 男 性 集 団 と 女 性 集 団 に 違 い は あ るか

第4章 男 子 系 組 織 が も た ら す 想 定 外 の 弊 害

  • 東 芝 の 権 力 争 い は 男 性 だ か ら 起 き た の か
  • 女 性 は 競 争 を 敬 遠 し 、男 性 は 競 争 し す ぎ る
  • 自 信 過 剰 が 男 性 を 競 争 さ せ る
  • 名 誉 欲 が も た ら し た 20 万 人 の 悲 劇
  • 「 リ ー マ ン ・ シ ス タ ー ズ 仮 説 」を 検 証 す る
  • 女 性 首 相 の 国 ほ ど 、コ ロ ナ 対 策 に 優 れ る 傾 向
  • 世 間 の 空 気 を 読 め な い 男 性 同 質 政 権
  • 女 性 が 女 性 ら し さ を 発 揮 で き な い 集 団
  • な ぜ 夜 の「 会 食 」に こ だ わ る の か
  • オ ー ル ド ・ ボ ー イ ズ ・ ネ ッ ト ワ ー ク は 汚 職 の 温 床 ?
  • 女 性 の 社 会 進 出 が 遅 れ た の は 、家 庭 で の 地 位 が 高 い から
  • 労 働 者 で は な く 消 費 者 で あ り つ づ け る 日 本 の 女 性
  • 女 性 リ ー ダ ー の 特 徴 は 自 信 の な さ
  • 部 下 と の 合 意 形 成 を 重 視 す る 女 性 管 理 職
  • 「 国 を 率 い る 力 が な い 」と 言 っ て 辞 任 し た 首 相

第5章 同質性集団が繰り広げる同質的競争

  • 日 本 人 は 模 倣 民 族 、そ れ と も 消 化 吸 収 す る 民 族 ?
  • 赤 信 号 、み ん な で 渡 れ ば こ わ く な い 心 理
  • 日 本 企 業 の 行 動 は 戦 略 で は な く 、反 応 で あ る
  • 業 界 外 の 動 き に 鈍 感 だ っ た 日 本 の 経 営 者 た ち
  • 「 他 社 も や っ て い ま す 」が 、社 長 説 得 の 最 強 の 材 料
  • 百 貨 店 業 界 が 衰 退 し た 通 説 的 な 原 因
  • 百 貨 店 業 界 が 衰 退 し た シ ン プ ル す ぎ る 真 因
  • 人 口 問 題 を 真 剣 に 考 え な か っ た 経 営 者 たち 
  • 衰 退 後 も つ づ い た「 横 並 び 」の 経 営 改 革
  • マ ス 市 場 か ら 脱 却 で き な か っ た 百 貨 店 や ア パ レ ル メ ー カ ー
  • な ぜ 日 本 企 業 は マ ス 市 場 を 捨 て ら れ な か っ た の か
  • 雇 用 維 持 と 世 界 最 低 な エ ン ゲ ー ジ メ ン ト の 矛 盾
  • 働 く 人 に 対 す る 、経 営 者 の 真 の 責 任

最終章 素 人 の 経 営 を 脱 す る 究 極 の 感 情  

  • 「 外 れ 者 」を リ ー ダ ー に す る 効 用
  • 後 継 社 長 指 名 の 難 し さ と 解 決 法
  • 日 本 企 業 を 率 い る 経 営 の 素 人 た ち
  • 細 か な 数 字 と 施 策 に ま み れ た 経 営 計 画
  • 戦 略 理 論 を 知 ら な い 失 敗 は 、時 間 の 浪 費
  • マ ー ケ テ ィ ン グ 感 性 の な い 経 営 者 が 多 すぎる
  • 感 性 は 知 識 の よ う に は 学 べ な い
  • 外 者 を 恐 れ 、 ル ー ル の 順 守 を 苦 に し な い 私 た ち
  • 誠実・勤勉な人は結果を出し、外向的な人は昇進する
  • 日 本 の 会 社 員 は 「 協 調 性 」 だ け が 磨 か れ る
  • IQよりも社会での成功に相関する非認知能力
  • 多様性の高い職場が育てる非認知能力
  • 決断力と実行力のない日本の「真面目」な経営者
  • 会 社 買 収 は で き る の に 、 な ぜ 事 業 売 却 は で き な い の か
  • 感情的勇気を醸成する多様性のある職場

「男子系企業の失敗」amazonサイトへ

2021年9月12日 (日)

日本でビミョーに誤解されているSDGとかESG

  私は、SDGとかESGといった頭文字言葉の順番をよく間違えて、SGDとか言ってしまう。Sustainable Development Goalsという元の言葉を思い出せば順番を間違えることなどないだろうと言う人がいるかもしれないが、いちいち、元の言葉を思い出していたら、時間短縮という頭文字を使うそもそもの理由がなくなってしまう。・・・ということで、最近は、SDGやESGどっちにも当てはまるサスティナビリティという便利であいまいな言葉を使うようにしている。

  基本的に、注目されている言葉とか考え方にいちゃもんでもつけようかとブログを書いているので、この2つの言葉についてブログを書くことはないだろうと思っていた。環境とか人権とか平等とかいった内容にいちゃもんをつけることはできない。だが、最近、優等生イメージのある2つの言葉にも疑惑とか批判が投げかけられるようになっているので、さっそく調べてみた。

  が、その話をする前に、まず最初に、日本で多くみられるSDGへの誤解について書いてみます。

  誤解される原因は、SDGs(Sustainable Development Goals)が「持続可能な開発目標」と翻訳されていることにある・・・と私は思っています。

  国際連合広報センターの日本語訳の文章では、「持続可能な開発目標(SDGs)とは、すべての人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための青写真です。貧困や不平等、気候変動、環境劣化、繁栄、平和と公正など、私たちが直面するグローバルな諸課題の解決を目指します」と説明されている。

  この説明に問題はない。

  だが、「開発」という言葉をみると、気候変動とか環境劣化に関連して、こういった問題を起こさないような開発の仕方をしなくちゃいけない・・・という思考になって、頭に浮かぶのは、森林開発とか、サンゴ礁のある島の観光開発とか・・・。最近、日本で頻発している土砂くずれ災害も、気候温暖化からくる豪雨が直接の原因だとして、無計画な山林開発が被害を大きくしていると非難された。

  SDGsには17の目標があり、各目標に数項目のターゲットがあり、全部で169のターゲットが挙げられている。SDGというと「環境」がすぐに思い浮かぶが、実は、17ある目標のうち、環境を中核としているのは5つだけ・・・6.「水と衛生」、7.「クリーンエネルギー」、13.「気候変動」、14.「海の生態系」、15.「陸の生態系」。残りは、貧困,飢餓、健康、教育、平等・・といったように「人類の発展」というか「社会の発展」を目標とするものになっている。たしかに、目標12の「責任ある生産と消費」のように、「環境問題」に関連するターゲットが記されている目標は他にもいくつかある。が、それよりも、経済発展を基盤とする社会の発展に関するターゲットのほうが数は多い。

  日本でSDG=環境問題となっているのは、developmentを開発と翻訳してしまっているからではなかろうか? developmentとは経済成長の意味なので、成長とか発展と訳すべきだった。

  そもそも、Sustainable Developmentという言葉は、1987年に国連の「環境と発展に関する世界委員会」が公表した(委員長の名前をとってブルントラント・レポートと呼ばれる)報告書で使われ、その後、広まって一般的に使われるようになった。

  この委員会がつくられた背景を説明すると、80年代にグローバル化が進み、発展途上国に先進国企業が進出することで、発展途上国での公害、酸性雨、森林破壊が進み問題となった。貧困に悩む低所得国にとっては、経済発展のためには環境劣化もやむなしの考え方が基本にある。ブルントラント・レポートは、グローバルな経済成長と環境保護の両立を目指すものであり、それは、経済成長(Economic Development)をサスティナブルな成長(Sustainable Development)に再定義することで達成されるとした。「サスティナブルな成長とは、将来世代の必要性に応える能力を損ねることなく、現代の必要性をも満足させることができる経済成長である」と定義された。

  ブルントラント・レポートの延長上にあるSDGは、持続可能な未来をつくるためには経済成長が必要だとし、GDPが毎年どのくらい成長しなければいけないかというターゲット数値まで出している。たとえば、目標8「働きがいのある仕事と経済成長」のターゲット1には、「各国の状況に応じて、一人当たり経済成長率を持続させる。とくに、後発発展途上国は少なくとも年率7%の成長率を保つ」と明確に書かれている。

  SDGの目標1の「貧困をなくす」のターゲット1には、「1日1.25ドル未満で暮らす極度の貧困層をなくす」、ターゲット2には「2030年までに各国定義による貧困常態にあるすべての人々の割合を半減する」というように具体例が挙げられている。こういった具体例に基づき、SDGの17の目標を達成するためには、一人当たりのグローバルGDPが毎年どれだけ成長しなくてはいけないかを計算した論文がある。ロンドン大学経済人類学者のジェイソン・ヒッケル教授の計算によると、2030年までに、グローバル経済は毎年3%成長する必要があるそうだ。

  SDGの17の目標は、たんに、環境劣化を防ぐための目標を示しているわけではない。そうではなくて、「人類や社会の成長」にかかわる12の目標を達成するためにはグローバル経済成長が必要であるとして、30年までにグローバル経済がどれだけ成長すべきかの目標をかかげた。そのうえで(経済成長が環境問題を引き起こすことを承知のうえで)、環境をこれ以上劣化させないために何をすべきかの5つの目標をかかげたのだ。

  SDGは、世界経済と生活世界とのバランスを取り戻すための目標なのだ。

  だが、日本では、そう言った観点からSDGを語ることはあまりない。Sustainable developmentを「持続可能な開発目標」ではなく、「持続可能な(経済)成長目標」と日本語訳していれば、そういう勘違いは起こらなかったかも・・・。

 

  • 北欧はサスティナビリティの優等生ではない

  2015年9月、世界経済と生活世界とのバランスを取り戻すことを目的に、193の国連加盟国がSDGs行動計画を採択した。その5年後、各国がSDGの目標をどのくらい達成しているかを明らかにする指標として、SDGインデックスなるものがつくられた。

  そのランキングを見ると、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ノルウェイといった北欧を中心とした欧州諸国がトップに並ぶ。その結果として、北欧は環境問題では優等生といったイメージが出来上がっている。が、皮肉なことに、インデックスで上位の国は、環境のサスティナビリティにおいては世界で下位に並ぶ国でもある。

  たとえば、第1位のスウェーデンは、SGDインデックスは84.7だが、スウェーデンのマテアリアル・フットプリント(消費された天然資源総量)は国民一人当たり32トン。グローバル平均は一人当たり12トンだから米国と並ぶくらい最大クラスのものだ。フィンランドもSGDインデックスは83.77で第3位だが、フィランドのカーボンフットプリント(二酸化炭素排出量)は年間一人当たり13トンで石油大国サウジアラビア並みの水準だ。中国やインドは二酸化炭素の最大排出国だとやり玉に挙げられるが、それは人口が多いからで、中国のカーボンフォットプリントは一人当たり7トンでインドは2トン以下だ。

  えっと思う人も多いと思う。だが、SDGインデックスで上位に並ぶ国は、天然資源消費量、二酸化炭素排出量、土地利用や窒素などの化学物質の排出量といった点でも、人口比で各国に許されている範囲を大幅に超過している。

  どうして、こういった国がサスティナビリティのレベルが高いということになっているのか?(実際には違うのに)。

  雑誌「Foreign Policy」2020年9月号に発表されたSDGsインデックスを批判した記事を読むとその理由がよく理解できる。

  理由は、すでに述べたSDGの構造にある。

  SDGは17の目標によってつくられており、各目標ごとにターゲットがいくつかある。インデックス・スコアの算出に当たっては、最初にターゲットごとの達成度を評価する。たとえば、前述した例でいえば、目標3の「健康」のターゲット1には「2030年までに、世界の妊産婦の死亡率を出生10万人当たり70人未満に削減する」と記されているから、各国の達成度は簡単に計算できる。次に、各ターゲットの平均を算出して目標ごとの点数を出す。そして、目標ごとの点数の平均値がその国の点数となる。

  このスコア算出プロセスは適切なように見えるが、実は、そこに大きな問題がひそんでいる。そのうちの2つを紹介しよう。

  1. 17の目標のうち環境関連は5つだけ。それ以外の目標は貧困、教育、平等などで、経済的に発展している国の点数は高くなる。環境関連の5つの項目でスコアが落ちても、北欧のような先進国であればで、結果として上位に躍り出る
  2. 環境に関する数値には国際取引の要素が考慮されていない。例えば大気汚染とか水質に関する項目を見ると、概して富裕国の点数は高い。だが先進諸国は1980年代以降、汚染源となる産業部門の工場を次々と国外に移転させており、結果として汚染も国外に追いやっている。森林破壊や魚の乱獲についても同じようなことが言える。こうした問題の多くは貧困国で起きているが、その原因は裕福な国々の過剰消費にある。途上国は先進国から環境破壊を輸入し、結果として、それを輸出している先進国のインデックスの順位は上がる。

  経済成長と生態系のサスティナビリティとはトレードオフの関係にある。だから、両者ともに発展させようというSDGsの考え方は矛盾しているという批判も多い。生産性とかテクノロジーが進歩すれば、矛盾した二つは共に発展してくれるはず・・・という希望は理解できるが、理想通りには進んでいない。とくに、パンデミックスによって、低所得国が年率7%の成長率を維持するというSGDの目標8はもはや不可能だ。経済成長と生態系サスティナビリティとを切り離し、SDGは環境だけに専念したほうがよいという意見も多くなっている。

  • ESG投資への疑惑や批判

  SDGは各国政府や地球に住む人間一人一人が目標とするものだが、それに対してESGは民間企業が取り組むべき課題だとされる。そのぶん、目標の的が絞られ、企業経営に深く関係した内容となっている。

  企業が環境(Environment)と社会(Social)とガバナンス(Governance)の課題に真剣に取り組んでいるかどうかを監視するのは投資家(株主)だ。投資家は企業価値を評価し判断するのに財務指標だけでなく、その企業の環境や社会への貢献度まで考慮するようになってきている。

  ESGに配慮した経営をしている企業に投資すれば、環境や社会のためにも良い結果を得られるだけでなく、そういった会社に投資する投資家も儲かる・・・ということで、ESG投資ファンドを運用したり販売する会社が増えている。だが、ここに問題がある。ESGに真摯に取り組んでいる会社の業績が良くなり株価も上がるという保証はない。そのため、最近では、ESG投資に対して様々な批判も登場するようになっている。

  が、その話はあとまわしにして、最初にESG投資の簡単な歴史を紹介します。

  ESGはSDGから派生したように思われているが、実際には、投資判断するときに、非財務データをも考慮するという考え方は、米国では1920年ごろに始まっている。米国の教会が信者からの寄付を中心とする資産を投資するときに、アルコール産業など道徳的でない企業をポートフォリオから削除するようにしたのは、その始まりと考えてもよいだろう。

  そして、90年代から2000年代にかけて、CSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)の考え方が広まるようになり、2000年代に不正会計が発覚して倒産したエンロン事件後、ガバナンス(企業統治)に厳しい監視の目が注がれるようになる。

  こういった歴史をへて2006年、国連のリーダーシップのもとに、世界的機関投資家たちが責任投資原則(Principles for Responsible Investment、略してPRI)を策定した。PRIは、責任ある投資とは、投資判断のなかに、環境、社会、ガバナンスといったESGの要素を取り入れた戦略や実践をすることだと定義している。2020年には、PRIに署名した機関数は3470機関におよび、その運用資産総額は約100兆ドル(おおよそ1京円)になる。 

  ESGという言葉は、このPRIの序文に登場し、その後、一般的に広まるようになった(だから、ESGはSDGよりも歴史が長い。まあ、ただのウンチクで、どっちでもいいことだけど)。

  ESG経営をしている企業に投資すれば、社会に貢献することになる。しかも、ESG経営をしている企業は長期的に利益を生み出すので、「そういった企業の株をあなたの投資ポートフォリオに入れれば、パフォーマンスは向上しますよ」という売り言葉が使われるようになり、ESG投資への人気が急上昇した。

  20年のESG投資額は約3900兆円で、世界の投資マネーの約4割に達する(世界持続的投資連合調べ)。日本でも、Quick 資産運用研究所調べでは、1999年以降に発売されたESGやSDG、環境などの名称を含む投資信託の純資産残高は3.9兆円で、そのうちの7割の2.7兆円を20年以降の投信が占めるという。

  だが、投資家にも社会にもウィンウィンの結果をもたらす証拠して示されたデータ、つまり、ESGファンドは伝統的なファンドよりも財務的に優れた成績を出しているとして示されたデータの正当性が、最近になって、ゆらいできた。投資運用会社がグリーンウォッシュ(環境配慮をしているように装いごまかすこと)していることが暴露されたのだ。たとえば・・・

  1. ビジネス誌「エコノミスト」(21年3月22日号)によると、世界最大の20本のESGファンドを調べると、どのファンドも平均して17の化石燃料の生産者を含み、6つのファンドが米国最大の石油会社であるエクソンモービルに投資しており、2つが世界最大の原油生産者であるサウジアラモコに出資しており、1つは中国の石炭鉱業会社を所有していた。
  2. ブラックロック(世界一の資産運用管理会社)のサスティナブル投資を率いていた元担当者も、「多くの同業者は、売りやすいようにESGという名前を付けてはいるが、実際には、石油会社とかファストファッションの会社の株を入れることで株価を上げるように工作していた」と暴露している。「ウォールストリートは社会善を追求することは利益にも良いという概念を広めたが、それは希望的観測だ。マーケティングの誇大広告で不誠実な約束だった」。環境に貢献することは利益をもたらすという理想は現実的ではなかったとも言っている。
  3. ESGファンドの多くは、 Apple, Microsoft, Amazon, Facebook, Google そしてTeslaといったビッグテックの株を組み入れている。デジタル企業は製造業より環境負荷が少ない(特にカーボンフットプリント)と一般的に思われているから、こういった株が含まれるのは理解できる。だが、また、こういった ビッグテックの近年の成長率は高いわけだから、こういった会社の株が含まれたファンドの成績が良いのは当然のこと。だから、ESG経営をしている企業の業績が良いと結論づけるのはおかしい。

  以上のことからも、ESG経営が長期的に利益を計上し続けることができるかどうかにも疑問が出てきている。というか、ESG経営をしているから長期的に利益を計上できるという結論は論理的に導き出されない。

  経済・金融情報サービス会社「ブルームバーグ」の報告(2021年5月)によると、日本のGRIF(Government Pension Investment Fund 日本の厚生年金、国民年金といった公的年金の管理運用を行っている年金積立金管理運用独立行政法人。その規模は192兆円を超え世界最大の年金基金となっている)は、「受託責任(資産の運用に携わる者が受益者に負うべき責任)を考えるとESGに良いことをしているからといって、パファーマンスを犠牲にして、その株や債券を買うことはできない」と語ったそうだ。

  GRIFは日本の高齢化社会を支えるために賃金上昇率プラス1.7%のリターンを確保することが要求されている。が、たとえば、GRIFが最初のころ買ったESG関連インデックスファンドのパフォーマンスはTopixインデックスファンドに比べて劣るものだった。ブルームバーグの記事は、「EUや米国が環境問題に多大な予算を計上しているなか、ESGファンドはテーマ別ファンドでは注目を集めるファンドではあるが、世界最大の年金基金が慎重になっているのをみてもわかるように、リターンの観点からみたら、現実的にならざるをえない。主義や信条だけではやっていけない」とつづけている。

  米国労働省も、2020年の10月に、ESG投資を念頭に、民間年金基金は受益者の引退後の生活を支えるという最重要使命から気をそらしてはいけないというルールを発表している。                                                          

  企業のほうでも、ESG投資に力を入れている機関投資家の要求ばかりを聞いてはいられないという気持ちが出てきたようだ。

  ESGファンドに最も一般的に含まれているビッグテックの、マイクロソフトやアルファベットが、10-k年次報告書にESG関連情報は含まれるべきではないとSEC(米国証券取引委員会)に2021年6月に要請している。その理由として、ESG関連情報は、財務情報とかリスク情報の開示とは異なり不確実要素に左右されることが多く、その結果、会社が法的リスクにさらされる可能性が高くなるというのだ。ファイスブック、インテル、セールスフォースといった会社も同様の要請をSECにしている。

  最近では、P&Gのように、ESG経営が最終利益を脅かすリスクになる可能性があると投資家に警告する会社も登場してきている。P&GはSECに最近提出した10-k年次報告書において、ESG事項を「法律や規制上のリスク」に付け加えた。

  ESGに関連する課題に社会や政府の監視の目が厳しくなるうえに、新たに要求される報告義務が加わることで、収益に悪影響を与えるリスクが高くなるというのだ。

  やっと、常識が戻ってきた感じだ。

  ESG的に正しい経営をしているから、利益を長期的に生み出すことができる・・・とするのは、論理的飛躍だ。たしかに、二酸化炭素排出量を減らすテクノロジーやプラスティック再生関連テクノロジーで革新的発明をした企業なら、環境に良いことをすることで急成長することは可能だ。また、消費者を対象に商売しているB2C企業の場合、ESG、とくに環境に良いことをしていると消費者にアピールするのに成功し、競合他社からの差別化に成功すれば、「あの企業が売っている商品やサービスを選択しよう」と思ってもらうことができるかもしれない。結果、ESG経営でより高い利益を継続的に上げることができるかもしれない。

  だが、基本的に、環境問題に積極的に取り組もうと思えば、かなりの投資を必要とし余分のコストがかかる。コスト増を上回る売り上げを上げることで利益を出さなくてはいけない。そういった責任をすべて民間企業が背負うのはおかしいのではないか? トヨタ自動車社長は、二酸化炭素排出量削減などの目標を政府が発表してはいるが、日本の実情を踏まえてきめられたものではないとし、「再生可能エネルギー比率の目標も示しているが、そこのコストの議論は見えてこない。すべて実行するのは民間で、と言っているように聞こえる」と苦情を呈した。

  結局は、ESG投資の考え方そのものが間違っているということだ。たとえば、製造業が化石燃料を使わなくてもよいような革新的なテクノロジーを発明する企業に投資をするESG投資。この場合は、成功した場合は大きなリターンを得る可能性もあるが失敗するリスクも高い。あるいは、ESG経営を積極的にしている企業を長期的にサポートする。この場合は、あくまで、そういった企業を応援するといった投資態度でリターンを期待してはいけない。

  いまのように、利益も社会への貢献も両方とも・・・なんて欲張った投資はもともとありえないということだ。機関投資家もファンド運用会社も、儲けることと地球や社会への貢献と両方とも実現させようと欲張りすぎるのはやめたほうがいい。

 

  • さすがサントリー!

