フーテンの寅さんとベーシックインカム
コロナ禍で失業者や、仕事はあっても収入が大幅に減った人が増えた。家賃が払えないからホームレスになるしかない、子供に我慢をしいて食費を切り詰めている・・・こういった声が多く聞かれるようになり、ベーシックインカムに注目が集まるようになっている。一律10万円の国民給付金が支払われたこともあり、ベーシックインカム導入のきっかけになるのではないかと期待する声もある。
ベーシックインカムについては賛否両論あり、学者や研究者が書いた本や論文が数多く発表されている。私が同じような観点から書いても役には立たないし、読む人もいないだろう。
・・・ということで、ベーシックインカムと「怠け者」について書いてみたいと思います。なぜなら、ベーシックインカム(Basic Income/BI)を批判する人が、必ず口にするのが、「働かざる者食うべからず」という考え方に基づく反対意見だからです。
BIとは、全ての個人に対して無条件かつ定期的に支払われる所得のこと。国民給付金と同じように、世帯ではなく個人に支払われる。無条件だから、大金持ちであっても支払われるし、働けるのに働かない人にも支払われる。
「BIは人々の働くことへの意欲を失わせ、怠け者を増やすことになる」。「BIの資金源は国民の税金だから、一生懸命働いた人の税金を、働く意欲のない怠け者に支給するというのは不公平だ」等々。BIは、経済用語でいうフリーライダー(ただのり、つまり、必要なコストを負担せず利益だけを受ける人)をふやすことになるというわけだ。
そこで、「怠け者」にも存在意義がある。「怠け者」も社会に貢献しているのでBIを受け取るべきだという話を進めるために、「フーテンの寅さん」に登場してもらうことにします。
怠け者の代表として寅さんを引き合いに出すのはおかしいと反論する人もいるかもしれない。 寅さんは「テキ屋」という仕事をしている。たしかに、毎日働いているというわけではないし、仕事が無いときには柴又に戻ってくる。おいちゃんとおばちゃんのだんご屋に居候しているときは食住の心配がないからぶらぶらしている。だが、旅先では自分の稼いだ金で暮らしているようだから、怠け者とは言えないだろう・・・という意見だ。
いや、寅さんは妹のさくらから金銭的援助を受けて暮らしている。立派な怠け者だ・・・と考えたかどうかは知らないが、さくらが兄の寅さんにどれだけの金銭援助をしたかを、映画全作を検証して発表している「さんたつ」というサイトがある。援助は、1.現金供与、2.立て替え、3.旅費負担の3パターンに分けられ、合計援助総額34万2980円。ただし、寅さんも少しは返済している。甥の満男にええかっこしいで小遣いとして渡しているお金などを返済とみなすと、計3万5200円。よって、さくらから寅さんへの援助金額は差し引き30万7780円となる・・そうだ。
いずれにしても、寅さんは、家族の金銭的あるいは非金銭的援助がなかったら暮らしていくことはむつかしかっただろう。それに、おいちゃんやおばちゃんも「世間さまに恥ずかしい。きちんとした職についてお嫁さんをもらって一人前になってほしい」とよく愚痴っていた。柴又商店街では、定職についておらずぶらぶらしている怠け者だとみなされていたと考えてもよいだろう。
だが、寅さんは日本国民に愛された怠け者だ。
映画「男はつらいよ」は1969年から1995年までに48作が公開され、映画シリーズ48作の配給収入は464億3000万円、観客動員数は7957万3000人を記録した。日本の高度成長期終了からバブル期、バブル崩壊の時代の国民的映画だったといえる。
「怠け者」はフリーライダーであり、一生懸命働く人たちからかすめ取っているわけだから、みんなから毛嫌いされてもよい。なのに、なぜか、昔から一般庶民に愛されてつづけてきた。その証拠に、「寝太郎民話」なるものが日本各地に昔話として伝えられている。話の内容は似たりよったりで、寝太郎という名前通り、食っちゃ寝、くっちゃねをしていた怠け者が、突然、何らかの理由で変身して、村の長者になる。あるいは長者の婿になって成功するというストーリーだ。寝太郎民話の原型といわれる御伽草子(室町時代から江戸時代初期にかけて作られた物語集)の「ものぐさ太郎」は、なんと京都に上って貴族にまで出世している。
怠け者を愛するのは日本だけではない。日本と同じく勤勉を道徳的だとするドイツに生まれたグリム童話でも、「ものぐさの糸繰り娘」「ものぐさハインツ」とか、三人の王子が怠け度を競い合い、一番怠け者の王子が王様になるという「ものぐさ三人息子」・・・と怠け者が得をする話、勤勉さより怠けることを肯定するような話がいっぱいある。
怠け者がたんなるフリーライダーであるなら、どうして、怠け者のサクセスストーリーが、日本でもドイツでも中世の昔から長く語り継がれてきたのだろうか?
