« 2020年6月 | メイン | 2020年9月 »

2020年8月 6日 (木)

DX(デジタル・トランスフォーメーション)の定義はまちがっている

   最近のビジネス用語の流行キーワードはDX(digital transformation /デジタル・トランスフォーメーション)だろう。で、その流行に乗るというにはあまりに遅ればせだが、DXに関する記事を書こうと思いたった。「日本企業の雇用方針とDXとの不都合な関係」について書くことにして、「DXってなに?」という定義とか意味とかを調べていたら、ちょっと驚くミステリーに遭遇した。

  IT関連のキーワードについて記事を書くときには、まず、最初に、誰がいつその用語を造ったとか、その時どういった定義づけをしたのか・・・を書くことが常識となっている。そして、DXに関しては、日本では、どのレポートや記事を見ても、次のように記されている。

  • 多くのビジネス誌では、「スウェーデンのウメオ大学にいたエリック・ストルターマン教授が2004年に発表した論文「Information Technology and The Good Life(情報技術とよい生活)」で提唱したもので、DXを『すべての人々の暮らしをデジタル技術で変革していくこと』だと定義した」と書かれている。論文のタイトルが一緒に紹介されているので、「デジタル技術でよい生活がもたらされる」という意味合いが強調される。
  • 総務省発行の「平成30年度 情報通信白書」には、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」ことがデジタル・トランスフォーメーションの概念だと、エリック・ストルターマン教授が2004年に提唱した・・・と記されている。

   IT用語の定義とか誰が提唱したかなんて本質的にはどーでもい-ことだとはわかっていながらも、正確を期すために(といえば聞こえがよいが、筆者の私が疑り深い人間であるがために)、英語で検索してみた。つまり、英語圏の世界では、DXはどう理解されているかをチェックしてみたということだ。

  そうしたら、digital transformationの歴史とか定義に関するだけでなく、ほとんどすべての記事にストルターマン教授の名前は登場しない。唯一の例外は、digital transformationという単語と教授の名前を同時検索するときで、教授が2004年にIFIPの大会で発表した論文「Information Technology and the Good Life」が表示される(もう一つの例外は、日本の経済産業省や企業のレポートが英訳されたもので、そこには、教授が用語の提唱者として紹介されている)。

  うそぉ? なに、これ?

  ネットによるグローバル化で、昔と違って今は、日本と海外で情報内容に大きな違いがみられることはほとんどない。そういったなかで、ストルターマン教授がデジタル・トランスフォーメーションとの関連で海外でまったくといっていいほど無視されている事実は、日本の状況と比べると、その差が目立つ。

  ・・・ということで、IFIPの大会で発表された論文・・・といってもスピーチをまとめたものなので、5ページの短い小論文なので読んでみた。そして、海外で、教授とDT(理由はあとで説明するが、ここからは、DXという略語ではなくDTを使う)との関係が無視されている理由が理解できた。

  教授の小論文が発表された場は、 IFIPInternational Federation for Information Processing ) の英国での大会だ。IFIPという組織は、1960年にユネスコの援助を受けて創立された国際団体。同じ年に、日本の情報処理学会も、IFIPにおける日本としてのメンバー学会となるべく創立された。

  教授のスピーチは、大会に集まった情報システムの研究者たちに向けて、技術や、その技術によって人間の「生活世界」に今起こっている変化をより深く理解することに貢献するために、自分たちの研究はどうあるべきかを説く内容だった。

   情報技術は今やあらゆるモノに埋め込まれており、それらは(IoTと呼ばれるように)つながっている。世界は、情報技術とともに、情報技術を通して、そして情報技術によって経験される度合いがますます多くなっている(しいて言えば、これが、教授が考えるデジタルトランスフォーメーションの定義というか概念だろう。だが、DTをそう理解するのは教授が初めてというわけではないはずだ<注1>)。