  だからといって、企業が環境劣化を無視してよいということではない。企業市民として、ある程度のコストをかけても、地球や社会への貢献は積極的に進めなくてはいけない。だが、また、自分たちが地球や社会に貢献していることを消費者に上手にアピールすることで、1.企業や商品イメージを高め、ひいては売上を上げる、2.消費者にも環境問題についての意識を高めてもらうことは重要だ。そういった点で、日本で、きちんとした戦略を立てたうえで実践しているのは、やっぱり、マーケティング上手のサントリーだ。

  サントリーはサスティナビリティ―戦略において、あれもこれもという総花的なものではなく、何を自社の目標とするか選択した。SDGの17の目標の中から、6.水と衛生、3.健康、12.責任ある生産・消費、13.気候変動の4つを選び、その中でも6の水を自社にとっての最重要目標とした。ウィスキー、ビール、清涼飲料など、サントリーが提供する製品の多くは水を中心とする。水はサントリーの経営基盤であり基本的資源だ。

  サントリーのサスティナビリティ・ビジョンは「水と生きる」だ。

  おいしい健康的な水を得るためには、それをはぐぐむ森が必要だ。森が健全でなければ良質の水を生み出してはくれない。森をはぐくむ活動を14都道府県20か所、9000ヘクタールの森林で整備活動を進めている。

  サントリーが実践している森を育む活動を紹介する動画が、そのまま、「サントリー天然水」のコマーシャルになっている。逆に言えば、ミネラルウォーター「サントリー天然水」を宣伝するコマーシャルが、サントリーのSDG活動を広報する動画になっているということだ。自社の環境活動を広報する(そして、それは消費者に森の育成が良質の水を作ることを教える啓蒙活動にもなっている)動画が、自社商品の広告宣伝になっているのだ。

  結果、「サントリー天然水」は、2018年から3年続けて清涼飲料水で売上No.1の座を継続して確保。そして、日経BPのESGブランド調査2020年ランキングでサントリーは、トヨタに次いでNo.2に選ばれている。

  ESG経営にも戦略が必要だということだ。

  環境と経済成長とはトレードオフの関係だと前述した。が、サントリーホールディングスの新浪剛史社長は、「サステナブル・ブランド国際会議2018東京」で、次のように語っている・・・「事業を成長させ、自然環境を守り、社会と共生していくことは『トレード・オフ』ではない。私たちは『トレード・オン』に変えていける」。

 

参考文献:1.Jason Hickel, The contradiction of the sustainable development goals: Growth versus ecology on a finite planet, 2019、2.「SDGs優等生の不都合な真実 豊かな国が高い持続可能性を維持しているという嘘」Newsweek 10/8/20 3. The World’s Sustainable Development Goals Aren’t Sustainable, Foreign Policy 9/30/20, 4. Hot air, Sustainable finance is rife with greenwash. Time for more disclosure, The Econonist 3/22/21, 5.Financial world greenwashing the public with deadly distraction in sustainable investing practices, USA Today, 3/16/21, 6.ESG投信、監督強化 金融庁「選定基準の説明不足」、毎日新聞7/8/21、7.The fallacy of ESG investing, Financial Times 10/23/20、8.The SDGs and ESG Investing:Toward a New Era of Responsible Capitalism, The Tokyo Foundation for Policy Research 3/11/20、9.Top tech groups try to dilute ESG disclosure rules, Financial TimeSustainability Science 020s, 6/20/21、10.If ESG enhances profits, then why all the fuss? Forbes. Com 11/18/20, 11.The Sustainable Development Goals prioritize eonomic growth over sustainable resource use: a critical reflection on the SDGs from asocio-ecological perspective,Sustainable Science 2020

2021年7月14日 (水)

ユニクロは「正義」をつらぬかなくてはいけないのか?

  正義なんて言葉を使うと、NHKの「サンデル教授の白熱教室」を思い出してしまうが、グローバル化が進むなか、企業経営者は、正義とか倫理とかいったことについて真剣に考えなくてはいけないようだ。

  グローバル企業が、コストを抑えるためにアジアの工場を使うことは、利益を最大化するための経営判断として当然のことだ。だが、そういった工場での労働環境が劣悪で、しかも、ビックリするくらいの低賃金となれば、その工場は搾取工場となる。児童を労働させているとなれば倫理的問題はより大きくなる。

  スポーツシューズやスポーツウェアで有名な米ナイキは、90年代からアジアの搾取工場や児童労働との関係が取りざたされ、97年には米国や英国の大学生たちが大規模な不買運動を展開し、売上もイメージも落ちた。同社はサプライヤーの労働環境や人権問題は他人事ではなく自分たちの責任でもあると認識を改め、当時600件以上あった現地工場の監査をするなど透明性に努め、CSR(企業の社会的責任Corporate Social Responsibility)活動の先端を行く企業というイメージを獲得するにいたった

  ナイキが悪徳企業からCSRのリーダーになるまでの経緯は、企業の社会的責任を教えてくれるケースススタディとしてよく紹介される。だが、90年代にナイキが直面した問題は、最近の新疆ウィグル自治区に関する問題に比べると単純で、簡単に解決できるものに思えてくる。当時、何が倫理的で、何が正義であるかを判断する価値観はひとつしかなかった。

  今回、H&Mやナイキ、ユニクロといった著名ファッションブランドが解決しなければいけない問題では、異なる価値観や世界観をもつステークホルダーがからんでくる。あちらを立てればこちらが立たずの関係だ。西欧社会における正義をつらぬこうとすれば、中国から「金を儲けるだけ儲けておいて、いまさら自分たちの倫理とか正義を押しつけてくるなんて虫がよすぎる」と非難される。

  中国の新疆ウィグル自治区問題(少数民族ウィグル人が強制労働させられているという人権問題)は複雑だ。

  新疆問題は、欧米メディアでは2016年くらいから報道されていた。が、2020年3月1日にオーストラリアの「豪戦略政策研究所/ASPI」が調査報告を発表することで、無視することができない公的問題となった。この報告書では、アップル、BMW, ソニーなど少なくとも83のグローバル企業が、ウィグル族を強制的に労働させている中国の工場と取引があったと名指しされた。このうち日本企業は14社で、ユニクロのファーストリテイリング、任天堂、良品計画などの名前があがっている。

  名指しされた多くの企業は、自社のサプライチェーンで発生している人権問題に懸念の意を表し、任天堂やソニーのように、強制労働が確認されたサプライヤーとの取引を一切停止すると発表する企業もあった。

  問題あるサプライヤーと取引を停止することですむなら話は簡単だ。だが、中国はサプライヤーが集積する国であるとともに、大規模な消費者市場を提供する国でもある。だから、複雑かつ難解な問題となる。

  今回、最も大きな被害を受けたのはスウェーデンのファッションブランドH&Mだろう。2020年9月、自社サイトで、新疆での強制労働に関する豪ASPIの報告に深い遺憾の意を表し、その地域の生産者から綿を買うのを止めると宣言した。そのときは、特に大きな問題にはならなかった。状況が変わったのは、21年になって、政治的要素が絡んできてからだ。

  1月になってトランプ前大統領が任期終了ギリギリのところで、この地域からの綿やそれを使った製品すべての輸入を全面禁止。そして、3月22日、EUに次いで、米国、英国、カナダが、ウイグル族への不当な扱いが人権侵害にあたるとして、中国当局者らへの制裁をそろって発表した。

  政治が絡むことによって、中国市場における不買運動が誘発される。

  2日後の24日に、共産党の青年組織「共産主義青年団」が、前述したH&Mが2020年9月に掲載した過去のステートメントを取り上げて不買運動を呼びかけた。「誤ったウワサを広めて新疆の綿を買わないという。それでいて中国で儲けようなんて、虫がよすぎる」。その数時間後にはナイキとかバーバリーもボイコットの対象とされた。

  H&Mは、その日のうちに、「昨年9月のステートメントには、政治的意味合いはまったくなかった」というコメントを発表した。鎮静化をはかったつもりが、謝罪がなかったとして、ネット市民の怒りは余計増した。そして、翌日25日になって、華春瑩外務省報道官(ニュースでよく見かける女性報道官。もっとも、いまは、出世して報道局長だそうだ)が、「中国料理を食べるだけ食べておいて、そのあとで、料理が入っていた食器を割る外国企業は許されない」と発言した。(うまい表現だ。サブトン一枚!と思ったが、どうも、これは、2014年に、習近平国家主席が、党のイデオロジーに反対する者達を糾弾して「中国共産党の食べ物を食べておいて、共産党の調理ナベを割る行為は許されない」と言ったことにさかのぼるのではないかといわれている)。

  H&Mは、人気のネット通販サイトから締め出され、スマホの地図アプリで自社店舗の位置が表示されなくなり、いくつかのショッピングモールでは賃貸契約が打ち切られた。

  H&Mがターゲットにされたのは、スウェーデン政府と中国との政治的軋轢があるからだといわれる。2020年3月に、中国共産党が禁じる本を販売していたとして、スウェーデン国籍の香港の書店経営者が、懲役10年の判決を受けた。その後反中感情が広まり、スウェーデン政府は孔子学院を全廃し、ファーウェイを5G通信網から排除することを決めている

  H&Mは中国全土で505店舗を展開し、売上高は2020年に10億ドル。全世界での総売上の5%を占める。さすがに、政府ほど毅然とした態度はとれずに、21年3月31日に出した新しいステートメントでは、新疆については全く触れず、「当社は、中国においても他の地域と同じように、責任あるバイヤーでありたいと望んでいる」とか「私たちは、中国におけるお客様やビジネスパートナーの信頼と信用を再びえることができるように専念する」というあいまいなものだった。

  ナイキも、20年に、豪ASPIの調査報告を受けて、「ナイキは新疆ウィグル自治区産の原材料を使っていないし、サプライヤーもこの地域の縫製工場を使っていないことを確認している」というステートメントを発表した。この過去のステートメントに対して、21年3月になって、S NSで批判が起こり、中国の有名タレントがコマーシャル契約を打ち切る動きが続き、アリババが運営する天猫(Tモール)内ストアでの4月の売上は59%減となった。

  だが、ナイキはそういった動きに反応は示さず、20年に出したステートメントを削除したり訂正コメントを出したりもしていない。それでも、H&Mほどの攻撃を受けていない。

  ナイキと中国とは、創業者が1980年に中国を初訪問して以来の長いつきあいだ。中国のプロバスケットボール・リーグの設立や、高校バスケットボール部の設立にも金銭的サポートをしている。ナイキの広告予算のおかげで、中国のスポーツ市場やスポーツ団体は発展してきた。2022年北京オリンピックのスポンサーでもある。中国政府もあまりナイキとは問題をこじらせたくない気持ちがあるのだろう。

  世界のファッションブランドで、14億人をかかえる中国市場で問題を起しても平気な企業はいないだろう。しかし、なんといっても、中国市場で消費者からボイコットされて一番困るのはユニクロをかかえるファーストリテイリングだ。2020年度決算を見ても、国内ユニクロ事業の売上は8068億円なのに対して海外ユニクロ事業の売上は8439億円。その大半は中国だ。中国の売上が2022年には国内売上を抜くと予測するアナリストもいる。

  かたや、ナイキの2020年の売上シェアを見ると、北米41%、ヨーロッパ26%で、中国は19%となっている。不買運動で言えば、北米やヨーロッパでボイコットされる方がよほど怖い。H&Mも世界の国別市場シェアをみると、1位ドイツ26%、2位米国19%、3位英国10%、4位中国9%。H&Mにしても、中国の人権政策に賛同していると批判され、ヨーロッパや米国で不買運動を起こされたら一番困る。

  ファストリだって、ホームグラウンドである日本の消費者にボイコットされたら、かなり困る。新疆問題というか人権問題に少なくとも懸念の意を示さなくてはいけないと考えるだろう。だが、ファストリにとって幸運(?)なことに、日本の消費者はこういった問題には基本的に無関心だ。そして、米国やEUでの売上シェアはどちらも数%レベル。つまり、ファストリが一番神経を使わなくてはいけないのは中国の動向だ。

  もっとも、柳井CEOは、真にグローバル企業になるためには米国市場で何としても成功しなくてはいけないという思いが強いようだ。そういった意味で、21年5月に、米国に商品を輸出しようとしたら、米税関・国境取締局(CBP)に「ウィグル地域の綿を使用している」として綿シャツの輸入を差し止められたことは、やはり、ある意味ショックだっただろう。そして、つい最近、7月になって、スペインのインディテックス(ZARA)とともに、ファストリは新疆ウィグル自治区での人権侵害罪の隠匿の疑いでフランスの検察当局の捜査を受けた。

  ファストリ―の新疆問題についてのこれまでの対応を振り返ってみます

  2020年3月の豪ASPIの調査報告を受け、8月に、「ユニクロ製品のサプライヤーで新疆ウィグル地区に立地している工場はない、また、問題があると指摘された工場とは取引していない」とするステートメントを発表。その一方で、「人権問題を懸念する各種報告書や報道については認識しています」という表現にとどめた。同様に名指しされたH&Mやナイキが、取引の否定に加えて強制労働に関して「懸念」を表明するまで踏み込んだのとは対照的だった(とはいえ、H&Mはその後、そのステートメントをそっと削除し、新しく出されたコメントはあいまいなものだったから、結果的には、ファストリと変わらない)。

  それでも、ユニクロが「新疆地区のサプライヤーとは一切関係ない」と発表したということだけで、中国のSNSで西欧ブランドほどではないが批判され、アリババが運営するTモールでの4月の売上は5分の1以上減ったという。

  日本企業への不買運動が欧米企業ほどでないのは、日本政府が欧米政府ほどには中国を批判していないからだ。欧米が2020年3月にそろって中国制裁に踏み切った時に、日本は、「深刻な懸念」を表明しながらも、人権問題で制裁を課す規定がないとして、欧米とは足並みをそろえていない。

  ファストリの柳井CEOは、21年4月8日の決算会見で、「新疆ウイグル自治区から調達した綿花を使用しているか?」という記者の質問に対し、強制労働などの問題がある工場との取引はしていないと否定したうえで、「これは人権問題というよりも政治的問題」「政治的な質問にはノーコメント」と回答を控えた。

  そして、「政治的問題はノーコメント」ってことは、倫理よりは金儲けなのねと批判された。

  国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ナウ」事務局次長の佐藤弁護士は、「強制労働は国際的な人権上の問題であって『政治的』だから何も言わないという話ではない。説明しないことは特定民族への人権侵害の現状追認になってしまう・・・・経営者は市民社会に対して自らの価値観や哲学を含めて説明責任を果たしてほしい。そうしなければ、世界の投資家や消費者から批判を浴びることにつながるでしょう」と朝日新聞でのインタビューで語っている。

  たしかに、4月8日の決算会見での発言が報じられた後、翌9日の同社の株価は大きく値を下げ、終値は、前日比マイナス3090円の8万7890円だった。

  だが、反対に、柳井CEOが強制労働は倫理に反すると発言していたら株価は上がっただろうか? 中国でユニクロに対する不買運動が激しくなり、売上が下がり、結果、ユニクロの将来性への懸念が出てきて株価は大幅に下がったことだろう

  柳井CEOと同じ立場に立たされた経営者がいたとして、強制労働を人権侵害であり倫理に反するものだ個人的には思っていても、会社の将来がかかっている市場、売上が国内市場を上回るだろうと予測されている市場を危うくするような発言をする経営者がいるだろうか? 株主や従業員への責任ってものがある

  もっとも、柳井一族と資産管理会社でファストリの株式の大半を所有している。売上が激減して株価が安くなったときの株主への責任・・といっても説得力がない。が、従業員の雇用を守る責任はある。

  元中国大使宮本雄二氏は、「この問題は米中それぞれの正義がぶつかる価値観の問題だ。企業は政府と同じように考える必要はなく、したたかに生き抜かなければいけない」とコメントしている。まして、自分の国の政府があいまいな態度をとっているのに、一私企業がリスクをとるのはバカみたいだと思えてもくる。

  ビジネス誌「Economist」2021年4月の記事によると、「中国では外国製品への不買運動が頻繁に起きている。このため、外国企業はあるマニュアルに従って対処する。まずは謝罪、そして沈黙を守る。そして怒りが鎮まるのを待つ」。イタリアの高級ブランド「ドルチェ&ガッバーナ」は、2018年に、アジア系女性が箸でパスタやピツァを食べる(ユーモアともいえないくだらない)動画を流し、中国人を侮辱しているとして批判が殺到したときに、この手を使った。だが、今回は、謝罪するという選択はむずかしい。謝罪するということは、西欧社会が重要視する人権を否定したことになり、ホームグラウンドで非難を受ける。謝罪はできない。だから、そっとコメントを引っ込め沈黙を守る。

  今回の件においても、独アディダス、スペインのインデティックス(Zara)、スウェーデンのH&Mは、強制労働に対する自社方針が記載されているステートメントを人知れず静かに削除している。

  E(Environment環境)、S(Society 社会)、G(Governanceガバナンス)投資が注目されている。だが、ESG投資を重視する投資家にしても、倫理を主張する企業に賞賛は送っても、信念をつらぬくことで中国市場を失い売上を失うことになったら、味方にはなってくれないだろう。Eの環境については、世界最大の温室効果ガス排出国である米国と中国が積極的対策をとることに合意したことによって、世界的に同じ価値観が共有されたことになる。だが、Sの人権問題や人種問題は文化や価値観の違い、そこから倫理観も異なってくるので、投資家もあまり触れたくない領域だ。

  アジアを専門とする機関投資家やファンドマネジャーは、ESG、政治的リスク、中国の三つの整合性をとるのに四苦八苦しているのが現状だ。

  ファンドマネジャーは政治的コメントをして、中国から嫌われて、せっかく手に入れたライセンスを失ったりしたくはない。つまり、中国市場で金儲けをしたいのなら、中国政府やそこでのルールを批判してはいけない。ブランド企業と同じ選択を迫られている。だから、大半の投資家たちは沈黙を守る。彼らも、自分たちに金を預けている顧客や株主に最大の投資見返りを提供する責任がある。

  つまり、投資家だって、ブランド企業を倫理的ではないと批判することはできないのだ。

  ファストリは、2013年のバングラディッシュでの経験を経て(多くのファッションブランド品を縫製していた工場ビルが崩壊し1000人以上が死亡)、SEG経営の重要性を認識し、従来は企業秘密とされたユニクロブランドの生産を委託している主要工場(日本を含めたアジア7か国、計146の縫製工場)リストを2017年に公開し透明性を高めた。サプライヤーのモニタリングや監査にも取り組み、評価が低い企業との取引の縮小・停止もしている。

  2018年から企業の人権への取り組みを評価している企業人権ベンチマーク(CHRB:Corporate Human Rights Benchmark)」の2020年の採点結果をみると、ファストリは19.5(26点満点)で世界的にも4位、日本企業としてはNo.1に選ばれている。

  つまり、ファストリはサプライチェーンへの監視監督においては世界的にも優秀な企業だとみなされていたということだ。だが、どんなに万全な備えをしていたとしても、グローバル市場では想定外のことが起こる。

  ここからは、会社経営者が今回のような問題にぶつかった場合、どういった信念に基づいて、どういった行動をとることができるのか?・・・ということを考えてみたいと思います。

  柳井CEOがピーター・ドラッカーの信奉者であることは有名だ。「柳井正 わがドラッカー流経営論」という本を出しているくらいだ。ユニクロを発展させるなか、経営の指針としてドラッカーの本を何度も読み返したことで知られている。今回の難問において、ドラッカーは何か役に立つことを書いてくれているだろうか? 

   ドラッカーは、1954年に出版された「現代の経営」のなかで、「企業の目的の正しい定義はただ一つ。顧客を創造することだ」と言っている。「顧客の欲求と要求を満たすために、社会は企業に富みを創造する資源をゆだねている」とつづく。

  経営者は様々な問題にぶつかり決断を迫られたとき、「顧客にとって良いことは何なのか?」と考える。そうすれば、多くの場合、正しい答えをみつけることができる。だが、今回の問題は、そう簡単ではない。ファストリが中国の消費者(顧客)の不満を解消しようとすれば、欧米の顧客の不満を招くことになる。同じ顧客でも相矛盾する関係にある。

  「三方よし」といった江戸時代の近江商人の教えが最近注目を集めている。「三方よし」は「買い手よし、売り手よし、世間よし」と言われ、買い手も売り手も世間一般もみな満足するような商売をしなければ、継続的成功はないという意味だ。また、三方よしの商売でなければ倫理的でもないという考え方だ。

  ステークホルダー誰をも満足させる考え方がコーポレートガバナンスとして米国から輸入されているが、日本には昔からそういった考え方がある・・・そういった前置きで「三方よし」を紹介するビジネス誌の記事も多い。

  だが、この「三方よし」の考え方も、今回の問題では役に立たない。様々なステークホルダー誰をも満足させるためには、ステークホルダー全員が同じ価値観を共有している必要がある。

  江戸時代中期(18世紀半ば)の近江商人が広めたという「三方よし」の考え方は、当時、近江で普及が進んでいた浄土真宗の「自利利他」の教えにもとづくといわれる。

  商売の言葉に直せば、自分の儲けだけを考えず、利益を少しくらい減らしても客が買える値段にする。儲けた金は、橋を架けたり道路を修復して地域社会に貢献する。結果、リピート客が増えて、長期的継続的な商売ができる。自分を利することが他人を利することにつながる。

  「自利利他円満」という結果を得られるのは、同じ価値観に共感する社会に(調和を重んじる日本古来からの精神と仏教に基づく価値観に同調できる社会に)、すべてのステークホルダーが属していたからだ。

  異なる価値観をもつ国、文化、民族が混在するグローバル社会では、「三方よし」は通用しない。 

  日本では、大河ドラマの影響もあって、渋沢栄一著の「論語と算盤」関連の本が売れている。だが、渋沢栄一関連の本を読んでも、H&Mやファストリのトップ経営者の忸怩たる思いを解決することはできないだろう。

  企業は利益を追求するだけでなく、公益に貢献することも必要で、この二つを同時に実現しなければいけないという「道徳経済合一説」を唱えた渋沢栄一は、論語の教えを基本としてビジネスに倫理を取り入れようとした。ドラッカーは、いくつかの著書の中で、渋沢栄一を取り上げ、米国財閥創始者のロックフェラーやモルガンよりも早く、企業の倫理について説き実践した人物だとその偉業を讃えている。

  そのドラッカーは、渋沢栄一に影響されてか、あるいは独自の研究の成果からかは知らないが、「ビジネス倫理とは何か?」というエッセイのなかで、真に正しいと思えるビジネス倫理は孔子が教える「相互依存の倫理」であると指摘している(日本の経営者がドラッカーが好きなのは、ドラッカーの語る経営論に、自分たちの思想に浸透している儒教の匂いを感じることができるからかもしれない)。

  だが、残念ながら、渋沢栄一やドラッカーの教えは、ユニクロやH&Mの経営者に難問解決のカギは与えてくれないだろう。両偉人がビジネスにおける倫理を語るとき、今のグローバル化した世界を想像してはいない。渋沢栄一の時代はヨーロッパが、そして、ドラッカーの時代は米国が、世界の先進国として君臨しており、他の多くの国は、この先進国に経済的に追いつくことしか眼中になかった。キリスト教文化圏の価値観が基本的に国際ルールを決めていた。ドラッカーにしても、国際市場において、中国のような価値観や体制の違う国が、その価値観や体制を変えることなく(それどころか、さらに強化して)、米国に肩を並べる地位を得ることなど想定していない。

  だから、先人の叡智をたよって、ファストリの柳井CEOの悩みを解決することはできそうもない。

  今回の件で、「何百年たっても変わらないなあ」と改めて思い知ったことがあるので、ここからは、その点について書かせていただきます。

  商売は卑しいもの、つまり、金を儲けることは卑しいことだという考え方は、日本だけでなく世界でいにしえの昔から存在する。卑しいという言葉には、道徳的に非難されるべきという意味もあるから、商売は道徳的に非難されるべきものということだ。

  渋沢栄一は、金儲けだけを考える卑しい職業であると見下されていた商売に、倫理を取り入れようとした。

  政府の役人としてエリートコースを歩いていた渋沢だが、明治6年に、実業界に入ることを決心した。退官して商人になるという渋沢を、ともにエリートコースを歩いてきた友人が引きとめて「君も遠からず長官になれるし、大臣にもなれる。お互い官界に残って国のためにつくす身じゃないか。それなのに卑しむべき金銭に目がくらみ、官僚を止めて商人になるとは実に見損なった」と忠告した。この時、渋沢は、「金銭を扱う仕事がなぜ卑しいのか。君のように金銭を卑しむようでは、国家は成り立たない」と反論し、論語の教えにしたがって一生商売に生きようと決心したそうだ。