人間の深層心理を分析するユング心理学者の河合隼雄は、「昔話を民衆の心の深層から生まれたものと考えると、それは民衆の願望充足の機能をもっているといえる」と分析した。民衆が生きていくために朝から晩まで必死に働かなくてはいけなかった時代に、人々の無意識の中から、怠けることへの強い願望が生じてくる。怠け者が王様になったり村の金持ちの娘婿になったりするサクセスストーリーは、「実世界に不満の多い凡人たちを楽しませるための空想」だと、民族学者の柳田国男は説明した。
「貧乏神に取りつかれて日夜あくせく働かなければいけない人間にとって、ごろりと寝ころんでみたいという欲望に勝る切実な要求はない・・・(だから)いつの時代にも、『大衆のあこがれの象徴』として、愛すべき寝太郎がゴロリと寝そべっている」と、戦後の九州の炭鉱で働き、炭鉱労働者の文学運動を組織した作家上野英信は書いている。
がむしゃらに働く時代を経験した日本の勤労者が、寅さんの映画を見て、「ばかやってんなあ」と笑い、最後に喝采を送ったのも同じ心理だろう(寅さんの場合は金持ちにもならなかったし、恋もみのらなかったけど・・・)。
でも、こういった心理は、心理学者や民族学者の説を聞かなくても、素人の私でもある程度推測できる。
それに、「怠け者の存在意義」が心のいやしを提供するとか、現実逃避のための空想を呼び起こすといった理由だけでは、BI給付を正当化することはできない。
「怠け者の社会における存在意義」の2番目は、怠惰から生まれる創造性とエネルギーだ。
最初にエネルギーの話をします。
「三年寝太郎」という昔話では、三年三か月の間、寝ぼうけていた若い男が、村人が干ばつで苦しんでいるのを見て、急に起き上がり、大川から水を引くための通水路を作ろうと一人で溝を掘り始める。最初は馬鹿にしていた村人も寝太郎の熱心さにうたれ協力するようになる。そして、灌漑用水が完成して村は豊かになったとさ・・・という話だ。こういったタイプの民話は日本各地に江戸時代のころから伝わっており、いずれも、何の役にも立たない怠け者が突然エネルギッシュに変身し、村の繁栄をもたらしたというものだ。
もう少し現代に近いところでは、九州の炭鉱労働者にも似たような話が語り継がれていた。
先に紹介した上野英信は、九州の炭鉱に伝わる「寝太郎伝説」を書いている。筑豊の炭鉱労働者は、彼らを「スカブラ」と呼んだ。「仕事がスカんで、いつもブラブラしちょるけんたい」というのが、名前の由来らしい。ついでにいえば、映画「男はつらいよ」の山田監督は、「寅さんはスカブラだ」と語っている。
どの炭鉱にもスカブラはいた。仕事をさぼりながらも面白い冗談を言っては周囲を笑わせていたところは、寅さんに似ている。スカブラはフリーライダーなのに不思議なことに、誰一人いやがる者はいない。「それどころか、その男が休んだ日には仕事がさっぱりはかどらない。8時間が倍にも三倍にも感じられたと皆が思った」と上野は書いている。
このスカブラが、たった一度だけ、気が狂ったたように働いた時があった。それは、落盤事故で、仲間が坑道の奥に閉じ込められた時だ。幸い一名の負傷者もなく無事に救出されたが、その緊急時の一番の働き手がスカブラだった。皆を救い出すまで、一度も休むことなく、救援隊を手足のように指揮し動かした・・・という。
そういえば、寅さんも、48作品目に阪神淡路大震災に襲われた神戸を訪れ、ボランティアとして大活躍していたなあ・・・。 疲れ切った被災者に代わって区や市の担当者に掛け合ったり、みんなを元気づけて力をくれた。そういった被災者の話を後で聞いた博(さくらの夫)は「世の中の秩序とか価値観とは関係ないところにいる寅さんみたいな人間が、あーゆー非常時には意外な力を発揮する」とコメントしていた。
ベーシックインカムをどういった人たちに給付すべきではない・・・という話になれば、ひきこもりの人たちも「怠け者」として給付すべきではない人たちのグループに入れられてしまうかもしれない。だが、元ひきこもりで、和歌山県の限界集落でニート数十人との共同生活をつづった本「『山奥ニート』やってます」の著者でもある石井新氏が、日経ビジネスの編集者に興味深いエピソードを紹介している。
石井氏は、子供の頃から「男はつらいよ」の映画を見て車寅次郎のような自由な生き方に強い憧れを持つが、「世間の圧力に負けて」、関東にある大学の教育学部に進学。教育実習で徹底的にダメ押しされ精神的に参ってしまい、大学を中退。地元の名古屋に戻り「ひきこもり」となった。
