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2011年12月30日 (金)

TwitterやFacebookはそんなにエライのか? そして、「ええじゃないか」やAKB48との関係は?

 

 2011年のマーケティングは、TwitterとかFacebookといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)であけくれました。(純国産のMixiを忘れたわけではありません。でも、ローカルだしクローズドだし。そんなことでついつい・・・)。

 で、あまのじゃくの私としては、いちゃもんをつけたくなるわけです。年の終わりには。

 「アラブの春」とよばれた中東やアラブ諸国での大規模な反政府デモは、「Twitter革命」などとも呼ばれ、「SNSのおかげで独裁政権が崩壊」・・・とメディアは書きたてました(ソーシャルメディアと、限られた広告費用のぶんどり争いをしているライバルのマスメディアさえもそう断言しました)。

 が、どこにでも、私のようなあまのじゃくはいるものです。

 たとえば、日本でもベストセラーになった「ティッピングポイントーいかにして『小さな変化』が『大きな変化」を生み出すか」を書いたマルコム・クラッドウェル。流行やクチコミ現象の理論化で有名なジャーナリストですが、この人が、クチコミ・ツールであるTwitterやFacebookにはリスクの高い政治運動を引き起こすことはできないと断言したのです。

 しかも、2010年の10月、つまりチュニジアのジャスミン革命が発生する前に・・・です。雑誌「ニューヨーカー」でそういった内容の記事を書き、その後、チュニジアで政権が崩壊し、エジプトでも反政府デモが大規模化している最中にも、同じような内容のブログを投稿しています。

 かなりブーイングされたようです。

 でも、マルコム・グラッドウェルは、著書「ティッピングポイント」でも詳しく説明したように、「うわさや流行が世の中に拡散されるためには、弱いつながりをもったネットワークが必要である」ということを、政治運動を例にとって説明しただけなのです。

 弱いつながりに注目したネットワーク理論は、すでに1970年代に、マーク・グラノヴェッターという社会学者によって発表されています。彼は、282人のビジネスマンに「現在の職をどうやって見つけたのか?」と質問調査をしました。そして、家族、親せき、友人といったよく知っているひとからの情報ではなく、会ったこともないつながりのうすい人からの情報を元にして仕事をみつけた傾向が高いことを発見しました。

 よく知っている人同士は情報を共有していることが多いので、新しい発見はない。だが、あまりよく知らない人は自分の知らない新しい情報をもたらしてくれる可能性が高い。つまり、情報の拡散には「弱いつながり」が重要だということを明らかにしたのです(日本でも2011年10月にサービスを開始したSNSのリンクトインLinkedinなどは、まさに、この理論にのっとってつくられたようなものです)。

 マルコム・グラッドウェルは、ソーシャルメディアのプラットフォームは弱いつながりであり、だからこそ、新しいアイデア、イノベーションや情報が驚くべき効率で拡散される。だが、こういった弱いつながりは、リスクの高い、つまり命の危険をともなうような行動を引き起こさない。過激な反政府活動ではなくて、せいぜいいって平和なデモ行進に参加するのを促すくらい・・・だと書いたわけです。

 そして、メンバー同士のつながりが非常に強い草の根的組織がすでに存在していれば、SNSはそこに効果的に働いて政変を引き起こすことができる。そういった潮流がないところには、Twitterであろうとfacebookであろうと、急激な変化を引き起こすことができないと主張しました。

 たとえば、1989年の「ベルリンの壁崩壊」にしても、突然かつ自然発生的に起こった事件のように思われたかもしれないが、実際には、東ドイツに草の根的運動がすでに存在していた。東ドイツには政府打倒をかかげる十数人からなる小さなグループが数百もあり、この小さなグループのメンバ―同士は非常に強いきずなで結ばれていた。だが、各グループ間の接触頻度は非常に限られていた(当時、東ドイツの電話普及率は13%)。

 強いつながりをもったグループが弱いつながりで他のグループとつながる・・・・ベルリンの壁崩壊のときも、アラブや中東の政府崩壊のときも、弱いつながり以前に、強いつながりをもつ草の根的運動に従事するグループが存在していた。だから、TwitterrやFacebookが効果的に作用することができた・・・とマルコム・グラッドウェルは書いたのです。

 英国の新聞「ガーディアン」のジャーナリストも、インターネット=民主主義だと思いたいアメリカやシリコンバレーのひとたちの願望が、中東革命におけるネットの貢献を過剰に見すぎているという記事を書いています。(このコメントには、欧州人の米国に対するやっかみもちょっぴり入ってはいますが・・・)