  近江商人が熱心に信じた浄土真宗は、金儲けを正当化することにおいて、16世紀に生まれたプロテスタントと同じ役割を果たした・・・米国の宗教学者ロバート・ベラーはそう指摘した。カトリックでは富を追求することは悪だと考えられていた。よって、金銭を扱う商売(ビジネス)は卑しいものだと考えられていた。だが、プロテスタントは、働くことは神に仕えることだとして金儲けにお墨付きを与えた。プロテスタントは、働く結果として富を得ることは神の恵みであり、一生懸命働いて富を得ることは道徳的でさえあると教えた。

 16世紀の宗教改革で、プロテスタントが生まれ広まったたことにより、堂々と富を蓄積することができるようになり、その結果、西欧に資本主義が生まれた。同じ役割を、日本では浄土真宗が果たしたというわけだ。

  18世紀に「自利利他」を実践した近江商人、19世紀に「道徳経済合一説」を実践した渋沢栄一。どちらも、金儲けをする卑しいとみなされた商人の志に倫理を取り入れた。しかし、その後、3世紀たった現代でも、企業や実業家は、あいかわらず、金儲け=卑しくて非道徳的であるという等式で非難される。

  2021年、ファストリ創業者の柳井正は、人権に関する見解を出さないことで「倫理より金儲けなのか」と非難された。フランスの検察当局にファストリやインデティックスを告訴した人権団体の弁護士は、「人権侵害することで利益を得ている企業の責任を追及する」と語っている。

  たしかに、倫理に反するやり方で金儲けをする企業や実業家の例は、世界中で後を絶たない。人間は、欲望(とくに金銭への欲望)を抑えることができず犯罪を犯し反道徳的な行動をとる。だから、カトリックは1500年以上もの間、金への欲望を悪とみて、金を儲ける行為(ビジネス)を倫理に反するとした。プロテスタントが金を儲けることを正当化することで資本主義が生まれた。そして、宗教とか共同体による制約がゆるくなるにつれ、結果として、人間の金銭に対する欲望は抑制されることなく強欲なレベルまでふくれあがってしまった。

  だが、欲望なくして資本主義は発展しなかったことも事実だ。

  金儲けを考える企業だから価値観や体制の違う国にもリスクをとって進出していく。1996年に「マクドナルド店舗がある国どうしが戦争をすることはない」という理論(?)が発表され話題になった。これは、マクドナルド店舗が存在する国どうしは国際紛争を解決するために戦争という手段はとらないという理論で、ピューリッツァー賞を受賞したこともある著名ジャーナリストが発表している。

  この理論は、ビッグマックを買うことができる中流階級が一定規模存在する国は、その繁栄度やグローバル度からみて、国際紛争を平和的に解決する・・・という考え方に基づいている。ただし、その後、イスラエル対レバノンとかロシア対グルジアの戦闘が勃発し、この理論は見事に粉砕した。

  企業は自社商品を買ってくれるかもしれない顧客がいると思えば、文化、政治体制、価値観の違いというリスクが存在しても、新しい市場の可能性と見て、あえて挑戦する。 

  たとえばマクドナルドは、ロシアがまだソビエト連邦だったころの1990年にモスクワに店舗を開けた。開店初日には5000人以上の市民がマックを食べるために行列を作ったという。ソビエト連邦が崩壊したのは、その1年後だ。マクドナルドは、同じ90年に、中国の経済特区に店舗を開け、92年には北京に700席もある世界最大の店舗を開け、初日には4万人の客が入ったという。

  中国の顧客が一番気に入ったのは、店舗の清潔さ衛生状態の良さだったという。そして、マック店舗の清潔さが、その後の中国のレストランが目指すべき基準となった。少なくとも、こういった点においては、同じ価値観を共有するようになったわけだ。

  金儲けの可能性があれば新しい市場を開拓する企業がいる。だからグローバル化が進む。その過程で、さまざまな問題が生まれはするが、価値観や文化は部分的ではあるが徐々に同質化する。企業がグローバル化を進めるのは金もうけという本能に動機づけられているとはいえ、その結果として、世界が共有する価値観や文化が少しずつ増えることも、また事実であろう。
 
  
不買運動にあったり、倫理はないのかと非難されても、金儲けを考える企業だからこそ価値観や体制が違う国でも成功しようと努力する。元中国大使宮本雄二氏は、前述したように、「企業はしたたかに生き抜かなければいけない」とコメントした。「したたかに」という言葉は、企業の実感とはビミョ―に違うのではないか。たぶん、「辛抱強く」とか「粘り強く」といった言葉のほうが現実と合っていると思う。

  14億の市場を前にして、世界の多くの企業は「謝罪して、沈黙を守り、怒りが鎮まるのを待つ」。謝罪が不適切な場合は、「沈黙して、怒りが鎮まるのを待つ」という対応をするしかない。この態度を卑しい(道徳に反する)と思う人もいるだろう。だが、たとえ卑しいと軽蔑されても、大半のグローバル企業は辛抱して我慢する。

  だから、ファストリを批判しようとは思わない。ただ、一つ、考えたことはあります。

  2021年3月12日、ユニクロは(消費税引上げによる価格表示方法の変更に関連して)全商品を約9%値下げした。2016年以来5年ぶりの値下げだそうだ。ただでさえ安いユニクロが値下げすれば、他の衣料品メーカーにも影響を与えるだろう。そして、その影響は、世界のどこかの下請け工場のそのまた下の孫請け工場の賃金に及ぶかもしれない。

  消費者は「安くなってよかった!」と思わずに、その商品の長い長いサプライチェーンの先に、(あまり長くて日本の企業が実態を把握できていないかもしれない)搾取工場や児童労働や強制労働がある可能性も考えてほしい。

  20年以上もデフレ傾向がつづく日本の物価は、諸外国と比べても、もう充分安い(もっとも賃金も上がっていないのは問題だが・・)。消費者は質に見合った適正な価格を支払うことを心がけなくてはいけない。倫理的価格でモノを買うことで、世界のどこかの末端の生産者が適正な環境で適正な賃金で働くことができる。消費者である自分ができることは「倫理的消費」だ・・・と、自戒することで長い長い話を終わりにさせていただきます。

 

                                                     

参考文献:1.Why are china’s consumers threatening to boycott H&M and other brands, The New York Times 4/6/21, 2.Maoists in China, given new life, attack dissent, The New York Times, 6/4/15、3.「もう隠しません、ユニクロが工場リスト公開」日経ビジネス3/1/17, 4. How Nike Figured Out China, TIME 10/17/04, 5. 「政治的経済安保 米中のはざまで/ウィグル問題で対立、日本の対応は」朝日新聞 5/23/21, 6.「人権とビジネス企業の在り方は」朝日新聞 5/1/21, 7.「株、人権でも選別の芽」日経新聞4/17/21, 8.「企業広告は政治を語るべきか」日経新聞5/23/21. 9,Investors’ quiet conundrum: balancing China with ESG, Asian Investor 5/4/21,10, Focus on human rights a challenge in China, Pensions&Investments 4.19,21、11.「人権対応 二歩企業鈍く」西日本新聞社 2/22/21, 12, Fashion Retailers Face Inquiry Over Suspected Ties to Forced Labor in China, The New York Times, 7/2/21、13.ルディー和子「勤勉な国の悲しい生産性」日本実業出版社、14.道添進「今こそ名著 論語と算盤」日本能率協会マネジメントセンター、15.「人権対立、揺れる日本企業」朝日新聞4/25/21

 

2021年4月30日 (金)

「共感」は21世紀のスキル? そして「共感マーケティング」

   この数年、共感(empathy)という言葉が海外でも日本でもよくつかわれる。日本では、「共感マーケティング」というように、顧客とか一般市民の共感を得るにはどうしたらよいかといった文脈でつかわれることが多い。英語圏では、優れたリーダーであるためには共感性が高くなくてはいけないといったふうな文章が目立つ。

  たとえば、バイデン大統領は(トランプに比べると)共感性が高いとか、パンデミック禍において女性大統領や首相は共感性を発揮して国民の支持を得るのに成功している・・・といった具合だ。

  世界の多くの国において、パンデミックや人種問題から生まれる貧困や格差がもたらす衝突が続くなか、「共感性の欠如 empathy deficit」や「共感ギャップ empathy gap」といった言葉もメディアで多く引用され、グーグル検索では、2020年6月第1週に「empathy」という言葉が過去最高の検索数を記録している。  

 「共感性は21世紀のスキルだ」という見出しの記事もみかける。つまり、21世紀という不確実で不安定な時代には、感情を理性の抑制なしに言動に出す人が多くなる。そういった感情的になりやすい社会を生きるために必要なスキルだと主張しているわけだ。

  最初に、まず、共感というのは思ったより複雑なものだという話をします。

  日本では、「共感マーケティング」というと、販売しているモノやその広告に対して消費者からの共感を得る・・・といった意味あいが強い。そして、その共感の度合いは、SNSでどれだけのイエスやコメントをもらったかとか、どれだけ拡散したかの数値で表現する。結局は、どれだけ消費者の感情に訴えることができたか、消費者がどれだけ感情移入をしてくれたかぐらいの意味合いしかない。

  もともとempathyという言葉は、ドイツの心理学者がつかったeinfuhlung(feeling into感情移入)という言葉の英訳だといわれる。そういった意味で、共感マーケティングの効果を消費者の感情にアピールするのに成功したかどうかで判断するのは間違っていないかもしれない。

  間違ってはいないかもしれないが、そのくらいのレベルで、「共感」という言葉を使うのは止めてほしい。共感はたんなる感情移入とは違う。共感はもっと複雑な概念だ。たとえば、多くの人は、「共感する」ことは良いことであり善いことだと思っているのではないか?

  たとえば、オバマ大統領は2006年のスピーチで「共感性の欠如 empathy deficit」という言葉をつかったときに、「共感とは、他人の立場にたって、その人の視点で世の中を見ることができることだ」と説明している。つまり、他人の状況に自分自身を置いて、その人(その人達)の考えていることや感情の動きを理解できることだ。これは、多くのひとが認める共感の定義だろう。

  大統領は、今の米国には貧しい人や人種の異なる人達の立場にたって思いやる気持ちが欠如しているとスピーチしたわけだ。このように、共感することは良いことや善いことをもたらすと多くの人は思っている。

  しかし、実際には、共感は良いことばかりをもたらすわけではない。たとえば、米国議事堂への襲撃やコロナ禍においてマスクをしない自由を主張するひとたち・・・いずれもトランプ元大統領の考え方に共感する人達が実行していることだ。SNS上で同じ考えを持つ人達が共感しあいそれを行動に移した結果だ。日本でも特定の思想を持った人たちが共感しあい、それによって、自分の考え方の正当性をより強固なものにし、より過激な発言をするようになった。

  共感という概念の複雑性を強調するために共感の悪い側面をまず紹介します。

  21世紀になってポピュリズムが登場する過程において、共感性は大きな役割をはたした。それは、共感性には弱点ともなる4つの特徴があるからだ。

  1. 人間は具体的な事象にしか共感できない・・・たとえば、自分の友人の実家がある地方で豪雨がつづき、数万世帯が水につかり多くの死者も出た。同い年のいとこも死んだと悲しむ友人をみて、その悲しみに共感することはできる。だが、そういった身近な具体例がなく、TVや新聞で〇〇市では死者行方不明者が百名に及ぶというニュースが流れたときに、どれだけ共感して心を痛めることができるだろうか? 自分からの心理的かつ物理的距離が離れれば離れるほど、具体的事例から離れて抽象度が増すほど、共感性は薄れる。日本でも、海を汚染するプラスチック問題への一般市民の関心が高くなったのは、80袋以上のビニール袋がつまって死んだクジラの胃の写真や、ウミガメに突き刺さったプラスチックストローを抜く動画が公開されるなどして話題になったからだ。海洋を漂っているプラスチックごみは合計で1億5,000万トン。 毎年800万トン増えていると抽象的な数字で表現されても感情が喚起されない。「可哀そうなクジラ、カメ、海鳥」といった具体的姿が見えることで共感が生まれる。環境問題は長い間一般市民の協力を得ることがむつかしかった。「未来のために・・」といわれても、自分からの距離が遠いから感情移入できない。ヨーロッパに比べて環境問題に関心のうすかった米国人が、最近になって、やっと関心をもつようになったのは、山火事や洪水といった自然災害が頻繁に発生するようになり自分たちにも甚大な被害をもたらすようになったからだ。
  2. 自分に似た人達には共感しやすい・・・・当たり前といえば当たり前のことだが、職業、年齢、趣味、収入、考え方などが同じような人には共感しやすい。結果、似たような人達が、たとえばSNS上で集まり賛同しあう結果として、視野が狭くなる傾向が高くなる。人種差別や民族差別、特定の考え方を差別して批判するという行動が生まれるのは共感性のせいだともいえる。
  3. 共感は科学的事実よりもストーリーに影響されやすい・・・1番や2番と深く関係しているが、人間は、第三者によって確認された情報や科学的に証明された事実よりも、ストーリーとして語られる内容により強く共感する傾向が高い。だから、とくに、不確実な時代においては、ウワサやデマが横行する。
  4. 共感は長期的観点にたった行動に移れない傾向が高い・・・共感は基本的に感情的なものであるために、感情的に先走りするだけで、長期的かつ全体にとって有効な行動に移れない傾向も高い。もともと、自分が身近に感じられる具体性をもったモノゴトに対して抱く感情なので、災害が起きたときに、極端なことをいえば、倒壊した家で泣き叫ぶ赤ん坊を助けることに皆の注目があつまり、TVのライブ中継もされるなか、その子が2日後に救助隊に助けられれば喝采をおくり、「あの子に何かプレゼンをして元気づけよう!」。そして、寄付をして安堵し、その災害で数十名が亡くなり家を失った人たちが数百人いたことは無視してしまう。感情に流されない合理的な思いやりがなければ、被災者を継続的にサポートしつづけることはできない。また、政府や自治体は、感情に流されているだけでは、全体的、かつ長期的により良い結果をもたらすような合理的判断はできない。

  

  私自身も共感は善いものだという思い込みをもっていたが、それは間違っていたようだ。「共感は道徳的というわけではなく、場合によって、不道徳の源になることもある」と米国の精神医学者は語っている。

  ここで、必要となるのが認知的共感だ。前述したように、共感は複雑な概念なので研究者の意見もさまざまだ。だが、共感は感情的共感と認知的共感に分けられるということには、ほとんどの研究者が賛同している。

  ここまで書いてきたのが感情的(脳の本能的部分から生まれる感情なので情動的という言葉を使って情動的共感と呼ばれることもある)共感だとすれば、認知的共感は、情動が生まれる大脳辺縁系を覆うようにして発達した新皮質にかかわる。大脳辺縁系は1億年前以上に地球に登場した哺乳類で発達したといわれるが、大脳新皮質は200万年~300万年ころの霊長類において各段と発達した。とくに、我々の遠い祖先において新皮質はめざましく成長し、結果、人間は計画・学習・記憶といった高度な認知活動を展開することができるようになった。

  共感は、こういった高度な認知活動にかかわる部位からも影響をうけ、それは認知的共感と呼ばれる。

  感情的共感は無意識だが、認知的共感は意識することができる。感情的共感は生来のものであり、共感性の高低は人によって異なるかもしれない。たとえば、女性は男性より共感性が高いとよくいわれる。性差別だと不満に思う男性がいるかもしれないが、これに関しては日本でも海外でも多くの研究調査があり、どの調査でも同じ結果が出ている。

  だが、男性諸君、心配無用。認知的共感は意識できるものであり、よって学ぶことができる。そして、自分の共感性を高めることもできるし、前述した共感性の悪い側面を是正することもできる。実際、米国では、アップルのティム・クックのように、リーダーシップに共感性が必要だと考える経営者が多く、企業の20%が、管理職の共感性を高めるための訓練を提供しているという調査結果もある.

  つまり、共感性はもって生まれたものというだけでなく、スキルとして向上することができるということだ。

  どういった訓練をすればよいのかという話をするために、そもそも、共感の仕組みがなぜ生まれたかの説明をさせてください。

  他人の考えとか感情に共感する仕組みが脳に備わるようになったのは、それが、人類の進化において優位に働いたからだといわれる。他人が何を考えどう感じているかを推測することができれば、人間は複雑な人間関係をスムーズに処理できるようになる。人類が社会を築くなか、共感性をもっていることは有利に働く。共感性の高い人は、複雑な人間関係においても良い関係を保つことに成功する率が高い。そして、高い共感性をもつメンバーの多いグループの方が協力関係や協働関係を築きやすく、生存率を高め、文明を築く確率が高くなる。

  社会的生活を送るサルとか人間の脳にミラーニューロンなる神経細胞が発見されたとき(サルは1992年、人間は2008年に発見されている)、人間の学習や共感のカギを握る発見だと騒がれた。

  ミラーニューロンはミラー(鏡)の役割をする神経細胞という名前の通り、Aがボールを手に取り投げるのを見ている観察者Bの中で無意識のうちにAの行動がシミュレートされる。B自身はボールを投げるわけではないのに、そういった動作をしているAと同じように筋肉を管理する神経細胞が脳内で活性化する。まるで、行動者の脳の活動を観察者の脳が鏡のように忠実に映し出しているかのように。

   ミラーニューロンシステムのおかげで、BはAの意図を読み、なおかつ次に何をするかを予測することができる。

  こういった仕組みがあるために人間は模倣を通じて学習することができる。赤ちゃんは、周りの人間の行動を脳の中で模倣することで学習し成長していくのだ。

  ミラーニューロンは動作だけでなく、他人の感情をもシミュレートすることができるといわれる。これが、共感性を生むことにつながる。つまり、前述した例でいえば、洪水でいとこを失った友人が悲しんでいるのをみたあなたの脳のなかでも、悲しみを生む神経細胞ネットワークが活性化しているはずだというわけだ。つまり、あなたの脳が友人と同じ感情を共有していることになる(感情の共有=共感)。

  ミラーニューロンの働きについては様々な説があり、共感が模倣から始まったという説に反対する意見もある。

  だが、他人に共感できるという性質は、人間が社会生活をおくるなかで有利に働いたことは事実だろう。

  このように感情的共感は人間が生れもって持っているものだ。が、こういった感情的共感とそれがもたらす経験から、認知的共感がつくられる。こういた状況にある人間は、こう考えこう感じるはずだというルールがつくられる。そして、それに適した言動をとれば相手は気分を良くして、自分との人間関係がスムーズに進むはずだ。そういった形で認知的共感が育成されていく。

  アルバート・アインシュタインが「共感性は学校で学ぶものではない、それ生涯をとおして育て磨きあげられるものだ」と発言している。認知的共感が人生の経験をとおして育成されることを指して言ったのだろう。

  共感性が低い人間は仕事でも「同僚とのコミュニケーションができない」とか「顧客の気持ちがわからない」とか評判が悪い。そのうえ、「持って生まれたものだから、直しようがない」ともいわれる。だが、安心してください。認知的共感性は教育・訓練によって高めることができる。学ぶことができる

  どういった訓練をするかといえば、ケーススタディや小説、つまりストーリーを読み、「自分が、ストーリーの主人公のような状況に置かれた場合、どう考えどう感じるだろうか?」「どういった言葉をかけられたらうれしいだろうか?悲しいだろうか?」といったような議論をする。つまり、自分のこれまでの人生経験のなかで出会ったことのない人達や見聞きしたことのない経験について、ストーリーを通じて学ぶわけだ(こういった教育方法をみればわかるように、幼児のころから絵本を読んであげたり、子供のころに漫画でもいいから物語にたくさん触れさせることの重要性を、多くの心理学者は訴えている)

  さて、ここで、「共感マーケティングとは」という本題に戻ります。

  ここまで説明してきたように、共感には広告や商品が消費者の感情にアピールすることができ、評判がSNSで拡散した・・・というよりは、もう少し深い意味があるはずだ。

  たとえば、サントリーHLDGの新浪社長がコロナ後の企業についての新聞インタビューにおいて、「環境問題に世界中が危機感をもっている。それに応えることでチャンスが生まれる」と前置きしたうえで、「いい商品を作るのは当たり前。そのうえで、社会に役立っている会社だと消費者から共感してもらえるかがこれからのカギとなる」と語った。

  ここでいう共感は、ただ単に消費者の感情に訴えることとはレベルが違う。消費者は、会社やブランドに人格をみている。そして、この会社やブランドが感じていること考えていることに、消費者が共感している(同じように感じ考えている)ということだ。そこまできて初めて、企業やブランドは、他社や他のブランドからの確固たる差別化に成功したといえる。

  米国やヨーロッパの先進国では、社会の大きな出来事に対して企業がどう考えているかに消費者が大きな関心を寄せるようになっている。だから、環境問題はむろんのこと、人種問題や格差問題について共感するメッセージや広告を出す企業も多くなっている。

  英国の最近の調査によると、ブランド企業の90%余が、急速に変化する文化的社会的状況に共感をもって反応しなければいけないと考えているそうだ。たとえば、マーケターの57%がコロナウィルスに関するキャンペーンにおいて、また、47%がBLM(Black Lives Matter)において共感的な内容にするようにしていると答えている。

  だが、前述したように、共感は複雑なので、こういった広告は微妙なところで間違えると、かえって反感を買う。感情的で過敏になりやすい繊細なトピックなのでメッセージに適切な共感を交えることは非常にむずかしいと、60%のマーケターが答えている。

  ペプシコーラもBLM運動への共感を示そうとした動画をつくって流したが、「デモをきれいごとにしているとか」「デモをしている人達の気持ちがなにもわかっていない」と非難され、動画を削除して謝罪する結果となっている。ペプシはこういった運動をしている人達の立場にたって考えたり感じたりすることができなかった・・・ということになる。想像が及ばなかったというわけだ。共感性が足りなかった、欠如していた、あるいは、共感力がなかったといえる。

    日本でも、広告とは異なる例だが、復興庁が東京電力福島第一原発の放射性物質トリチウムを含む処理水の安全性をPRするために作ったチラシや動画で、トリチウムを「ゆるキャラ」のように描いたことが非難された。キャラクター化したのは「・・できるだけ関心を持ってもらおうとしたから」と担当者は説明したが、深刻な問題をゆるキャラで描くこと自体に対して、「被害を受けた住民たちがどう受け止めるかに思いをはせれば、ああいう発想にはならないだろう」と批判された。

  共感は主観的なものなので、人によって、同じ言葉や内容にも異なる反応を示す。だから難しい。

  悪気はなかった、良かれと思った・・・といった言い訳は通じない。善意で出したメッセージであっても、相手の心を傷つけることがある。環境問題でも「他がやっているから流行にのっただけだろう」とか「きれいごとですませているだけ」と思われ、「グリーンウォッシュ Green washing」のレッテルを貼られる。

   日本企業の多くは、社会の出来事に共感しているという広告を出して、かえって、反感をまねくリスクを恐れ、出さないことを選択する。たとえば、10年前の東日本大震災のときは、「大惨事のあとで何事もなかったかのように宣伝する」ことで非難されることを恐れた多くの企業がCMを控えた。広告機構のCMばかり見させられ飽きてきたという消費者の声も多くなった。4月7日、リスクをとることをそれほど恐れないサントリーが、一番最初に、多くの有名人が「上を向いて歩こう」などを歌い継ぐCMを流して好評を得た(共感を得た)。

