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2019年5月26日 (日)

身体性をもつAI(深層学習によるAIは古き良き時代のAI)

  いま注目を集めている機械学習によるAIは計算威力で人間を圧倒する。だが、人間の知能からは程遠い。「人間は創造的な仕事だけに従事し、その他の仕事はAIにやってもらえばよい」などと多くの有識者が語っている。が、そんな時代は、いま話題になっているディープラーニング技術がいくら発展しても(あるいは量子コンピュータの採用が進んでも)やってはこない。

  人口知能が人間の脳を超えるというシンギュラリティは2045年には到来と騒がれた。が、人間の脳だけを研究していてもシンギュラリティには到達不可能・・・ということに多くのAI研究者も気がついてきている。人間の脳だけを研究してもダメだというなら、いったい何を研究すればよいのか? 答は身体だ。感覚システムと運動システムをもつ物理的な身体、そしてそれと環境との相互作用についても研究をしなければいけない。

  身体性を有するAI、Embodied AIの登場だ。

  ディープラーニングとかニューラルネットワークといった用語を一般化した機械学習(機械学習はAIを実現するためのひとつの考え方でニューラルネットワークは機械学習のアルゴリズムのひとつ)の流れをつくった元をたどれば、1956年に米国で開催されたダートマス会議に行きつく。人工知能(Artifical Intelligence)という言葉はこの会議で初めて正式に定義された。ダートマス会議はAIという研究分野を確立した会議としてだけでなく、認知科学という学問を確立した会議としても有名だ。マービン・ミンスキー、ハーバート・サイモン、ノーム・チョムスキーといった心理学、神経科学、情報科学、言語学、哲学の分野におけるそうそうたるメンバーたちが参加していた(もっとも、言語学者、認知科学者として著名なチョムスキーはまだ28歳の若き研究者だった)。

  この会議において、人間の認知とは、外界にある対象を「知覚」し、それが何であるかを判断したり解釈したりする「記憶」「学習」「思考」を含むプロセスのことであり、外界の環境(物理的世界)の情報はシンボル(記号)に変換されルール(ロジック)に従って処理されるとした。つまり、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、認知活動は、ソフトウェアプログラムがコンピュータというハードウェアを動かすように、心(精神)が脳のなかで処理されることだと考えたのだ。こういった考えに基づいて、人間の脳の神経ネットワークを模倣するニューラルネットワーク技術のさらなる研究も促された。

  脳に知能(≒認知)が宿り、脳は人間の身体をコントロールするという考え方には長い歴史がある。古くは古代ギリシアのプラトンにさかのぼることもできるが、そこまでいかなくても17世紀の哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い出してもらえばいい。デカルトは、自分が存在しているのは自分の身体があるからではなく、自分の心があるからだと言っている。心(mind)と身体(body)は別のシステムで、心が身体をコントロールするとした二元論の考え方は、西洋、東洋を問わず現代人にも浸透している。だから、身体も心(脳)をコントロールしていると主張しても、すぐには信用してはもらえないだろう。

  1985年、米国の哲学者ジョン・ハアグランドは、70年代~80年代に進んだ新しいAI研究の流れを受けて、脳はコンピュータと同じ情報処理システムで、心が脳のなかで処理されるのだとしたダートマス会議の考え方を否定した。そして、外界の環境情報をシンボル(データ)に変換しルール(ロジック)に従って処理する機械学習等の手法を採用しているAIを古き良き時代(Good Old Fashioned )のAIと命名した。最近では、古典的AIと呼ぶ研究者もいる

  新しいAI研究は、人間の認知活動は脳の中だけで行われているわけではないとする。最新の神経科学、認知心理学や生理学の研究によって、脳は考えられていたほど全能ではないことがわかってきた。脳は、身体に指令を与えている以上に、身体から指令を受けている。あるいは、また、身体は脳とは無関係に自律的に行動をしていることが明らかになってきた。

  たとえば、最近TVで放映されたNHK特集「人体の神秘」で、脳が司令塔となり臓器を含む身体各所に様々な命令を出してコントロールするという通説が誤りであるという研究結果が相次いで発表されていることが紹介された。脳が内臓や筋肉、骨などに一方的に指令しているわけではなく、臓器同士がメッセージ物質を使って情報交換をしている。たとえば、腸が脳にこういった問題があるから適切な化学物質を放出するよう指令する(腸は第二の脳だとか、最近命名されるようにもなっているが、今の研究の流れでは、足や手も第二の脳と命名されるようになるだろう)。身体各所は、場合によって、脳に相談することなく自律的に行動をしていることも明らかになってきている。

  だから、本当の意味で人間の知能に近づくためには、AIにも身体性をもたせなくてはいけない

  だからといって、ホンダのアシモのようなヒューマノイド・ロボットをつくればよい・・・というわけではない。人間の身体に似せたロボットをつくっても、会話や動作、すべてが中央でプログラム化されているのでは、脳(コンピュータ)がすべてをコントロールするという古典的AIと同じ考え方になってしまう。