  情報技術研究の目的は、人類のより良い生活、暮らし、人生に情報技術がどう貢献できるかを、探求し、実験し、分析し、調査し、説明し、考察することだ。 だから、( 情報システムの研究にはいろいろな観点があるとしながらも)、今日特に必要な観点は、従来のような科学的(ともすると、要素に分解して分析する傾向にある狭い)観点だけではなく、その技術が人間の「生活世界」にどういった影響を与えるかという全体的観点からも考えなくてはいけない・・・と教授は論じる。

  ここまでで、DTの最初の提唱者として教授を紹介することがお門違いだということは理解してもらえたと思う。まして、「DTが人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」などと、教授はまったく言っていない。そうではなくて、DTが人々の生活を悪い方向に変化させないように情報技術の研究者はチェックしていかなくてはいけないと、ある意味、警告し、そのために必要な研究方法について提案をしているのだ。

  海外で、digital transformationの提唱者ということで教授の名前をだしても、「?」って顔をされるだろう。

   グローバル化とネットで何でも調べることができる情報社会で、どうしてこんな誤解が生まれたのか? 誰もが疑いを持つことなく、先の記事とかレポートを鵜呑みにして引用するということが、なぜ、起こったのか? 

  データベース検索すれば、問題となっている論文を最初に紹介した記事とか論文を見つけることもできるだろう。でも、犯人さがしをするのは時間の無駄。

  最初に書いたように、IT用語の提唱者うんぬんは、本質的には重要情報ではないのだから。

  じゃあ、なぜ、この記事を書いたかといえば、2つのの理由がある。

  ストルターマン教授が本当に言いたかったことを紹介したかった。また、ITのことを(経営者としての観点からでいいから勉強してほしいのに)勉強しようともしない企業経営者が、DTってデジタル技術を使って消費者により良い生活を届けることなんだ。DTで生産性を上げて企業の業績を上げることなんだ・・と安易に納得してもらいたくないという理由だ。

  なぜなら、教授の論文にある、「Good Life/良い生活」という言葉には、豊かさとか便利さよりも、もっと深い意味合いがあるからだ。

  教授は情報技術が人類にグッド・ライフを提供しているかどうかをチェックするために二つの考え方を提案している。一つは、哲学者アルバート・ボーグマンが提唱した「デバイス・パラダイム」という考え方だ。

  ボーグマンはドイツ生れの米国人でテクノロジーの哲学(って、哲学の種類にはなんでもありなんだ!)を専門としている。デバイスとは装置とか機械のことだが、デバイス・パラダイムの考え方を、彼は、簡単な例を使って説明する。

  たとえば、セントラルヒーティングというデバイスは、面倒な手続きもなく簡単に、暖かさを家族に提供する。そして、家族は、薪を割って、暖炉にくべ、火の様子を見ながら新しい薪をくべたり、後で灰の掃除をするといった手間をかける必要はない。薪を割ったり灰の掃除をする当番を決める必要もない。だが、セントラルヒーティングという新しい技術が採用されることで、家族全員が暖炉のまわりに集まっておしゃべりしながら暖をとることもなくなり、一人一人が自分の個室に閉じこもるようになる。

  セントラルヒーティングというデバイスによって、家族間の相互作用は減り、互いを思いやったり助け合ったりする精神を育成してきた家族内の活動もなくなる。

  テクノロジーは、私たちが望むことを、努力とか経験によって得られる技能とか忍耐とかなしに便利に簡単に提供してくれる。その結果、私たちは、身体や知覚をフルに使って現実世界を体験するとはどういったことかまで忘れてしまう。

  コト消費とかモノ消費という言葉がよく使わる。小売業では、最近は、モノが売れないが、コトなら売れると言っている。それと似たような意味合いで、ボーグマンも、テクノロジーはデバイスをコト(thing)からモノ(commodity)にしてしまうと書いている。つまり、暖炉には家族のしきたり、思い出、エピソード、その他の歴史や物語が背景にある。だが、セントラルヒーティングはそういった物語とは無関係のたんなるモノだ。

  ストルターマン教授は、ボーグマンが提唱したデバイス・パラダイムでは、人間がグッドライフを実現するために必要なことがらや価値観が脅かされているとする。そして、DTが進むいまの社会には、このデバイス・パラダイムの例が顕著に見られるとする。