  リスクがあることを承知しながらも「共感マーケティング」を企業が採用しなくてはいけなくなったのは、結局、差別化がそこまで進んだということだろう。企業やブランドの差別化は価格による差別化から始まって、機能、デザイン、サービスと感情的訴求の要素が強くなり、そして、90年代ごろから企業が社会的責任を果たしているかどうかが重要視されるようになってくる。市民としての企業、社会の一員として社会に貢献する企業・・と企業やブランドの人格化が進む。

  企業はリスクがあることはわかっていながらも、社会の大きな出来事に自分の考えや感じていることを明らかにしなくてはいけない時代に入ってきたといえる。

  消費者や一般市民の共感は感情中心で主観的なもの。企業は認知的共感性を発揮して広告メッセージの内容を考えるわけだが、常に適正な判断ができるわけではない。サントリーがしたように、テーマを明確に出さず感情だけに寄り添うようにする。これが賢いやり方だ。ただし、肝心の問題から目を背けていると批判されることもある。

  だからこそ、感情的な21世紀において、共感は重要なスキルだといわれるのだろう。

 

参考文献:1.福田正治、共感と感情コミュニケーション(1)、研究紀要 富山大学杉谷キャンパス一般教育 第36号2008、2. Richard Fisher, The surprising downsides of empathy, BBC.com 9/30/20, 3. Judith Hall, The U.S. has an empathy deficit, Scientific American 9/17/20, 4. Jamil Zaki, Making Empathy Central to Your Company Culture, HBR 5/30/19, 5.Mark Honingabaum, Barack Obama and the empathy deficit, The Guardian 1/4/13, 6.「社会に役立つ共感カギ」読売新聞4/16/21, 7.「トリチウムのキャラ化物議 復興相が謝罪」朝日新聞 4/21/21 8.Stepan Britton, Keeping up with 2020 – The Challenges Facing Brands, Advertisingweek360 com. 9. Tracy Jan, Pepsi tried cashing in on Black Lives Matter with a Kendall Jenner ad. Here’s how that is going, The Washington Post 4/5/17, 10. ルディー和子「売り方は類人猿が知っている」日経プレミアシリーズ、11. JohnMark Taylor, Mirror neurons after a quarter century: new light, new cracks, Harvard University, 7/25/16

 

2021年2月12日 (金)

コロナ対策と女性政治家と「男社会」と会食

  

  新型コロナウィルスによるパンデミック発生から約1年ということで、どの国の対策が一番効果的だったのかという調査がいくつか発表されている。各国のリーダーシップの品定めをしているようで、首相とか大統領にとっては気になるランキングだ。

  マスクをしない自由を主張する国民がいる民主主義国家よりも、中国のような強権的国家のほうがパンデミックを抑えやすいのではないかという意見がある。感染者数や死者数で世界をだんとつリードしている米国とか、ロックダウンを繰り返しているヨーロッパの大国をみていると、確かにそうかも・・と思えてくる。

  オーストラリアのシンクタンク「ロウィー研究所」が1月28日に発表した98か国ランキングでは、まとめとして、「小国(人口が1000万人以下くらいの国)のほうがパンデミックのような危機には機敏に対応できる。反対に、経済発展度とか政治体制は、言われているほどには成果には影響を与えていない」と述べている。ちなみに、この調査には「(機能不全に陥っている西側資本主義や民主主義より)我が国のような体制の方が優れている」と広報している中国は、公開データが少ないので分析対象から外されている。

  小国で、社会的にまとまっており、優れた制度(国家を統治・運営するために定められたきまりや仕組み)が存在する国が、パンデミックのような危機には成果をあげているという。まあ、当然といえば当然の結論だ。ちなみに、ランキング第1位のニュージーランドの人口は約500万人だ。   

  G7に属している先進国の中で人口1億人以上をかかえているのは米国と日本だけ。そう考えると日本の45位という順位は悪くないと思えてくる。ちなみに、日本の2.6倍の人口を持つ米国は94位で、日本の4割の人口しかない韓国は20位だ。人口規模が最も需要な変数だという説はなんとなくあっているように思える。

  各国のパンデミック政策の優劣を比べるときに、よく耳にする説がもう一つある。指導者が女性の国のほうがコロナ対策がうまくいっているというものだ。女性首相や女性総督が率いるニュージーランドや台湾は、コロナ対策で成功している例として、日本のメディアでもよく取り上げられる。ロウィー研究所のコロナ対策成果ランキングでは、ニュージーランドはすでに書いたように1位、台湾は3位だ。

  女性指導者がコロナ対策で良い結果を出している例としては、他にも、ノルウェイ(18位)、デンマーク(23位)、フィンランド(17位)、アイスランド(7位)などがあげられる。

  この通説は、コロナ対策がうまくいっている国をみると、「女性が首相や大統領をやっているところが多いじゃん」と気がつく・・・というだけのことで、それを裏付ける統計データがあるわけじゃないと思っていた。が、最近になって、きちんとした研究が英国の大学研究者によって発表されている。

  世界194か国を調査した結果だが、コロナ感染者数と死者数、この2点において、女性が指導者の国の方が良い結果を出している。指導者が男性の国の感染者数は平均26,333人なのに、指導者が女性の国の平均は16,806人。死者数は男性リーダー国で1,994人なのに、女性リーダー国は1,056人となっている。(調査につかったデータは2020年5月19日までのもの。また、194か国のうち女性を首脳に掲げる国は19か国しかないので、サンプルサイズの小ささを相殺するための統計処理もしている)。

  研究者は、「女性リーダーは男性リーダーに比べて、より素早く迷うことなく決断し行動した。彼女たちは、早い段階でこれは生死の問題だと結論づけ、経済がどうなるかに関係なくロックダウンをすることが必須だと断固決断した。それが実績につながっている」と語っている

  そして、ここからが大事なことだが、「よく、女性は男性と比べてリスクをとりたがらない、リスク回避の傾向が高いと評される。が、それは間違っている。たしかに、パンデミックにおいて、女性リーダーは生死にかかわる問題に関してはリスクを回避した。そして、男性リーダーは、経済に関する問題に関してリスクを回避しようとした。逆の観点からいえば、経済問題については、女性はリスクをとる決断をしたといえる。男性リーダーは、経済活動の影響を懸念して、国を閉鎖する決断ができなくてぐずぐず迷った・・・とする方が正しい」とした。

  たしかに・・・。

  日本でも、安倍政権にしても菅政権にしても、世論調査によれば、コロナ対策への国民の評価はあまりよくない。どちらも、緊急事態宣言を出すのが遅いと批判され、Go to Travelよりもコロナ対策だろうと批判された。二つの決断はどちらも、研究論文に書かれたような「経済へのリスクを回避しようとした男性リーダー」の典型的傾向を示している。

  世界166か国が参加しているIPU(Inter-Parliamentary Union,列国議会同盟)が、 110か国の国会議員272人から回答を得たアンケート調査では、積極的に取り組む政策課題に男女で違いがあることが明らかになっている。男性が、外交、経済、教育といった課題に積極的だったのに対し、女性は、性の平等、地域社会、家族などの課題に重点を置く傾向が高い。こういった調査結果からも、男性が経済を重視して経済リスクを回避しようとするのに対して、女性が一般市民の暮らしを重視して生死のリスクを回避しようとする傾向が高いということが納得できる。

  コロナは、一般市民の生活、暮らしに密接した問題だ。だからこそ、安倍や菅政権の、男性指導者と彼らの男性を中心とした側近が考え出した対策や、その対策を国民にアピールするコミュニケーションそのものが、私たち一般市民には、どこか感覚的にずれたものに思えたのは当然の成り行きだといえる。

  一定以上の年齢の男性政治家の毎日は、専業主婦がいて家事や子育てなど家庭のことは(場合によっては選挙区の後援者の応対を含めて)すべてをまかせることで成り立ってきた暮らしだ。若い政治家のなかで、家事や育児にも積極的に参加している男性であれば、休校にすることが育児にどういった影響を与えるかすぐに理解できただろう。安倍元首相を支えたブレインの中に、家事に積極的に参加していてスーパーやドラックストアで日常的に買い物をし、一般人の暮らしぶりを肌で感じている人がいれば、あの時にマスクを配布することの良し悪しを判断することができただろう。我慢して自粛生活をおくっている一般市民に、自宅で犬とくつろいでいる首相の動画は、自粛を進めるどころか反感を買うことになる可能性も想像できたことだろう。

  いやいや、こういった理屈では説明しがたい。要は、政治家と側近として周りにいる役人たちが、いかにどっぷりと「男社会」につかっており、外の一般人の考えることや感じることを想像することができなくなっているか・・・ということだろう。KYで空気を読まないというよりは、吸っている空気が違う。どこか感覚的にずれていると批判されたのも当然だ。

  つまり、首相やその周辺の閣僚や役人たちは、政府が「働き方改革」で一生懸命強調していた「多様性」などなく、全員がいわゆる「男社会」という単一社会にはまりこんでいるということだ。

  女性が首相や大統領になっている国は、それだけ、多様化が進んでいるということだろう。つまり、女性が指導者になれる政治環境では、様々な経歴を持った政治家や官僚や役人がいるということだ。それが、コロナ対策に有効に働いた。

  ニューヨークタイムズ新聞も「女性に率いられた国のコロナ対策は(男性指導者の国よりも)なぜよかったのか?」という記事のなかで、「集団思考を避け盲点をつくらないようにするためには、多様な経歴や専門性を持つメンバーが集まって主要な決断をしなければいけない。だが、男性が率いる政権は、たとえば英国のように、首相が選んだアドバイザーに主に依存しており、外部の専門家からの異議に耳を傾けるチャネルをほとんど持っていない」と書いている。

  なんだか、日本の政権のことを言っているようではないか。

  最近、もっぱら話題になっている「会食」の実態から推測するに、政治の世界には会食でつながる「男社会」が色濃く残っているようだ。

  たとえば、菅首相を例にとると、11月27日から12月16日までの三週間で、ホテルの宴会場での会食を含めて45回会食をしたと報道されている。この3週間は西村経済再生相が「勝負の3週間」として、集中的な感染拡大防止を呼びかけたていた期間だ。この中で、問題となったのが、12月14日の8人でのステーキ会食(このとき、菅首相は、もう一つの会食とかけもちしている)。国民には自粛を要請しておいて、自分たちは会食しても大丈夫というのはおかしいだろうと批判された。

  これだけ批判があっても、なおかつ、会食は政治家にとって必要だと食い下がる議員が多い。自民党だけではない。野党の議員も同じことを言っている。1月6日、国会議員の会食にルールを設けようと与野党議員がいっしょになって提案した。言い出しっぺの自民党議員は。「国会議員が全く人と会わないというのは無理がある」という理由で、「人数は4人以下、午後8時以降は控える」というルールに基づく会食に理解を求めた。しかし、日本医師会会長の「国会議員が模範を示して」というしごくまっとうな反対意見にあい、ルール作りは取りやめた。

  なぜ、これほどの批判を受けても、まだ、政治家は会食にこだわるのか?

  ひと昔ではなく三昔前までは、「料亭政治」とか「夜の国会議事堂」といわれるものがあって、政治は料亭で会食しながら秘密裡に決まるものだといわれた。よく使われたのが赤坂の料亭。誰と会ったか知られたくない場合は、表向きの会食用と秘密の会食用と2つ部屋を取る。そして、表向きの会食をしている途中でトイレに行くふりをして部屋を出て、別の部屋で待っていた本来の相手と密談し、また、表向きの部屋に戻っていくという段取りだ(半沢直樹のドラマにも、こんな場面が時々登場したなあ・・)。「料亭政治」は、1988年に発覚したリクルート事件がきっかけとなり、自民党の世代交代が進み、政治改革も進んだため、終わりをつげた。

  だが、代わりにホテルが使われるようになった。自民党の世代交代が進み、料亭の和食よりもホテルでの高級フレンチや中華とかが好まれるようになったからかと思ったが、どうもそうではない。ホテルだと出入口がいくつかあるので、誰と会ったか秘密にしやすいからだという。

  話があるのなら日中堂々とミーティングすればよいだろうと思うが、それでは、内密の話ができない。あるいは、また、特に議題があるわけではなく、情報を得たいということもある。雑談の中で、相手の腹を探る。お酒が入れば、口が軽くなり喋ってくれる人もいることだろう。そして、相手から情報をもらったら、次にはお返しということで、こちらからも情報を提供する(ということは、また、会食するということだ)。根回しというのもある。飲んだり食べたりしながら世間話のなかで、こちらの意志をそれとなく伝え、賛成してもらえるかどうか相手の言動でそれとなく確かめる。

  こういったように、裏で内密に物事の大筋が決められるから、会議を開くときには、何が話し合われ誰と誰が賛成するかなど内容も結果もわかっている。いま俄然注目を集めている森会長は、年齢からいっても、「料亭政治」の経験も十分あるはず。もう結果が決まっている建前だけの会議になれているのだろう。だから、会議で発言が多かったり長かったりするのは時間の無駄に思えた。それで、「女性がメンバーだと会議が長くなる」という言葉が飛び出した。

  女性は「男社会」のメンバーではないから、事前の情報交換とか根回しからははずされている。状況が呑み込めてないので、(森会長にしてみたら無駄な)質問をしたり意見を言ったりする。

  こじつけ過ぎかもしれないが、こう考えるとつじつまが合う。

  政治の世界で女性が「男社会」に入れないのは当然だろう。毎晩のように仕事で会食しなければ仕事がまわらないのであれば、家族がいる女性、特に育児をする女性は政治家の仕事は続けられない。

  「女性と政治」をテーマにした「1万人女性意識調査」が2020年11月に実施されている。そのなかで、「女性の政界進出が進まない原因はなにか?」という質問の答えをみると、1位は議員活動と家庭生活の両立の難しさ(35%)、2位は政治は男のものという世の中の価値観(34%)、3位は女性政治家や女性政治家志望者を育てる環境の未成熟さ(33%)、4位は男は外で仕事、女は家事育児という性別役割分担意識(31%)とつづく。

  この調査結果をみても、政治の世界に根強く残っている「男社会」が、女性政治家誕生の障害になっていることがわかる。。

  その結果が日本の女性議員比率の低さだ。毎年のように話題になるランキングに、「列国議会同盟」(IPU)の調査結果がある。各国の国会下院(日本は衆議院)での女性議員の割合を見ると、日本は9.9%で、世界191カ国中165位(2020年1月現在)。当然のことながら、G7など先進国の中ではもっとも低い。

  女性議員をふやそうとしているようだが、そのためには、まず、男性議員の多様化を進めた方が早い。伝統的な「男社会」を作り、それを良しとする男性議員が大半をしめていれば、多勢に無勢。女性議員が仕事を続け、出世しようと思えば、「男社会」のメンバーとなり男性化するしかない。結局、多様性がなくなってしまう。

  同じことは私企業にもいえる。

  多様性が効果を発揮する組織にしたい場合、もっとも即効力があるのは、男性社員の多様化をまず進めることだ。日本企業の中核となっている男性社員は高校や大学を卒業して入社。そのまま、同じような人達に囲まれて同じ組織文化の中で年月を重ねる。中間管理職以上になると、政治の世界ほどではないが、それなりに「男社会」ができてしまっている。そこに、女性や外国人が数%の割合でまじっても、自分たちの異なる観点や考え方を活かすことができないままで終わってしまう。家事や育児、あるいは、その他の様々な経験を経てきた男性社員がいることで初めて、女性や外国人がもたらす多様性が効果を発揮するようになる。

  最後に・・・前述した英国の大学研究者が発表した論文で、女性リーダーがコロナ対策に成功した理由として、もう一つ、挙げられていたのは、彼女たちのコミュニケーション能力だ。「女性リーダーは、謙虚さと共感性をもって、国民に自粛の必要性を訴えた。人々の行動を変容させることにおいて、こういった女性が持つ特性が役にたった」と説明された。

  だが、ここで、謙虚さと共感力は女性特有の資質だと言ったら、これこそ差別になってしまう。男性にも、そういった特性を備えている人はいる(というか、女性でも謙虚さや共感性を備えていない人はいる)。日本でも、コロナ対策が「頼りになる」と評され、支持率が急増した男性知事や男性市長がいる。この人たちが発信したコミュニケーションの多くは、わかりやすく明瞭で(謙虚さがもたらすもの)、コロナによる弊害を自分事としてとらえている(共感性)ことが感じられる内容や語り口だった。だから、市民や県民の信頼を得ることができたのだろう。

  大臣や首相まで登りつめた人達にコミュニケーション能力がないはずがない。他人を説得することで仲間や支持者を集めることに成功した人達だ。だが、考えてみると、会食を通じて特定少数の人たちと話す技術や、自分と同じ「男社会」というグループに属している人たちを説得するためのコミュニケーション技術は、不特定多数の国民を説得するスピーチには通用しないかもしれない。

  (ここで、「通用していない」と断定したら、筆者の私こそ謙虚さがないといわれそうなので、やめておきます)。

 

 

 

参考文献:1.Why are women-led nations doing better with covid-19?, The New York Times 8/13/20, 2. Female-led countries handled coronavirus better, study suggets, The Guardian, 8/12/20, 3. Why the traits of Female leadership are better geared for the global pandemic, 10/11/20, 4.Supriya Garikipait and Uma Kambhampati, Leading the Fight Against the Pandemic: Does Genter Really Matter? University of Liverpool 5. Corona Performance Index by Lowy Institute,6.1万人女性意識調査第二回「女性と政治」、日本財団2020年12月 7.「勝負の三週間、首相はグルメ三昧 コロナ第3波の猛威の中、会食40会超」Yahooニュース、12/21/20 8.francis fukuyama, The thing that determines acountry's resistance to the coronavirus, The Atlantic 3/30/20

2021年1月16日 (土)

不確実性下におけるANAと黒鳥と黒い像

 コロナウィルスによるパンデミックで大きな損失をこうむった企業が多い。なかでも、航空会社、宿泊業者や飲食業者は、客が、突然、消えてしまった。需要の存在しない市場では、供給する側はなすべき手立てもなく茫然と立ちつくすのみだ。

 その一方で、「あつ森」でもりあがった任天堂や世界中の有料会員数が2億人近くまで膨れあがったネットフリックスのように、パンデミックのおかげで収益を大幅に伸ばした企業もある。景気の良い悪いが業種によってこれほど明白に分かれることは珍しい。

 世界経済が縮小するなか、欧米のビジネスメディアでは、コロナウィルスはブラックスワン(黒鳥)なのか、ホワイトスワン(白鳥)なのかという議論が目立った。ブラックスワンという言葉は、金融デリバティブ・トレーダーの経験を持つリスク分析研究者ナシーム・ニコラス・タレブの著書「ブラック・スワンー不確実性とリスクの本質」が2007年に世界的ベストセラーになることで広まった。

 もともとの言葉の由来は、1697年に、オランダの探検隊が、オーストラリアで黒鳥(ブラックスワン)を発見するまで、北半球のヨーロッパ大陸の人たちはスワンと言えば白鳥であり、すべて白いものだと信じていた。そのため、「ありえないこと」「起こりえないこと」のメタファーとしてブラックスワンという言葉が使われるようになった。

 今回のパンデミックを白鳥か黒鳥かと議論しているということは、ありえないことが起こったのだから予測できないのは当然とする黒鳥派と、起こることは予測できたとする白鳥派が、どっちが正しいかという議論をしているということだ。

 著者のタレブ自身は、新型コロナウィルスは白鳥だと語っている。なぜなら、以前から、パンデミックがいつ発生してもおかしくないと指摘する科学者は多かった。急性呼吸器系感染症をもたらすウィルスについては、2002年に中国で発生したSARSがアジアやカナダを中心に32か国に拡大しているし、2003年から2015年の間に、アジアやエジプトを中心に鳥インフルエンザのヒト感染がみられ450人近い死亡者も出ている。発生してから拡大していく経緯の研究もあり、適切な防疫方法についてもある程度の知見も得ていた。だから、中国の武漢での感染症発生が分かった時点で、中国との出入国を停止していれば、世界中に広まるパンデミックにはならなかったとタレブは主張する。

 たしかに、今回の出来事は、各国の政府高官やWHO高官にとっては明らかにホワイトスワンであり、適切な防疫体制を素早くとらなかったのは、各国政府とWHOの大きな失敗だ。つまり、過去の知見から予測できたはずであり、こんなときに首相や大統領になっていて運が悪かったという愚痴は通用しないということだ。

 だが、特定の業種の企業にとっては、コロナウィルスはブラックスワンが登場したようなものだろう。感染拡大が予測できたとしても、私企業として、これといった対策をとることはできない。だから、たまたまタイミング悪く社長の座にいた人は、「ありえないこと」が起こったのだから、「自分は運が悪い」と思ったとしても許されるだろう。

 たとえば、航空会社のトップ経営者が武漢で感染症が発生したと知り、これは世界的パンデミックになると予測したとして、損失を少なくするために、早目にとれる手段があっただろうか? パンデミックになり各国間の往来が禁止されると個人的に予測したとしても、各国政府が国境封鎖や飛行禁止の措置をとらず旅行者が国から国へと行き来しているときに、つまり、需要が存在しているときに、自社の国際線を停止することなどできない(同じことは、ホテルや飲食店にもいえる)。

 つまり、政府よりも早く危険性を感知したとしても、こういった業種の経営者にいったい何ができるのか?ということだ。

 航空業は固定費の割合が約60%で、日本の全産業平均の約20%の3倍。労働集約型サービス業だから、固定費の3割は人件費で、残りは一機200億円とか300億円する機材費(飛行機代金)とその減価償却費が占める。しかも、飛行機は維持費が高く、飛ばなくてもコストがかかる。一週間に一度、15分くらいはエンジンをかけないと使えなくなるし、一か月に一度、トーイングカーで引っ張って動かさないと、タイヤがパンクしてしまう。

 このように固定費の高い航空会社には融通性がない。飛行停止措置がとられる前にパンデミックの予測をした感度の高い経営者がいたとしても、その時に取れる対策といったら、すでに注文していた機材(飛行機)をキャンセルしたり、キャンセルできなかったら導入予定を遅らせることぐらいしか手立てがないということだ。そして、航空会社の営業利益率の世界平均は4.8%だから、営業できなくて収入が途絶えれば、とたんに人員削減とか経営破綻の話が出てくる。

 世界的に著名な投資家ウォーレン・バフェットは、2007年の「株主への手紙」で、投資家として航空産業ほど恐ろしい産業はないと書いている。「航空会社は急成長をするが、その成長を生み出すために莫大な資本を必要とし、結果、利益を稼ぐことがほとんどできない・・・だが、投資家たちは、その成長に魅了されて底なし沼に資金を投入し続けてきた」とし、「ライト兄弟が最初の飛行実験をした場に、先見の明ある投資家がいあわせていて、その飛行機を撃ち落としてくれていたら、後世の投資家たちに多大な恩恵を与えることになっただろう」なんてことまで書いている。

 航空会社の株を買って手痛い目をみた自らの経験から出た辛辣な意見だ。

 それなのに、ああ、それなのに・・・、バフェットは2016年に、米国の航空会社4社の株を購入してしまった。そして、コロナ禍の今年5月、全ての株を損失を出しながらも売却し、「買ったのは間違いだった」と自分の誤りを認めた。

 それでも、「大手航空会社4社のCEOは優秀であり、彼らのミステークが原因というわけではない、航空業はそういうふうにできているのだ」とも語っている。

 バフェットの言動は神のお告げとして世界中の投資家が参考にしている。そのバフェットが「航空会社には投資しない」という宣言を、ついひるがえしてしまったくらい、コロナ以前の10年間、世界の航空業界はグローバル化のおかげで超がつく高度成長をおう歌していた。国連世界観光機関によれば、世界中の旅行客の数は2019年には15億人に達している。国際航空運送協会IATAは、1998年に販売した航空券は14億6000万枚だったが、2019年には3倍の45億4000万枚になったと発表している。