  身体性の意味をはっきりさせるために、古典的AIと身体性AI研究の歴史を簡単に説明してみる。

  知能が宿る脳が身体をコントロールするとした考え方は、長い歴史を通じて肯定されてきた。外界の環境情報は符号化されルール(ロジック)に従って処理されるというのは、正しい考え方に思える。機械学習のアルゴリズムは、人間の脳の無意識のプロセスを模倣していると説明されれば、さもありなんと納得してしまう。実際、こういった考え方に基づき開発されたAIは、明瞭なルールに基づく問題を解決する限りにおいて成功を収めた。音声認識、画像認識、将棋や囲碁といったゲームにおいて、データというシンボルからパターンを抽出するための統計計算処理速度においても、(古典的)AIは素晴らしい進歩を遂げた。符号化できる情報をロジックに基づいて処理することにおいては、これからも威力を増していくことだろう。

  だが、コンピュテーション(計算)はあくまで計算だ

  認知は脳の中だけにあるのではなく、人間が物理的世界を経験(感覚システムや運動システムを通じての経験)することに影響され決定されるという考えは20世紀初めからあった。が、それが実験的に裏付けられるようになったのは過去数十年のことだ。70年代になって、言語の多くは身体的経験(物理的環境との相互作用)から生まれている。言語は意味のないシンボルのつながりだというチョムスキーの言語学理論は、脳をコンピュータとみなすパラダイムには適しているかもしれない。が、実際とは違うのではないかと考える言語学者が出てきた。

  たとえば、「薬がのみこめない」と「意味がよくのみこめない」。身体的経験と認知的経験に同じ「呑む swallow」という言葉をつかっている。また、愛情の主観的判断は暖かさの感覚と一致する。だから、「赤ちゃんは母親のぬくもりを求める」とか「あの人は冷たい人だ」という表現がある。しかも、こういった言葉の使い方は多くの言語において、つまり多くの文化圏において共通している。ということは、人類の歴史からいってもかなり大昔にさかのぼることであり、それは、人類共通の同じ身体形態がもたらす同じ経験に基づいているからだと考えたのだ。

  考えたり感じたりすることは身体の状態に影響を受ける。たとえば、人間は嬉しいときには体を上向きにするし、悲しいときには下向き加減になる。だから、「気分が高揚する」「ハイな気分」「嬉しくて舞い上がった」「幸せで天にも昇る気持ち」とか、反対に、「気分が落ち込む」「気分が沈む」「ショックで浮かび上がれない」という表現が生まれるのだ。人間の身体が今の形態でなければ、幸福や不幸を表現する言葉は違うものになっていたと考える研究者もいる。

  身体的経験が認知の元になっている。つまり身体とその経験が知能に影響を与えていると考える研究者たちが認知言語学という新しい学問分野をつくりあげた。認知言語学のパイオニアとして著名なジョージ・レイコフは数学のような高次の認知を必要とするようなものでも身体の経験に基づいているとして、「Where mathematics comes from/数学はどこから来たのか(邦訳なし)」を2000年に出版した。そこには、実数や集合のような抽象的数学の概念でさえ身体性にその起源があると説明されている。

  やっと、ここから、Embodied AIの話になる

  チューリッヒ大学のAI研究室所長だったロルフ・ファイファーはAIの身体性の重要性を主張したパイオニアである。

  ファイファーによれば、身体性とは、「知能は常に身体を必要とするという考え方であり、正確に言えば、環境と相互作用することによって生じる振舞が観察できるような物理的実体をもつシステムだけが知能的である・・という考え方」だそうだ。どんなシステムでも、その行動は、たんに、たとえば脳の神経ネットワークのようなものが生み出すのではなく、そのシステムが存在する生態的ニッチ(たとえば生物が生息している特別な環境)や、自身の形態(身体の形、センサーやアクチュエータのタイプや設置場所)や材料特性の影響を受ける。

  たとえば、形態でいえば、人間の足は股関節で体につながっているために、歩くときには振り子のような行動をとる。その結果、安定性やエネルギーの効率を達成することができる。だから、歩くという課題には中枢神経によるコントロールはほとんど必要がない。また、人間の筋肉や腱は弾力性や柔軟性がある。なので、たとえば、右手でコップをつかむときには、通常、手のひらは左を向いている。だが、やろうと思えば、右手をねじって手のひらを右にしてコップをつかむこともできる。この無理な体制は、筋肉を弛緩させれば、自動的に自然な状態に戻る。この作業は神経にコントロールされているのではなく、筋腱システムの材料特性によってもたらされている。だが、固い材質からつくられているロボットの場合は、このような作業をするためには、複雑なプログラムによるコントロールを必要とする

  生物の身体は中枢神経によってのみ動いているわけではない、そして、身体性はAIの認知機能を向上させる。ファイファーは、この2点を証明するために、メカニカルシステムが歩行という低レベルの運動を重力とメカニカル構造だけで自律的に達成したいくつかの実験に注目した。

  そういった初期の実験のなかには、二本足のメカニカルシステム(脳無しロボット)が、モーター、センサー、そしてマイクロプロセッサーの助けもなく、斜面を歩く実験もある。傾斜があるということで重力だけがエネルギー源となる。足の長さ、足底の形、質量の配分といった数値の設定、また、バランスよく歩けるように足とは逆に振る腕の取り付け方といったメカニカル構造だけで課題を達成した。これは身体が環境との相互作用によって機能する良い例である。ただし、生態学的ニッチ、つまり、システムが機能できる環境は、特定の角度をもった斜面だけということで非常に狭いものだ。