 そして、中東やアラブ諸国の反政府活動家たちは、実際に時々会って相談していた…とも書いています。米政府や米国企業がそういった機会を提供していたとも書いています。たとえば、2009年にジョージソロス財団や米国政府が後援した会議には、チュニジアやエジプトの政治活動家やブロガーたちが(ヴァーチャルでなくリアルに)集まって、検閲から逃れる対策などを議論するのを実際に目撃したと書いています。2010年9月に、Googleがブタペストで開催した「表現の自由」大会には、中東の政治活動ブロガーたちが招待されていた。こういった集会や会議は以前からあったが、参加者の身の安全をまもるために、公表されなかった。だから、みんな知らなかっただけで、反政府活動家たちはヴァーチャルでなくてリアルに結びついていた・・・と書いています。

 そして、1917年のロシア革命のときには電報が、1979年のイラン革命のときにはテープレコーダが、1989年のベルリンではファックスが情報拡散に活躍した。ITはあくまでツールであり、それ以上でもないしそれ以下でもない・・・と、つけくわえています。

 それをいえば、日本でも、通信手段としては非常にスローな手紙しかなかった江戸時代に、総人口の10%の群衆が、同じ場所を目指して家出するという大規模騒動が発生しています。人間のクチからクチへとウワサがつたわるアナログ・クチコミで、300万人の日本人が伊勢神宮を目指して旅だったのです。

 日本史のクラスをとったことがある人なら、幕末の「ええじゃないか」群集行動とか、それと深い関係にある「おかげまいり」の話を覚えているかもしれません。

 「おかげまいり」というのは、家長である父、主人、夫の許可を得ないで伊勢神宮に参拝すること。許可なく参拝して帰ってきたあともとがめられることがない。道中、男性が女装したり、女性が男装したり、あるいは化け物じみた異様なかっこうをして(いまでいうコスプレ?)、「おかげさまでぬけたとさ」とうたいながら踊り進んだといいます。

 伊勢神宮に参拝することはよくあったことですが、それが特定の年に集中して、大規模な群衆行動となった場合は、とくに「おかげまいり」とよばれ、江戸時代には、60年ごとに、計4回発生したといわれます。1650年、1705年、1771年、1830年。

 1705年には362万人が伊勢神宮を目指したといわれます。当時の日本の人口は3000万人ですから、約10%が参加したことになります。いずれも、自然発生的かつ衝動的に発生したと考えられ、1830年の場合は、阿波国(いまの徳島県)で同じ寺子屋で勉強していた子供20人~30人が、3月20日に、参宮するといっていっしょに出かけたことがきっかけになって全国に波及したといわれます。

 おかげまいりは、飢饉、疫病、暴動、政変などが起こった年やその前後の年に発生しており、社会不安の増大からくる閉塞感、あるいは、封建支配に対する不満をガス抜きする作用があったのではないかと説明されています。

 こういったおかげまいりの伝統のうえに、幕末から明治に移行する1867年に、「ええじゃないか、今年は世直しええじゃないか」といったようにうたいながら踊り狂うことが、東海地方から近畿地方を中心として全国30か所にひろがりました。7月半ばにいまの愛知県の一地域で発生したのがあれよあれよというまに他地域にひろがり、1868年の4月ごろやっと終焉したといいます。

 この騒動が徳川幕府崩壊にどれだけ影響を与えたかは判断がむつかしいところです。が、民衆の騒ぎをおさえることができなかった幕府は、その無力ぶりを露呈したわけですから、間接的にでも、大政奉還をはやめることにつながったことになるでしょう。

 日本でも、メディアの有り無しに関係なく、人間がいる限り口コミがありウワサがある。結果、こういった群衆運動で既存政権崩壊が促されたということです。

 チュニジアがジャスミン革命なら、日本の「ええじゃないか」は徳川家の紋章をとって葵革命?

 マルコム・グラッドウェルもガーディアン紙の記者も、ソーシャルメディアのツールとしての力を、それを使う人間の力以上にみてしまってはいけないと指摘したかったのでしょう。

 話はちょっと変わりますが・・・・。

 「ソーシャルメディアは偉大だ」なんて過剰に重要視してしまうから、「傾聴」なんておおげさな言葉がつかわれるようになってしまったのだろうか?