 この高成長が今後も続くと予測して、多くの航空会社が積極的な成長戦略を採用していた。新規の路線を増やし、それにあわせて新しい飛行機を買い、それにともないサービスを提供する従業員も増員する。何百億円の機材を買うわけだから借金も多くなる。そこに、突然のパンデミックで需要が大幅に縮小する。

 外食産業のように配達とかテークアウトを増やす、場合によってテークアウト専門店を出店するというような融通性は航空業にはない。せいぜいいって、大型旅客機をモノを運ぶ輸送機に変更することぐらいだ。景気が悪くなってできることは、機材売却か人員削減しかない。それでも、ヴァージンオーストラリアのように経営破綻したり、アリタリア・イタリア航空のように再国営化される企業がでてくる。韓国では政府主導で大韓航空がアシアナ航空を買収することとなった。

 そういった意味で、そもそも、日本の規模の国で、大手航空会社が二社もあるのはおかしいという話が再燃して、ANAとJALの統合論がまたぞろ出てきたりしている。ANAとJALの財務状態を比較する記事も多く、そのほとんどが、ANAがJALより大きな赤字とより大きな負債を抱えている原因として、ANAの積極的経営をあげている。見出しをみていると、まるで、JALの消極的経営が正しかったような印象を受ける。たとえば、「ANA , 広げた翼 重荷」「ANA拡大路線 あだ」あるいは「消極戦略貫いたJALと明暗 王道歩んだANAの大誤算」などといった見出し・・・。

 これはおかしい。

 10年前のことなので忘れてしまった人もいるかもしれないが、JALは2010年に2兆円を超す負債を出し経営破綻した。そして、銀行に5215億円の債権放棄をしてもらい、政府系ファンドから3500億円の出資を受けている。TVドラマ「半沢直樹」の最新シリーズは、この実話をもとにしてストーリーがつくられた。もっとも、ドラマでは、銀行が・・というか半沢直樹が政府の意向に最後まで抵抗して債権放棄はせず、航空会社は自主再建することになっている。

 だが、現実には、官僚的組織で殿様商売をしていたと批判されたJALは5000億円もの負債をチャラにしてもらっている。だから、ANAより負債が少ないのは当然だ(ANAの有利子負債は1兆3589億円、自己資本比率は33.9%であるのに対し、JALはそれぞれ5046億円と45.9%)。

 積極的にリスクをとる戦略をとってきたANAは間違っていなかった。リスクをとらない日本企業が多いなか、健全なリスクの取り方だった(自己資本率33.9%は、世界の上場航空52社の平均である11%と比べれば、悪くない)。

 JALの消極的戦略を正しいとするようなメディアの見出しでいくと、「ほら、みろ、日本企業の内部留保が多すぎると批判されてきたけれど、こういったブラックスワンのような出来事があるから、そのために金を使わずにとっておいたんだ。よかっただろう」という意見がまかり通るようになる。実際、「石橋をたたいて、(それでも)渡らない」式の経営を続けてきた企業経営者の多くは、コロナ禍のなかで、自分の経営方針が正しかったと胸を張っている。

 戦略的に意味ある投資すらも避け、前例を継続しつづける可もなく不可もない経営手法への反論はいろいろある。

 たとえば、十分な利益剰余金があるのなら、もっと前に、デジタル化に投資していれば固定費の割合が少なくなり、想定外のことが発生しても、融通性を発揮でき被害を少なく抑えられたはずだというもの。利益剰余金を従業員の賃金を上げることにつかっていれば、不満を抱えながらも転職するリスクをとりたくないがゆえに仕方なく会社に残り続けている従業員の割合が少なくなり(日本企業のエンゲージメント率がOECD参加国の中で最低レベルなのは、こういったタイプの社員が多いからだ)、パンデミックのような非常時を意気の高い従業員とともに乗り越えることができる・・・というのもある。

 だから、「消極戦略貫いたJALと明暗 王道歩んだANAの大誤算」という見出しは間違っている。誤算は計算が間違ったという意味だが、ANAは計算されたリスクをとった。ブラックスワンの登場は不確実で予測はできない。だから、「大誤算」ではなくて「大不運」の方が正しい。

 ANAの成長戦略は、今後もグローバル化が継続する、つまり旅行需要が拡大することを前提とした世界の多くの航空会社が採用していた戦略だ。ANAは国内線よりも利幅の大きい国際線で新たな路線獲得を進め、それに合わせて機材の数を増やし、サービスを提供する従業員の数を増やしてきた。ANAの拡大戦略は成功し、連結売上高は2010年3月期の1兆2283億円から、2019年3月期は2兆583億円にまで伸び、創業以来初めて2兆円を突破した。

 JALはこういった成長戦略がとりたくてもとれなかった。それは、公的支援をうけたJALは、他の航空会社との公平をはかるために17年春まで投資や路線の開設が抑制されていたからだ。つまり、JALも好きで消極的戦略をとっていたわけではないということだ。

 ANAの戦略は間違っていなかった。21年3月期決算発表の席で、過去最高の赤字を出すことを明らかにした片野坂社長は、拡大路線について「正しい戦略だったが、(コロナ禍は)非常に予想を超える影響だ」と悔しさをにじませたそうだが、納得できる。

 コロナ前のANAの戦略は間違っていなかった・・・と強調したが、たった一つ、長期的観点にたっていれば、異なった判断をしていたのではないかと思われる決断がある。

 エアバスの超大型飛行機A380を2019年に導入したことだ。

 欧州エアバスの(一部じゃなくて)全部二階建てになっている超大型機A380は一機500億円。ドバイを拠点とするエミレーツ航空はA380を100機以上も所有していて、二階にバーラウンジ、個室、シャワー室までついているチョー豪華なファーストクラスをつくり有名になった。

 世界の航空業界では近年、中型機の航続距離が延び、コロナ以前から、中型機や小型機へのシフトが始まっていた。しかも、大量の燃料を消費する大型機は環境問題の観点から敬遠されるようになり、エミレーツ航空ですらA380の発注を止めたため、エアバスはA380の生産を中止すると2019年に発表している。

 環境問題は黒い像(Black Elephant)だといわれる。この言葉のもとをたどると、19世紀ごろから使われている「部屋の中にいる像(Elephant in the Room)」という表現に行きつく。部屋の中に象がいれば、誰もがその存在に気づくはず。そこから、大きな問題だと認識しながら、様々な理由からあえて無視したり、関わらないようにする行為を指すメタファーとなった。

 「部屋の中にいる像」に「黒」がついた「黒い像」は、長い間認識していながら見て見ぬふりをしていた問題が、ある日突然、ブラックスワンのような想定外のありえない問題に発展し、社会全体が大混乱する現象をいう。「環境問題は黒い像になる可能性がある」といったふうに、環境がらみで近年よく使われるようになっている。

 1980年から2015年にかけて、航空機からの二酸化炭素排出量は毎年2.2%増大した。燃料効率の良い機材が製造されるようにはなってきたけれど、乗客数の急激な増大により飛行機が飛ぶ数も多くなっていた。この35年間、飛行機が使う燃料は毎年2~3%少なくなってはいたが、航空輸送は毎年5.4%増加した。結果、世界の航空会社全体で排出する二酸化炭素の量がすべての排出量の12%にも及ぶようになってしまった。

 日本でも「飛び恥(Flight Shame)」という言葉がメディアをにぎわせ、ヨーロッパでは航空会社への強い批判があることを知った人も多いことだろう。2019年の国連での温暖化対策サミットで、当時16歳だったスウェーデン人のグレタ・トゥーンベリが演説し、「恥を知りなさい」という厳しい口調で大人たちを非難して有名になった。彼女は、ニューヨークで開かれた温暖化対策サミットに参加する際はヨットで大西洋を渡り、ローマ法王に拝謁した際はバチカンまで鉄道で移動することで、飛行機を使うなんて恥ずかしいことはやめようと具体的行動で示した。

 こういった環境運動の高まりを意識して、KLMオランダ航空は、創立100周年を記念して制作した動画で(ネットで見られます)、「いつも対面して話す必要がありますか? もしかして電車でも行けるのではないですか?」と問いかけ、「たしかに、飛行機でなければ行けない時もあります。ですが、飛ぶことで負うことの責任について考えてみてください」という飛行機を利用する頻度を少なくするのを促すような、航空会社としては勇気あるというか、そんなこと言っていいのとツッコミたくなるような動画を発表した。取締役会の承認を得るまでに3回会議を開かなければいけなかったそうだ。

 いずれにしても、ヨーロッパの航空会社はコロナ以前からも、環境対策として大型機を使うのを避け、より小型の燃料効率のよい機材を使うようになっていた。また、使用済みの食用の植物油からつくるバイオ燃料の利用も進めてはいる(いまのところ全燃料の0.2%にしかなっていない)。テクノロジーが進化して水素で飛ぶ飛行機がいつの日か実現することを目指してはいる。エアバスは液化水素をガスタービンで燃やして飛ぶ「ゼロe」を35年までに実用化すると宣言しているが、希望的観測に近いとみられている。いまのところ、排出量を減らす最も現実的な方法は、飛ぶ頻度を減らすことなのだ。

 たとえばKLMは500キロ以下の短距離路線については、鉄道を使うように促すことを考えている。利用者は、飛行機の乗り継ぎと同様、KLMの窓口で鉄道のチケットを買うことができる。荷物も飛行機から鉄道に移し替えてくれる。フランス政府も、パンデミックで財務状態が悪化しているエールフランスに対して、高速鉄道TGVと競合する短距離路線の再開断念と国内飛行における排出量を2024年までに半減することで経済支援するという条件を提案した。   

 北欧を除いて鉄道網がある程度発達しているヨーロッパならではのアイデアだ。日本でも東京から新幹線で3時間くらいで行けるところは飛行機利用を止めることに反対する人はそれほどいないだろう。だが、高速鉄道網がほとんどない北米は難しそうだ。

 このように航空会社による環境被害が問題になってきているというのに、ANAがエアバスA380を導入したのは誤りではないか?という話に戻ります。

 ANAは大型機を導入することを検討していたが、2008年の金融危機後の世界的不景気を理由に導入計画の凍結を発表した。だが、2016年にエアバスA380を3機導入することを決め、その1号機が2019年春より東京-ホノルル線に導入された。

 問題としているのは、いったん凍結した大型機導入を、なぜ、2016年に決めたのか? そのころには、世界の航空産業の方向性は、中型機や小型機に移りつつあったというのに・・。

 なのに、なぜ?

 経営陣が意思決定するときには、当然のことながら、メリットやデメリットをあらゆる角度から分析し論理的な意思決定をするはずだ。だが、後から考えて、その決定が間違っていたかもしれないと思われる場合、その決定が最終的には論理以外の要素に影響されていることが多い。あるいは、また、利害関係にある他の意思決定者がこちらのシナリオ通りの行動をとってくれなかったということもある。

 最初に、ANAのエアバス導入の決定に感情が影響を与えていたのではないかという疑いを紹介する。

1番目の誤り:JALへのライバル意識

 日本―ホノルル線のシェア首位はJALで30%。ANAは4位で13%。しかも、JALは2017年にハワイアン航空とコードシェアを含む包括提携で合意し、結果、両者合わせてのシェアは52%と他社を引き離す。A380はレイアウトによっては座席数が800席以上になり、一般的な航空機の2倍の席数になる。座席が多いということはシェア拡大に好都合だ。また、一席当たりの運行コストも下げられる。しかも、超大型機ということで、一度は乗ってみたいと思う旅行客も多いから話題づくりにもなり、ライバルの客を奪うのにも貢献してくれるはず。ANAとJALはライバル意識が強く、あそこだけには負けたくないという思いが強い。打倒JALの感情的思い入れがANAの冷静な判断を狂わせたといえないこともない。「ハワイといえば日本航空という概念を変えたい」と、A380のハワイ路線就航にさいして、ANAの平子社長(当時)もそう発言している。

2番目の誤り: シナリオ通りに進まなかった

 ANAは本当はエアバスを買いたくなかった。大型機から燃費性能に優れた中型機への転換を戦略的に進めていた最中に、戦略にそぐわない機材を買うことにしたのは他の理由があったからだという説もある。スカイマークの羽田発着便枠(一日36便)が欲しかったというものだ。

 スカイマークは、1986年に始まった日本の航空輸送業の規制緩和により、新規参入航空会社の第一号として誕生。このスカイマークが2015年に経営破綻した。このとき、スカイマークが持っていた羽田発着枠を得たいと考えたANAは再建支援企業に名乗り出た。支援企業と認められるためには、自社が推す再建支援策が債権者の賛同を得なくてはいけない。最大債権者だったエアバス(スカイマークはA380を6機も注文したが、途中で、業績悪化を理由に注文をキャンセル。エアバスに多額の違約金を請求され、これが経営破綻の直接の原因となった)を味方につけるために、A380の購入を引き受けたといわれる。

 その後、スカイマークは民事再生手続き申請後、わずか一年で営業黒字を達成するという驚異の復活を果たした。が、ANAとの提携、具体的にはANAとのコードシェア便については、独立性を保ちたいという理由で拒否して実現していない。ANAはスカイマークが違約金を支払わなくてもすむように自らA380を購入して肩代わりしてくれたようなものだから、スカイマークは恩義を感じてコードシェア便を承諾してもよいはずだ。わずか一年で黒字転換を達成したことから強気になったのかもしれない。

 ANAは、他社の経営者(他者)の判断や行動を推測したが、シナリオ通りには進まなかったということだ。もっとも、経営破綻した企業がわずか一年で黒字回復するという、ある意味、「ありえない」ブラックスワン的な出来事が発生したわけだから、相手の出方を読み違えたとしても仕方がなかったかもしれない。

 環境問題という「部屋の中の像」が、ヨーロッパにおいては、だんだん黒くなってきている状況があった。その一方で、世界市場において、今後、航空産業が急速に伸びるのは中国やインドをかかえるアジア市場だと予測されていた。アジア市場攻略にはスカイマークのような国内線と短距離国際線に強い航空会社と提携することは重要だ。ANAとしては、環境問題という当時はまだ切実度の低かった課題よりも、企業成長に直結するアジア市場攻略に重要なスカイマークとの提携をより重要視したのだろう。

 問題は、利害関係にある相手の出方に不確実性があったことだ。

 「不確実性下の意思決定」といったようなタイトルをみると、つい、不確実な時代とか不確実な環境における意思決定というような意味かと思ってしまう(って、そう思ったのは私だけ?)。が、厳密にいえば、意思決定する人間が持っている情報の確実さを指す。つまり、意思決定者は何らかの目的を達成するために決断をしなくてはいけないわけだが、実際には、意思決定者がコントロールできない要因(変数)が多々ある。 たとえば、コロナ感染の収束時期、飛行機の環境汚染に対する世論といった変数。投資予定あるいは買収予定先企業の経営者の思惑や行動といった変数。こういった変数を自分の思い通りにコントロールはできない。

 意思決定者は自分がコントロールできない変数をできるだけ正確に予測して決断しなくてはいけないわけだが、このとき、意思決定者が持っている情報は、多くの場合、不確実である。だから、不確実性下での意思決定となる。

 経済学者フランク・ナイトは、1921年に出版した本で、リスクと不確実性とは違うとした。リスクの場合は、同じような状況を過去に見てきているので結果を確率で計算できるが、不確実な状況の場合、一番起こりやすい結果は何かを評価するに足る経験がないためにguessするしかないと書いている。guessという英語を推測と訳せば、ある程度は正確に予測できるようなイメージを抱いてしまう。が、guessは想像とも訳すことができる。

 つまり、意思決定者は将来を想像して決断しなければいけないということだ。しかも、ナイトは、不確実性の特徴はこれまで存在しなかった「新しさ」にあるとしている。先例がないので、結果の可能性の範囲すらも正しく想定することができないとした。

 このように、不確実性とかリスクの本来の定義に戻って考えてみると、いまの経済やビジネスに携わる人たちは、自分も含めて、傲慢になりすぎているというか安易に流れているように思えてくる。

 私たちは、ナイトがリスクと不確実の分類で使っている基準を無視して、先例のない新しい出来事ですら数字で表現しようとしている。そして、不確実な出来事ですらも確率で表現し、それによって被るであろう損失を計算さえすれば、将来に発生するかもしれない出来事を管理することができたとみなしてしまっている。

 日本の大手企業の60%はリスクマネジメントを導入しているという。リスクマネジメントとは、リスクを組織的に管理し、損失などの回避または低減をはかるプロセスをいう。

 ある航空会社が自然災害、戦争、あるいは感染症といった要因でいくつかの国に飛行機を飛ばすことができなくなるリスクが発生する事態を想定し、それによる被害を算定するために確率を計算したとしよう。たとえば、アジア地域で何らかの問題が発生し運航停止が起こる確率を30%とみて、それによる財務的影響や損失低減対策リストを作成する。だが、そういった問題が世界的に拡大しグローバル規模で長期間にわたって運航停止になる事態を想像し、その発生確率を算定するだろうか? 

 仮に、全世界的に長期にわたって運航停止になる確率を3%とし、引き起こされる財務損失を計算するとしよう。そして、これでリスク管理はできているとみなす。だが、現実には、これでリスクが管理されたわけではない。

 一番目の問題は、こういった事態は先例のない出来事であり、ナイトの定義によれば不確実性の高い出来事であり、たとえ確率が算出されていたとしても正確ではない。2番目の問題は、わずか3%という「まずありえない」出来事のために、想定される財務損失に足る手元資金を常に準備することができるだろうか? 3%の確率のために資金を使わないでとっておくよりは、10%以上の成長がもたらされる戦略に投資した方が良いと判断する経営者は多いはずだ。3%のリスクを恐れて積極的戦略への投資を怠れば、競争に負け、リスクが発生したときとは異なる意味で致命傷になるかもしれない。

 何が言いたいかといえば・・・、

 企業は、いま、リスクではなく不確実なことまでも数値化し確率で表現しようとしている。その結果として、数字で表現できればリスクと同じく不確実性をも管理することができたと勘違いするようになってはいないだろうか?

 発生確率3%の出来事でも起こるときには起こる。ブラックスワンだ。つまり、不確実性の高い出来事を想像して、それに確率という数字をつけて、そこから生まれるリスクを管理したような気分になっていても、今回のパンデミックが明らかにしたように、現実には管理することなどできないということだ。

 「ブラック・スワン」や、それ以前の「まぐれ(原題はFooled by Randomnessで『ランダム性にだまされて』と直訳できる)」という本において、著者のタレブがくり返し述べているのは、人生(世の中)の出来事の多くは偶然だ。それでも、人間はそこに理屈をつけたがる。因果関係で説明したがる。だが、実際には、投資した株で大儲けをしたり、ある商品が大ヒットするのは偶然のできごとであり、運・不運と呼ぶことができる。

 これを、最近の日本の例でいえば、映画「鬼滅の刃」が観客動員数歴代一位になったのは、漫画単行本やTVアニメで築かれたファン層の存在とか、いろいろ講釈をたれることはできるが、それだけではあれだけ観客を集めた理由にはならない。コロナ禍で他に見るべきこれといった大作がなかったというタイミングの問題が大きい。運がよかったから大ヒットしたということになる。

 たしかに・・・。タレブの言う通り。人生や世の中は偶然で成功・不成功や幸せ・不幸せが決まることが多い。反論はできない。

 だが、寅さんのセリフじゃないが、「それを言っちゃあおしまいよ」とも言いたい。

 世の中が、あるいは自分の人生が、偶然によって左右されると信じてしまったら、私たちは生きていくことができないし、人類はここまで発展することはなかった。世の中のことはすべてあらかじめ定められた運命によって支配されていて人間の力ではそれを変えることができないとする運命論だけでは、人類はここまでやってこられなかった。

 私たちは偶然を信じたくないと考える。だから、理屈をつける。「あの人は他の誰よりも努力していたから成功したのだ」と因果関係を見つけようとする。私たちは、不幸が訪れたときに、それに理由がつけられない場合には、なかなか納得できない。自分に不幸が訪れたのは、単なる偶然で不運だったのだとは思いたくない。そう思ってしまったら、次に、新しい一歩を踏み出すことはできなくなってしまう。

 だが、残念ながら、人間にも会社にも幸運が訪れることもあれば不運が訪れるときもある。ときに、ブラックスワンが登場して、それまでやってきた努力がすべて消えてしまうことがある。第二次大戦後の60年間の安定した社会と安定した経済成長に、先進国に住む人間はすっかり慣れてしまった。だが、グローバル化が進み、社会システムの相互依存が進み複雑化することにより、ブラックスワンが発生しやすくなっているし、発生したときの影響は深刻なものになる。また、経済格差が広がり、ソーシャルメディアで不正確な情報が拡散しやすい社会でも、ブラックスワンは発生しやすい。

 偶然やってくるブラックスワンを予測して対応することはむつかしい。だから、発生したときの被害を最小限に抑えて早く元に戻る回復力や再生力のある組織(社会や会社)を築くことがベストな防御策だ。

 最近、よく耳にするレジリエンス(resilience)の考え方が重要になってくる。

 組織にとってレジリエンスとは、失ったものを取り戻し立ち直ろうとする力だ。そのためには、変化した新しい状況に素早く適応し目的に向かって前進する融通性がなくてはいけない。

 レジリエンスで重要な要素の一つは、当然ながら、お金だ。ある程度の手元資金はもっていなくてはいけない。だが、先に書いたように、それにも限度というものがある。それに、お金で難局を一時的に乗り越えることができたとしても、変化した新しい状況のなかで本来の目的に向かって前進する力や能力がなければ、結局は、途中で挫折する。

 重要なのはレジリエンスをもった従業員だ。

 レジリエンスをもった社員は、自律して、融通性があり、ストレスにも耐えることができる。そういった能力に、前向きな感情、一致団結して目的を達成しようという感情が結びつけば頑強な組織が生まれる。たとえば、打倒JALという感情がANAのA380購入に関しての判断をあやまらせたかもしれないが、「JALに負けてたまるか」という感情を社員全員が共有していれば、それは、コロナ後にANAが再び成長路線に戻る原動力になってくれるはずだ。

 ANAは大規模な希望退職募集はせず、他企業への出向や、勤務日数を従来の半分に減らす条件で社員の副業や地方在住も認めるといった方策で、人件費を抑えながらも、社員を維持していく方針だ。JPモルガン証券のアナリストは「皆で痛みを分かち難局を切り抜けたい考えなのだろう」とコメントしている。

 ブラックスワンがいつ登場するか予測できない社会において、会社のレジリエンスを高めるためには、企業同士の協力や協同も必要だ。今回、ANAの出向を受け入れているのは、航空会社の接客ノウハウに目をつけたスーパーとか家電量販店。どちらも、パンデミックのなかでも売上を維持している産業だ。だが、明日は我が身。次には、航空会社に助けてもらうときもあるかもしれない。中小企業同士が業種の垣根を越えて助け合ういくつかのプロジェクトも今回のコロナ禍の中で始まっている。

 さて・・・、うんざりするほど長い記事を書いたのは、航空産業や外食産業といった、ブラックスワンが運んできた偶然に大きなダメージを受けた産業で働く人々に、エールを送りたいと思ったからです。でも、元気づけにはあまりならない内容になってしまいました。だから、最後に付け加えさせてください。

 誰かといっしょに食事をすること、そして、遠くの知らない土地に行ってみたいという好奇心を実行に移すこと、この二つの行為は、私たち人類が文明を築く基盤となった活動です。現生人類の歴史だけを見ても20万年以上続けられてきた営みです。緊急事態宣言での自粛生活のなか、私たちは外食や会食できるようになることを待ち望んでいます。そして、飛行機にのってあそこに行きたいここに飛んでいきたいと夢見ています。早く実現することを心より切に願っています!