  だが、このメカニカルシステムの腰関節をモーターが駆動することにより平地歩行が可能になる。脳なしロボットが平地を歩くことができたということだ。

  このように、身体性の基本は、ロボットに、環境と相互作用ができるように、センサーやアクチュエータ(たとえばモーター)をつけることだ。

  6本の足をもったゴキブリの動きを角度センサーとメカニカル構造で実現したロボットもある

  もともと、ゴキブリのような昆虫の場合、歩行する足の動きは中央の神経システムから独立していて、足にある神経回路だけで制御されている。地面に立っているゴキブリが一本の足を後ろへと押し出すと、地面についているすべての足の関節角度が瞬時に変化して胴体は前に押し出され、結果的にほかの足は前方に引っ張られて、その関節は曲がったり伸びたりする。昆虫の関節には、変化を図るための角度センサーがついていて、それが足の神経回路に足の詳細な位置情報を伝達し、地面のどこを足場とすべきかを教えてくれるのだ。

  ゴキブリを模倣したロボットの足には電気回路とセンサーが配線され、1本の足が動くと、他の足は曲げるか伸ばすかの信号を受け取る。それぞれの足の位置を計算し指令を送るような中央コンピュータの制御なしに、ゴキブリロボットは環境との相互作用と自律的なサブシステムによって歩行する。

 メカニカルシステムが、このような低レベルの課題を自律的に達成できることを実験で証明してから、次に挑戦したのは、身体性あるAIが、より高度な認知を必要とする「分類」という課題を果たすことができるかどうかだ。この場合は、触覚や視覚といったセンサーをもつシステムが動きながら環境と相互作用をすることで、写真を使った画像認識より優れた分類ができることを証明した。

  たとえば、サイズが違う木の円柱(大と小)を画像認識で区別することは、つまり視覚だけで識別することはむずかしい。だが、身体性ロボットが円柱の周りを動くことで、角速度(ある点をまわる回転運動の速度)の数値を得ることができる。これが古典的AIだと、センサーから画像データを受け取り、蓄積保存していた画像情報と比較しパターン認識をする。だが、グーグルにしてもフェイスブックにしても、画像データベースにアップロードされている写真の多くは不完全な状況(距離とか照明、角度、その他)で撮影されたものだ。結果、誤った判断がなされることがある。身体性をもったAIの場合では分類化はより正確になされることを、この実験は証明した。

  以上紹介した実験からみてもわかるように、身体性AIが人間の知能に近づくにはまだまだ長い道のりを進まなくてはいけないようだ。

  いずれにしても、シンギュラリティの問題とは、AIが人間の知能を超えて人間にとって危険なものになる可能性がある・・・という意味にとるべきではないだろう。そうではなくて、計算能力が非常に高くなったAIに恣意的に、あるいはうっかりして誤ったデータを入力する。あるいは、恣意的に問題あるプログラムを組み込んだりする。こういった人間が存在することにより、古典的AIが社会を大きな危機に陥れる可能性がでてくる・・・という意味に理解したほうがよい。結局は、人間が恐れるべきは、AIではなく人間なのだ。

   雇用の問題においても、身体性のない古典的AIが人間から奪える仕事には限りがある。

   最後につけ加えると、身体性を持ったAI研究ではロボティックス(ロボット工学)が中核となる。この分野は、日本もまだ先端を走っているし、「ものづくり」のノウハウが生かせる分野だ。古典的AIでは米国企業に追いつくことは無理でも、身体性AIならまだ頑張れるかもしれない。

参考文献: 1.R・ファイファー、J.ボンガード「知能の原理」共立出版、2.Katrin Weigmann, Does intelligence require a body?, EMBO reports 11/12/2012 3. Samuel McNerney, A Brief Guide to Embodied Cognition:Why You Are Not Your Brain, Scientific American, 11/4/2011, 4. 特集AIの身体性、日経サイエンス2018年8月号 5.Luc Steels, Fifty Years of AI: From Symbols to Embodiment-and Back,LNAI 2007 6.楠見孝、心のメタファと身体性:認知心理学の立場から、理論心理学研究2015、7. George Lakoff, Mappping the brain's metaphor circuitry: metaphorical thought in everyday reason, Frontiers in Human  Neuroscience , December 2014、8.Fred Delcomyn, Marke E. Nelson, Architectures for a biomimetic hexapod robot, Robotics and Autonomous System 30, 2005

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2018年12月22日 (土)

意外とアナログなAIとビッグデータの実際

  AIとビッグデータとプラットフォーム・・・・この3つの用語を組み合わせれば、ビジネスパーソン向けのそれなりの記事は作成できる。だが、注目を集めるために連発される最新用語からなる文章は、現場における実際を教えてはくれない。

  たとえば、マイクロソフトのクラウド事業の成長をとりあげた日経新聞の記事は、「AIを使った解析サービスなどのプラットフォームとなるクラウドサービス『アジュール』が中心のインテリジェント・クラウド部門が29億円の営業利益をあげた」と報告している。