 英語の聴く(listen)を傾聴と訳したのでしょうけれど、傾聴って耳を傾けて熱心に聴くって意味ですよね。でも、ソーシャルメディア・マーケティングでは、一生懸命聴くだけでは用をたさないわけで、消費者の声を聴いてそれにたいして何らかの反応をしなくてはいけない。ソフトバンクモバイルがしているように、ある程度リアルタイムにツイッタ―上を巡回して、あらかじめ選んだキーワードにひっかるツイッターはすべてチェックし、反応すべきものにはする(質問に答える、苦情に対処する、お礼を述べる)のが、本来すべき基本。

 モニター(英語のmonitorという言葉には、観察して、記録して、察知するという意味が含まれている)という言葉のほうが適切だけれども、監視しているような感じだし、すでに使いふるされている言葉だからからいやだったのかもしれない。しかし、傾聴なんてへんに感情がまじっているような言葉をつかうから、一生懸命耳を傾けていればそれでよしと思ってしまう。ソーシャルメディアをつかっていながら、ダイレクトメッセージやリトリートやコメントにもなんの反応もしない企業が多い。双方向のコミュニケーションがなくて、どこが、ソーシャルメディアマーケティングなのか、まったく理解不能。

 しかも、リスポンスとかコンバージョンとか適切な日本語に翻訳できる言葉にもカタカナをつかっているのに、どうして、ここだけ「傾聴」なのか? カタカナいっぱいのネット関連の記事や本を読んでいて、突然、傾聴なんて言葉が出てくると、ずっこけて椅子から落ちそうになってしまう。

 ついでにいえば、「共感」もおかしい。

 「情報が伝わるためには『共感』が必要になった」と書いてある資料を読むと、「TwitterのリツイートもFacebookの『いいね!ボタン』も共感しないと(消費者は)押さない」とつづく。たしかに、被災地に社員50人がボランティアでいきました・・というページをリツイートしたり「いいね!」ボタンをクリックするのは、その企業方針や情報内容に共感したからだといえるでしょう。でも、「500円クーポン進呈!」の販促情報をリツイートするのは共感したからだといえるだろうか? これが10円のクーポンになるとリツイート数が少なくなるとして、金額の少なさに共感しなかったから?

 販促情報をリツイートしたり「いいね!」ボタンを押すかどうかの判断には、「共感」は必要ないと思います。

 ソーシャルメディアに関しては、へんに感情まじりのおおぎょうな言葉がつかわれすぎると思っていたら、先に引用したガーディアン紙の記事に次のようなコメントがあって笑っちゃいました。

 どの市民革命にも、それぞれの時代における最先端テクノロジーやメディアが利用されている・・・というくだりで、「謄写版とかテープレコーダーやファックスとかに愛情はもてないけど、ソーシャルメディアを利用するということはスマホをふくめたケータイやiPadなどをつかっているわけで、スマホやiPadには愛着とか愛情を感じる傾向が高い。だから、『中東の春はソーシャルメディアがもたらした!』と考えたいし信じたいのだろう」と書いてあったのです。

 笑っちゃって・・・なんだか納得。 

 謄写版(って知っている人、もう、いないかも)やファックス機器には愛着なんて感じない。でも、スマホやiPadはちっちゃくていつも身近にあってすでに身体の一部。TwitterやFacebook = スマホやiPad。だから、ソーシャルメディアのことを話すときにも感情的になってしまう。愛を感じるから、つい、実際よりも重要な社会現象であるかのように思ってしまうし、それを説明するのにおおぎょうな言葉をつかってしまうんだ!

 なんだか、AKB48とソーシャルメディアがいっしょくたに思えてきた (おっとぉ~、冗談です。年の暮れのたわごとです。ブーイングなんてしないでくださいね)。

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参考文献 1.Evgenry Morozov, Facebook and Twitter are just places revolutionaries go, The Guardian 3/7/11 2.Malcolm Gladwell, Small Change, The New Yorker, 10/4/10, 3. 伊藤明己、民衆発露とコミュニケーションの回路ー想像の共同体意識と幕末おどり狂ー」中央大学大学院研究年報、4.「お陰参り、ええじゃないか」資料に学ぶ静岡県の歴史、静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター編集 

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2011年12月18日 (日)

CSR(企業の社会的責任)やCSV(共有価値の創出)を超えて・・。「会社」が日本、そして世界を変える。

 