参考文献:1.「ANA拡大路線 あだ コロナ後へ改革」読売新聞10/28/20、2.「航空2社、相次ぎ資本増強」日経新聞 11/28/20, 3.「王道歩んだANAの大誤算」週刊東洋経済10/3/20、4.「ANAhd、広げた翼重荷」日経新聞10/27/20, 5. Warren Buffett Sells Airline Stocks Amid Coronavirus: “I Made A Mistake”, Forbes 5/4/20、6.「航空を取り巻く社会情勢について(補足資料)」国土交通省 平成24年12月、7.「ANA,コロナ後へ雇用維持」産経新聞 10/28/20 8.「ANA. 客室乗務員に地方居住や副業を容認へ…勤務日数は最大で半減も」 読売新聞11/28/20 9.「コロナ後へ手探りのJAL, ANA 異業種派遣やロボ開発も」日経電子版9/22/20, 10. 「特集 激震!エアライン・鉄道」週刊東洋経済10/3/10、11. Lucy Budd, et al., European airline response to the Covid-19 pandemic-Contraction, consolidation and future considerations for airline business and management, Research in Transportation Business & Management, 12. Samanth Subramanian, Inside the Airline Industry’s Meltdown, The Guardian 9/29/20, 13 Bernard Avishai, The Pandemic isn’t a black swan but a portent of a more fragile global system, Newyorker com. 4/21.20, 14. Joseph Nocera, A Skeptic Who Merits Skepticism, The New York Times, 10/1/05, 15. 「ハワイの空に巨大旅客機、ANAに勝算はあるか」東洋経済オンライン5/3/18, 16.「企業リポート ANA, 超大型機導入の成否」、週刊東洋経済6/15/19, 17.「共同運航先送り ANAスカイマーク支援の大誤算」エキサイトニュース2/10/16 18.ナシール・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」ダイヤモンド社 2016年、19.ナシール・ニコラス・タレブ「まぐれ」ダイヤモンド社 2008年

最近、やっと、「生産性向上が日本経済を再生する」という考え方への反対意見も注目されるようになってきました。そういった意見にご興味ある方は、拙著「勤勉な国の悲しい生産性」を読んでいただければ嬉しいです

2020年11月 3日 (火)

フーテンの寅さんとベーシックインカム

  コロナ禍で失業者や、仕事はあっても収入が大幅に減った人が増えた。家賃が払えないからホームレスになるしかない、子供に我慢をしいて食費を切り詰めている・・・こういった声が多く聞かれるようになり、ベーシックインカムに注目が集まるようになっている。一律10万円の国民給付金が支払われたこともあり、ベーシックインカム導入のきっかけになるのではないかと期待する声もある。

  ベーシックインカムについては賛否両論あり、学者や研究者が書いた本や論文が数多く発表されている。私が同じような観点から書いても役には立たないし、読む人もいないだろう。

  ・・・ということで、ベーシックインカムと「怠け者」について書いてみたいと思います。なぜなら、ベーシックインカム(Basic Income/BI)を批判する人が、必ず口にするのが、「働かざる者食うべからず」という考え方に基づく反対意見だからです。

  BIとは、全ての個人に対して無条件かつ定期的に支払われる所得のこと。国民給付金と同じように、世帯ではなく個人に支払われる。無条件だから、大金持ちであっても支払われるし、働けるのに働かない人にも支払われる。

  「BIは人々の働くことへの意欲を失わせ、怠け者を増やすことになる」。「BIの資金源は国民の税金だから、一生懸命働いた人の税金を、働く意欲のない怠け者に支給するというのは不公平だ」等々。BIは、経済用語でいうフリーライダー(ただのり、つまり、必要なコストを負担せず利益だけを受ける人)をふやすことになるというわけだ。

  そこで、「怠け者」にも存在意義がある。「怠け者」も社会に貢献しているのでBIを受け取るべきだという話を進めるために、「フーテンの寅さん」に登場してもらうことにします。

  怠け者の代表として寅さんを引き合いに出すのはおかしいと反論する人もいるかもしれない。 寅さんは「テキ屋」という仕事をしている。たしかに、毎日働いているというわけではないし、仕事が無いときには柴又に戻ってくる。おいちゃんとおばちゃんのだんご屋に居候しているときは食住の心配がないからぶらぶらしている。だが、旅先では自分の稼いだ金で暮らしているようだから、怠け者とは言えないだろう・・・という意見だ。

  いや、寅さんは妹のさくらから金銭的援助を受けて暮らしている。立派な怠け者だ・・・と考えたかどうかは知らないが、さくらが兄の寅さんにどれだけの金銭援助をしたかを、映画全作を検証して発表している「さんたつ」というサイトがある。援助は、1.現金供与、2.立て替え、3.旅費負担の3パターンに分けられ、合計援助総額34万2980円。ただし、寅さんも少しは返済している。甥の満男にええかっこしいで小遣いとして渡しているお金などを返済とみなすと、計3万5200円。よって、さくらから寅さんへの援助金額は差し引き30万7780円となる・・そうだ。

  いずれにしても、寅さんは、家族の金銭的あるいは非金銭的援助がなかったら暮らしていくことはむつかしかっただろう。それに、おいちゃんやおばちゃんも「世間さまに恥ずかしい。きちんとした職についてお嫁さんをもらって一人前になってほしい」とよく愚痴っていた。柴又商店街では、定職についておらずぶらぶらしている怠け者だとみなされていたと考えてもよいだろう。

  だが、寅さんは日本国民に愛された怠け者だ。

  映画「男はつらいよ」は1969年から1995年までに48作が公開され、映画シリーズ48作の配給収入は464億3000万円、観客動員数は7957万3000人を記録した。日本の高度成長期終了からバブル期、バブル崩壊の時代の国民的映画だったといえる。

 「怠け者」はフリーライダーであり、一生懸命働く人たちからかすめ取っているわけだから、みんなから毛嫌いされてもよい。なのに、なぜか、昔から一般庶民に愛されてつづけてきた。その証拠に、「寝太郎民話」なるものが日本各地に昔話として伝えられている。話の内容は似たりよったりで、寝太郎という名前通り、食っちゃ寝、くっちゃねをしていた怠け者が、突然、何らかの理由で変身して、村の長者になる。あるいは長者の婿になって成功するというストーリーだ。寝太郎民話の原型といわれる御伽草子(室町時代から江戸時代初期にかけて作られた物語集)の「ものぐさ太郎」は、なんと京都に上って貴族にまで出世している。

  怠け者を愛するのは日本だけではない。日本と同じく勤勉を道徳的だとするドイツに生まれたグリム童話でも、「ものぐさの糸繰り娘」「ものぐさハインツ」とか、三人の王子が怠け度を競い合い、一番怠け者の王子が王様になるという「ものぐさ三人息子」・・・と怠け者が得をする話、勤勉さより怠けることを肯定するような話がいっぱいある。

  怠け者がたんなるフリーライダーであるなら、どうして、怠け者のサクセスストーリーが、日本でもドイツでも中世の昔から長く語り継がれてきたのだろうか? 

  人間の深層心理を分析するユング心理学者の河合隼雄は、「昔話を民衆の心の深層から生まれたものと考えると、それは民衆の願望充足の機能をもっているといえる」と分析した。民衆が生きていくために朝から晩まで必死に働かなくてはいけなかった時代に、人々の無意識の中から、怠けることへの強い願望が生じてくる。怠け者が王様になったり村の金持ちの娘婿になったりするサクセスストーリーは、「実世界に不満の多い凡人たちを楽しませるための空想」だと、民族学者の柳田国男は説明した。

  「貧乏神に取りつかれて日夜あくせく働かなければいけない人間にとって、ごろりと寝ころんでみたいという欲望に勝る切実な要求はない・・・(だから)いつの時代にも、『大衆のあこがれの象徴』として、愛すべき寝太郎がゴロリと寝そべっている」と、戦後の九州の炭鉱で働き、炭鉱労働者の文学運動を組織した作家上野英信は書いている。

  がむしゃらに働く時代を経験した日本の勤労者が、寅さんの映画を見て、「ばかやってんなあ」と笑い、最後に喝采を送ったのも同じ心理だろう(寅さんの場合は金持ちにもならなかったし、恋もみのらなかったけど・・・)。

  でも、こういった心理は、心理学者や民族学者の説を聞かなくても、素人の私でもある程度推測できる。

  それに、「怠け者の存在意義」が心のいやしを提供するとか、現実逃避のための空想を呼び起こすといった理由だけでは、BI給付を正当化することはできない。

 「怠け者の社会における存在意義」の2番目は、怠惰から生まれる創造性とエネルギーだ。

  最初にエネルギーの話をします。

 「三年寝太郎」という昔話では、三年三か月の間、寝ぼうけていた若い男が、村人が干ばつで苦しんでいるのを見て、急に起き上がり、大川から水を引くための通水路を作ろうと一人で溝を掘り始める。最初は馬鹿にしていた村人も寝太郎の熱心さにうたれ協力するようになる。そして、灌漑用水が完成して村は豊かになったとさ・・・という話だ。こういったタイプの民話は日本各地に江戸時代のころから伝わっており、いずれも、何の役にも立たない怠け者が突然エネルギッシュに変身し、村の繁栄をもたらしたというものだ。

  もう少し現代に近いところでは、九州の炭鉱労働者にも似たような話が語り継がれていた。

  先に紹介した上野英信は、九州の炭鉱に伝わる「寝太郎伝説」を書いている。筑豊の炭鉱労働者は、彼らを「スカブラ」と呼んだ。「仕事がスカんで、いつもブラブラしちょるけんたい」というのが、名前の由来らしい。ついでにいえば、映画「男はつらいよ」の山田監督は、「寅さんはスカブラだ」と語っている。

  どの炭鉱にもスカブラはいた。仕事をさぼりながらも面白い冗談を言っては周囲を笑わせていたところは、寅さんに似ている。スカブラはフリーライダーなのに不思議なことに、誰一人いやがる者はいない。「それどころか、その男が休んだ日には仕事がさっぱりはかどらない。8時間が倍にも三倍にも感じられたと皆が思った」と上野は書いている。

  このスカブラが、たった一度だけ、気が狂ったたように働いた時があった。それは、落盤事故で、仲間が坑道の奥に閉じ込められた時だ。幸い一名の負傷者もなく無事に救出されたが、その緊急時の一番の働き手がスカブラだった。皆を救い出すまで、一度も休むことなく、救援隊を手足のように指揮し動かした・・・という。

  そういえば、寅さんも、48作品目に阪神淡路大震災に襲われた神戸を訪れ、ボランティアとして大活躍していたなあ・・・。 疲れ切った被災者に代わって区や市の担当者に掛け合ったり、みんなを元気づけて力をくれた。そういった被災者の話を後で聞いた博(さくらの夫)は「世の中の秩序とか価値観とは関係ないところにいる寅さんみたいな人間が、あーゆー非常時には意外な力を発揮する」とコメントしていた。

  ベーシックインカムをどういった人たちに給付すべきではない・・・という話になれば、ひきこもりの人たちも「怠け者」として給付すべきではない人たちのグループに入れられてしまうかもしれない。だが、元ひきこもりで、和歌山県の限界集落でニート数十人との共同生活をつづった本「『山奥ニート』やってます」の著者でもある石井新氏が、日経ビジネスの編集者に興味深いエピソードを紹介している。

  石井氏は、子供の頃から「男はつらいよ」の映画を見て車寅次郎のような自由な生き方に強い憧れを持つが、「世間の圧力に負けて」、関東にある大学の教育学部に進学。教育実習で徹底的にダメ押しされ精神的に参ってしまい、大学を中退。地元の名古屋に戻り「ひきこもり」となった。

  2011年3月11日、22歳の時に東日本大震災が起きた。ひきこもりの最中で、「時間だけはあったので、僕もボランティアにかけつけると驚いたことに、まわりでボランティアをしている人がニートばっかりだったんですよね。でもよく考えると、それは当然なんです。毎日多忙な勤め人の方々は、大震災が起きたからといってすぐに会社を休んでボランティアはできないですから。動けるのはニートくらいで」。

  そんな経験もあり、いざという時のために「労働力の余剰が、社会には必要なのではないか」「ニートのような人間も社会には必要なのではないか」という思いに至った・・・と語っている。

  江戸時代の「三年寝太郎」、戦後の炭鉱労働者のスカブラ、ニートの震災時のボランティア・・・と、怠け者がエネルギッシュに変身する「寝太郎伝説」は継続される。ここには、何か一つの真実があるのではないだろうか?

  ここまでくると、アリの社会のルールについて思い出す読者も多いことと思う。

  働きアリの中には一定の割合で働かないアリが存在する・・・というルールだ。これについては、世界中で研究成果が発表されているが、ここでは2016年に発表された北海道大学の研究を紹介する。一匹の女王バチと150匹の働きアリを一組として計4組を2年にわたって行動調査した。

  結果、次のような事実を発見した。約2割のアリは労働とみなせる行動を5%以下しかしていない。また、よく働くアリの上位30匹、あるいは、働かないアリ30匹を取り出して新しいグループをつくり観察を続けると、各グループともに2割程度のアリが働かなくなるということもわかった。つまり、アリのコロニーには常に一定の働かないアリが存在するということだ。

  なぜ、そうなるのか?

  その謎を解くためにシミュレーションモデルを作成。結果、分かったことは、働き者と見なされているアリでも、筋肉で動く以上、働き続けていれば必ず疲れて動けなくなるときが来る。「皆が一斉に働きだすシステムでは、疲れるのも一斉になりやすい。一方でアリの世界には、一時でも休んでしまうと、コロニーに致命的なダメージを与えてしまう仕事が存在する。シロアリで確認されているのだが、卵を常になめ続けるという作業がそれだ。ものの30分も中断すると、卵にカビが生えて死んでしまう。皆が一斉に働きだすシステムでは皆が一斉に仕事ができなくなり、コロニーに致命的なダメージを与えるリスクが高まってしまう」

  つまり、働かないアリが一定の割合あるコロニーのほうが、存続する確率が高くなる。働き者が疲れたら、普段働いていないアリが仕事を肩代わりすることで、アリのコロニーはリスクをヘッジしているのだ。

  アリの社会では、「怠け者」の存在意義は明らかにある。人間社会においても、元ひきこもりの石井氏がいうように「労働力の余剰」としての「怠け者」が、社会には必要なのではないか? だが、この考え方では、「昔はよかった。そういった怠け者の存在を認めるだけの余裕が社会にはあった」とか、「高度成長時代の会社には、これといった仕事をしていない社員っていたよね。宴会とか社員旅行とかになるとやけに目立った活動してさ・・・」という、たんに昔をなつかしむ話で終わってしまう。存在意義を納得させるだけの説得力がない。

  そこで、もうひとつの怠け者の存在意義となる創造性について紹介します。

  これも、民話を題材として、ユング心理学者の河合隼雄の説からはじめてみる。

  河合氏は「怠け者には天啓の声が聞こえる」とし、怠け者が動物の声を聞いたり、偶然のことをうまく利用して成功する民話として「水木の言葉」という昔ばなしを紹介している。

  ・・・昔あるところに無精な若者がいた。毎日ぶらぶらしていた。ある日、柿が食べたくなったが、木に登って取るのも面倒くさい。柿の木の下に寝ていたら落ちてくるかもしれないと思い、ムシロを敷いて仰向いて口を開けていた。すると、鳥が二羽飛んできて世間話を始めた。「町の長者は大病だ。庭に植えてある大きな水木が血を吸っているためだ。あれさえ切り倒せば病気はすぐ直る」。それを聞いた怠け者は長者のところに行き、長者の命を助けることで大成功したとさ・・・という話だ。

  鳥の話声は常識の世界で忙しく働いている人には聞こえない.天の声が聞こえないのだ。だが、怠け者の耳は天啓に対して開かれている。だから幸運を授かった・・・と、まとめてしまったら、ただのおとぎ話だ。

  だが、天啓の声とは自分の内面の声でもある・・・という河合氏の説明を聞けば納得がいく。

  毎日時間に追われて働く私たちには自分の内面の声を聞くだけの余裕がない。今回、コロナ禍で、テレワークで自宅で仕事をすることになって時間の余裕、そして心の余裕ができ、自然と、これまでの、そしてこれからの自分の人生に思いをめぐらした人も多いことだろう。そして、通勤地獄の都会から離れ、会社組織から離れ、個人事業主になって働き方を変えようと考えた人も多いことだろう。

  数か月でも「怠け」の状態がつくれたから、聞こえてきた天啓(自分の内面の声)だといえる。

  そういう風に自分の内面の声を聞くことができたのは、あなたが正規社員で、テレワークを自宅でしていても、一定額の収入が保証されていたからだ。非正規社員でクビになった人たちは、家賃が払えない、食費さえなくなってくる、これからどうやって生きていこうかと焦って考えることしかできない。ベーシックインカムがあって、5万あるいは7万円という収入が確保されていれば、ある程度の安心感をもって仕事探しができる。場合によって、次により良い仕事を得るための準備として資格をとる勉強もできるかもしれない。

  ベーシックインカムは、現代資本主義の欠陥を是正するための「分配」の問題として議論されることが多い。

  資本主義の基本は富の生産と分配にあるわけだが、グローバル化のなか、経済格差が各段とひろまり、分配の問題に真剣に取り組むべきだという声が大きくなっている。オリックスの宮内義彦シニアチェアマンも、「これからの経済はいかに成果を伸ばしていくかよりも、その成果をどう分け合うか、いわゆる分配が焦点になるだろう」と2019年のインタビュー(日経ビジネス)で答えている。

  このように、最低賃金にしてもベーシックインカムにしても、低額所得者への富の再分配という観点から議論される。そうなると、どうしても、「働かざる者食うべからず」という意見が出てくる。だが、BIを人的資本の問題として提案する論文があるので紹介しよう。この論文では、「怠け者議論」を排除して、人的資本の増大ということでベーシックインカムを考えようとしている。

  その根拠はというと・・・

  日本を含めた先進国は第三次産業にシフトしている。つまり、生きていくのに必要な財を生産している人よりも、様々な形で生活を豊かにすることを生業としている人の方が多いということになる。それは、つまり、昔は職業として成り立たなかったものが、職業として成り立つことを意味している(たとえば、ウーバーイーツとか出前館の配達員、ユーチューバー、コロナ禍で個性的なマスクを手作りしてネット販売、等々)。

  雇用の絶対量が不足しているのであれば、職に就いて働ける人が自分が得た収入を仕事がなく働けない人と分かち合うべきだという「分配」論になる。だが、新しい職業が今後も創造できる可能性が大きいのであれば、そういった流れを加速する方法に投資するべきではないか。

  人的資本(human capital/ヒューマン・キャピタル)とは、個人がもつ、知識、経験、技能、能力などを資本としてみなして使う言葉。社会のメンバーである個人が、何らかの方法で自分の人的資本を向上させれば、個人やひいては社会が得る所得が増大するという見返りを得ることができる(何らかの方法で…と書いたが、たとえば、BIがあるから今の仕事をやめ資格を取るための勉強をする、また、BIと貯金をもとに、新しいビジネスをたちあげるための準備をするというのもありだ。BIを当てにして、自分が将来も続けていけるような仕事は何かを見つけるために、一年間、日本中を旅行してみるというのも人的資本の向上に役立つかもしれない)。

  ベーシックインカムは再分配の促進にあるのではない。そうではなくて、新しいことに挑戦するだけの自由度とゆとりを社会全体に提供することを目的とする。論文の著者遅澤秀一氏(ニッセイ基礎研究所)は、BIの狙いは「社会全体のリスク回避度を低下させ、リスクを伴う人的資本投資を促す点にある」と書いている。「社会を活性化するには、現在の成功者の意欲だけではなく、将来の成功を志す人達がリスクをとることを後押しすることも重要なのである。それには成功した場合のインセンティブと失敗した場合のセーフティネットが必要となる」。

  つまり、人的資本としてのBIの意義は、失敗した場合のリスク低減にある。「働かざる者くうべからず」という批判に対しては、現時点の職業・仕事だけで働いているかどうかを問題とすべきではない。BIによって、現在の生活や職業とは違う新しいことにチャレンジする人間が増えることを目指しているというわけだ。

  誰もが、時々(それが数か月なのか数年なのかはわからないが)、怠け者になることが必要だ。それが、エネルギーを蓄え、創造性を生むことにつながる。

  1880年、「怠ける権利」というエッセイがフランスで発表され、問題作だとして世間を騒がせた。マルクスの娘婿だったポール・ラファルグが書いたもので、「労働者は働くことは美徳であるという妄想にとらわれている」「一日3時間以上の労働は、人間から考える自由も感じる自由さえも奪ってしまう」とし、「人間が持つ創造性と怠けることが一緒になることで、長期的には人類の発展につながるだろう」と主張している。

  最後のだめ押しで、河合隼雄氏の意見をもう一つ紹介したいと思います。

  「怠け者は天啓を聞くことができる」とした河合隼雄氏は、こうもいっている。「天啓という言い方が嫌いな人には自己実現という言葉を使ってもいい」。ユング心理学において、自己実現とは自分らしい生き方をすることを意味する。

  河合氏の主張を私流に翻訳すると・・・自分らしい生き方をするといっても、いったいどの方向にどのように実現していってよいのかわからないことが多い。方向性とかいまははっきりしないけれども、それがわかれば、ただちにそれに従っていこうという決意をもって模索している状態、この状態がなまけものであるということができる。

  それでいくと、寅さんは怠け者じゃあないかも。

  寅さんは、すでに自己実現を達成して、自分らしく生きているみたいだ。寅さんシリーズが多くの人に愛されたのは、寅さんが愛すべき怠け者だったからではなく、自分らしく生きていたからかもしれない。ぶらぶらしているとか世間様に恥ずかしいとか言われても、自分らしく生きることを徹底した車寅次郎の生き方に、「自分もああなれたらなあ」と思った人が多かったということだろう。

 

  このブログの内容は、もともとは、この夏に出版した拙著「勤勉な国の悲しい生産性」の二章「時短ではなく時間からの解放」に入れるつもりでした。が、ただでさえあちこちに話が飛びすぎる本がますますまとまりがつかなくなるということで断念したといういきさつがあります。ご興味ありましたら、合わせて読んでいただればうれしいです。

 

 考文献:1.「さくらは寅さんに総額いくら金銭援助したのか? その収支を計算してみた」、雑誌「散歩の殺人」のウェブサイト「さんたつ」より引用、2.遅澤秀一、「人的資本投資としてのベーシック・インカム」November 2010、ニッセイ基礎研究所、3.河合隼雄「昔話の深層」福音館書店1993、4.河合隼雄「昔話のユング的解釈・その一 怠け者の話」天理大学における講演、5.長谷川英佑、その他「働かないワーカーは社会性昆虫のコロニーの長期的存在に必須である」Scientific Reports, 2016年2月、6.「視界良考 滝口悠生さんと」 朝日新聞12/30/18、7.「保立道久の研究雑記、ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」10/28/18、8.「寅さんは死して何を残す?」日経ビジネス9/2/96、9.「15人のニートが超限界集落の廃校に集う理由」日経ビジネス1/16/18、10.「人生はつらいか 対話山田洋次」 旬報社 1999年、 11.Marina van Zuylen, The Importance of Being Lazy. Cabinet Summer 2003, 12.The Right to be Lazy, Processedworld. com Issue25