  「AIを使った解析サービス」と「コンピュータを使った解析サービス」と、どこが違うのか? AIという言葉が使われていると、以前よりもっと高度なデータ分析をしているのだろうと思ってしまう。だが、「AIを使った解析サービス」と宣伝されているデータ分析サービスで、フツーの会社が実際に使うのは、以前からある統計解析手法がほとんどだ。AIクラウドサービスの提供内容をみれば、機械学習として、ニューラルネットワーク以外にもこういった以前からある統計解析手法もふくまれている。機械学習について教えますと宣伝されているeラーニングのコース内容をみてみると、統計解析のアルゴリズムに関する訓練がほとんどだったりする。

  「AIを使った解析サービス」では、すべてが自動化されていて人手はいらないという印象を受ける人も多いだろうが、実際には人手がけっこうかかっている。

  たとえば、「機械学習」にしても、コンピュータが自分で学習して自分で考えて実行すると思ってしまうかもしれないが、実際には、データの事前調整に結構時間がかかる。全行程にかかる時間の80%程度がデータ調整で、そのほとんどは人間の手によるものだ。

  コンピュータのパワーが格段と大きくなり、データ処理のスピードが上がっても、データから価値を生み出す作業、たとえば分析のようなプロセスでは、いまのところ、やっぱり、人間の考えが加えられることによってより良い結果が得られるようになっている。そして、こういったマニュアル作業をする人たちがデータサイエンティストとか高度なデータ分析者とか呼ばれる人たちだ。データ調整がうまくできるかどうかで(「うまく」という意味は、その結果、分類や予測能力が上がることを意味する)、データサイエンティストの優劣がきまる。

  企業にとってデータは金銭と同じように資産となるという意味で「データ資本」という言葉が使われるようになった。だが、データは生のままでは利益を生み出さない。データサイエンティストは、データから価値を引き出す知見やノウハウを持っている人たちだと定義してもいい。

  データがデータサイエンティストの手によって価値を生み出すように、いまのAIは人間の助けを得て、初めて、機能することができる。その具体例としてAIスピーカー(スマートスピーカー)をとりあげてみる。(データ分析には人手がかかるという話は、また、後で・・・)

  スマートスピーカーというと、ユーザーの言葉を認識するのも、それに応じて、例えばアマゾン・エコーのアレクサ(Alexa)が返答するのもすべてAIでなされていると誤解している人も多いようだ。が、言葉を認識するのはAI(厳密にいえば、現在利用されているのは機械学習のアルゴリズムのひとつであるニューラルネットワーク)でも、返答には人間が深くかかわっている。グーグルアシスタント、アマゾンのアレクサ、そしてアップルのSiriなど、対話型AIの多くにおいては、人間が書いたシナリオに沿ってチャットボットが返答している。

  ユーザーとの対話をAIだけですることが、今の段階では、いかに難しいかを知るにはアマゾンが主催した「アレクサ・プライズ」コンテストに参加した学生たちの試行錯誤ぶりをみればよくわかる。

  2016年9月に、アマゾンは対話型AIの開発推進をめざし、大学チームを対象とするコンテスト「アレクサ・プライズ」を開催すると発表した。優勝チームには50万ドル、またその大学に研究助成金として100万ドルが贈与されるという魅力的な内容だ。

  コンテストの目的は、スモールトーク(small talk)を人間と20分話すことができるチャットボット(社交性のあるチャットボットということでソーシャルボットsocialbotと命名されている)を、アレクサ上に構築することだ。スモールトークというのは世間話とか軽いお喋りとか、パーティなどで初めて会った人間がする社交的な話で、天気から、最近話題になっていること、趣味など、とりとめのない会話だ。こういった会話は、相手にあわせてとか自分の気分とか、あるいはたんに沈黙を避けるために、テーマはころころ変わるものだ。それでいて、会話の流れに沿ったものでなくてはいけない。そういった会話が苦手な人もいるだろうが、それでも、極端な人間嫌いとか内気な人でもなければ(まあ、そういったタイプの人は懇親会とか交流会には出席しないだろうが・・)、ある程度の時間はつづけられる。

  だが、いまのAI、とくに実用化がすすんでいるニューラルネットワークによる機械学習にとって、目的のない会話を習得することは至難の業だ。データから学んでいき、その結果を一般化(モデル化)する機械学習は、ゲームで勝つとかいった明確な目標があるときに力を発揮することができる。目標があるということは、何が正しい答かがわかっているということだ。質問(条件)と答(目的)のセットを学習することによって、自分で判断することができるようになる。明確な答があって、初めて、学習できる。世間話には「これが正しい」と断言できる答はない。正しい答の選択肢はいくつもある

  アレクサ・プライズでは、この目的のない会話を20分続けられるかどうかが目標となっている。審査員は開発されたソフトウェア(ソーシャルボット)と人間がする会話を聞いて、その結果で1~5の点数をつける。

  コンテストが発表されると22か国から100の大学チームが応募し、最終審査には15チームが残った。

  勝ち残ったチームを悩ませた問題は、ソーシャルボットの頭脳のどの部分に機械学習(コンテストで使われたのは、より複雑なニューラルネットワーク構造をもったディープラーニングを利用した手法)を使い、どの部分を人間の手作りにするかだった。手作りとは、「もし、これこれこういった話が出たら、こう答える」といったif-thenのルールを人間が作成することを意味する。ルールベース手法(Rule-based Approach)ではAIのために膨大な数のルールやテンプレートをつくらなければいけない。労働集約型手法だ。