 1992年11月24日、英国のエリザベス女王は「Annus Horribilis」という言葉で、その年をしめくくりました。

 「アナス・ホリビリス」=ラテン語で、「恐ろしいほどひどい年」

 2011年・・・東日本大震災が発生した日本はむろんのこと、世界各地を地震、たつまき、ハリケーン、洪水、干ばつといった自然災害がおそった。そして、アメリカ発の金融危機がおさまらないうちに、今度はヨーロッパ。世界経済が不安定ななか、アフリカや中東から西側先進国まで、若者を中心にしたデモが過激化しました。

 多くの国の元首は12月のカレンダーを見ながら、「アナス・ホリビリス」とつぶやいていることでしょう。

 2011年は、民主主義と資本主義を御旗にかかげ、第二次世界大戦後の繁栄を謳歌してきた西側先進国が、矛盾に直面した年でもあります。「多数決」という民主主義の意思決定ツールのおかげで、なにも決めることができず機能不全におちいった議会をかかえるのは日本とアメリカだけではありません。1つの国のなかでもなにも決められないのだから、利害の異なるいくつかの国からなるユーロ経済圏が、「会議は踊る。されど進ます」状態からぬけだせないのは当然かもしれません。

 民主主義には多数決以外にも問題があります。数の暴力をきらって、少数派の意見も採用しようとする結果、大声を出せばまかりとおるという現実がある。日本の最近の例では、数百人のひとたちが抗議の電話をかけてくるとかかけてきたとかで、被災地のガレキ処理をひきうける決断ができない自治体。人口比0.1%以下でも大声をあげればその意見が通るのであれば、自治体政府はほとんどなにもできない。(「独断」できる知事と、「独裁」宣言した市長がいる東京都と大阪市をのぞいては・・・)。

 多様性と少数意見も大切にし原則多数決で意思決定する民主主義体制では、緊急時にはものごとが決められない。「不確実な時代には中国やロシアのような国家資本主義のほうが効率的です」・・・・というようなことを、中国の経済専門家が語っていた。思わず、「そうだよね」とうなずきそうになってしまった。

 こういった現状のなか、政府や政治家集団にたよらないで、資本主義の中核にある会社(会社と企業とのつかい分けについては、注釈をみてください)の活動に未来をたくす声が出てきています。

 私自身が、会社という組織の威力にあらためて気づかされたのは、3.11の大震災後です。

  1.  政治がもたもたしているときに、すぐに行動にうつしたのは企業であり、そこで働く従業員でした。製造業のサプライチェーンが猛スピードで復旧されました。企業がもつ資源・・・勤勉で情熱をもって働く人材、さまざまなステークホルダーとの協働レベルの高さ、技術力、問題解決能力、意思決定のスピード、行動力、資金力・・・の力に驚きました。
  2. 夏の節電でも、設定温度を上げるとか電気を消すとかいった常識的対策はむろんのこと、勤務時間を週末や深夜にふりかえるという荒業もやってのけました。企業とそこで働く人たちにリードされて、一般市民もがんばれた。結果、節電目標をクリアするという、コンセンサスが得られにくい民主主義国家としては珍しい現象がおきました。

 でも、厳密にいえば、東京に住んでいる私が、会社の存在感を肌で感じたのは、震災直後からです

 震災が発生した日も、その次の日も、そのまた次の日も、街はまるで何事もなかったようにふるまおうとしていました。フクシマでメルトダウンが起こるかもしれないと、多くの外国人が去っていくのを尻目に、会社は(よって、店舗も)通常通り営業していて、従業員は乱れる交通スケジュールにもめげずに、出勤することが当然であるかのように通勤していました。当時、東京にいた外国人ビジネスマンは、「何が起きても変わらぬ生活がつづき、日常を取り戻す力がある・・・(大惨事が起こっても)みんな、普通の生活に戻ろうと必死に頑張っている」といっています。(日経新聞11/7/11)

 そういった状景は、「パニックや暴動におちいることのない礼節ある日本人」と海外でも報道されました。

 私はそこに会社という共同体の存在を感じました。会社があるから、仕事があるから、同僚もそうしているのだから、自分はいつものように働きにくる。まわりの人たちが普段どおりに働いている。その姿をみて、自分も平静な気持ちで働く。そういった人たちを見て、私のように組織に属していない一般市民もパニックにならず、自分でも驚くくらい冷静な気持ちで日常生活を送ることができました。