2020年9月24日 (木)

コロナ後の「ニューノーマル」のなかで「変わらないこと」を見つける

  「ニューノーマル」という言葉は、金融危機のときにも使われ、いまのコロナ危機にも使われている。この言葉を、コロナ禍での社会の変化と理解して使うこともあるし、コロナ後も続く新しい社会の普通の状態と理解して「新常態」と訳して使うこともある。

  コロナ禍では、マスクをつけるとか、ソーシャルディスタンスを保つとか、握手やハグのような身体的接触を避けるといった、それまでとは異なる行動が求められている。

  こういった人間の行動に関してのニューノーマルの多くは、コロナ感染が収束すれば元にもどるだろう。たとえば、握手。握手の習慣は紀元前9世紀のギリシアにさかのぼることができる。武器をもっていないことを示すために右手を差し出し手を握り合う。握手は、戦う意図がないことを相手に明らかにするために始まったという説がある。ビジネスのグローバル化が進むなか、友好を象徴する握手もグローバル化されていった。

  こういった長い歴史と世界的に普及した習慣は、コロナが収束すれば復活するだろう。だが、コロナ前とコロナ後では、大きく変化することがらもある。

  ニューノーマルが一時期だけのものか、あるいは、継続するものかはいろいろなケースがあるだろう。だが、「新しい」とか「変化する」という言葉に人間の脳は敏感に反応するようにつくられている。なぜなら、人類の数百万年におよぶ進化の歴史において、まわりの変化を敏感に察知できる者の生存確率は高くなり、そのDNAを現代を生きる私たちも受け継いでいるからだ。

  だから、メディアとかコンサルティング会社は「新しい」とか「変化する」という言葉を強調して、企業も変化して新しい状況に適応しなければ危機をのりこえることができないと不安をあおる。それによって、注目度や売上を上げるためだ。  

  そういった風潮にのせられて、企業の多くが、「新しい」社会の「変化」に合ったサービスとか製品とかビジネスモデルを開発しようとあせる。だが、実際には、そういった目新しい変化の多くは長続きしない。 

  人間の心理とか行動に関しては、表面的な変化はあっても、変わらない本質というものが存在しつづけることを忘れてはいけない。危機的状況を乗り越えて存続しづづけることができるのは、本質を見定めたうえで変化の意味を理解した企業だけだろう。

  「新しい」とか「変化」といった言葉を耳にするとき、いつも思い出す名言がある。アマゾンのジェフ・ベゾスCEOが、2007年に雑誌「ハーバード・ビジネスレビュー」とのインタビューで語った言葉だ。

  「(アマゾンは巨額の投資をしつづけているが赤字続き。それでも)投資が最終的には成果をもたらすという確信はどこから生まれるのですか?」と記者が質問した。それに対して、ベゾスは「変わらないこと」に基づいた戦略を立てているからだと答え、次いで、「あるあるネタ」ビジネス編に入れたくなるようなエピソードを紹介した。「人と話をしていてよく聞かれるのは、『5年から10年後に変化することは何ですか?』という質問です。でも、『5年後10年後にも変化しないことは何ですか?』という質問をする人はほとんどいない」。

  HBRの記者がつづけて、「あなたが信じている『変化しないこと』とは何ですか?」と質問すると、「顧客インサイトです。(customer insightで、ここでは顧客が感じたり考えたりすることと訳す)。顧客は10年たって社会がどう変化しようとも、『もっと遅く配達してくれたほうがいい』とか『もっと値段が高いほうがいい』とは言わないでしょう」と答えている。

  たしかに・・。

  いまから10年どころか100年たった後でも、消費者は価格は安いほうがいいし、便利にショッピングできることを欲求しており、それは絶対に変わらないだろう。

  ベゾスが言うところの消費者インサイトを、コロナで大打撃をうけた外食産業で考えてみよう。緊急事態宣言のときは、店舗閉鎖をよぎなくされた。宣言解除後も客数はなかなか元に戻らない。だが、安全なワクチンがいきわたるようになれば、回復が期待できる。

  しかし、外食産業は、コロナ以前から続いている大きな基本的な流れを忘れてはいけない。働く女性と一人暮らしの世帯が増えたことだ。共稼ぎ世帯は今や1000万世帯を越している。2000年ごろには、共稼ぎ世帯と専業主婦世帯の数は同じくらいだったが、共稼ぎ世帯数が18年の間に30%近く増え、2018年には専業主婦世帯の2倍の規模になった。また、一人暮らしの単独世帯も増加している。単独世帯の全世帯における割合は1980年には19.8%だったのが2000年には27.6%となり、これが、2025年には1996万世帯になり、全世帯における割合は36.9%と予測されている。

  こういった大きな基本的流れが、外食産業にどういった影響を与えてきているか?

  共働き世帯や単独世帯の増加で中食や内食用商品は着実に売上をあげてきた。中食は「調理された食品を購入して家で食べること」。一日の仕事を終えた女性(妻や母)は疲れており、家に戻って料理を作る元気はない。帰宅途中で総菜を買ってみんなで食べる。一人暮らしの人は、仕事帰りに一人で外食するのもためらわれ、総菜を買って家で食べる。日本惣菜協会発行の「惣菜白書2019年版」によると、2017年の中食市場規模は2008年比で22.3%増の10兆555億円。外食は同4.6%増の25兆6,561億円、内食は14.9%増の35兆3,281億円で、伸び率は中食が最も大きい。

  内食は「素材を買って家で調理する」と定義されるが、この分野で伸びているのが冷凍食品。家で調理といっても電子レンジでチンするだけ。冷凍食品はメーカーだけでなく、外食店舗チェーンも、少し値段が高いがおいしい冷凍食品を作って販売するようになっている。たとえば、ファミレスの「ロイヤルホスト」は、コロナ以前に、ペンネやドリアなど25品目の冷凍食品をつくり店舗やネットで販売を始めていた。

  基本的な大きな流れを感知していた外食業者なら、コロナ以前から、内食や中食への需要にこたえるために、冷凍食品の製造、テークアウトや配達という選択肢を提供していたはずだ。そういった事業者ならコロナになってあわててテークアウトや配達用のメニューを開発したり、容器をそろえることもなかったはずだ。

  一人暮らし世帯が増加していることを感知していた外食事業者は、一人焼肉とか一人鍋のメニューや、一人でも他人の目を気にしなくてもすむ一人用のテーブル席を提供していた。ファミレスのガストは、「顧客のニーズに迅速に対応するために一人用ボックス席を増加する」と、2019年の決算説明資料に明記している。そういった店舗なら、コロナになっても、3密への安全対策をスピーディに準備することができただろう。

  コロナで来店客減に悩むイタリアンファミレスチェーン「サイゼリヤ」は、今後は、従来店舗の6割くらいの広さの小型店舗を展開すると9月に発表している。この小型店では、隣同士を板で仕切る一人客の専用席を多く設ける予定だという。これは、コロナ感染がつづく社会のニューノーマルに合わせる意図もあるのだろうが、また、一人世帯が今後も増大していく新常態への対応であるともいえる。

  いずれにしても、配達、テークアウト、総菜、冷凍食品、一人用の席などへの需要は、コロナがきっかけで急増するとしても、デモグラフィック・データをみていれば、基本的な流れとして以前から存在していた需要だということがわかる。だから、ワクチンができても、テークアウトや配達、一人用テーブルへの要望が減ることはない。

  いまでも日本人経営者に人気のあるピーター・ドラッカーは、著書「イノベーションと企業家精神」のなかで、未来予測で一番確実な方法は、人口構造の変化を知ることだと書いている。人口の規模、年齢構成、そして雇用、教育、所得などによる分類といったいわゆる人口統計データ(デモグラフィックデータ/demographic data)ほど、予測能力の高い変数はない。そのうえ、リードタイムも十分あるから対策は立てやすいと書いている。

  ドラッカーがそう書いた本は1985年に発刊されている。が、35年前のドラッカーの考え方は、いまでも通用する。

  世界最大の資産運用会社ブラックロックは、2019年に発表したレポートで、政府の政策、投資戦略、革新的なビジネスモデルといったものに影響を与える5つのメガトレンドを明らかにした。そして、1.急激な都市化、2.新興国における新しい富裕層の増大、3テクノロジーの進化、4.気候変動、5.高齢化といったデモグラフィックスの変化・・・といった5つのメガトレンドのなかで、世界経済への影響力が最も高いのはデモグラフィックスの変化だと報告している。

  デモグラフィック・データに基づく変化は長期間にわたるものであり、それについて考え対策を練るリードタイムは十分あるはずだ。日本でも、少子高齢化の問題は、50年前にはわかっていた。日本経済新聞1967年4月27日の記事には、厚生大臣が人口問題審議会で、出生率の減少、老齢人口の増加、生産年齢人口の先行きについて詰問したと報じている。だが、少子化現象が一般の人たちの注目を集めるようになったのは90年代からであり、「少子化社会」という言葉も、92年に刊行された「平成4年度国民生活白書」で初めて使われた。

  危機には突然やってくる自然災害のような予期せぬ危機もあるし、少子高齢化のように、50年以上も前からデータで分かっていて徐々に迫ってくる危機もある。予期せぬ危機にあわてふためきその被害の大きさを嘆くのは仕方がないとしても、50年前からわかっているような人口構造の変化に、なぜ、対処できないのか?

  日本の場合は二つの要因を上げることができる。

  ひとつは、少子化が進んでいるとはいえ、日本は人口が1億人を超える世界にわずか13か国しかない国のひとつであること。OECD加盟国の中で日本より人口が多いのは米国だけだ。2020年の国別ランキングでは、日本は1億2700万人で10位、ドイツは8300万人、英国は6700万人だ。韓国は28位で5100万人。日本の半分だ。よくいわれるように、人口が少ないから国内消費だけではやっていけない。だから韓国は真剣に外需の開拓に取り組んできた。

  つまり、日本人は、危機が迫っているとわかっていても、他国と比較してまだ余裕がある・・・と、心の片隅で感じているというわけだ。

  徐々に迫りくる危機を実感できない理由がもう一つある。これは、日本人だけでなく人類一般に共通する理由だ。

  出生率とか高齢者の割合とか数字や表で示されても抽象的でピンとこない。人間の脳は、たとえば目でみえるといった具体的情報でないとピンとこない。

  ピンとこないということは直感的に把握できないということ。そして、人間は、感情に訴えるものがなければなかなか行動に移さない。

  良い例が、気候変動がもたらす危機だ。温暖化が実際に進んでいて、その原因は人間の活動が生み出す二酸化炭素にあることも、多くの人たちは理性ではわかっている。だが、そういった情報が私たちの行動を変えることができないのは、私たちの脳の仕組みにある。

  我々の数百万年前の祖先が生存するためにつくられた脳の仕組み、危険を察知する認知の仕方が障害となっているのだ。

  私たちが農耕生活を始める一万年くらい前まで、「危険」は単純なものだった。サーベルタイガーに襲われて食べられてしまうとか、毒ヘビにかまれて死ぬとか、今そこにある脅威に人間は注意を払うように進化した。だから、いまでも、飛行機事故とかテロとか映像で見た「目に見える」具体性ある脅威を過大評価し、気候変動とか少子化といった数字で表現される抽象的で複雑な脅威を過小評価する。

  心理学者や行動経済学者は、「私たちの祖先の数百万年の存続を可能にした認知バイアスは、現在私たちの生存をおびやかしている複雑で長期的な脅威に対処するには不向きなのです」と説明する。

  それなのに、有識者といわれる人たちのコメント、メディアの記事、政府の広報・・・こういった情報は、数字と論理で迫ってくるだけ。行動に直結する感情を刺激しない。

   古い話になるが、1990年の湾岸戦争は、アメリカがコンピュータ兵器を本格的に使ったハイテック戦争であり、人間が人間を殺すといった実感が薄れた戦争だといわれた。遠隔地でコンピュータ操作してターゲットを爆撃する。そういった爆撃シーンをTVで見ている一般人にしても、映画やゲームを見ている感覚で死亡者100人という抽象的情報が流れても、戦争で人が死んでいるという実感がわかない。

  そんな中、ただ一つ、多くの人たちの感情を動かした映像があった。タンカーが攻撃され海に大量の石油が流れ出た。その油にまみれ多くの海鳥がすべもなく死んでいく。戦争で死亡した人間の数ではなく、いたいけな鳥たちが油まみれになっている姿に、世界の多くの人々が心を動かされた。その結果として、油を流すきっかけを作ったとされた国を非難する声が高まったという。

  この鳥の映像ついては、敵国を侵略するのを正当化するための情報操作の一環だとする批判もあった。が、いずれにしても、人間の認知の仕組みを知っていれば、影響力を高めたいなら、数字とか統計といった抽象的な情報ではなく、映像のような、しかも、か弱い鳥が苦しんでいる姿といった具体的情報を提供した方が効果的であることが証明されたといえる。

  話を戻して、コロナ後もつづくニューノーマルは他に何があるだろうか?

  テレワークはどうだろう?

  テレワークをアフターコロナも続けると言っている企業の多くは、テレワーク関係の製品(ハードやソフト)を販売している会社だ(たとえば日立や日本IBMは緊急事態宣言解除後も在宅勤務を継続するとすばやく発表している)。テレワークの問題点は、それが、創造性を生まないことだ。米国のハイテク企業は、クリエイティビティは社員同士の共同作業の中から生まれると確信している。だから、アップル、アマゾン、グーグルは、ソーシャルディスタンスが保てるくらいの大きなオフィス、あるいは、通勤時間を短くできるサテライト・オフィスをつくると言っている。

  そこまで投資ができない他の多くの企業は、ワクチンが普及すれば、テレワークの採用は、育児、介護、病気、その他の特別な理由をもった社員に限ることになるだろう。1週間に1回しか来なくてもよい従業員は社員である必要はない。

  だが、テレワークは増える。それは、働き方が働き手一人ひとりにパーソナライズされるという大きな基本的な流れがあるからだ。体脂肪計で有名な「タニタ」は、2017年から、社員が独立して個人事業主になる制度を進めている。個人自業主になった元社員は他の会社の仕事も引き受けることができる。

  コロナ禍で、「通勤しなくてもよい、自分で働く時間を決めることができる」といった自由さを味わって、「もう、元には戻りたくない、独立しよう!」と考える社員もいることだろう。そういった社員なら契約社員になるチャンスを提供されれば喜んで承諾することだろう。

  会社にしても、コロナ禍で、1週間に1回しか会社にこなくてもやっていける業務がたくさんあることに気がついた。そういった業務を担当する社員には契約社員になってもらい副業も積極的に進める。働き方が各社員ごとにパーソナライズされたものになっていくことは、社員にも会社にとってもよいことだ。

   コロナ禍で星野リゾートが積極的に推進している「マイクロツーリズム―小さな旅」。自宅から30分から一時間くらい、クルマで行ける地元を楽しむ旅。これは、コロナをきっかけに生まれたアイデアかもしれないが、コロナ後も続く可能性がある。なぜなら、高齢化率の増大といった基本的な大きな流れにそっているからだ。

  年老いた親に親孝行しようと思って旅行に誘って断られた経験のある子供も多いのではないか? 高齢になると肉体的疲労もあるが、自宅を離れることに不安を感じるようになる。軽い認知症でもその傾向は強くなる。外泊することも嫌うようになる。マイクロツーリズムなら、親も喜び、子供も感謝の気持ちを伝えることができる。

  このように、ニューノーマルが一時期だけのものか、あるいは、継続するものかは様々なケースがあることだろう。いずれにしても、変化の時代だとしても、変わらない大きな流れを見逃さないようにすることが重要だ。

  人間は、危機に見舞われて(危機が自分ごとになって)、初めて、それまで問題意識としては持っていながらも先伸ばしにしていた課題に真剣にとりくむようになる。そういった意味で、コロナ危機を問題解決を進める機会とみなすことができれば、2020年もそれほど悪い年ではなかったと考えることができるようになるかもしれない

  きっとそうなると思っています。

  

新しい働き方については、新刊「勤勉な国の悲しい生産性」

読んでいただければうれしいです

 

参考文献:1.藤本健太「ガストの一人席はなぜ最高に仕事がはかどるのか」President Online 11/18/19 2.藤森克彦「2025年 単身世帯が1996万世帯 加速するソロ社会化」みずほ情報総研 3.「激化する中食・内食競争、家庭での喫食は拡大傾向に」食品産業新聞社ニュース 2/13/20 4.「サイゼリヤが小型店を出す狙いは?」日経新聞9/16/20 5.How Brain Biases Prevent Climate Action, BBC Future, March 2019 6. Julia Kirby and Thomas A Stewart, The Institutional Yes, HBR October 2007 7. Dominic Johnson and Simon Levin, The tragedy of cognition: Psychological biases and environmentl inaction, Current Science Vol 97, December 2009, 8.「外食各社、中食に活路」日経MJ 9/21/20

2020年9月 1日 (火)

DXと「雇用を守る」との不都合な関係

 

  日本の政府や企業は、バブル崩壊後の失われた20~30年間、「雇用を守る」と「賃金を上げる」という二つの選択肢において、「雇用を守る」を選択してきた。

  2020年6月3日に、安倍首相が「雇用を守ることが最優先課題だ」として、最低賃金の年3%引き上げを断念したのは、そのよい例だ。

  デフレ脱却を目指す安倍首相は、「最低賃金を毎年3%上げて、全国平均で時給1000円を早期に達成する」という目標を2015年に表明していた。が、コロナ禍で失業が増えることを懸念して、雇用を(この場合は、中小企業の雇用を)優先することに切り替えたということだ。

  最低賃金が上げられなかったことについて、日本労働組合連合の会長は、「雇用を守ることと、最低賃金を引き上げることは、対立概念ではない」と記者会見で述べ、ささやかな抵抗を示した。たしかに、高度成長時代においては、雇用を守ることと賃金引上げは対立概念とはならなかった。だが、低成長時代ではどうだろうか?

  企業の人件費は、賃金X従業員数ということになるわけだから、人件費の増大を抑制するためには、賃金を上げないか、あるいは、従業員数を減らすしかない。

  低成長あるいはマイナス成長の場合は、2つの選択肢の一つを選ばなくてはいけない(もちろん、両方とも選択しなくてはいけない場合もある)

  いずれにしても、企業や政府が賃金よりも雇用を選択してきた結果、1997年~2017年の20年間で、日本の賃金は9%減少している。先進国唯一のマイナス国だ。同時期に、英国は87% 米国は76%、ドイツは55%上昇しているから、その差は大きい。その後、デフレ脱却を目指す政府は「賃金が上がれば物価も上がる」という考え方から、賃金を上げることを企業側に強く要請。結果、2018年と2019年に少し上がる傾向がみられた。が、コロナ危機で、その流れも立ち消えた。

  企業経営者はこう思っているかもしれない・・・「バブル崩壊後の失われた20年~30年、賃金は上がらなかった。だが、そのぶん、日本企業は、不景気になったからといってすぐに人員削減などしなかった」。政府も、日本の失業率は低い。労働者にとって良い政策をとっているからだと思っているかもしれない。たしかに、2000年から2018年にかけての日本の失業率は、米国やEU主要国に比べて常に低かった。OECD平均と比べてだいたい3ポイント程度低い水準で推移している。たとえば、2018年の数字をみると、日本2.4%、ドイツ3.4%、アメリカ3.9%、フランス9.1%・・となっている。

  米国企業のようにすぐに社員のクビをはねることはしない。2008年の金融危機後2010年の米国の失業率は15%を超えた。金融危機とかコロナとか有事のときでも、社員の削減なんて最後の最後までしない。それが日本企業の美徳だと思っている経営者も多いようだ。

  「日本企業は社員を大切にする」と自負する経営者も多い。つまり、高度成長時代につくられた雇用システムである終身雇用制を維持することは道徳的なことであり、そのために賃金を犠牲にすることもやむを得ないと考えている経営者が多いということだ。

  だが、これは、大きな勘違いだ・・ということを明らかにするために、いま注目のDX問題を例にとって説明させていただきたいと思います。

  で、話を変えて・・・。

  デジタル・トランスフォーメーションについてはすでに前回のブログで書いたので詳細は省くとして、トランスフォーメーションというからには、タカラトミーの玩具のように、ロボットが一瞬のうちに乗り物(乗用車、トレーラー、戦車)などに変身するイメージがなくてはいけない。だから・・というわけでもないが、IT業界やコンサルティング業界が定義するDXには、新しいビジネスモデルや新しい商品やサービスといったこれまでになかった新しい価値を創出することが含まれる。

  ところが、日本の場合は、DXで変身する以前に、レガシーシステムの一掃をしなければ先には進めない・・・危機感をもって、そう訴えたのが、2018年に経済産業省が公表した「DXレポート~ITシステム『2025年の崖』の克服とDXの本格的展開」だ。

  日本企業の約8割がレガシーシステムを抱えている(日本企業の場合、2025年においても、21年以上稼働しているレガシーシステムが全体の6割を占めるといわれる)。結果、さらなるデジタル化を必要とする経営戦略や事業戦略が実行できない。

  レガシー問題は先進国の多くに共通する問題だ。アジアや欧州の新興国はレガシーがないぶん、早い段階でデジタル化が競争優位の価値を生み出すことに成功している。

  が、古い技術やシステムを使っているシステムということだけで、必ずしも、デジタル化による変身の障害となるわけではない。

  日本がレガシーシステムの刷新に他の先進国よりも手こずっている理由は、自社システムがブラックボックス化していて、自分の手で簡単には修正できない状況に陥っていることにある。結果、レガシーシステムの刷新には巨額の費用がかかっている。

  経産省のレポートには、8年間で300億円かけて30年以上利用していたシステムを刷新し共通基盤システムを構築した食品業者、4~5年かけて25年以上利用していた基幹系システムを700億円かけて刷新した保険業者の例などが紹介されている。

  そもそも、日本企業のレガシーシステムはなぜブラックボックス化してしまったのか? 二つの大きな要因があげらる。

第1の要因:ノウハウや知識がマニュアル化されておらず特定の担当者の暗黙知となっている。そして、知識やノウハウをもっている担当者が会社をやめると既存システムの内部構造や動作原理がわからなくなりブラックボックス化してしまう。

  日本企業は1970年代、基幹業務用に情報システムの開発を進めた。しかし、ある程度の大きさの企業では、会社組織全体で共通したシステムを運営するのではなく、各事業部がメインフレームを持ち、事業部ごとの業務内容に合わせたシステムが開発された。90年代から、部門ごとに管理されていた情報処理を統合管理するERPが導入されるようになったが、このときも、既存のビジネスプロセスを改革することなく、追加プログラムをアドオンすることによって、各事業部に最適なシステムが開発維持された。

  こういった一連の開発を担ってきた人材が停年退職すると、明文化されず共有化されていないノウハウや知識が失われてブラックボックス化する。(ちなみに、日本市場におけるERPのシェアではSAPが一位。そのSAPが現在のERPのサポートを25年に終了すると発表したこともあって、経産省のレポートでは「2025年の崖」と25年に危機が訪れると警告している)。

  日本で情報システムのマニュアル化が進まなかった理由はいくつかある。たとえば、企業が汎用パッケージを使わずに新規にゼロから開発するスクラッチ開発を好んだり、あるいは、汎用パッケージを利用するとしても、自社の業務に合わせて過剰にカスタマイズする傾向が強かったことがあげられる。汎用パッケージを販売するベンダーもカスタマイズした方が売上げが増大するので、クライエントの要求に合わせる。どちらにしても、開発にたずさわった担当者がいなくなれば情報システムは不可視となり、自分の手で修正できなくなる。