  ルールベースもAIに含まれると考える人は多い。その意見に賛成するかどうかは、AIをどう定義するかによる。自分で考えて判断するのをAIとする人は、ルールベース手法はAIではないと断言するだろう。

  アレクサプライズコンテストに残った15チームにとっては、機械学習とルールベースの2つの手法のバランスをどう取るべきかが悩みとなった。実際問題として今のレベルのニューラルネットワーク手法だけでは、たとえ、深層学習と訳されるDeep Learningを採用しても、スムーズな会話を継続することは無理だ。

  たとえば、あるチームは、ソーシャルニュースサイト「レディットReddit 」におけるユーザーのメッセージとレスポンス300万件のペアをニューラルネットワークで訓練した。そして、2017年の数か月、他のチームのチャットボットと同様に、アマゾンエコーを通して全国のユーザーと対話をする機会を提供されたときにテストしてみた。結果はひどいものだった。チームは、途中から、ルールを作成する手法に変えた。そして、どういった答え方をするかはテンプレートに従い、その内容は、それぞれのテーマに関するデータベースから検索するretrieve方式を採用した。

  最終審査の結果はというと、1位の優勝者は機械学習とルールベースを組み合わせたハイブリッド手法を使ったチーム、2位がルールベースの手作り、3位が機械学習のみをつかったチームだった。

  このように、AIスピーカーと命名されてはいても、人間の要素は非常に大きい部分を占める。その点を強調するために、スピーカー以外の例もあげてみよう。

 たとえば、Facebook のAIアシスタントと呼ばれたM。音声ではなくテキストベースでユーザーと対話をするもので、カリフォルニア州の2000人のユーザーに絞って2015年からテストをしていた。この例でも、常に尋ねられる多頻度の質問の答え以外は人間が返事を書いていた。このテストは今年1月に終了している。

  Facebook はAIが十分学習をしたのでテストを終了したと発表しているが、実際のところは、いまのAI技術では、ユーザーと人間並みのスムーズな対話をする(この場合は文章を書く)ことがいかに大変かわかったので(つまり、いかに労働集約型で人件費がかかるかわかったので)、テストを終了したのだろう。その証拠に、テスト終了後は、Mは、メッセンジャーのなかでキーワード検索で適切なアドバイスをするM suggestionとして残されたが、できることは非常に限られている。(たとえば、ウーバーを予約したり、アポをカレンダーに記載したり・・・)

  人件費がかかることを意に介さず、反対に、AIアシスタントの個性(性格)をきわだたせようとする企業もある。グーグルには、グーグルアシスタントの返答に個性をもたせるための「デザイナー」なるものが存在する。台本作り(ルールやテンプレートづくり)に個性を発揮する人のことだ。デザイナーとして採用されるのは、それまでの従業員とは違うタイプの社員、たとえば、フィクションライター、ビデオゲームデザイナー、共感専門家、コメディアンといった左脳のクリエイティブな人間を雇用するようにしているそうだ。

  先に書いたように、ルールベースもAIに入るという主張もある。これは、AIとはなんぞやという定義の違いであり、自分で考えなくちゃAIではないとする人たちも多い。その考え方に従えば、いま、実際に機能している多くのAIはAIではない。

  問題は、AIという言葉が過剰利用されることで、すべて自動で人手が必要ないと思い違いをしている人が多いことだ。経営者がそう思い込んで、自社内にデータに強い人材は必要ないと考えると、話がややこしくなる。実際には、たとえ、AIクラウドと名付けられたクラウドサービスを使い、データ分析自体もアウトソーシングしている企業であろうとも、自社のデータを資産としたいのならデータのことをよく理解している担当者は必要だ。

  ・・・ということで、データ分析の話にもどります。

  まず最初に、ビッグデータ分析に関連する誤解を解いておきたい。

  ビッグデータの例として、(たぶん面白いストーリーになっているからだろうが)日本でもよく紹介されるエピソードがある。米国の小売業「ターゲット」が自社の顧客データを分析して、妊娠していると推定した顧客に妊婦が必要と思われる商品のダイレクトメールを送った。その一つが娘に届いたと怒った父親が店舗に怒鳴り込んできた。「うちの娘はまだ高校生だ。なのに、DMには、赤ちゃん用衣料とかベビーベッドのクーポン券が入っていた。おまえの店は、娘に妊娠しろと勧めているのか?!」。

  店長は平身低頭あやまった。そして、数日たって、また、謝罪の電話を入れた。そしたら、電話口に出た父親の様子がおかしい。そして、きまり悪そうに、「自分は知らなかったが、娘が実は妊娠していた」と反対に怒鳴り込んだことをあやまった・・という。