 コンセンサスと共同体の連帯感の欠如は政治家集団にあっても、私企業にはなかった・・・ということです(XX電力とかいった例外はあります)。そして、そういった企業組織に働くひとたちの態度や行動が、まわりの社会に良い影響を与えたのです。

 「優れた企業は、不確実性や変化の衝撃を和らげる役割を果たしている」・・・と、米ハーバード大学のロザベス・カンター教授は書いています(注1)。

 カンター教授は、IBM、コカコーラ、マクドナルドといった優れたグローバルカンパニーが、その資金力、技術力、人材といった資源において国家を超える存在になってきており、そういった企業が豊富な資源を運用することで、世界に大きな影響を与えることができることを指摘しています。そして、また、不確実な時代において、こういった企業は不変のアイデンティティを提供することで、社会や消費者の不安や変化への衝撃を和らげる役割を果たすことができるとも指摘しています。

 たしかに・・・。

 2011年のインターブランドによるグローバルブランド調査で、コカコーラのブランド価値は前年についでNo.1でした。創業以来130余年の長い歴史において、コカコーラはつねに「幸福感」と世の中を楽天的にみる「楽天主義」のイメージを送りつづけてきました。皮肉なことに、コカコーラを生んだアメリカという国の幸福感や楽天主義は、以前より色あせてきています。でも、コカコーラは変わらず世界中にどんなときでも幸せを感じ楽天的に考える価値観を提供しつづけているのです。

 アメリカという国や政府への信頼感やイメージが落ちているとしても、コカコーラというブランドのイメージや信頼感は変わっていない。そういった意味で、コカカーラという企業は、すでにアメリカという国を超越しているというわけです。

 1996年に、ピューリッツァー賞を受賞したことがあるジャーナリストが「マクドナルドと戦争と平和」理論を発表しています。マクドナルド店舗が存在する国の間では国際紛争を解決するために戦争にはいたらないという理論です。マクドナルドのブランドイメージは「家族」「幸せな日常生活」であり「永遠の青春」です。こういった企業が進出している国は、紛争を平和的に解決するという理論です。

 残念ながら、その後、イスラエルとレバノンやロシアとグルジアが戦闘することで、この理論には例外ができてしまいました。でも、企業(ブランド)が社会に「平和」という良い影響を与える傾向を、この理論は95%以上の確率で証明しています。

 IBM、アップル、マクドナルド、スターバックスといった強力なブランドで世界を相手に稼ぐ企業の株価は、2011年の一時期に、米国の株式市場で最高値を更新しています。格付け会社から愛想をつかされ価値がさがっている国債とは対照的です。これも、優れたグローバル企業が国家を超えた存在になっていることを証明しているかもしれません。

 会社は資本主義社会の中核にあります。企業の目的は利益を生むことですが、その生みだし方への批判から、80年代に、ステークホルダー理論が注目され、CSR(企業の社会的責任)の考え方が登場しました。企業の業績に対して正当な利害関係をもつ様々なステークホルダー(株主、顧客、従業員、サプライヤーなど)がいるなかで、株主価値の最大化だけを追求するのは適切ではないと考えられるようになりました。

 CSRには、社会的責任という言葉のイメージどおり、企業が社会や政府に強制されて、「利益を犠牲にしてまでしなくてはいけない義務」のイメージが強い。会社の社会的評判を高めるための必要経費とみなされる傾向が強い。これに対して、マイケル・ポーター教授は、2011年初めに、社会と企業がいっしょになって価値を生み出すCSV(共有価値の創出)の考え方を提案しました。

 震災後に日本企業がしたことは、CSRにもCSVにもあてはまります。が、それ以上のことをしました。社会に安心感や安定感を与えたということです。しかも、グローバルな大企業だけでなく、中小企業でもそれが可能だということを証明しました。被災後すぐに店を開けた地域スーパー、翌日から工場再開を目指した町工場、すぐに働けるように機械や船を被災地に送った同業者・・・・こういったいくつものエピソードが日本の社会と市民に落ち着きを取り戻してくれました。

 「会社」は仕事を提供する・・・という意味あいでも、大きな役割を果たしています。

 今回の大震災で日本人の多くが気づいたことが、「仕事」の収入手段としての重要性だけではなく、人間として尊厳を保って生きていく手段としての重要性です。

 「落ち込むことがあるけど、でも、働いていると前に進んでいける感じがする」、「仕事をしているときにはつらいことを忘れることができる」・・・家や家族を失った被災者の多くの方たちがこう語っています。震災1週間後に、いま、何を一番望むかと問われて、「早く働きたい」と答える人も多くいました。