2011年3月11日、22歳の時に東日本大震災が起きた。ひきこもりの最中で、「時間だけはあったので、僕もボランティアにかけつけると驚いたことに、まわりでボランティアをしている人がニートばっかりだったんですよね。でもよく考えると、それは当然なんです。毎日多忙な勤め人の方々は、大震災が起きたからといってすぐに会社を休んでボランティアはできないですから。動けるのはニートくらいで」。
そんな経験もあり、いざという時のために「労働力の余剰が、社会には必要なのではないか」「ニートのような人間も社会には必要なのではないか」という思いに至った・・・と語っている。
江戸時代の「三年寝太郎」、戦後の炭鉱労働者のスカブラ、ニートの震災時のボランティア・・・と、怠け者がエネルギッシュに変身する「寝太郎伝説」は継続される。ここには、何か一つの真実があるのではないだろうか?
ここまでくると、アリの社会のルールについて思い出す読者も多いことと思う。
働きアリの中には一定の割合で働かないアリが存在する・・・というルールだ。これについては、世界中で研究成果が発表されているが、ここでは2016年に発表された北海道大学の研究を紹介する。一匹の女王バチと150匹の働きアリを一組として計4組を2年にわたって行動調査した。
結果、次のような事実を発見した。約2割のアリは労働とみなせる行動を5%以下しかしていない。また、よく働くアリの上位30匹、あるいは、働かないアリ30匹を取り出して新しいグループをつくり観察を続けると、各グループともに2割程度のアリが働かなくなるということもわかった。つまり、アリのコロニーには常に一定の働かないアリが存在するということだ。
なぜ、そうなるのか?
その謎を解くためにシミュレーションモデルを作成。結果、分かったことは、働き者と見なされているアリでも、筋肉で動く以上、働き続けていれば必ず疲れて動けなくなるときが来る。「皆が一斉に働きだすシステムでは、疲れるのも一斉になりやすい。一方でアリの世界には、一時でも休んでしまうと、コロニーに致命的なダメージを与えてしまう仕事が存在する。シロアリで確認されているのだが、卵を常になめ続けるという作業がそれだ。ものの30分も中断すると、卵にカビが生えて死んでしまう。皆が一斉に働きだすシステムでは皆が一斉に仕事ができなくなり、コロニーに致命的なダメージを与えるリスクが高まってしまう」
つまり、働かないアリが一定の割合あるコロニーのほうが、存続する確率が高くなる。働き者が疲れたら、普段働いていないアリが仕事を肩代わりすることで、アリのコロニーはリスクをヘッジしているのだ。
アリの社会では、「怠け者」の存在意義は明らかにある。人間社会においても、元ひきこもりの石井氏がいうように「労働力の余剰」としての「怠け者」が、社会には必要なのではないか? だが、この考え方では、「昔はよかった。そういった怠け者の存在を認めるだけの余裕が社会にはあった」とか、「高度成長時代の会社には、これといった仕事をしていない社員っていたよね。宴会とか社員旅行とかになるとやけに目立った活動してさ・・・」という、たんに昔をなつかしむ話で終わってしまう。存在意義を納得させるだけの説得力がない。
そこで、もうひとつの怠け者の存在意義となる創造性について紹介します。
これも、民話を題材として、ユング心理学者の河合隼雄の説からはじめてみる。
河合氏は「怠け者には天啓の声が聞こえる」とし、怠け者が動物の声を聞いたり、偶然のことをうまく利用して成功する民話として「水木の言葉」という昔ばなしを紹介している。
・・・昔あるところに無精な若者がいた。毎日ぶらぶらしていた。ある日、柿が食べたくなったが、木に登って取るのも面倒くさい。柿の木の下に寝ていたら落ちてくるかもしれないと思い、ムシロを敷いて仰向いて口を開けていた。すると、鳥が二羽飛んできて世間話を始めた。「町の長者は大病だ。庭に植えてある大きな水木が血を吸っているためだ。あれさえ切り倒せば病気はすぐ直る」。それを聞いた怠け者は長者のところに行き、長者の命を助けることで大成功したとさ・・・という話だ。
鳥の話声は常識の世界で忙しく働いている人には聞こえない.天の声が聞こえないのだ。だが、怠け者の耳は天啓に対して開かれている。だから幸運を授かった・・・と、まとめてしまったら、ただのおとぎ話だ。
だが、天啓の声とは自分の内面の声でもある・・・という河合氏の説明を聞けば納得がいく。