  このエピソードのオチは、娘が店舗から買っていた商品を分析するだけで、親すらも気づかなかった妊娠を判別した。これがビッグデータ分析の威力だというわけだ。

  この出来事が起こったのは、ビッグデータなどとメディアが騒ぎ始めた2010年よりずっと前のことだ。

  消費者の購買習慣を変えることはどんなに巧妙な販促活動を駆使してもむずかしい。だが、結婚、就職といった人生のイベントと同様に(・・というか、それ以上に)、赤ちゃん誕生前後の両親の購買パターンやブランドロイヤルティを変えることは比較的簡単にできる。そういった事実を知ったうえで、ターゲットは、2002年頃に、顧客が妊娠したかどうかを購買データから知ることはできないかと模索し始めた。そして、2005年ごろまでには、25種類の商品を分析することにより、顧客の妊娠予測スコアをつけるモデルを完成させた(らしい)。そして、そのスコアに従って、DMが送付された。結果として、怒った父親が店に怒鳴り込んできた。(「らしい」としたのは、プライバシー問題になるのを恐れたターゲットは、妊娠予測スコアモデルの作成を正式には認めていないからだ)。

  このエピソードを2012年に報道したニューヨークタイムズも、記事の中では、まだ、ビッグデータなんて言葉は使っていない。2000年代初めのターゲットの顧客ベースは(会社は発表してはいないが)たぶん多く見積もっても数千万人くらいだろう。しかも、Facebookの創業が2004年ということからわかるように、ネット上のアクセスログデータやソーシャルメディアのテキストデータといった非構造化データはまだ含まれていない。顧客プロフィールデータや購買データは構造化データ。分析手法も、以前からある回帰分析とかマーケットバスケット分析とかいった統計解析手法が使われただけだ。

  だから、このエピソードをデータ規模やデータ内容からいってもビッグデータ分析の具体例として挙げるのはおかしい・・・といちゃもんをつけることもできる。が、逆に、ビッグデータ分析とはいっても実際にやっていることの多くは、2000年以前からある伝統的統計解析による分析手法と変わっていませんよ。あるいは、また、AIクラウドサービスを利用しているからといって、実際のデータ分析は2000年以前の統計解析による分析とあまり変わっていませんよ・・・ということもできる。

  AIを、そして、アルゴリズムのひとつのニューラルネットのディープラーニングを有名にしたのは、将棋とか囲碁といったゲームで人間に勝ったことだ。また、フェイスブックやグーグル、アマゾンが顔認識や音声認識で誤差率を数%台まで低くすることに成功し実績を上げたことだ。こういった例においては、結果がすべてであり、そのプロセスがブラックボックスであっても、つまりどうしてそういった結果が出るのかわからなくても問題ない。だが、ビジネスにおいては因果関係を知ることが結果と同じくらい重要になることが多い。統計解析の場合は、変数間の関係性(因果関係や相関関係など)や関係の強弱を知ることができる。だから、どうしてそういった結果を得ることになったかの説明がつく。そういった説明を得ることによって、次にはより優れた仮説を立てることができるようになる。自社ビジネスにとってより良い意思決定をすることができるようになる。

  だから、フツーの企業が売上・利益を上げるためにデータ分析するときは、統計解析手法を使うことがいまでも多いのだ。そして、そのときに、アウトソーシング先の外の会社にすべてをまかせていては、肝心の知見やノウハウを獲得蓄積していくことができない。データサイエンティストとまでいかなくても、データのことをよく理解している担当者は必要だ。自らデータ分析をすることはできなくても、データ分析とはなんぞやということを理解していて、自社データの特徴とかもわかっていて、アウトソーシング先の分析者がどういった手法を使ってどういったデータの調整をして分析をするのかといった説明がわかる人は必要だ。

  顧客データや購買データを含む行動データの傾向は各企業に特有なものだ。各企業における「データの特徴」は、その企業の戦略や方針を決定づける基本となる。

 コンピュータのキャパに制限がなくったビッグデータ時代にはデータ規模がどれだけ大きくなっても生データのまま保存される。だが、分析には生データのまま使わないほうが良い結果を生むことが多い。たとえば、購買予測を分析するときに、顧客一人一人の某商品カテゴリーの累計購買金額を変数として使うよりは、全購買金額に占める某商品カテゴリーの割合を変数として使ったほうがより予測精度が上がるかもしれない。こういった調整とか加工をするところに、データサイエンティストの経験にもとづいた洞察力が必要となる。そして、こういったデータの準備に、データ分析者は全プロセスの80%の時間を費やしている。仮説を立ててモデルをつくる。その仮説が正しいかどうかを実行の後検証する。それがデータサイエンティストにとっての知見やノウハウになる。

  クライエント側企業にアウトソーシング先のデータ分析者とコミュニケーションする能力をもった担当者がいなければ、何か不都合が起こっても、自社データに精通したデータ分析者をかかえているアウトソーシング先を変えることもできなくなる。

  自社データの特質をよく知っていて、どういったアルゴリズムをつかって、どういったデータ調整をしたらよいかという知見を持っているのはアウトソーシング先のサービス会社・・・これでは、クライエント企業はデータを所有してはいても「データ資産」を所有しているとはいえない。

  最近、メタデータという考え方をよく耳にする。メタデータ=データに関する情報で、さまざまな形式の大規模データを取り扱うビッグデータの時代に必要なものとされる。各データの保管場所、保管形態、アクセス履歴、、特徴、過去にどのように操作され変換されてきたかの履歴等々が明らかになり、会社のデータ資産を明確に定義してくれる。