 これは、日本特有の価値観かもしれません。

 希望学という研究を2005年からつづけている東大の玄田有史教授は、日本人に「あなたの希望はなんですか?」とたずねると、「もっと良い仕事がしたい」とか「自分らしく働きたい」など、仕事にまつわる希望を語ることが多いと書いています。希望をもっていると答える人にその内容をきくと、仕事についての希望がダントツの66.3%で第1位。次が46.4%で家族についての希望、健康37.7%、遊びが31.1%となっています。

 ヨーロッパ経済危機の元凶だとして、勤勉なドイツに睨まれているギリシアとかスペインなどでは、「仕事」と「遊び」の重要度が逆になるかもしれません。

 日本人が仕事を大切に思うのは、くりかえしくりかえし自然災害に遭遇してきたからだと思います。どうしようもない悲劇にあったときに、「しなければいけないことをする」ことによって、その間だけは忘れられる・・・という体験が身に心にしみついているからではないでしょうか。不安なときに千羽鶴を折ったり、お百度参りをする習慣にも同じ意味あいがあります。ツルを折っている間、お参りしている間、いま現在やっていることに集中している間は不安を忘れていることができる。

 ときに荒ぶる自然と暮らしてきた長い歴史から生まれた生活の知恵です。

 「物資支援やボランティア活動は自分以外でもできる。製造業の経営者として被災地に貢献するなら雇用しかない」・・・こういって、いわき市に工場新設をきめた愛知県の会社があります。本社を宮城県に移転する会社もあります。現地で仕事に応募してきた人たちの「絶対に復興するんだという強い志」に驚かされ、移転を決断したそうです(朝日新聞12/4/11)。とくにこれといった必要性がないのに支社を開けた会社もあります。

 意欲と情熱ある従業員とでつくる工場や支社が利益を生むとき、社会と企業との「共有価値」が創出されたことになります。でも、CSVよりも何よりも、雇用は資本主義国家の安定・安心に貢献します。株主価値を最重要視してきた欧米でも、「企業が社会にもたらすことのできる最大の幸福は雇用だ」と断言する経営学者が登場してきています。

 会社が政府や国までも超越することができるのは、その企業が目的意識と価値観をもっているからです。企業の究極的目的はもちろん利益を生むことです。もう少し具体的に、「高品質の商品を他よりも低価格で売る」ことを目的にさだめたとして、そのために資源をどう使うかに、その企業の価値観が表れます。低価格に重きをおきすぎれば、ライバルとの価格競争におちいり、その産業自体のサステナビリティがあやうくなります。

 どういった価値観をもつかによって、その企業がサステナビリティを維持できるかどうかがきまってきます。目的意識と価値観が企業のアイデンティティを生み、企業文化をつくります。価値観は従業員の感情を喚起しやる気を起こさせ、(災害時に自分で判断して被災者を救済した多くの従業員のように)自信をもって自己責任で業務を遂行できるようになるのです。

 企業が、国や政府よりも、効率よく目的を果たすことができるのは、目的が明確であること。そして、入社試験や勤務査定を通じて、同じ価値観をもつ人間の共同体をつくり維持することができるからです。しかし、社員数がふえればふえるほど同じ価値観をもつ共同体を維持することはむつかしくなる。だからこそ、カンター教授は、IBM、コカコーラ、マクドナルドといったサステナビリティを誇るグローバル企業を「スーパーカンパニー Super Corporation」と呼ぶのです。

 グローバルブランド調査で11位のトヨタ自動車の売上は、2011年Global 500で8位。2200億ドルの売上は、国家予算世界20位のスイスや22位のインドを超え、ベルギーやノルウェイ、スウェーデンと同じくらいです。トヨタ自動車は文句なくスーパーカンパニーの一員といえるでしょう。

 トヨタ自動車の価値観は独自に生みだした(世界的に有名な)生産方式に表れています。そして、その生産方式には日本人の資質が表れています。日本人のまじめさ、忍耐強さ、協調性、正直さ、謙虚さ、清潔好き・・・そこから、ディテールへのこだわり、無駄を省く、チームワーク、常に改善、現場の人間が自発的に効率をあげる生産方式が生まれたのです。コカコーラやマクドナルドがアメリカという国の性格を表現しているように、トヨタの自動車は日本という国を体現しているのです。

 ですから、グローバル化=空洞化を心配する必要はないと思います。 

 海外での売り上げが国内市場を超えようとも、スーパーカンパニーは根なし草にはならないし、なることはできないのです。トヨタ自動車の豊田社長が「円高がきついが、競争を勝ちぬくために日本に現場が必要だ」と強調するのは、それが会社の価値観を固持しサステナビりティを守る基本だからです。アメリカに本社や中核部署のないコカコーラ、マクドナルド、IBMをイメージすることができますか?