毎日時間に追われて働く私たちには自分の内面の声を聞くだけの余裕がない。今回、コロナ禍で、テレワークで自宅で仕事をすることになって時間の余裕、そして心の余裕ができ、自然と、これまでの、そしてこれからの自分の人生に思いをめぐらした人も多いことだろう。そして、通勤地獄の都会から離れ、会社組織から離れ、個人事業主になって働き方を変えようと考えた人も多いことだろう。
数か月でも「怠け」の状態がつくれたから、聞こえてきた天啓(自分の内面の声)だといえる。
そういう風に自分の内面の声を聞くことができたのは、あなたが正規社員で、テレワークを自宅でしていても、一定額の収入が保証されていたからだ。非正規社員でクビになった人たちは、家賃が払えない、食費さえなくなってくる、これからどうやって生きていこうかと焦って考えることしかできない。ベーシックインカムがあって、5万あるいは7万円という収入が確保されていれば、ある程度の安心感をもって仕事探しができる。場合によって、次により良い仕事を得るための準備として資格をとる勉強もできるかもしれない。
ベーシックインカムは、現代資本主義の欠陥を是正するための「分配」の問題として議論されることが多い。
資本主義の基本は富の生産と分配にあるわけだが、グローバル化のなか、経済格差が各段とひろまり、分配の問題に真剣に取り組むべきだという声が大きくなっている。オリックスの宮内義彦シニアチェアマンも、「これからの経済はいかに成果を伸ばしていくかよりも、その成果をどう分け合うか、いわゆる分配が焦点になるだろう」と2019年のインタビュー(日経ビジネス)で答えている。
このように、最低賃金にしてもベーシックインカムにしても、低額所得者への富の再分配という観点から議論される。そうなると、どうしても、「働かざる者食うべからず」という意見が出てくる。だが、BIを人的資本の問題として提案する論文があるので紹介しよう。この論文では、「怠け者議論」を排除して、人的資本の増大ということでベーシックインカムを考えようとしている。
その根拠はというと・・・
日本を含めた先進国は第三次産業にシフトしている。つまり、生きていくのに必要な財を生産している人よりも、様々な形で生活を豊かにすることを生業としている人の方が多いということになる。それは、つまり、昔は職業として成り立たなかったものが、職業として成り立つことを意味している(たとえば、ウーバーイーツとか出前館の配達員、ユーチューバー、コロナ禍で個性的なマスクを手作りしてネット販売、等々)。
雇用の絶対量が不足しているのであれば、職に就いて働ける人が自分が得た収入を仕事がなく働けない人と分かち合うべきだという「分配」論になる。だが、新しい職業が今後も創造できる可能性が大きいのであれば、そういった流れを加速する方法に投資するべきではないか。
人的資本(human capital/ヒューマン・キャピタル)とは、個人がもつ、知識、経験、技能、能力などを資本としてみなして使う言葉。社会のメンバーである個人が、何らかの方法で自分の人的資本を向上させれば、個人やひいては社会が得る所得が増大するという見返りを得ることができる(何らかの方法で…と書いたが、たとえば、BIがあるから今の仕事をやめ資格を取るための勉強をする、また、BIと貯金をもとに、新しいビジネスをたちあげるための準備をするというのもありだ。BIを当てにして、自分が将来も続けていけるような仕事は何かを見つけるために、一年間、日本中を旅行してみるというのも人的資本の向上に役立つかもしれない)。
ベーシックインカムは再分配の促進にあるのではない。そうではなくて、新しいことに挑戦するだけの自由度とゆとりを社会全体に提供することを目的とする。論文の著者遅澤秀一氏(ニッセイ基礎研究所)は、BIの狙いは「社会全体のリスク回避度を低下させ、リスクを伴う人的資本投資を促す点にある」と書いている。「社会を活性化するには、現在の成功者の意欲だけではなく、将来の成功を志す人達がリスクをとることを後押しすることも重要なのである。それには成功した場合のインセンティブと失敗した場合のセーフティネットが必要となる」。
つまり、人的資本としてのBIの意義は、失敗した場合のリスク低減にある。「働かざる者くうべからず」という批判に対しては、現時点の職業・仕事だけで働いているかどうかを問題とすべきではない。BIによって、現在の生活や職業とは違う新しいことにチャレンジする人間が増えることを目指しているというわけだ。