 メタデータは、データの構造を教えてくれるものでデータを管理し、必要な情報を素早く見つけるツールとなる。だが、それだけではない、データが最初に獲得されて以降、どのように変換され操作され利用されてきたかといったデータ履歴はデータの意味や重要度をデータサイエンティストに教えてくれる。それが、データサイエンティストのノウハウ・知見の源となり、会社がもっているデータを資産とする源となる。メタデータはアウトソーシング先のサービス会社だけに所有させるのではなく、クライエント企業も共有するものでなくてはいけない。

 

 参考文献: 1.Inside the Alexa Prize, Wired, 2/27/18, 2.Ashwin Ram, et al, Conversational AI: The Science Behind the Alexa Prize, 3. Facebook is shutting down M, its personal assistant wervice that combined humans and AI, 1/8/18, 4. How Companies Learn Your Secrets, The New York Times Magazines, 2/29/12、5.Google wants to give your computer a personality, Time, 10/16/17

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2018年7月 7日 (土)

新刊「経済の不都合な話」発売されます!

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7月10日ごろ、新しく書き下ろした本「経済の不都合な話」が日経プレミアシリーズ(日本経済新聞出版社)より出版されます。

 タイトルから経済の話?と思われるかもしれませんが、オビのコピーは過激で「社長と経済学者は、読まないでください・・・・・偽善、タテマエ、机上の空論ばかり。現実をあらわさない経済・ビジネス論を排し、人間の本性に基づく『言いづらい真実』を示す」となっています。

 裏表紙には「経済やビジネスをめぐる議論が現実離れするのは、偽善や机上の空論による『お約束』に支配されているからだ。会社存続の動機は『経営者のエゴ』、顧客なんて『不実な愛人』、日銀の約束を誰も信用しない理由・・・。感情が理性より優位に立つ時代、人間の本性に基づいて展開する、少し言い出しにく世の中の真実」となっています。

 興味そそられる宣伝コピーを編集の方が書いてくださいました。内容もご期待に添えるものになっているとよいのですが・・・。富士フイルム、ミクシィー、楽天、ダイエー、パナソニック、シアーズ、テスコ、大塚家具、東芝、ノリタケカンパニー、ユニクロ、マクドナルド、アマゾン、資生堂などの企業が登場します。

 ネットでご購入される皆様方のために、一応、「まえがき」と「目次」を書いておきます。価格は税抜き850円です(アマゾンでの購入用リンク

 まえがき

  変化 の時代と言われるように、経済やビジネスの世界でも、これまで「常識」とされてきたことが次々に覆されている。

 たとえば、経営者なら肝に銘ずべきとされた「企業の目的は顧客を創造することだ」というドラッカーの金言はもはや通用しない。富士フイルムはアナログ写真フィルムの購買者が激減し、新しい顧客を求めて新市場を開拓せざるを得なくなった。ネットの世界に住む企業は有形固定資産が少ない分、変身も比較的簡単だ。既存市場での競争を避けて事業内容を大幅に変える例は多くみられる。

 創造した既存顧客を捨て(あるいは顧客が消滅したために、やむをえず)、新しい顧客を対象に新しい事業を始める企業はもう珍しくない。

 だが、顧客を捨て、既存市場から撤退してまで会社は生存し続けなくてはいけないのか。会社が存在し続けなくてはいけない正当な理由などあるのだろうか――。

 マーケティングや経済学の教科書に書かれている「顧客が知覚する価値が価格を決める」という考え方も、実際には共通認識とは言えなくなっている。価格は価値のひとつだと言い切る小売業の名経営者もいるくらいだ。アマゾンや楽天といったeコマースのサイトをみれば、価格が価値の一要素になってしまっていることは歴然としている。

 変化の時代は、感情優位で意思決定がなされる。米国大統領選挙やヨーロッパにおけるEU離脱の流れを受けて、いわゆる知識層は感情的に動く世情を憂えるコメントを出す。人間は理性的に意思決定すべきだと言う。

 以前から不思議に思っていた。

 なぜ政治家・官僚や知識人は、人間が理性的であることを前提として法律や組織をつくろうとするのだろう――。

 デフレに悩む各国において金融政策を指揮する経済学者にしても、「合理的経済人」を前提とする政策を実行している。それが、理論どおりにインフレ目標が達成できない理由だ。

 金融危機以降、危機を予測できなかった主流派経済学への風当たりは強い。批判の大部分は、人間の感情を含めた心理を無視して数式モデルを構築したことに向けられている。経済学者は人間の感情を無視してもよいと考えているわけではないが、感情すらも数式化しなければいけないと考えている。数式化できなければ科学とは言えないからだ。

 本書では、「人間の感情さえも数式化できる」と経済学者に思わせるほどの影響を与えた2人の知識人にスポットライトを当ててみた。17~18世紀の知識人の多くは優れた数学者でもあった。そして、彼らは感情は悪しきものだとみなし、人間は感情に左右されず論理的に意思決定をすべきだと考えた。数学に長けた先人がつくりあげた合理的意思決定手法と数式を採用したことが、現代の経済学が抱える矛盾につながっている。

 人間の認知プロセスは、情報をありのままに受け入れ処理する仕組みにはなっていない。これは行動経済学や神経科学で、またAIとの比較で明らかにできる。認知プロセスにおけるバイアスは人類が環境に適応するために生まれたものだ。感情は、合理的意思決定の妨げになることもあるかもしれない。だが、感情と論理的思考とが協力しあわなければ、「何を食べるか」といった簡単なことさえ決められないことは科学的にも証明されている。