   教授が使う「good life」という言葉は、たんに豊な生活とか便利な生活を指しているのではないことは明らかだ。彼の小論文に何度も登場する「lifeworld/生活世界」はオーストリアの哲学者エトムント・フッサールが、1936年に発表した「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に登場する考え方。

  哲学のことはよくわからないので、コトバンクの解説を引用すると、フッサールの生活世界は「科学によって理念的に構成される以前に、我々が身体的実践を行いつつ直感的な仕方で日常的に存在している世界のこと」となっている。わかったようでわからない。が、ストルターマン教授がボーグマンやフッサールの考えを引用しているのは、社会のDT化について研究するとき、人間の身体性、知覚、直感、感性といったような観点を重要視していることは理解できる。

   考えてみれば、教授は情報システムデザインやインタラクションデザインを専門とする研究者だ。人間とインタラクション(相互作用)するデバイスやシステムのデザインというと、使い勝手が良いとか悪いとかいったインタフェースのデザインだけの狭い話になることが多い。が、論文の主旨は、情報技術研究は、テクノロジーが社会全体や人類の生活世界に与える影響について考えなくてはいけないということだ。

  たとえば、スマホ中毒になり社会生活が送れなくなる若者。拙著「勤勉な国の悲しい生産性」でも書いたように一日中PCの前で仕事をして腰痛になるだけならまだしもバーンアウトして40歳で退職しようとする若者たち。これは、フッサールやボーグの考え方を引用する教授が考えているグッドライフではないはずだ。

   論文を最後まで読めば、教授をDTの定義とか概念を提唱した人と見るのは間違いだということがわかる。彼は、DTについて警鐘を鳴らした人なのだ。社会のDTが進むなか、人間の「生活世界」はどう変わるのか、真の意味でのグッドライフをもたらすようなDTでなくてはいけない。情報技術の研究者はそういった観点からもDTを考えていかなくてはいけないと教授はIFIPの大会で訴えたのだ。

   そして、いま・・・デジタル・トランスフォーメーションの略語をDTからDXとして、IT業界やコンサルティング業界は、関連システムやソフトウェア、そしてその利用方法について積極的に営業を展開している。経済産業省の「DXレポート」は、DXの定義としてIDC Japanの定義を紹介している。

  •  企業が外部エコシステム(顧客、市場)の破壊的な変化に対応しつつ、内部エコシステム(組織、文化、従業員)の変革を牽引しながら、第3のプラットフォーム(クラウド、モビリティ、ビッグデータ/アナリティクス、ソーシャル技術)を利用して、新しい製品やサービス、新しいビジネス・モデルを通して、ネットとリアルの両面での顧客エクスペリエンスの変革を図ることで価値を創出し、競争上の優位性を確立すること

  このように、DXとDTは元となる言葉(digital transformation)は同じでも、似て非なるものだ。上記のDXの定義は、IT業界が売ろうとしている情報システムに適した定義ではあるが、ストルターマン教授が提唱した概念とは別次元のもの・・・だと、私は思います。

<注1>:2017年発行の「情報センサー」の記事「デジタル・トランスフォーメーョンとは何か」の著者東大野恵美氏は、英語データベースで検索したところ、デジタル・トランスフォーメーションという言葉が使われた最も古い例は1990年で、CDプレーヤーの利便性を伝えるニューヨークタイムズの記事だった書いている。DTはビッグデータとかAIのような造語とか新語というわけでもなく、自然な熟語(漢字じゃなくても熟語といえるのか?!)なのだから、DTの提唱者とか定義とかを探ることに意味はないのでは?

 新刊「勤勉な国の悲しい生産性」の第五章には、テクノロジーと生活世界との関係についても書いています。

参考文献 1.Erik Stolterman and Anna Croon Fors, Information Technology and The Good Life, 2.東大野恵美 [デジタルトランスフォーメーションとは何か」情報センサーVol.124, 2017 3.「間違いだらけのDX 提唱者が語る原点」日経ビジネス3/10/2020,4.「DX レポート」経済産業省 平成30年9月7日