誰もが、時々(それが数か月なのか数年なのかはわからないが)、怠け者になることが必要だ。それが、エネルギーを蓄え、創造性を生むことにつながる。
1880年、「怠ける権利」というエッセイがフランスで発表され、問題作だとして世間を騒がせた。マルクスの娘婿だったポール・ラファルグが書いたもので、「労働者は働くことは美徳であるという妄想にとらわれている」「一日3時間以上の労働は、人間から考える自由も感じる自由さえも奪ってしまう」とし、「人間が持つ創造性と怠けることが一緒になることで、長期的には人類の発展につながるだろう」と主張している。
最後のだめ押しで、河合隼雄氏の意見をもう一つ紹介したいと思います。
「怠け者は天啓を聞くことができる」とした河合隼雄氏は、こうもいっている。「天啓という言い方が嫌いな人には自己実現という言葉を使ってもいい」。ユング心理学において、自己実現とは自分らしい生き方をすることを意味する。
河合氏の主張を私流に翻訳すると・・・自分らしい生き方をするといっても、いったいどの方向にどのように実現していってよいのかわからないことが多い。方向性とかいまははっきりしないけれども、それがわかれば、ただちにそれに従っていこうという決意をもって模索している状態、この状態がなまけものであるということができる。
それでいくと、寅さんは怠け者じゃあないかも。
寅さんは、すでに自己実現を達成して、自分らしく生きているみたいだ。寅さんシリーズが多くの人に愛されたのは、寅さんが愛すべき怠け者だったからではなく、自分らしく生きていたからかもしれない。ぶらぶらしているとか世間様に恥ずかしいとか言われても、自分らしく生きることを徹底した車寅次郎の生き方に、「自分もああなれたらなあ」と思った人が多かったということだろう。
このブログの内容は、もともとは、この夏に出版した拙著「勤勉な国の悲しい生産性」の二章「時短ではなく時間からの解放」に入れるつもりでした。が、ただでさえあちこちに話が飛びすぎる本がますますまとまりがつかなくなるということで断念したといういきさつがあります。ご興味ありましたら、合わせて読んでいただればうれしいです。
参考文献:1.「さくらは寅さんに総額いくら金銭援助したのか? その収支を計算してみた」、雑誌「散歩の殺人」のウェブサイト「さんたつ」より引用、2.遅澤秀一、「人的資本投資としてのベーシック・インカム」November 2010、ニッセイ基礎研究所、3.河合隼雄「昔話の深層」福音館書店1993、4.河合隼雄「昔話のユング的解釈・その一 怠け者の話」天理大学における講演、5.長谷川英佑、その他「働かないワーカーは社会性昆虫のコロニーの長期的存在に必須である」Scientific Reports, 2016年2月、6.「視界良考 滝口悠生さんと」 朝日新聞12/30/18、7.「保立道久の研究雑記、ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」10/28/18、8.「寅さんは死して何を残す?」日経ビジネス9/2/96、9.「15人のニートが超限界集落の廃校に集う理由」日経ビジネス1/16/18、10.「人生はつらいか 対話山田洋次」 旬報社 1999年、 11.Marina van Zuylen, The Importance of Being Lazy. Cabinet Summer 2003, 12.The Right to be Lazy, Processedworld. com Issue25
確かにベーシックインカムは、こうして人々の内面に働きかけ、人としての余裕、言ってみれば機械の「遊び」みたいなものを生み出すかもしれません。しかし、今回のコロナ禍
で何もしないのに10万円支給されたり「Go To キャンペーン」でかなりの金額を補助されたりすると、そういうことに慣れない人間は、果たしてこんなことをしてただでさえ赤字の国家がますます貧乏になり、子孫に迷惑をかけるの
ではないだろうかと心配になって
くる。これは、やはり、働くこと
を美徳とした教育に根源があるの
だろうか?そして、こうした政府の補助や支給があると、必ずそれを悪用する人々がでてくる。やはり、これはもらうべき人、その必要のない人をキチンと仕分けする
べきだと思う!
投稿: 大谷敬子 | 2020年11月 3日 (火) 11:02