 それにもかかわらず、知識人や政治家・官僚といったエリートは「人間は理性的で論理的かつ合理的に意思決定すべきだ」と考え、その前提のもとに社会システム(制度、体系、体制)を構築してきた。そして、いま私たちは、「感情」の本来の役割を知らず、「理性」に反する動物的側面とみなしたことによって、手痛いしっぺ返しを受けている。

 人間は、経済的レベルがある程度以上で、自分だけ損をしているという不公平感が少ないときには理性的でいられる。戦後、先進国の多くがそういった社会状況にあり理性が保たれた。感情が席巻する社会は異常ではない。理性的でいられた時代が60年以上続いたことのほうがアブノーマルなのだ。 

 感情が理性より優位に立つ時代において、企業はそして経営者はどう対処するべきかの筆者なりのアイデアも本書で提案した。ここでは「世界観」と「共感」がキーワードになるが、この世界観や共感は通常使われる意味合いとは少し異なる。

 企業とは、あるいは経営とはこうあるべきだと長い間信じられてきた考え方に反論し、経済学という権威ある学問に疑問を投げかけるのには、少なからず勇気を必要としました。この時代に生き働く読者の皆様方に、なんらかのアイデアやヒントを少しでも得ていただくことができたとしたら、筆者にとってはこれ以上ない喜びとなります。

 

 

目次

第1章  「会社は存続すべきもの」という欺瞞

・会社は必ずいつかは消える存在 ・顧客に見放されても生き残る方法 ・コダックに多角化を断念させた圧力 ・株主は特定の会社の存続など望まない ・顧客を捨てて変身する企業 ・顧客データをもつ企業は金融に走る ・ピークを極めたときが衰退の始まり ・金融業を始めると本業がばからしくなる? ・コア事業をおろそかにした末路 ・会社存続の動機は経営者のエゴ? ・「従業員のため」という建前

第2章 価格と価値に翻弄される人々

・価値と価格の逆転―「流通の神様」の選択 ・アマゾンでは価格は価値の一つに過ぎない ・スーパーが見下されたいた時代 ・化粧品業界が固執した価格 ・メーカーと小売りの30年戦争 ・小売業が住む「弱肉強食」の戦場 ・顧客なんて「不実な愛人」みたいなもの ・マクドナルドの挫折 ・ユニクロの心理はメーカーか小売りか 

第3章 科学になりたかった経済学

・経営学やマーケティングに理論などない ・教科書どおりにインフレにならない理由 ・「日銀の約束」など誰も信用しない ・経済学者はおろかなのか、それとも… ・物理学への憧憬 ・定職につけなかった経済学の祖 ・経済学は厳正科学になりたかった ・「合理的経済人」が感情の産物という皮肉 ・ノーベル経済学賞が逃れられない後ろめたさ ・「美しい数式」と絵画や音楽の不思議な共通点 ・数式に魅せられ人間社会を誤認する

第4章 ギャンブルが生んだ机上の論理

・経済学の矛盾をもたらした元凶 ・数学とギャンブルの不可分な関係 ・どこか腑に落ちない確率論 ・神の存在を賭けるということ ・なぜ「神を信じる」のは合理的なのか ・父親の嫉妬と画期的理論 ・客観的価値と主観的価値 ・「主観的価値判断の数式化」の罪と罰 

第5章 人類とAIの超えられない壁

・なぜホモサピエンスは「アバウト」なのか ・社会科学のレノンとマッカートニー ・行動経済学の正しさは実社会が証明する ・人間の脳は欠陥品だが優れもの ・「過去の自分が今の自分をつくる」 ・「安かろう悪かろう」という認知バイアス ・1割くらい重くないと、重量の付加に気づかない ・客観的価値は正確に認知できない ・対数に変換された感覚刺激 ・損失を過大評価する人間の性 ・現状維持バイアスの恐るべき威力 ・「変えなくては」と思ったら、もはや手遅れ ・脳の自動意思決定装置―ヒューリスティクス ・パターン認識で失敗する社長 ・顧問・相談役として遇される無用の人 ・大塚家具のお家騒動と人間の本能的感情 ・誰も知らない「感情」の真の役割 ・本能的感情がなければ行動は起こせない

第6章 大企業が機能しない神経学的理由

・理性の時代から感情の時代へ ・道徳は善でも徳でもない ・理性的であることに疲弊する現代人 ・平等だった年功序列制度 ・内部統制で不祥事は防げるのか ・大企業病をもたらす「大きな群れ」のルール ・社員150人説を信奉するハイテック企業 ・「世界観」と「共感」、そして官僚的組織 ・トランプ大統領の「世界観」に熱狂する人々 ・強制される世界観か心酔する世界観か ・「創業の理念」をどこまでのこすべきか ・「やってみなはれ」と重なるアマゾンの「反対だがコミットする」 ・「チャレンジ」を変容させてしまった東芝 ・大企業は変化の時代にそぐわない ・「一業一社」の原則で会社を分離する ・「人は感激に生き保守に死す」 ・人間は「ある程度の理性をもったサル」と自覚せよ

 

 興味を持っていただけましたらご購入のほどよろしくお願い申し上げます m(_ _)m ペコリ