 自分のアイデンティティを失った根なし草の会社は、グローバル化を進める過程で消え去る運命にあります。

 国内市場でも、アイデンティティのしっかりした小さな会社がどんどん活躍してほしい

 なぜなら、日本のような成熟市場においては、細分化されたセグメントそれぞれのニーズにそくしたサービスや商品を提供できる企業が必要だからです。大量生産を前提とする大企業よりも、融通性のある中小の規模の企業のほうが適しているからです。製造業に代わってサービス業の成長がつづくなか、たとえひとつひとつの規模が小さくても、多くの起業が進めば、全体として大きな仕事量や雇用が生まれるはずです。

 2011年が終わったからといって、ひどい年が終わったわけではありません。地震ひとつをとっても、日本列島は地震の活動期にあるようです。これからの10年から20年間、いつ、また、どこで大きな地震がおこるかもしれません。東日本大震災やフクシマ原発事故からの復興途中で、大地震がまた発生したら? 私たちにはそれに負けずに乗り越える気力が残っているでしょうか?

 歴史をふりかえれば、日本人はそれを乗り越えてきたはずです。考えてみれば、第二次世界大戦後の66年間、日本は平和のなかで、しかもそれほど大きな災害を経験することなく、経済行動だけに専念することができた。日本の歴史をふりかえってみても、これは、ある意味奇跡だといえます。いや、世界史をふりかえっても、西側先進国にとって戦後の66年間はまれにみる繁栄の年月だったといえます。

 仕事のない世界の若者たち。自然災害に翻弄される世界。山積する問題に対処するだけの経済力のない国々・・・こういった困難に立ち向かわなくてはいけない人類の未来を思うとき、私はいつも2008年に発表された研究を思いだします。

 米スタンフォード大学における遺伝学と人類学との共同研究によると・・・・13万年前から9万年前にかけて、東アフリカで、いくつかのひどい干ばつが発生したことにより、私たちの祖先は7万年前にはわずか2000人くらいしか生存しておらず、人類絶滅の危機にひんしていたそうです。

 この記事を思い出すと、なぜか、いつも、感動してしまうのです。厳しい環境のなか、この2000人のうち、いくつかのグループは生き残り、6万年前に、食糧を求め、暮らしやすい気候を求めて、地球各地に分散していきます。2000人のなかで世界に広がっていった共同体には、きっと、夢を語るリーダーがいたことでしょう。そして、同じ夢(目的意識と価値観)を分かちあい、仲間同士で協力しあって幾多もの困難をのりこえたグループだけが生き残り子孫をふやしていったのだと思います。 

 大企業でも中小企業でもいい。夢を語ることができる会社で働いている、働くことにする、あるいは自分でそういった会社をつくる・・・・・このブログを読んでくださった方々の来年がそういった年になりますように! 心からお祈り申し上げます。

 

注1: Rosabeth Moss Kanter, How Great Companies Think Differently, Harvard Business Review November 2011

注2: 「会社はだれのものか(平凡社)」で著者岩井克人氏は、会社とは法人化された企業のことで、この2つをきちんと区別しなくてはいけない。この2つを混同したがゆえに、「会社は株主のものでしかない」というアメリカ型の株主主権論がまかりとおることになった・・・と、書かれています。このブログでは、組織とか共同体という意味で、会社と企業とあまり区別せずにつかいました。

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参考文献: 1.玄田有史「希望のつくり方」岩波新書 2010年、2.「供給網守れ、タイから続々】日経新聞 12/4/11、3.「雇用を創り街を元気に」朝日新聞 12/4/11 4.Nipponビジネス戦記「百経を耐え抜く国の強さ」日経新聞11/7/11、5.「競争優位の新たな源泉」日経ビジネス8/1/11、6.Rosabeth Moss Kanter, SuperCorp, Profile Books 2009

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