 だが、なんといっても明文化が進まなかった一番の理由は終身雇用制にある・・と経産省のレポートも書いている。IT担当者が転職していなくなることを想定すれば、すぐに新しい人に引き継げるように明文化しておく必要性が感じられる。だが、終身雇用制では、担当者がいなくなることは想定されていない。だから、会社としても担当者にしても、マニュアル化が業務の一つであるという認識が甘くなる。

 

第二の要因:ITシステムをベンダー企業に丸投げしてきた歴史

  日米のITエンジニアの分布を比べてみると、日本ではエンジニアの7割がシステムインテグレーター(SIer)やベンダー側に所属している。米国はその反対で社内に7割近いエンジニアが所属している(ドイツやフランスは6割、英国では5割)。

  90年代末ごろからベンダーにIT関連の仕事を丸投げするようになった日本では、システムのノウハウどころかデータ知識もベンダー側に蓄積され、ユーザー企業側には残っていない。そして、70年代~80年代に最初のシステム開発を手掛けたエンジニアがいなくなると、ベンダーにも、情報システム全てがみえているわけではないので、ブラックボックス化したシステムの刷新に困難を極めるようになる。

   そもそも、日本企業はどうしてITシステムをベンダーに丸投げするようになったのか? 原因を調べてみると、米国でIT業務のアウトソーシングがみられるようになった80年末に、その趣旨が誤解して日本に伝えられたという経緯があるようだ。 

  1989年、 米国のイーストマン・コダックがIBMにコンピュータシステムの管理運営をまかせるという10年に及ぶ10億ドルの大型契約を発表した。従来、アウトソーシングは技術力のない中小企業が行うものと考えられていたのに、技術力の高いコダックがコア事業に経営資源を集約する構造改革の一環としてアウトソーシングした。競争力を高めるためということで、これ以降、米国において、アウトソーシング市場が急速に成長するようになる。

  この契約は、日本でも話題になったが、この時、アウトソーシングが「人員削減」や「部門の“丸投げ”」と報じられた。たしかに、コダックの情報部門から360 人がIBMに移籍したのは事実だったが、それを上回る800 人の人員がイーストマン・コダックに残った。情報戦略を作成するコアの部分はイーストマン・コダックに残されたわけである。だが、こういった点は日本では無視された。

  日本では、戦略を立てるというコアな部分まで含めたITシステムの丸投げが多くなり、92年に日本イーストマンコダックが情報処理システムを日本IBMに全面委託した時には、次のように朝日新聞(92年12月2日)に報じられた。

「日本IBMは1日、日本コダックのコンピュータシステムの運用・管理を10年間、丸ごと引き受ける契約を同社と結んだと発表した。アウトソーシングと呼ばれる事業で、日本コダックは、日本IBMに自社のコンピュータなどを売却し、情報処理を全面委託する。景気の減速で情報化投資を見直す企業は多く、経費が削減できるアウトソーシングに踏み切る動きはさらに広がりそうだ。アウトソーシングは、80年代後半、米国で登場した。89年、日本コダックの親会社、米イーストマンコダックは米IBMなど3社に、従業員もろとも情報システム部門を売却し、大幅な経費削減に成功したことから急速に広まった」

 

  さて、日本企業の情報システムがブラックボックス化してしまった大きな要因2つを上げた。が、これが、どうして「雇用を守る」に関連しているかを説明させていただきます。

  システムのマニュアル化が進まなかった背景理由として、終身雇用制の存在が指摘されたことは、すでに紹介した。同じく、誤解でひろまったITシステムの丸投げアウトソーシングが日本企業で広まったのにも、終身雇用制が関係している。

  どの会社も「雇用を守る」方針を貫けば、今の会社をやめたくても他の会社に空きがない。つまり、社員をやめさせないことが美徳だと多くの経営者が考えていれば、労働市場の流動化が進まないことになる。

  一方で、時代とともに事業の成長度は変化する。これまで会社の成長エンジンとなっていた中核事業の成長が衰えれば、これからの成長が見込める事業を始めなくてはいけない。米国では、60年代から80年代にかけて、M&Aを通じて多角化を進めより高い成長を実現することが流行した。日本の場合は、高度成長が終わった80年代に、成長の止まった事業が抱えていた余剰人員を新規事業に利用することで多角化を進めた。これは、組織内における労働移動であり、これによって、終身雇用制を維持しようとしたのだ。

  その結果として、新規事業部や子会社の乱立が進み、低成長時代になると、日本企業は、多くの赤字子会社や事業部を抱える結果となる(2009年に製造業史上最大の8000億円近い赤字を出した時の日立製作所は900を超える子会社を抱えていた)。

  労働移動といっても、人事部の人間を企画部に移したり、営業部に移したりすることはできても、情報システム部に移すことはさすがに無理がある。だからといって、余剰社員を削減しないのだから、新規のIT人材を大量に雇うことはできない。しかも、70年代のメインフレーム時代に雇った人間には、新しいITテクノロジーの知識やノウハウがない。だから、最新の知識をもったベンダーに全面的に頼るのが効率が良い方法だと考えられた。

  その後、レガシーシステムを保守運用していたIT人材が引退していく一方で、若い人材は、古いプログラミング言語や遅れた技術で構成されているレガシー・システムの保守運営にはかかわりたくないから、求人しても獲得できない。ますます、ベンダーに頼らざるをえなくなる。

  雑誌「日経クロステック」に、「技術者がやめるとIT部門はつよくなる」という記事(2008年4月25日)が掲載された。

  そこには、米国企業が優秀な人材を抱えたIT部門を作ることができる理由は労働市場の流動性があるからだと書かれている。重要なシステム開発プロジェクトが終われば、仕事の中心は保守・運用となり、優秀なエンジニアは必要なくなる。そうすれば彼らは会社をやめて、新しいチャレンジできるプロジェクトを提供する会社に移る。だから、企業も新しいプロジェクトがあれば、すぐに優秀な人材を集めることができる。反対に、日本の企業は大きなプロジェクトが終わっても労働市場が流動化していないので、エンジニアは残る。そして、やりがいを感じない保守運営の仕事をせざるをえなくなる・・・というわけだ。

  こういった話はIT人材に限ったことではない。同じようなことは、他の従業員にもいえる。今の仕事には将来性がないと思っている社員、やりがいがないと思っている社員がいても、「雇用を守る」のスローガンのもとに、「やめさせられること」はないかもしれないが、「やめること」もできない。

  人間はだれしも現状維持バイアスをもっている。現状がよほど悪くなければリスクを取りたくない。現状に不満があっても、現状を変えれば、今より悪くなる可能性もある。やりたいことがあっても、今より悪くなる可能性を考えてチャレンジしない。得るものよりも失うものの方の価値を大きく評価してしまう考え方の偏向は、人類に共通するもので、万国共通だ。

  現状がよほど悪くなければリスクは取りたくない。だから、多くの従業員は退職を迫られない場合、自分がそれほど興味がない仕事でも、これまでと同じ給与がもらえるなら、敢えて会社をやめる決断には至らない。リスクをとることを躊躇するのだ。

  拙著「勤勉な国の悲しい生産性」にも書いたように、日本企業の従業員のエンゲージメント率が、どの調査会社が調べても、異常に低いレベルにあるのは、現状維持バイアスに影響されて、不満や失望をかかえながらも同じ会社で働きつづけている従業員が多いからだ(もちろん、賃金が20年余、上がっていないという理由も大きい)。

  終身雇用制を維持することが従業員のためになると信じてきた経営者や労働組合は、この現状維持バイアスを促進・強化してきたことになる。

  人間の脳には、ある程度のリスク下にあり緊張を強いられたときに、ドーパミンやアドレナリンが放出され、気分が高揚する。転職して新しいチャンスに果敢に挑戦しようという従業員の心理だ。そういった心理は、変化の時代に新しいビジネスモデルやモノを創造しようとしている企業の従業員に必要な心理でもある。

  リスクにチャレンジする従業員を必要とする経営者が、「賃金を上げる」ことより「雇用を守る」ことを選択するのは矛盾している。

  「雇用を守る」ことが従業員にとって良いとことであり、会社の道徳だと考えるのは、経営者と労組代表どちらもの想像力の欠如にある。

  誰だって、自分が知っている人間のクビを切るのはいやだろう。自分と同期に入社した同僚、新入社員のころから知っている後輩、お世話になった先輩・・・つまり、自分が具体的なエピソードをもって顔を知っている人間に退職を迫るのがいやなのは誰でも同じだ。

  だが、想像してみてほしい。  

  たとえば、8年前に入社してきた社員。彼の希望はファッション関連の仕事をすることだった。が、会社の方針でファッション事業部は閉鎖となる。まだ若い彼なら、そしてやりたいことが明確にあるなら、会社をやめて、その道を追いかけたほうがよいかもしれない。その彼に、営業部への移動を提案する。彼がこのまま会社にい続けるとして、彼の10年後、20年後、30年後の姿を想像してみたことがあるだろうか?

  経済産業研究所発行の論文「労働市場の改革」において、八代尚宏教授は、雇用保障の代償として拘束性の強い働き方をしている正社員を「良い働き方をしている人」とみなし、それ以外の派遣労働者等を不安定な「悪い働き方をしている人」とみなす前提自体が間違っているとして、「ひたすら労働者を企業の中に閉じ込めるだけではなくて、むしろ労働者の企業からの独立を支援することが重要となる。いわば企業内で労働条件の改善を目指すだけではなく、労働者が転職による圧力をかけられること、即ち、労働者を大事にしない企業から大事にする企業に自由に移れるような仕組みをいっそう作っていく必要がある。これにより、特定の企業に依存するのではない『労働市場全体を通じた雇用保障』が、より重要になってくる」と書いている。

  この「労働市場全体を通じた雇用保障」という考え方からいえば、「自社の社員の雇用を守る」というのは、まさに経営者や組合代表の内(ウチ)と外(ソト)を区別する狭い考え方だといわざるをえない。

  たとえば、バブル崩壊後の低成長のなか、企業は過剰雇用をかかえこんだ。その結果、いわゆる就職氷河期をもたらし、新規社員の採用が6年以上抑えられた。その結果が、いま、100万人くらいの40歳前後の人たちが無職、あるいは定職がないという状況下にある。また、非正規社員の採用が進んだのもこのころだ。

  つまり、当時の経営者や労組代表は、ウチの人たちの雇用を守るために、ソトの人たちはどうでもよい・・・と考えたということだ。具体的にイメージを描ける人達をクビにするのはいやだけれど、外の知らない人たちがその犠牲になることに関しては、抽象的にしか想像できないので心理的に許容することができる。

  これは、やっぱり、おかしい。

  とはいえ、企業経営者にソトの労働者のことも考えろと言っているわけではない。それは、国の仕事だ。「労働市場全体を通じた雇用保障」は政府がきちんとした政策を考えるべきだ。そうすれば、企業は、安心して、賃金を上げ人員を削減することができる。経営者が注力すべきは、やりがいを感じ、ワクワクとして(アドレナリンやドーパミンが放出されている気持ちを表現している)仕事ができる環境を従業員に提供することだ。 

  コロナ禍で失業者が増えるときには、雇用を守る日本企業はありがたいじゃないかと思うかもしれない。だが、危機のときだからこそ、数十年つづいてきた考え方(雇用を守ることが美徳だという考え方)を改めることができる。今、荒波を乗り越えなければいけない企業にとって必要なのは、不満があっても現状を維持することをよしとする従業員ではなく、リスクに敢えて挑むことができる従業員だということを忘れてはいけない。

  こういったテーマに興味をもっていただけましたら、新刊「勤勉な国の悲しい生産性」を読んでいただければうれしいです

 

参考文献: 1.八代尚宏「労働市場の改善」経済産業研究所、2「技術者がやめると.IT部門は強くなる」日経XTECH 4/25/08, 3.「サービス産業競争力強化研究」アウトソーシング協議会 平成12年3月、3.「アウトソーシング事業増加 情報処理を全面委託 日本コダックなど」朝日新聞12/2/92 4. 「最低賃金議論 コロナの影」朝日新聞 6/27/20, 5.「DXレポート」デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会、経済産業省 平成30年9月7日

 

  

  

 

 

2020年8月 6日 (木)

DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義はまちがっている

   最近のビジネス用語の流行キーワードはDX(digital transformation /デジタル・トランスフォーメーション)だろう。で、その流行に乗るというにはあまりに遅ればせだが、DXに関する記事を書こうと思いたった。「日本企業の雇用方針とDXとの不都合な関係」について書くことにして、「DXってなに?」という定義とか意味とかを調べていたら、ちょっと驚くミステリーに遭遇した。

  IT関連のキーワードについて記事を書くときには、まず、最初に、誰がいつその用語を造ったとか、その時どういった定義づけをしたのか・・・を書くことが常識となっている。そして、DXに関しては、日本では、どのレポートや記事を見ても、次のように記されている。

  • 多くのビジネス誌では、「スウェーデンのウメオ大学にいたエリック・ストルターマン教授が2004年に発表した論文「Information Technology and The Good Life(情報技術とよい生活)」で提唱したもので、DXを『すべての人々の暮らしをデジタル技術で変革していくこと』だと定義した」と書かれている。論文のタイトルが一緒に紹介されているので、「デジタル技術でよい生活がもたらされる」という意味合いが強調される。
  • 総務省発行の「平成30年度 情報通信白書」には、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」ことがデジタル・トランスフォーメーションの概念だと、エリック・ストルターマン教授が2004年に提唱した・・・と記されている。

   IT用語の定義とか誰が提唱したかなんて本質的にはどーでもい-ことだとはわかっていながらも、正確を期すために(といえば聞こえがよいが、筆者の私が疑り深い人間であるがために)、英語で検索してみた。つまり、英語圏の世界では、DXはどう理解されているかをチェックしてみたということだ。

  そうしたら、digital transformationの歴史とか定義に関するだけでなく、ほとんどすべての記事にストルターマン教授の名前は登場しない。唯一の例外は、digital transformationという単語と教授の名前を同時検索するときで、教授が2004年にIFIPの大会で発表した論文「Information Technology and the Good Life」が表示される(もう一つの例外は、日本の経済産業省や企業のレポートが英訳されたもので、そこには、教授が用語の提唱者として紹介されている)。

  うそぉ? なに、これ?

  ネットによるグローバル化で、昔と違って今は、日本と海外で情報内容に大きな違いがみられることはほとんどない。そういったなかで、ストルターマン教授がデジタル・トランスフォーメーションとの関連で海外でまったくといっていいほど無視されている事実は、日本の状況と比べると、その差が目立つ。

  ・・・ということで、IFIPの大会で発表された論文・・・といってもスピーチをまとめたものなので、5ページの短い小論文なので読んでみた。そして、海外で、教授とDT(理由はあとで説明するが、ここからは、DXという略語ではなくDTを使う)との関係が無視されている理由が理解できた。

  教授の小論文が発表された場は、 IFIPInternational Federation for Information Processing ) の英国での大会だ。IFIPという組織は、1960年にユネスコの援助を受けて創立された国際団体。同じ年に、日本の情報処理学会も、IFIPにおける日本としてのメンバー学会となるべく創立された。

  教授のスピーチは、大会に集まった情報システムの研究者たちに向けて、技術や、その技術によって人間の「生活世界」に今起こっている変化をより深く理解することに貢献するために、自分たちの研究はどうあるべきかを説く内容だった。

   情報技術は今やあらゆるモノに埋め込まれており、それらは(IoTと呼ばれるように)つながっている。世界は、情報技術とともに、情報技術を通して、そして情報技術によって経験される度合いがますます多くなっている(しいて言えば、これが、教授が考えるデジタルトランスフォーメーションの定義というか概念だろう。だが、DTをそう理解するのは教授が初めてというわけではないはずだ<注1>)。

  情報技術研究の目的は、人類のより良い生活、暮らし、人生に情報技術がどう貢献できるかを、探求し、実験し、分析し、調査し、説明し、考察することだ。 だから、( 情報システムの研究にはいろいろな観点があるとしながらも)、今日特に必要な観点は、従来のような科学的(ともすると、要素に分解して分析する傾向にある狭い)観点だけではなく、その技術が人間の「生活世界」にどういった影響を与えるかという全体的観点からも考えなくてはいけない・・・と教授は論じる。

  ここまでで、DTの最初の提唱者として教授を紹介することがお門違いだということは理解してもらえたと思う。まして、「DTが人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」などと、教授はまったく言っていない。そうではなくて、DTが人々の生活を悪い方向に変化させないように情報技術の研究者はチェックしていかなくてはいけないと、ある意味、警告し、そのために必要な研究方法について提案をしているのだ。

  海外で、digital transformationの提唱者ということで教授の名前をだしても、「?」って顔をされるだろう。

   グローバル化とネットで何でも調べることができる情報社会で、どうしてこんな誤解が生まれたのか? 誰もが疑いを持つことなく、先の記事とかレポートを鵜呑みにして引用するということが、なぜ、起こったのか? 

  データベース検索すれば、問題となっている論文を最初に紹介した記事とか論文を見つけることもできるだろう。でも、犯人さがしをするのは時間の無駄。

  最初に書いたように、IT用語の提唱者うんぬんは、本質的には重要情報ではないのだから。

  じゃあ、なぜ、この記事を書いたかといえば、2つのの理由がある。

  ストルターマン教授が本当に言いたかったことを紹介したかった。また、ITのことを(経営者としての観点からでいいから勉強してほしいのに)勉強しようともしない企業経営者が、DTってデジタル技術を使って消費者により良い生活を届けることなんだ。DTで生産性を上げて企業の業績を上げることなんだ・・と安易に納得してもらいたくないという理由だ。

  なぜなら、教授の論文にある、「Good Life/良い生活」という言葉には、豊かさとか便利さよりも、もっと深い意味合いがあるからだ。

  教授は情報技術が人類にグッド・ライフを提供しているかどうかをチェックするために二つの考え方を提案している。一つは、哲学者アルバート・ボーグマンが提唱した「デバイス・パラダイム」という考え方だ。

  ボーグマンはドイツ生れの米国人でテクノロジーの哲学(って、哲学の種類にはなんでもありなんだ!)を専門としている。デバイスとは装置とか機械のことだが、デバイス・パラダイムの考え方を、彼は、簡単な例を使って説明する。

  たとえば、セントラルヒーティングというデバイスは、面倒な手続きもなく簡単に、暖かさを家族に提供する。そして、家族は、薪を割って、暖炉にくべ、火の様子を見ながら新しい薪をくべたり、後で灰の掃除をするといった手間をかける必要はない。薪を割ったり灰の掃除をする当番を決める必要もない。だが、セントラルヒーティングという新しい技術が採用されることで、家族全員が暖炉のまわりに集まっておしゃべりしながら暖をとることもなくなり、一人一人が自分の個室に閉じこもるようになる。

  セントラルヒーティングというデバイスによって、家族間の相互作用は減り、互いを思いやったり助け合ったりする精神を育成してきた家族内の活動もなくなる。

  テクノロジーは、私たちが望むことを、努力とか経験によって得られる技能とか忍耐とかなしに便利に簡単に提供してくれる。その結果、私たちは、身体や知覚をフルに使って現実世界を体験するとはどういったことかまで忘れてしまう。

  コト消費とかモノ消費という言葉がよく使わる。小売業では、最近は、モノが売れないが、コトなら売れると言っている。それと似たような意味合いで、ボーグマンも、テクノロジーはデバイスをコト(thing)からモノ(commodity)にしてしまうと書いている。つまり、暖炉には家族のしきたり、思い出、エピソード、その他の歴史や物語が背景にある。だが、セントラルヒーティングはそういった物語とは無関係のたんなるモノだ。

  ストルターマン教授は、ボーグマンが提唱したデバイス・パラダイムでは、人間がグッドライフを実現するために必要なことがらや価値観が脅かされているとする。そして、DTが進むいまの社会には、このデバイス・パラダイムの例が顕著に見られるとする。

   教授が使う「good life」という言葉は、たんに豊な生活とか便利な生活を指しているのではないことは明らかだ。彼の小論文に何度も登場する「lifeworld/生活世界」はオーストリアの哲学者エトムント・フッサールが、1936年に発表した「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に登場する考え方。

  哲学のことはよくわからないので、コトバンクの解説を引用すると、フッサールの生活世界は「科学によって理念的に構成される以前に、我々が身体的実践を行いつつ直感的な仕方で日常的に存在している世界のこと」となっている。わかったようでわからない。が、ストルターマン教授がボーグマンやフッサールの考えを引用しているのは、社会のDT化について研究するとき、人間の身体性、知覚、直感、感性といったような観点を重要視していることは理解できる。

   考えてみれば、教授は情報システムデザインやインタラクションデザインを専門とする研究者だ。人間とインタラクション(相互作用)するデバイスやシステムのデザインというと、使い勝手が良いとか悪いとかいったインタフェースのデザインだけの狭い話になることが多い。が、論文の主旨は、情報技術研究は、テクノロジーが社会全体や人類の生活世界に与える影響について考えなくてはいけないということだ。

  たとえば、スマホ中毒になり社会生活が送れなくなる若者。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」でも書いたように一日中PCの前で仕事をして腰痛になるだけならまだしもバーンアウトして40歳で退職しようとする若者たち。これは、フッサールやボーグの考え方を引用する教授が考えているグッドライフではないはずだ。

   論文を最後まで読めば、教授をDTの定義とか概念を提唱した人と見るのは間違いだということがわかる。彼は、DTについて警鐘を鳴らした人なのだ。社会のDTが進むなか、人間の「生活世界」はどう変わるのか、真の意味でのグッドライフをもたらすようなDTでなくてはいけない。情報技術の研究者はそういった観点からもDTを考えていかなくてはいけないと教授はIFIPの大会で訴えたのだ。

   そして、いま・・・デジタル・トランスフォーメーションの略語をDTからDXとして、IT業界やコンサルティング業界は、関連システムやソフトウェア、そしてその利用方法について積極的に営業を展開している。経済産業省の「DXレポート」は、DXの定義としてIDC Japanの定義を紹介している。

  •  企業が外部エコシステム(顧客、市場)の破壊的な変化に対応しつつ、内部エコシステム(組織、文化、従業員)の変革を牽引しながら、第3のプラットフォーム(クラウド、モビリティ、ビッグデータ/アナリティクス、ソーシャル技術)を利用して、新しい製品やサービス、新しいビジネス・モデルを通して、ネットとリアルの両面での顧客エクスペリエンスの変革を図ることで価値を創出し、競争上の優位性を確立すること

  このように、DXとDTは元となる言葉(digital transformation)は同じでも、似て非なるものだ。上記のDXの定義は、IT業界が売ろうとしている情報システムに適した定義ではあるが、ストルターマン教授が提唱した概念とは別次元のもの・・・だと、私は思います。

<注1>:2017年発行の「情報センサー」の記事「デジタル・トランスフォーメーョンとは何か」の著者東大野恵美氏は、英語データベースで検索したところ、デジタル・トランスフォーメーションという言葉が使われた最も古い例は1990年で、CDプレーヤーの利便性を伝えるニューヨークタイムズの記事だった書いている。DTはビッグデータとかAIのような造語とか新語というわけでもなく、自然な熟語(漢字じゃなくても熟語といえるのか?!)なのだから、DTの提唱者とか定義とかを探ることに意味はないのでは?

 新刊「勤勉な国の悲しい生産性」の第五章には、テクノロジーと生活世界との関係についても書いています。

参考文献 1.Erik Stolterman and Anna Croon Fors, Information Technology and The Good Life, 2.東大野恵美 [デジタルトランスフォーメーションとは何か」情報センサーVol.124, 2017 3.「間違いだらけのDX 提唱者が語る原点」日経ビジネス3/10/2020,4.「DX レポート」経済産業省 平成30年9月7日